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羊飼い 『下に向かって歩こうよ』
マルコによる福音書12章35−40節
2007/6/24 説教者 濱和弘
賛美  20、172、275

さて、今日は、いま司式の兄弟からお読み頂きましたマルコによる福音書12章35節から40節を通して、御言葉をお取り次ぎしたいと思いますが、この箇所は、私にとっても色々と考えさせられたところでもあります。先日、家内と車で買い物に出かけたときに、車を運転しながら、日本人の体にしみ込んでいる宗教性の事について話をしていました。もちろん、夫婦の間で、いつもそんな硬い話ばかりをしているわけではありません。大半は、たわいもない話なのですが、たまたま、その時は、ちょっと堅い話をしていた。それは、どんなにクリスチャンであっても、日本的な宗教観、例えば先祖に対する感じ方や、あるいは亡くなった方への想いのかけ方、そう言ったものは、しっかりと染みついているところがあって、否定しがたいのではないかと言うような話です。たとえば、ずっとキリスト教の信仰を守ってこられたお婆ちゃんが、亡くなる直前に「南無阿弥陀仏」と唱えて、牧師が「がっかりした」というような話を聞いたことがありますが、そう言った感じのことです。

私も牧師ですから、「がっかりした」というその気持ちもわからんではありませんが、しかし、それでも私は、そのお婆ちゃんがキリスト教の信仰を失ったとは思わない。それは、日本人の中にしみ込んでいる超越者に向き合うときの姿勢とそれを表す表現の仕方、教会でよく言う「霊性」ということであって、そのしみ込んだものの形で現われたものだからだろうと思うからです。それは、例えばクリスチャンであっても、漠然とした感覚の中で先祖や亡くなった親兄弟が見守ってくれていると言った漠然とした感覚と言ったものを持っていたりするのと、同じようなものだろうとおもうのです。いうなれば、それらのものは極めて、日本という社会風土の中で、知らず知らずの内に、私たち日本人が身につけていった日本人的な宗教感覚なのです。もちろん、そう言った感覚が聖書の教えを超えて、キリスト教の信仰の中心となってしまったならば、それは大きな問題です。それはキリスト教の本質、福音の本質を見失ってしまっている事だからです。

しかし、私は、あえてそのような感覚が、感覚として私たちの中にとどまるならば、それを悪いことだとして全否定する必要はないだろうと思っています。むしろそのような、感覚にたちながらも、それを通して私たちの信じる福音の本質を、私たちの同胞にしっかりと伝えていくことの方が大切なことのように思うのです。つまり、私たちが先祖や亡くなった親兄弟が見守ってくれていると言う感覚は、先祖や親兄弟は私たちを無条件に愛してくれていると言う感覚から来るものです。子孫である、家族であるそのつながりが私たちを見守ってくれるという、それが神道的な宗教性の中で私たちの中に根付いている。そして、そのような、家族であるとか家系であるとか、そう言ったものに根ざす愛というものは、確かに私たちの中にあるのです。そして、そこに立ち、それを踏み台にして、そこから、「だから、私たちの存在の根底にある、私たちの創造者であり、私たちの父である神は、私たちを愛して下さっている」というキリスト教信仰の確信に跳躍することできるだろうと言うことなのです。

それは、私たちの中にしみ込んでいる宗教的感覚を踏み台にして、神の恵みに至るという事だといえます。今日の聖書の箇所は、まさにそのようなことを示している箇所だと言えるように思うのです。その聖書の箇所に置いて、イエス・キリスト様はこのように言われています。35節から37節です。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だというのか。ダビデ自身が聖霊に感じて言った、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときにまでは、あなたの右に座していなさい。』このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうして、キリストはダビデの子であろうか」このイエス・キリスト様の言葉は、この箇所においては、ちょっと異彩を放つ言葉です。と申しますのも、ここでイエス・キリストは、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのか」と言っておられますが、しかし、この文脈を見る限り、律法学者たちがイエス・キリスト様に、そのようなことを言って問いつめている場面は記されていないからです。つまり、この言葉は、イエス・キリスト様と律法学者との間だの論争から起った言葉としてしるされてないと言うことです。そうではなくて、むしろこの言葉は、当時にイスラエルの社会において、キリストについて一般的に受け止められていた考え方や常識について語られた言葉であろうと思われます。

