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羊飼い 『知ることから信じることへ』
マルコによる福音書12章28−34節
2007/6/10 説教者 濱和弘
賛美  9、344、191

さて、ただ今司式の兄弟にお読み頂きましたところの聖書の箇所は、一人の律法学者がイエス・キリスト様に、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」と質問をしたと言うことが記されているところです。このように、この律法学者が、イエス・キリスト様に質問した理由は、「彼らが互いに論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認め」たからだと聖書は告げます。この「彼らが互いに論じ合っていた」といわれる彼らとは、一方はイエス・キリスト様のことであり、もう一方は、この文脈から見ると、おそらくは復活のことについてイエス・キリスト様に質問してきたサドカイ派の人々のことであると考えられます。このサドカイ派とのやりとりの中で、イエス・キリスト様は、旧約聖書の記述を巧みに用いて、復活はあるのだと言うことをお示しになられたと同時に、神は生ける者の神であると言うことを言っておられます。もちろん、この言葉は第一義的には、旧約聖書の中に、「『私はアブラハム、イサク、ヤコブの神である』。そして、『神は死んだ者の神ではなく生きている者の神である。』」といわれることで、「アブラハム、イサク、ヤコブは今も生きた者として私と関わっている。」と言う意味で、生きた者の神と言われているのだろうと思います。

けれども、先週もお話ししましたように、「神は生きている者の神である」と言う言葉は、そのようなアブラハムやイサク、ヤコブだけの問題ではなく、それを超えて、今、こうして生きている私たち一人一人の神であると言うことでもあります。ですから、それは、「アブラハムやイサクやヤコブと神との関係」をとうものだけではなく、今、こうして生きている私、あるいはあなた、またこうしてここに集っている私たちの教会との関係を問いかける、そんな響きを持っているのです。この、今日の聖書の箇所に登場する律法学者は、そのような「神は生きている者の神である」と言う言葉の持つ響きを感じ取っていたのではないだろうか、と思わされるような感じがします。ともうしますのも、彼の質問が「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」というものだったからです。

すでにご存知の方も多いかと思いますが、イエス・キリスト様の時代には非常に多くの、いましめがありました。一説にはその数が613もあったといいます。しかし、考えてきますと私たちの国の法律も民法・刑法・商法などなど、数え上げていけばそれこそ、613といったものではすまないぐらいに多くあります。けれども、どんなに数多くあっても、それらが、生きていく上で重荷になってのしかかってくると言った感じではありませんよね。それこそ、法律は私たちのみじかにあるのですが、しかしあまり気にしないても、まぁ、生きていくことが出来できます。もちろん、法律は守らなければなりませんし、守るべきですが、しかし、現実の生活の中では、それこそ法律にがんじがらめに縛り付けられているという感じではないのです。ところがこの当時のイスラエルの時代の613という戒めは、そう言うわけには行きません。この613の戒めは日常生活の細々と所まで支配していましたし、それが宗教的意義をもっていました。ですから、この613の戒めを全て守ると言うことは容易なことではなりませんでした。それで、その当時のイスラエルの一般の人たちはこの戒めを「重荷」と呼んだのです。

けれども、今日の聖書の箇所に出てくる律法学者は、その重荷であるいましめにしっかりと向き合っています。「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」と言う問いは、数多くある戒めの全てが守りきれなくても、大切なことからきちんと守っていきたいという思いが感じられるからです。それは、その「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」と言う問いに続いて、なされるイエス・キリスト様とのやりとりの中に鮮明に現われてくるように思います。そのやりとりとは次のようなものです。「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」とたずねられたイエス・キリスト様は、第一の戒めは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。」であり、それに次ぐ戒めが、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。」であると、そうお答えになります。その答えを聞いたこの律法学者は、まるで我が意を得たりといわんばかりに、「その通りです。『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。』ということは、蘂手の燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです。」とそう言うのです。

