『豊かな想像力を働かせて』
マルコによる福音書12章41−44節
2007/7/1 説教者 濱和弘
賛美 3、357、388
さて、先週の礼拝におきましては、私たちクリスチャンが如何に生きていくかと言うことに関することについて、マルコの福音書12章35節〜40節の御言葉が語りかけてくるものに、ご一緒に耳を傾けさせて頂きました。そこで見て参りましたのは、神の御子であられるお方であるイエス・キリスト様の謙遜でへりくだったお姿でした。そして、その謙遜とへくだりは、王として高い地位へ昇り、高められることをお望みにならず、むしろ私たちと同じ目線の高さで生きて下さったと言うことの中に表されています。そして、だからこそ、私たちクリスチャンは、自らを高めることではなく、謙遜とへりくだりの生涯を送るべきであるということを学んだのです。それは、イエス・キリスト様が病んでいる人、悲しんでいる人、弱り疲れた人のところに行き、慰め、支え、罪人に罪の赦しを語られたように、私たちもまた、慰め合い、支え合い、許しあいながら生きる時、私たちは「キリストに倣って」生きる者となるのであるということだといえます。
この、キリストの倣う生き方というのは、言うなれば、生きる方向性の問題です。それは上に向って生きていく生き方ではなく、下に向って生きていく生き方です。地図で言うならば、東に向って進路を取ればいいのは、期待向って進路を取ればいいのか、あるいは「北北西に進路をとれ」と言うことなのかと言った問題です。そして、どの方向に向って進路を取ればよいかと言うことがわかれば、今度はどうやってその方向に向って進んでいかなければならないかと言うことを考えなければなりません。つまり、謙遜とヘりくだりの生涯を生きるという生き方の方向性を見出したとして、ではどうやって謙遜な者、へりくだった者となるのかと言う問題です。そこで、今日の聖書の箇所ですが、この聖書の箇所が、いかにして謙遜な者になるか、へりくだったものとなるかと言うことについて何か具体的に語っているかというと、そういうわけではありません。ここで取上げられていることは、献金ということです。
しかし、献金というものは、信仰生活の中の事柄です。それは、私たちが神に対してそのような姿勢で向き合っているかと言うことをあらわすものです。ですから、献金は、献身と言う言葉に置き換えても良いだろうと思うのです。たとえば、今日も礼拝の中で、それこそこの説教が終わった後に献金の時が持たれます。しかし、その献金は説教を通して、「神様の恵をいただいた」「礼拝の場に招いて頂いた」と言うことに対する感謝として捧げるものでもなく、ましてや、礼拝に出席するための参加費や聴講料といったものではないのです。感謝のささげ物であったとしても、参加費や聴講料であったとしても、それはいうなれば対価であります。神が何か私たちにして下さったことに対する対価として献金がなされるとするならば、それは献身と言うことではなくなります。と申しますのも、対価はいただくことが前提になされるものですが、献身と言うことは、頂くことが前提にはないのです。ただ、自分自身を神様の前に、一方的に捧げることが献身なのです。ですから、献金とは、単なる感謝の応答というと言うことではないのです
もちろん、教会には健康感謝献金や受洗感謝献金。あるいは、いろいろな出来事に対する感謝献金がありますし、上半期・下半期感謝献金といったものもあります。それらは、確かに命が与えられ健康が守られたことを覚え、また洗礼の恵みに預かることが出来たことに対する感謝などの、様々な感謝な思いから捧げられるものです。しかし、そのような感謝献金であったとしても、そこに留まっているのではなく、そのような感謝な出来事があるからこそ、もう一歩踏み込んで、神様の御業に、献金を通してさせて頂くという積極的な一面が大切なのです。結局、献金とは神のみ業に参加していく私たちの献身なのです。ですから、献金は大切な信仰の行為であり、私たちの神に向き合う姿勢である、信仰の生き方の一つの現われなのです。今日の聖書の箇所は、その信仰の生き方の一つの現われである献金をめぐって物語が展開していきます。
41節を見ますと、イエス・キリスト様はさい銭箱に向ってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられたとあります。そこの、多くの金持ちと一人の貧しいやもめが登場してきます。この物語の場面となっているエルサレムにありました神殿は、民族や聖別あるいは立場といったもので、立ち入れる場所が決まっています。日本の神社でも、女性が入ることが禁じられた場所がある神社がありますし、何年か前は、大相撲で土俵に大阪の女性知事を上げるか上げないかで問題になりましたが、それは、土俵の上は女人禁制だったからです。そのように、エルサレムの神殿でも、女性が入れるのは婦人の庭と呼ばれるところまでで、そこから先の男子の庭や祭司の庭と言ったところには入っていけませんでした。ですから、この物語は、婦人の庭を舞台にしていると思われますが、この婦人の庭には、ラッパの形をした13の献金箱があったそうですので、そこでの出来事だろうと思います。