ともうしますのも、たとえば、同じマルコによる福音書の10章46節以降に、盲人バルテマイが、イエス・キリスト様に癒しを求めて「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください。」と叫んだ言葉が記されているからです。また、マタイによる福音書21章9節を見ますと、イエス・キリスト様が子ロバに乗ってエルサレムに入場なさる際に、人々が挙げた歓声も、「ダビデの子にホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、いと高いところに、ホサナ」というものであった言います。これらは、イエスと言うお方がキリストである、あるいはキリストではないかという思いや期待の中で語られた言葉です。ですから、この当時は、「キリストはダビデの子孫の中から生まれてくる」ということが、広く一般に受け入れられていた考え方だったといえます。つまり、キリストがダビデの子孫であると言うことは、当時のイスラエル社会にいては、ごく普通の宗教感覚としてイエスラエルの民にしみ込んでいるものだったのです。そしてそのような宗教的感覚に権威付けをしていたのが律法学者だったと言えます。

いずれにしても、当時のイスラエルの民にしみ込んでいた宗教感覚に対して、イエス・キリスト様は、旧約聖書の詩篇110篇1節の言葉、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときにまでは、あなたの右に座していなさい。』と言う言葉を引用しながら、「このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうして、キリストはダビデの子であろうか」といって、キリストはダビデの子孫ではないとそう言うのです。しかし、考えてみますと、マタイによる福音書の1章にある父ヨセフ家系図をみましても、またルカによる福音書にある母マリヤの系図を見ましてもイエス・キリスト様は、ダビデの家系にあることがわかります。だとすれば、「キリストはダビデの子孫の中から生まれてくるのだという」当時の人々の受け止め方は、イエス・キリスト様にとっては、マイナスの要因ではないように思われます。むしろ、ご自分がダビデの家系にあると言うことは、キリストである資格を有していると言うことの証明でもあるわけですから人々がイエス様というお方をキリストとして受け入れるためにはプラスの要因のようにさえ思われるのです。

逆に、キリストはダビデの子孫ではないと言うことになりますと、ダビデの家系にあるわけですから、イエス様はキリストではないと言うことになってしまいます。ですから、イエス・キリスト様は、「キリストはダビデの子孫から生まれてくる」という表面上のことを否定したのではなく、もっと深いところにある問題を問われたと考えて良さそうです。では、一体それはどのような問題なのか。それを解く鍵は、先ほどの詩篇110篇1節の引用にあると思われます。その、詩篇110篇の1節の引用をもう一度お読みしますと、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときにまでは、あなたの右に座していなさい。』と言うものです。そして、イエス・キリスト様は、「ダビデ自身が、キリストを主と呼んでいる。」とそう言われるのです。ダビデは、言わずとしれたイスラエルの歴史の中で最も優れた、そして最も尊敬されている王様です。そのダビデがキリスト様を「主と呼んでいる」ということは、キリストはダビデの王位に優る存在だと言うことです。

実は、イエス・キリスト様の時代、人々が「キリストはダビデの子孫」として生まれてくると考えているその背景には、救い主であるキリストが、イスラエルの国が最も繁栄したダビデ王の時と同じような王国を再建してくれる王であるという期待を込めて「キリストはダビデの子だ」と言っていたのです。しかし、イエス・キリスト様はそのようなキリストに対する人々の期待に対して、旧約聖書詩篇110篇の御言葉を引用しながら、真のキリストは、あなた方が期待するようなダビデに匹敵するような王としてこの地上に来られるのではないとそう言われるのです。そのような世俗的な王ではなく、キリストは主として私たちのところに来て下さる。そう言われるのです。この主と言う言葉は、単なる主人とか旦那様といった意味とは違う、もっと特別な重みのある言葉です。(ヘブル語では ネウム アドナイ<YHWH> らドニー(LA+ADONAI>)と申しますのも、先ほどの詩篇110篇の1節の言葉を見ますと「主が私の主に語られた」とある、最初の主と言う言葉は、神に対して主という呼び方をする言葉が使われています。もちろん、イエス・キリスト様は後の部分の「私の主」というのがダビデであると理解しています。つまり、「私の主と言われているダビデは自身がキリストを神を意味する言葉としての主と呼んでいる」というのですから、それはつまりキリストは神であると言うことなのです。

