『神は私を生かしてくださる』
マルコによる福音書12章18−27節
2007/6/3 説教者 濱和弘
賛美 3、239、321
先々週はI.S.師が礼拝のご用をして下さいました。また先週はペンテコステ記念礼拝でした。そのようなわけで、マルコによる福音書を一章か順に追いながらメッセージを取り次いで参りましたが、2週間ほど間が空くことになりました。そこで、今日の聖書の箇所と聖書の文脈との関連性を見なおすために、先々週の箇所を見ますと、そこには、イエス・キリスト様にヘロデ党とパリサイ派の人々が、ローマ帝国に税金を納めるべきがどうかについて質問した記事が出ています。このような彼らが、問いかけをしたのは、実際に支配者たるローマ帝国に税を納めてよいのかの問題に対して解決を求めてのことでありませんでした。そうではなく、むしろ、実際上の問題を取上げながら、イエス・キリスト様の揚げ足を取って、陥れ、人々の評判やその人気を落とそうとする意図からのものでした。彼らが、そのようにイエス・キリスト様を陥れようとした背景には、イエス・キリスト様とパリサイ派やヘロデ党の人々との対立があったからです。たしかに、マルコによる福音書の11章15節〜18節のイエス・キリスト様のいわゆる「宮清め」と呼ばれる出来事から、それ以降、その対立は非常に明らかにまた顕著に聖書に描かれています。そして、その延長線上に、このサドカイ(ひと)人と呼ばれるサドカイ派人たち復活に対する問いがあるのです。
それは復活があるかないかという問いかけですが、問いかけたサドカイ派の人たちは、復活などないと考えそのように主張していました。イエス・キリスト様の時代は、この復活があるかないかということについては、「復活はある」と主張するグループと「いや、復活はない」というグループに分れていました。復活はあると言っていたのはパリサイ人(びと)と呼ばれるパリサイ派の人たちであり、復活はないと言っていたのは、既に述べましたようにサドカイ派の人たちでした。そのような、背景の中で、このサドカイ派の人たちの質問が問いかけられているのですが、その内容は、「復活がある」と主張する人たちには、なかなか答えにくい質問です。ここに記されている質問の内容は、ある人の兄の兄が死んで、その残された妻に、子がいない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけなければならない」という創世記38章8節に記されている言葉をめぐってなされたものです。このように、子供を残さずに兄が死んでしまったときに、その兄の家系を絶やさないために、兄弟がその妻をめとるという制度はレビラト婚と言いますが、その制度を引き合いに出しながら、「復活がある」という主張はおかしいのではないかと問いかけるのです。
すなわち、7人の兄弟がいて、長男が子供を残さず死に、レビラト婚の規定に従ってその兄弟が長男の妻をめとっても、誰も子供をに越さずに死んだとするならば、いったい復活の時に、その女は一体誰の妻になるのか」という問いです。レビラト婚が祭ほど申し上げました創世記の38章8節や、その他にも申命記25章5節などに律法規定としてある以上、もし復活というものがあるならば、ややこしい問題が残るではないかと言うのです。サドカイ派の人たちがこのような問いかけをするのは、復活と言うことはばからしい事だという思いがそこにあってのことだろうとは思います。けれども、それを、なぜわざわざイエス・キリスト様に問いかけたについては、定かではありません。もっとも、文脈の流れから考えると、イエス・キリスト様を困らせようとする意図があったのかもしれません。ちょっとしたら、彼らはイエス・キリスト様が、弟子たちにご自分が殺され、三日後によみがえられると言われていたことを聞いていて、それであえて、このような質問をしたのかもしれませんし、ヨハネによる福音書11章5節から48節などを見ますと、イエス・キリスト様がラザロをよみがえらせたことが記されていますが、それを見た多くのユダヤ人がイエス・キリスト様を信じたと言うことが書かれていますので、その評判を聞きつけて、このような質問をして「復活はない」という自分たちの考えを主張したかったのかもしれません。
あるいは、単純にイエス・キリスト様が納税の問題に関する質問でパリサイ派の人たちを見事に斥けられたのを見て、イエス・キリスト様から「復活はない」という自分たちの主張を支持するような答えを引き出したかったと考える事も出来るでしょう。というのも、「復活はある」と主張するパリサイ派の人たちは、ユダヤの中では多数派であり、「復活はない」と主張するサドカイ派の人たちは、確かに裕福な貴族層ではありましたが少数派だったからです。ですから、民衆から支持を得ているイエス・キリスト様を、この復活論争においては味方に付けたかったのかもしれません。いずれにしても、彼らがイエス・キリスト様にこのような問いを投げかけたのは、純粋に神学的意図から復活はあるかないかという本質的問題を解明したいという意図からではなかっただろうと思います。なぜなら、彼らは、「復活はない」という明確な自分たちの立場と主張を持っていたからです。そのような、サドカイ派の人たちに、イエス・キリスト様は、「死人の中からよみがえるときは、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天の御使いのようなものである。」と、まずは「復活があるということ」、そして次に、その復活という出来事を、私たちの生きている世界の常識や物の見方で推し量るべきではないと言うことをお示しになっています。