このことは、結局の所イエス・キリスト様がお答えになった答えは、この律法学者が考え思い描いていたものと同じだったという事を私たちに教えてくれます。けれども、どうして、この律法学者はイエス・キリスト様と同じようなことを、心に思い描いていたのでしょうか。おそらく彼は、ただ戒めを機械的に守り行うというのではなく、「なぜ、この戒めを守り行うのか?」どうして「この戒めに従わなければならないのか」について考えていたのだろうと思うのです。つまりそれは、律法・戒めを守り行うことの意義は何なのかを考えていたと言うことです。そして、その結果行き着いた答えが、「戒めを守り行うのは、神を愛することであり、神を愛することは、神のみこころを行うことである。そして、その神のみこころとは、自分を愛するように隣人を愛することなのだ。」と言うことだったのだろうと思うのです。だからこそ、自分自身を愛するが為に、自分自身のために燔祭や犠牲の動物を神に捧げると行った宗教儀式を単に機械的に行うよりも、神の心から愛し、神のみこころを実践して、隣人を愛することが大切なのだという思いに至ったのではないかと思います。

そのような自分の思いを、イエス・キリスト様は見事に、旧約聖書の言葉を後ろ盾にして言い表してくれたのです。まさに、いにしえに語られた聖書の言葉は、古い戒めの言葉ではなく、今、この時に生きている自分を神の前に生かす言葉となったのです。E・H・カーという歴史学者がいますが、このE・H・カーは、おそらく歴史学の中では、日本で一番読まれているのではないかと思われる「歴史とは何か」という本を書いています。その本の中で、「歴史研究は、切手蒐集のような『古物嵬集』ではなく、『現在と過去との対話』である。」と言っています。それは、近代歴史学の父といわれるランケという人の言うような、歴史とは文献を批評し、歴史的出来事が何であったかを記述するものであるというような歴史の見方、研究の在り方の問題点を見事につくものですが、それとおなじように、聖書の言葉を通し、それを戒めとしてただまもり行うならば、聖書の言葉は、今と言う時を生きている私を、生かすものではないのです。結局、聖書の言葉を思いめぐらし、私にこの聖書の言葉が何を語っているのか、私たちの教会にこの聖書の言葉が何を問いかけているのかを考え思いめぐらさなければ、聖書の言葉は、今の私たちにとって何の意味もなさない。聖書の言葉はただ読みさせすればよいと言うものではないのです。

もちろん、ただ読むだけであっても、読めば国語の力や漢字を読みとる力はつくかもしれませんが、それは、今を生きる力となるものにはなりません。聖書の言葉が、今の私に何を語り、今の私がどのように生きていくべきかということに、どんな導きを与えているかことを、探り求めながら呼んでいかなければ、生きる力の源として聖書は、私たちに語りかけてこないのです。そして、聖書が「今の私に、どのように生きていくべきか」と導きを与えるとき、それは、すなわち神のみこころを私たちにお語りになられると言うことです。なぜなら、聖書は、神の御言葉だからです。そして、その聖書の言葉を通して示される神のみこころの根底にあるものが、私たちが、神を心から愛し生きること、また私たちが、私たちの周りにいる人を自分を愛するように愛することなのです。それは、深い黙想と祈りを持って聖書の言葉が私に何と語りかけるか、まさに「主よ、語りませ」と求めるときに、与えられるものです。

この心から神を愛することと、私たちが私たちの周りにいる人を愛すると言うことは、第一のものとそれに次ぐ第二のものとされていますが、これは優先順位的に第一のもと第二のものと区別されているものではありません。むしろ、神を心から愛するようになったものは、必然的に、神を愛する心に次いで私たちの周りのものを愛する心が起ってくるようになってくると言うことです。そういった意味では、まず神を愛するこことがあって、それに伴って周りの人を愛することが出来るようになっていくという意味で、第一のことであり、また第二のことであるといえるでしょう。つまり、「このように神を愛することがきっかけとなって、私たちの心に、私たちの周りにいる人を愛するという動機が与えられる。」そして、「それが、具体的に戒めとなっている事々を私たちに興させていくのだ。」ということを、この33節の言葉、「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです。」と言う言葉は言い表していると考えても、よろしいだろうと思います。

そういった意味では、この律法学者は、まさに重要な点に気付いたというわけですから、まさによくそこに気付いたといわれても良い野ではないだろうかと、そう思うでのす。ところが、イエス・キリスト様は、この律法学者に対して、彼が適切な答えをしたと認めつつも、「あなたは神の国の奥義を手にいれた」との「神の国はあなたのものだ」とも言われませんでした。ただ「あなたは神の国から遠くない」と言われるのです。この「神の国から遠くない」という言葉は、かなり良い線はいっているが、今ひとつ足りない者があると言うことです。そして、この「あなたは神の国から遠くない」と言う言葉が、この聖書の物語を、実に絶妙の物語にしていると言えます。一体何が足らないのか?