そうすると、この聖書の箇所に置いて、イエス・キリスト様は、人々がキリストはダビデの子孫として生まれて来るという当時のイスラエルの人々の宗教的感覚に立ちながら、事実ダビデの子孫として、イエス・キリスト様は生まれてこられたが、それは人々の思いを超えて、神ご自身が人の姿を採られ、神の子として来られたのだと言っておられるのです。当然、神が人の子となられ、私たちのところに来て下さった意図は、人々がダビデの子として期待していたものとは異なったものです。だからこそ、イエス・キリスト様は、イスラエルの社会が受け止めていた「キリストはダビデの子だ」という理解を否定しなければならなかったのです。では、そのイエス・キリスト様の意図はどこにあったのでしょうか。その鍵は、次の38節からの文脈に見られるように思われます。

38節には、「イエスはその教えの中で言われた」とありますから、38節以降は、意図的に35節から37節の文脈に結び付けられています。また、35節せ「律法学者たちはどうして、キリストをダビデの子だというのか」とのべ、また38節で「律法学者たちに気を付けなさい」と述べられていますから、その意味でも、この二つの文脈が深い関わり合いの中にあるかと言うことを伺わせます。しかし、「キリストはダビデの子である」というのは、律法学者だけの理解ではありませんした。すでに見てきたように、そのような考え方はイスラエルの社会に一般的に浸みに込んでいたものだったのですですから、38節以降は、単に律法学者だけではなく、37節にある大勢の群衆たちに対しても語られていることであろうと思われます。それでは、38節以降にどのように語られているのかというと、それは、一言で言えば「偉い人になるな。高い地位に立とうとするな」と言うことだろうと思います。

イエス・キリスト様は「律法学者に気を付けなさい」と言われますが、その律法学者の特徴は、「長い衣を着て歩くこと、広場で挨拶されること、また会堂の上席、宴会の上席を好んでいる。またやもめたちの家を食い倒し、見栄のために長い祈りをする」と言ったものです。このようなことは、要は人から偉い立場、つまりは権力のある地位、あるいは権威ある立場にいる人であると見られているということです。そして、律法学者は、その象徴的存在として、ここに引き合いに出されているのです。このような、偉い立場、つまりは権力のある地位、あるいは権威ある立場の頂点にあるのが王という存在だろうと思います。ですから、イエス・キリスト様ご自身は、そのような王として「キリストはダビデの子である」と言うことをしりぞけられたのです。それはつまり、人の目から見た権威の頂点、権力の頂点に立たれることを拒まれたと言うことです。そして、そのイエス・キリスト様の生き方がもっとも現われたのが、十字架の出来事であると言えるだろうと思います。そのことを思うとき、一つの御言葉が心に浮かんできます。それは新約聖書ピリピ人への手紙2章6節から11節の御言葉です。

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、全てに優る名を彼に賜った。それはイエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエスは・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」ここで言われていることはキリストの謙遜、へりくだりと言うことです。キリストは神であられるのに、人となるまでにへりくだり、十字架の死に至るまでに従順になられるほどにへりくだられた。そして、そのようなへりくだりによって、神は、イエス・キリスト様を高く引き上げ、すべてにまさる名を彼に賜り、またあらゆる舌が「イエス・キリストは主である」と告白し、神に栄光を帰すと言うのです。

謙遜やへりくだると言うことは自らを卑しいものとして、低くすると言うことだと言って良いだろうと思います。そして、キリストが人となるまでにへりくだったというのは、神であり、聖なるお方が、私たち罪人のところまで来て下さったと言うことです。私たちに、この神の御子であるキリストの高みまで上ってきなさいと言われるのではなく、私があなたの低さまで降りていってあなたと共に歩もうと言われたのです。その時に、神はへりくだられたキリストを高く引き上げられたというのです。それは、単にキリストだからと言うことではありません。神は、謙遜な限りを尽くし、自らを低くする者を神は高く引き上げて下さるということでもあります。なぜならば、引き上げられたキリストは、人となられたお方だからです。