そして、「モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか」と言われ、出エジプト記の3章6節にある「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉を引き合いに出して、神は死んだものの神ではなく、生きているものの神である。」とそう言われるのです。この、イエス・キリスト様が引き合いに出された、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言う言葉は、復活を論証する言葉であったあったと言われますし、多くの注解書もそのように述べています。それは、神がモーセに、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と語った時には、もうすでに、アブラハムも、イサクモ、ヤコブも死んでいないのに、神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」と言わないで「である」と現在形で方っておられるのは、アブラハムやイサク、ヤコブと神の関係は過去のことだけではなく、今も続いているのだから、それは復活のまぎれもない証であるというのです。
もちろん、私は、そのような解釈が間違っているというと言うつもりはありません。しかし、このイエス・キリスト様の「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉を引き合いに出して、神は死んだものの神ではなく、生きているものの神である。」と言う言葉は、もっと私たちを、信仰の深みに導いていって下さっているように思えるのです。「復活はあるかないか」という神学的な復活に関する本質問題を問うサドカイ派の人たちに、復活と言うことはあると論証しつつ、さらに、もっと大切なことをイエス・キリスト様は問いかけているように思うのです。なぜ、そのように思うのかと申しますと、イエス・キリスト様は、「神は死んだものの神ではなく、生きている者の神である。」と言っておられるからです。それは、死んだ人間が復活するかどうかということを、理屈の上でどうだこうだと論争することよりも、今生きている私たちがどのように神と関わって生きていくかと言うことが大切なのではないかと、そう問いかける言葉のように思えるからです。言い換えるならば、「復活」と言うことに対して神学的なぜひを問うということではなく、復活ということが、今、実際に生きている私たちにどのように関わり、私たちをどのように生かしていくのかを考えることが大切なのだと言うことです。
もちろん、その前提に復活という出来事があると言うことが承認されていることは明らかです。だからこそ、「死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せになったことをよんだことはないのか」といわれるのです。しかし、単に「復活があるのか、ないのか」と言ったことに白黒つけてそれで終わってしまっては何もならないのです。むしろ大切なのは、その復活という出来事によって、私たちは、それにどう関わり、どのように生かされるかということが大切なのだと言うことだろうと思うのです。15世紀末から16世紀にかけてエラスムスという人がいました。彼は、オランダ出身の修道士でしたが、真の神学という意味で真神学ということを述べました。そして、その真神学の中心にあったのがキリストの哲学と呼ばれる考え方でした。このキリストの哲学というのは、要はキリスト教の信仰は如何に生きるかと言うことが大切であり、その如何に生きるかと言うことはキリストを模範として生きることだと言うことなのです。つまり、イエス・キリスト様の十字架の死がなぜ私たちを救うのかとか、十字架の死の意味は何であったかという問題を問う事以上に、イエス・キリスト様の十字架の死が、私に何をもたらし、私をどのよう生かしてしていくのかと言うことに目をむけ、実際にそのように活きていくことが大切なのだと言うのです。
つまり、どのような神学的な問題も、また信仰の問題も、私にとってそれがどのように関わり、私をどのように生かすのかと言うことが大切なのだと言うことなのです。そのことを、考えながら、もう一度このサドカイ派の人々のイエス・キリスト様への質問は、実際に私たちの実際に私たちの生活に起こりうることから掘り起こして、復活という出来事に対して「復活はない」とそう論じていくのです。それに対して、イエス・キリスト様は、旧約聖書の出エジプト記から掘り起こして、復活という出来事をお示しになり、神は生きている者の神として私たちと関わりをもって下さるお方なのだと述べているのです。イエス・キリスト様が出エジプト記から掘り起こされたのは、サドカイ派の人たちはモーセ5書だけを権威あるものと認めていたからです。だからこそ、その権威あるところのものから掘り起こして、そこに示されている事柄が、生きている私たちにとって、深く関わりを持ち、また意味があり、私たちを生かすのだと言うのです。
それは少し乱暴な言い方にはなりますが、信仰とは真理を追究することではなく、真理に生かされることだと言うことです。そして、この場合、聖書が語る真理とは、イエス・キリスト様のことです。ヨハネによる福音書14章6節には、「わたしは道であり、真理であり、命である」とそう記されています。ここには、イエス・キリスト様が真理であるというのです。ですから、信仰とは真理を追究することではなく、真理に生かされることであるとするならば、そのイエス・キリスト様と今ここで生きているわたしとがどう関わり、それによってどのように生きていくかと言うことが問われなければならないのです。そういった意味では、このサドカイ派の人々の「復活はあるかのか、ないのか」という問いとその背後にある「復活はない」という主張は、彼らの真理探究の姿勢です。また、イエス・キリスト様へ投げかけた「7人の兄弟全員が、聖書の規定にのっとって、一人の女性をめとり、誰も子供を残さないで死んでしまったら、復活の時その女性は一体誰の妻となるのか」と言う問いも、その真理の探究から起った者です。 そして、確かに彼らの言うような現実の問題から掘り起こして行くならば、復活と言うことなどあり得ないと言うことを導き出すには十分な事例のひとつかもしれません。