それは、おそらくこういう事だろうと思います。「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです。」と言うことがわかっても、それだけでは、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛する」事は出来ないし、「自分を愛するように隣人を愛する」事は出来ないと、いうことだろうとおもうのです。それが正しいこと、それがなすべき事だとわかり、理解しても、人間は必ずしもそれが出来るというわけではない。その正しいと思ったこと、なすべきことだと理解しわかったことを行うことが出来る要になるためには、「知る」と言うことだけでは完全ではない。大切なことが何か足りないのだ。と言うことなのだろうと思います。

では、その足りないものは何か。この律法学者の物語から言うなれば、イエス・キリスト様の弟子となって、イエス・キリスト様の後についていくと言うことだろうと思います。大切なこと、一番大事なことを知ったならば、イエス・キリスト様の弟子となり、イエス・キイスト様に付き従って生きていく、そのとき、始めて、この律法学者は、「あなたは神の国を手に入れた」と、そうイエス・キリスト様から言っていただけるのだろうと思うのです。それは、マタイによる福音書28章19節20節当りを見て頂きますと良くわかります。そこには、「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊の名によって、バプテスマを施し、あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えよ。」と書かれています。しかし、この箇所を、多少日本語がたどたどしくなったとしても、あえてギリシャ語のニュアンスをしっかり伝えるために直訳しますと、「あなたがたは行って、父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けながら、また、(私が)あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えながら、すべての国民を(私の)弟子としなさい。」と言った感じになります。つまり、信仰とはいエス・キリスト様の弟子となると言うことなのです。

イエス・キリスト様の弟子となるということは、キリストの後に従って生きていくと言うことですが、それは自分の十字架を背負って着いていくと言うことです。この場合、自分の十字架とは試練や苦難のことではありません。十字架とは、自分の罪を処分するところであり、自分が罪とこの世に支配されていたその支配から解放されて、自由にされるところです。そのように、自由になって始めて、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。」ということが、出来るようになるのです、ですから、私たちは、ただ単に、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。」ということを教条的に知ることによっては、それを実現することが出来ないのです。ただキリストの弟子となって、キリストに従っていきていくものとなるときに、始めて私たちは、完全なものになれると言うのです。

この、「完全なものになる」という考え方は、私たちの教会と深い関わり合いのある考え方です。というのも、私たちの教会は日本ホーリネス教団に属していますが、この日本ホーリネス教団は、ウェスレアン・アルミニアン神学に立っているからです。このウェスレアン・アルミニアン神学というのは、ジョン・ウェスレーという英国の人と、ヤコブ・アルミニウスというオランダの人の影響を強く受けているものですが、年代的には、アルミニウスの方が、16世紀後半で、ウェスレーが18世紀の人ですから、アルミニウスのほうが、ずっと前の人ということになります。つまり、ウェスレアン・アルミニアン神学というのは、アルミニウスの影響のもとにウェスレーが築き上げた神学的営みであると言えるのです。 このジョン・ウェスレーが示した神学は「キリスト者の完全」という本当に薄い小著によって言い表されていますが、要は、キリスト者の完全とは、動機における愛の完全だというのです。

人間は罪深いもので、生まれながらのままの人間は、私たちの周りにいる人を愛そうにも、十分に愛することは出来ない。自分に良くしてくれる人を愛するという自己中心的な愛なら持つことは出来るかもしれない。けれども、そうでない人など、とうてい愛することなどできない、その意味では、愛においては不完全なものである。その不完全な人間が、神の恵みの中でお取り扱いを受けますと、人を愛するというという、動機における愛においては、まさに完全なものとなることが出来る。それがキリスト者の完全であると、ウェスレーは言うのです。そして、それは、今日の聖書の言葉から私たちが学び取ろうとしているものと同じものです。私たちの教団は、このキリスト者の完全を「聖め」と言う言葉で言い表してきました。ですから、「聖め」、あるいは「聖化」ということは、私たちが神を愛する愛、人を愛するという愛における完全ということなのです。そして、この「聖め」ということは、私たちが、本当にキリストの弟子となって、イエス・キリスト様の弟子となってお従いしていくその歩みを始めたときに、私たちに与えられる神の恵みです。もちろん、その歩みを始めたときに与えられる神の恵みといっても、その日から手のひらを返したように私たちが変わると言うことではありません。

