ペンテコステ記念礼拝
『そのとき何が起こるのか』
ヨハネによる福音書20章19−23節
2007/5/27 説教者 濱和弘
賛美 416、284、391
さて、今日はペンテコステ記念礼拝です。イエス・キリスト様は、私たちの罪に赦しを与えるために十字架に付けられ、三日目によみがえり、40日にわたって弟子たちに現われ神の国のことについてお語りになりました。その後、弟子たちの見ている前で、天に上げられたと聖書は告げますが、その昇天の出来事の後、ユダヤの5旬節のお祭りの時に、天に昇られたイエス・キリスト様に代わって、私たちの助け主としての聖霊なる神様が天より下ってこられた事が聖書に書かれています。この、5旬節の祭りは、大麦の収穫の初穂の束を捧げる過ぎ越の祭りから50日目に行なわれるもので、それで、50日目の祭りという意味のギリシャ語でペンテコステとそう呼ぶのです。そのペンテコステの日に、私たちの助け主である聖霊なる神様が天から下ってこられたことから、教会ではこの日を聖霊降臨祭としてクリスマス・イースターとならぶ、キリスト教の三大祭りの一つの特別な日として覚え、そして祝ってきました。
そのペンテコステを記念する今日の礼拝説教のタイトルを、私は「その時に何が起るのか」というタイトルにさせていただきました。もちろん「その時に何が起るのか」というのは、「ペンテコステのその時に何が起るのか」ということでありますし、それは「聖霊が下ってきたときに何が起るのか」ということだといえます。聖霊が天から下ってきたときに一体なのが起るのか。この聖霊が下ってこられて時、つまり最初のペンテコステの時の様子は、使徒行伝2章1節から13節までに記されています。そこには、次のように記されています。五句節の日がさて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然激しい風邪が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同かすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎ように分れて現われ、ひとりびとりの上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろに他国の言葉で語り出した。
さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちが来て住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生まれ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか.。わたしたちの中には「パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとア.ジヤ、フルギヤとバンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方に住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとはどうしたことか」。みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったいどういうわけなのだろう。」しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒に酔っているのだ」といった。ここに記されていることは、エルサレムにいた人が大勢は集まってくるほどの、激しい物音がしたと言うことです。使徒行伝の2章41節を見ますと、その時にイエス・キリスト様の弟子に加わった人が三千人ほどあったとありますから、その物音は相当大きなものであったと思われます。そして更に、聖霊が下ったとき、イエス・キリスト様のお弟子たちが、その聖霊に満たされたとき、いろいろの他国の言葉で話しだすということが起ったと聖書は伝えています。
いずれにしても、ペンテコステには不思議な出来事が起ったというのですが、今日、私が「その時、つまり聖霊が下ってきた時に何が起るのか」ということを皆さんと共に考えるにあたって、私は、そのようなことが私たちの内に起こるということを言おうとしているのではありません。また、そのような不思議な出来事が起ることを期待しましょうというのでもありません。そうではなくて、その大きな物音と、いろいろの他国の言葉で話し出したと言うことに、一体度どのような意味があるのかと言うことを、さきほど司式の兄弟がお読み下さいましたヨハネによる福音書20章19節から23節までの言葉に着目しながら考えてみたいと思うのです。その中でも、特に21節〜23節の「イエスはまた彼らに言われた、「安かれ、父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。そう言って、彼らに息をふきかけて仰せになった。『聖霊をうけよ。あなたがたがゆるす罪は、誰の罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのままのこるであろう』」という言葉に注目したいと思っています。
と申しますのも、そこには、「聖霊を受けよ」というイエス・キリスト様が私たちに命じておられる言葉があるからです。それはつまり、あの2000年前のペンテコステを機に、聖霊が私たちの所に下ってこられたならば、私たちはそのことに対して、「私には関係がない」と無関心でいたり、私は聖霊を受ける必要がないと無関係でいたりしてはならないと言うことです。むしろ、イエス・キリスト様が私たちに与えて下さる聖霊を私たちが、積極的にそれを受け取らなければならないのです。ともうしますのも、この「聖霊を受けよ」という言葉は、ちょっと専門的になりますが、ギリシャ語の原文を見ますと単なる命令形ではなく、不定過去命令形という形をとっているからです。この不定過去命令形というのは、その命令に従ったその時から、今までとは違った新しい関係が始まることを示すものです。つまり、私たちが聖霊を受けたときから、私たちとイエス・キリスト様の間に、更には私たちと人との関係の中に、また私たちと私たちを取ります世界との中に新しい関係が起るというのです。だとすれば、イエス・キリスト様は、どのような関係が起るというのでしょうか。そのことを、今日の聖書の箇所をもう少し、丁寧に見ながら考えてみたいと思います。