ところが、今日の聖書の箇所に戻って、このマルコの福音書に記されているところの律法学者の姿は、そのようなへりくだりや謙遜とは真逆な姿が描かれています。そこには、自らを高め誇ろうとする姿がある。そのような思いの中にあっては、へりくだられた神であるイエス・キリスト様を到底「主」として受け入れることなど出来ようはずはないのです。イエス・キリスト様が、この世の権力の頂点、この世の権威の頂点にある王となられることを拒まれ、十字架の死に至るまでにへりくだり従順であられたのは、私たちに、十字架の死によってもたらされる神の恵みを与えるためでした。この神の恵みは、罪の赦しであり、私たちをこの世の支配と死の縄目から解放し、神にある命が与えられると言うことです。ですから、このイエス・キリスト様を受け入れることが出来なければ、この恵みもまた、私たちの者にはならないと言うことです。

私たちは、自らを高め、誇ろうとする限り、神の恵みには至らないのです。ただ、へりくだり、謙遜となって神の前にへりくだらなければ、この神の恵みには至らないのです。先々週、トマス・ア・ケンピスと言う人の「キリストに倣いて」と言う本のことをお話しいたしました。そして、この「キリストに倣いて」と言う本は、近代的敬虔とよばれる神秘主義の影響を強く受けた運動の中から生まれてきたと言うことをお話し致しました。この神秘主義とよばれるものは、まさにここまでお話ししてきた謙遜とかへりくだりと言うことをとても重要なことだと考えていたのです。つまり、人が自分は神の前に何も誇る者がないと、自らを低くし、へりくだるならば、そのへりくだり、下へ下へと下っていたそのそこで、神は恵みを与えて下さり、高みへと引き上げてくださるというのです。自分は、神の前に穢れた罪人である。神に前に何も価値のない者だ。そう自覚し、自らにへりくだるときに、神は私たちの罪を赦して下さり、私たちもまた、神の子としての高みにまで引き上げて下さるのです。この、神秘主義の考え方は、敬虔主義の中に受け継がれ、ツィンツェンドルフという人を通して、モラビア兄弟団というグループに伝わり、そしてジョン・ウェスレーという人をとおして私たちの教会にも流れ込んでいます。

私たちの教会が「聖化」=「聖められる」ということは、自分がまったき罪人で神の前に何も誇りものはないと、いわば自分自身に自己破綻した者が、神によって高みに引き上げられると言うことです。だからこそ、「聖められる」あるいは「聖められた」のです。ですから、そこにあるのは、徹底した罪人の私です。しかし、徹底した罪人であると自覚する私だからこそ、神は私たち高みにまで引き上げ、神の子という何ものにも優る呼び名を与えて下さるのです。ですから、私たちは自らを誇るために、自らを高めるような生き方をするべきではありません。そこには、「神の厳しい裁きがまっているからです。」むしろ、下を向いて、自らをへりくだる生き方をしなければなりません。私たちが自らにへりくだり、自分はとるに足らない罪人であると言うことを自覚して生きるときに、神は、神の側から私たちのところに走り寄ってくださって私たちを高め、神の子として下さるからです。そして、そのように、神によって高みに引き上げて頂き、神の子となったならば、今度は神の子として、イエス・キリスト様の模範にならって、私たちもまたもう一度へりくだって生きる必要があります。

それは、イエス・キリスト様が病んでいる人、悲しんでいる人、弱り疲れた人のところに行き、慰め、支え、罪人に罪の赦しを語られたように、「キリストに倣う」私たちも、慰め、支え、痛みを分け合い、赦しを語るものとなると言うことです。それはつまり、教会と言うところは、福音が語られ、悲しみを分け合われ、痛みを分け合われ、弱った者を支え合いながら生きていく場であると言うことでもあります。そのことを心に留めながら、私たちは教会生活を、また信仰生活をおくりたいと思うのです。

お祈りしましょう。