私たちは、意志と思いと自由を与えられている存在なのですから、ロボットのコンピューターのプログラムを入れかえるように帰ることはできません。私たちの意志や思いや自由が変わっていくには、色々な事柄を通して、私たちの思いや考えではなく、神様のみお心がどこにあり、神様のみこころがそこにあるかを知らなければなりません。そして、それは色々な出来事を通して、私たちが学んでいくことなのです。だからこそ、私たちは聖書を読み、聖書の言葉を深く心思うという事が大切になるのです。そして、そこにおいて、私たちがキリストの弟子となっているかどうかが、非常に重要なのです。なぜなら、イエス・キリスト様こそ、完全に父なる神様のお心に従い、父なる神様のみこころに添っていきられた方だからです。ですから、そういった意味では、イエス・キリスト様は私たちの模範であるからです。まさに、弟子となると言うことは、その師であるお方を模範として学ぶものなのです。

たとえば、中世後期、15世紀末から16世紀初頭に、近代的敬虔(devotio moderna)という神秘主義の運動がオランダを中心に起りました。この近代的敬虔はエラスムスやルター、そして、イグナティウス・デ・ロヨラといった今にまで名を残す人々に影響を与えるのですが、その近代的敬虔と言う運動の中から生まれてきた本が、「キリストに倣いて」と言う本です。この、「キリストに倣いて」と言う本は、カトリックの信仰を背景に、トマス・ア・ケンピスという人が書いたと言われていますが、実際の所はそれも定かではありません。この時代の書物の中には、宗教改革者であるマルティン・ルターに大きく影響を与えた「ドイツ神学」と言った本も、誰が書いたのか著者がわからないといったものも少なくありません。しかし、著者がどうであろうと、善いものはよいのであって、この「キリストに倣いて」は、まさに先ほど申し上げましたようなエラスムスやルター、そして、イグナティウス・デ・ロヨラといった人々に読まれ、そして現代に至っても、多くの人に読まれている書物です。

そこには、まさにキリストを模範として生きるということを追求した深い魂の声を読むことが出来ます。もちろん、カトリックの背景のもとに書かれているものですし、15世紀の修道士、あるいは修道士的生活をしている信徒のために書かれた本ですから、現代の私たちには、多少、違和感を感じることがあるかもしれませんが、しかし、キリストの弟子となろうとする人たちの魂を今日に至るまで養い続けた本なのです。それは、そこにキリストの弟子として生きるという生き方が伝わってくる深い霊性があるからだろうと思います。そして、この本が、宗教改革やカトリック改革を成し遂げた人々に大きな影響を与えたのは、その霊性が、そう言った人々をキリストの弟子となることの手助けとなったからだろうと思うのです。この本は今でも手に入りますし読むことが出来ます。ですから、そこかでお読み頂ければよろしいのではないかと思います。いずれにしても、私たちは、神様がイエス・キリスト様によって、私たちを罪とこの世の支配から解放して下さったのですから、そのことを知って喜ぶだけでなく、イエス・キリスト様の弟子として、イエス・キリスト様を模範として歩むひとりひとりでありたいと思います。

そうやって、私たちがイエス・キリストの弟子となって歩むならば、私たちは、キリストの弟子として、聖め・聖化の恵みの内に、神によって成長させていただき、キリストの充ち満ちた背丈にまで、いたらせてきただくことが出来るのです。そして、そのように私たちひとりひとりがキリストの弟子として歩むならば、神の国は遠い将来の希望ではなく、今、ここでの私たちの生活中に現われます。そして、私たちの教会がイエス・キリストの弟子の群れ、共同体ならば、教会はこの地上における神の国の現われとなることが出来るのです。私たちは、そのために神様に呼び出され、ここに召し集められた一人一人なのです。

お祈りしましょう。