けれども、イエス・キリスト様はそのような真理の探究が虚しいものであることを示しておられます。というのも「彼らが死人の内からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天の御使いのようなものである。」と言われているからです。それは、私たちの世界にある在り方、夫婦関係や人間関係を超えた全く違った新しい秩序、関係が復活の出来事がそこにあるからです。だから、私たちの物の見方や考え方から真理を追究すると言っても、そこには限界があるわけで、だから、この私たちの世界の事柄から掘り起こして聖書に中に真理を探究しようとするのには限界があると言うのです。そして、そのような限界があるからこそ、私たちは、聖書から、また聖書が語る真理であるイエス・キリスト様が私たちに問いかける言葉に耳を傾けて聞く必要があるのです。なぜならば、イエス・キリスト様は私たちに問いかける言葉は、私たち自身の在り方を問われる言葉となるからです。
たとえば、イエス・キリスト様の弟子たちは、ある時、「人々はわたしのことを誰だと言っているか」とそう尋ねておられます。それに対して、弟子たちは「いやー。ある人はバプテスマのヨハネだと言っています。」とか「エレミヤだという人もいますよ」とか「エリヤだといっています。」と口々に、世の中の人がいっていることを告げます。そのような中で、イエス・キリスト様は「それでは、あなたがたは、わたしをだれというか」と問われるのです。それは、まさにイエス・キリストというお方について誰がどう言った、あの人がどう言ったではない、あなたは、このわたしとどのように関わりを持ち、どのように生きるのかと言う問いかけなのです。その時にペテロが弟子たちを代表して「あなたこそ、生ける神の子キリストです」とそう答えます。それは「、私たちにとって、あなたがわたしの救い主キリストであり、生ける真の神の子です。だからわたしはあなたにお従いします。」という、自分にとってイエス・キリストとはどういうお方であり、どのような関係にあるかを語る言葉であり。だからどう生きるのかという、まさにエラスムスがいった真神学的な意思表示なのです。
その時に、イエス・キリスト様は、「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会をたてよう」とそう言われた。それまでは、教会ということは一言も語られてはいないのです。けれども、ペテロを始めとする瀬下地が、イエス・キリスト様とどう関わり合い、また如何に生きるのかと言うことを鮮明にしていく中で、それまではなかった教会という神を信じるものの交わりの集団、新しい秩序、新しい社会が興ってくる。それは、教会とはなんぞやという、真理追究の中から生まれてきたものではないのです。真理であると言われるイエス・キリスト様との関わり合いの中で生きていくと言うところに、教会と言う新しい社会がキリストの弟子たちによって築き上げられていったのです。キリスト教における信仰の出来事というのはそのようなものです。つまり、キリスト教の信仰とは、人間の知的な欲求を満たすものではなく、私が、今ここで生きている生を、キリストの関わりの中で生かすものなのです。
私が、聖書学院で牧師となるための学びをしている時に、もう天に召されました松木祐三先生が、授業の中で、こんな話をなさいました。その話は、学生達に対する、こんな問いかけから始まりました。「以前、ある方が教会にたずねて来て、『天国って本当にあるんでしょうか』と質問されたことがあるが、君たちならどう答える」さて、皆さんならその松木先生の問いかけにどう答えるでしょうか?その時、私は「本当にありますよ」としか答えようがないだろうと思っていましたし、実際、何人かの学生が「『本当にあります』と答えます」と応答しました。すると松木先生は、「私は『誰か身近な方がなくなられたのですか』とそう聞き返したんです。そうすると、その方はお子さんを亡くされて、やりきれない気持ちや悲しさなどを話し始めたのです。結局、その人にとって本当に問題だったのは、『天国があるか、ないか』と言うことではなく、お子さんを亡くされた悲しさの中で、生きていけないと思うような悲しさや、やりきれない思いだったんですね」とそうおっしゃられたのです。
結局、松木先生はその話を通して、学生達に「キリスト教の信仰は、真理とは何かを追求するものではない、実際に、生きて行くことが出来ないと思われるような悲しさや、やり場のない思いになってしまうような現実がある中で、イエス・キリスト様との関わり合いによって、生かされていく、苦しみや悲しみに、寄り添っていただきながら、生きていく力をいただくことなのだ」ということを教えておられたのだと思うのです。それは、まさにあなたにとって「イエス・キリスト様とはどのような関わりがあるのか」という問いです。そして、「あなたはイエス・キリスト様との関わり合いの中で、どのように生かされていますか」という問いなのです。もし私が、また私たちの教会が語る言葉が、ただ単にイエス・キリスト様と言うお方を知的に語るだけであったとしたら、私は大いに反省しなければならないと思います。それは、本当にイエス・キリストというお方を語っていることではないからです。神を語っていることにもならないのです。
父なる神も子なる神も、そして聖霊なる神も、この三位一体の神は、今、この現実の中で生きている私たちの神であり、この現実の社会の中で私たちを行かして下さる神なのです。ですから、この生きている者の神であるといわれる聖書の神に支えられ、励まされ、導かれながら生きてきたいと思いますし、また、そのような生き方があらわれているところが教会という所なのです。
お祈りしましょう。