今日のこの箇所は、イエス・キリスト様が十字架に架けられ死なれたあと、復活して最初の弟子たちの所に姿を現した時のことです。「その日、すなわち一週の始めの日」というのは、マグダラのマリヤが朝早くイエス・キリスト様を収めた墓に言ったところ、墓の入り口においてあった大きな石が取りのけられ、そこに収めたはずのイエス・キリスト様の御体がなくなっていたという出来事があった日のことです。この、イエス・キリスト様の墓に収めた御体がなくなってしまったということは、ペテロを含む何人かの弟子たちも確認したようですが、しかし、その時は、イエス・キリスト様が死人の中から復活なさると言うこと悟っていなかったので、不思議に思いながら自分の家に帰っていったと聖書は告げています。まさに、その日の夕方に、復活したイエス・キリスト様が弟子たちに姿を現されるのですが、その時、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのおるところの戸をみな閉めていたというのです。
ユダヤ人を恐れていたというのは、祭司長や律法学者、あるいはパリサイ派といった人たちに扇動されて、多くの群衆がイエス・キリスト様を十字架に架けて殺すことを求めたからです。それと同じように、彼らはイエス・キリスト様の弟子である彼らを殺すかもしれないという恐れがあったからだろうと思います。言うなれば、これからの自分たちの先行きがどうなるかという不安と恐れの中にあったと言うことです。それも、自分たちの手ではどうしようもない不安と恐れなのです。だからこそ彼らは、自分たちおるところの戸をみな閉めきっていたのだろうと思います。そうやって、戸を閉めきってじっと身を潜めているしかなかったのです。そのような、恐れの中にある弟子たちの所に、死から復活なされたイエス・キリスト様は現われて、「安かれ」とそう言われたのです。もちろん、復活のイエス・キリスト様とであうと言うことは喜びであり、そのことによる平安もあるだろうと思います。けれども、イエス・キリスト様が、「安かれ」と言われるとき、それは単に「復活のイエス・キリスト様と出会った」ということによる心の平安があるといったことを指しているだけではなさそうです。
というのも、21節で、再び、イエス・キリスト様は再び「安かれ」と言われているからです。そして、「安かれ」と言われて、「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもあなたがたをつかわす。」とそう言われるのです。つかわされるというのですから、それは彼らがユダヤ人を恐れ身を隠していた家から外へ出て行くと言うことを意味しています。つまり、彼らは自分達が恐れていた所に出ていかなければならないのです。その彼らに、イエス・キリスト様は心や安らかにいなさいそうおっしゃられる。しかし、いくら心安らかにいなさいと言われても、今の今まで恐れ不安を感じていた世界です。しかも、イエス・キリスト様は、「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもあなたがたをつかわす」というのですから、その恐れていた世界に出て行くにあたって、イエス・キリスト様が一緒に来てくださるというわけではないのです。そう思うと一体、どうやって心安らかでいられようかと思うのですが、そんな彼らにイエス・キリスト様は、「ふっ」と息をかけられるのです。息を吹きかけるということは、おそらくは、聖霊が与えられると言うことを示す行為だろうと思います。
同時に、それは、神の命が与えられると言うことをも意味しているのではないかと思われます。創世記2章7節には、神が人間を創造なさったときの事が記されていますが、そこにはこう書いてあります。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」ここにも、神が息を吹きかけられるという出来事が記されています。そして神の息が吹き入れられたときに、人は生きた者となったのです。それと同じようにして、イエス・キリスト様が息を吹きかけられました。それは、私たちに聖霊が与えられるときに、私たちは、最早この世の者ではなく、神に属するもの、神の命をいただいた神の子であるという証なのです。そして、私たちが神の子であるがゆえに、神は私たちのことをいつでも、どんな時でも顧みて下さっているのです。だからこそ、私たちは三位一体のおける聖霊なる神を受けることが大切なのです。というのも、私たちが聖霊を受けるならば、いえ、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主と信じ、クリスチャンとなる者には、分け隔てなくこの聖霊が与えられるのですが、この私たちに与えられた聖霊なる神が、私たちの心の中に住んで下さり、いつでも私たちを慰め、支え、励まして下さるお方だからです。それは、神が私たちの内に宿り住んで下さるという神と私たちとの間に起る新しい関係です。
聖霊なる神は、父と子から私たちの所に遣わされてきます。その聖霊なる神が、私たちが神の子たる身分である事を証して下さり、どんな時に、私たちと共にいて下さるのです。そして、この聖霊なる神は、父の御霊であると同時に。子なるイエス・キリスト様の御霊でもあるのです。ですから、私たちが聖霊を受けるとき、私たちはいつでも、どこにあっても、またどのような状況の中にあっても、私たちと共にいる父なり神と、御子イエス・キリスト様からの支えをいただくことが出来るのです。それは、もはや私たちの周りの世界を私たちは恐れなくて良い、不安を感じなくても良いと言うことです。ユダヤ人を恐れ、自分の家の扉を全部閉めきって家に閉じこもっていた弟子たちが、最早、ユダヤ人たちを恐れなくて良いように、私たちも、それまで恐れていた事に対しても、神が、私たちと共にいて下さるが故に、恐れる必要はないのです。そして、私たちが聖霊を受けるとき、私たちは、神と私たちの間に新しい関係をもたらし、私たちを取り巻く世界、環境に新しい関係、新しい事態をもたらすだけではありません。それは、人と人との関係にも新しい関係を産み出すのです。
今日の聖書の箇所のヨハネによる福音書20章22節23節を見ますと、イエス・キリスト様は「聖霊を受けよ」と言われた後に、「あなた方のゆるす罪は、誰の罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」と言われています。この言葉は、第一義的には、「私たちがイエス・キリスト様によってもたらされた福音を伝える者となる」と言うことを示しているだろうと思います。「わたしもあなたがたをつかわす」というのは、「私たちを、罪の赦しをもたらすキリストの福音を伝える使者としてつかわす」ということであろうと思うのです。福音というのは、喜びの知らせです。そして、それは神と人との関係だけでなく、人とひととの関係にも和解をもたらすものです。新約聖書エペソ人への手紙2章11節から20節に次のような言葉があります。「だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼の者と称される人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束された色々な契約にえんがなく、この世の中で希望もなく神もないものであった。
ところがあなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストは私たちの平和であって、二つのものをひとつにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定からなっている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものを一人の新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、ふたつのものをひとつのからだとして、神と和解させ、敵意を十字架に架けて滅ぼしてしまったのである。それから彼は、こられた上で、遠くはなれているあなた方に平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。というのも、彼によって、私たちの両方の者が、ひとつの御霊(つまり聖霊)にあって、父のみもとに近づくことが出来るからである。そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上にたてられたものであって、キリストご自身が隅の頭石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長しそしてあなたがたも、主にあって共に建てられ、聖なる神のすまいとなるのである。」
ここで言われていることは、異邦人とユダヤ人という、かつては憎しみ間、いがみ合っていた者が、ひとつに結びあわされ、和解し、最早憎しみや争いではなく平和があると言うことです。このような、平和は、イエス・キリストを信じる信仰によって、互いが神の家族となることよって起るものだといえます。ですから、私たちが、キリストの福音をつたえる使者として使わされると言うことは、和解をもたらす福音を私たちに委ねられていると言うことでもあるのです。いいかえれば、私たちが福音を伝える使者として使わされると言うことは、互いに赦し合い、愛し合うところの神の家族としての教会を作り上げるということができます。それはつまり、私たちが聖霊を受けるならば、私たちは福音を宣べ伝える者となると言うだけでなく、実際のその福音を生きる者とならなければなりませんし、またなることが出来ると言うことです。そして、その福音は赦しを与えるものであり、和解をもたらすものですから、赦す者となりまた赦される者となるのです。少なくとも、教会はそう言うところなのですから、私たちの教会もそのような教会になるために召し出されているのです。この、私たちに、私たちとイエス・キリスト様の間に、更には私たちと人との関係の中に、また私たちと私たちを取ります世界との中に新しい関係がもたらす、聖霊は、2000年前のペンテコステの時にこの地上に既におみえになっているのです。
そして、神を信じイエス・キリスト様を信じる私たち一人一人に与えられていますし、私たちの教会にも与えられているのです。ですから、私たちは、その私たちの内に聖霊なる神が与えられていると言うことを意識することが大切です。なぜなら、この聖霊なる神は、隠れた神であって、私たちがこのお方のことを意識せずにいたならば、聖霊なる神が私たちの間にあってその業を働かすことが出来ないからです。神は私たちの思いや意識を超えて事をなさるお方ではないからです。しかし、私たちが、この聖霊なる神が私たちに与えられているのだと言うことを意識し、このお方が私たちと共に歩んでいて下さるのだと言うことを心にかけているならば、私たちは、この聖霊なる神を通して、神の慰めや支え、愛をうけ、教会という交わりを築き上げていく中で赦し合い、愛し合う神の家族を築き上げていくことが出来るのです。
お祈りしましょう。