その献金箱のところに多くの金持ちがやって来てたくさんの献金を投げ入れていたのですが、そこにひとりのやもめがやって来てレプタ銅化二つを投げ入れたというのです。レプタ銅貨というのは、もっとも最小単位のお金で、私たちのお金にしてみれば、一円硬貨と言ったところです。けれども、イエス・キリスト様はその女性に対して、「良く聞きなさい。あの貧しいやもめはさい銭箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みなの者はありあまる中から投げ入れたのだが、あの婦人は貧しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を投げ入れたからである」。とそう言われているのです。実は、このイエス・キリスト様の言葉は二つの全く逆の意味で解釈されています。一つは、このやもめの女に対するイエス・キリスト様の賞賛の言葉として解釈されるケースと、もう一つは嘆きの言葉として解釈されるケースです。
実は、私は今までいろいろな注解書や説教集を読み、また他の先生方の説教などを聞いていましたが、この「良く聞きなさい。あの貧しいやもめはさい銭箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みなの者はありあまる中から投げ入れたのだが、あの婦人は貧しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を投げ入れたからである」。という言葉をイエス・キリスト様の嘆きの言葉として解釈しているものに出会ったことがありませんでした。ですから、今回初めての経験でしたので、本当に驚いたのですが、それはこのような理解でした。この聖書の箇所、マルコによる福音書12章41節から44節は、それに先立つ12章35節から40節の話、とりわけ、40節の律法学者たちが「やもめ達の家を食いつぶしている」と言う言葉に結び付けられるもので、それゆえに、宗教的支配者たちが、やもめの家を食いつぶしている実態が41節以後物語を通して明らかにされているというのです。そして、その実態に対して、イエス・キリスト様が嘆いておられるのが、先ほどの12章43節44節の言葉だというのです。そのように言われると、なるほどそのように読めないわけでもないような感じがします。そうしますと、このイエス・キリスト様の嘆きは、やもめを食いつぶすような虐げに対する嘆きと言うことになります。
もちろん、この解釈の是非は、よく検討してみなければならないものですが、しかし、私たちに対する問いかけとしては十分に耳を傾けるものがあり、それゆえに考えてみる必要があるように思うのです。と申しますのも、献金を捧げると言うことは、自らの献身を表す信仰的行為ですが、ともすれば私たちはこの行為の動機に目を向けないで、行為それ自体、あるいはその行為の結果を見てしまうからです。たとえば、このやもめはが捧げたものは、最も価値の低いレプタ銅貨二つです。私たちの現在の通貨に置き換えれば一円玉二つです。そこで行われた行為は一円玉2つを捧げると言うこと、そしてその結果、捧げられたものは2円の献金だったのです。このたった2円に過ぎないレプタ銅貨2枚さい銭箱投げ入れられたという出来事は一つの事実です。その事実をどう理解し、受け止めるのかが問題なのです。つまり、たった2円しか捧げられなかったと受け止めるか、それともイエス・キリスト様のように、「あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費の全部を捧げたのだ」と受け止めるのかという問題なのです。結果からすれば、2円です。しかし、それでもそれは捧げた人の全部なのです。
以前もお話ししたと思いますが、家内が高校生か中学生だったころ、当時家内が言っていた教会の中高会で献金をしたところ、その献金の中に一円玉が入っていた。それを見た中高生クラスの教師が、神様にささげ物をするのに一円とは何事かと怒り出したというのです。もちろん、その先生は敬虔な思いで神様に捧げると言うことの大切さを教えたかったのだと思うのですが、献金の中に一円玉があったことを、献金を惜しんで一円しか捧げなかったと受け止め、それは神様に対する姿勢として不敬虔な態度だと考え、それだから子どもたちに神に真摯に仕える姿勢を教えようとして、怒られたのだろうと思うのです。けれども、ひょっとしたら、その一円玉は、それを捧げた子供の、その時の持ち合わせのすべてだったのかもしれないのです。たとえば、私も、以前信徒の時代に会計をしていたことがありました。その時に礼拝献金の中に、500円の図書券が入っていたのです。それを見た私は、ああ誰かお札と間違えて図書券を入れてしまったんだなとそう思ったのです。けれども、今にして思えば、ひょっとしたら、その時、その人の手元にはお金が無く、500円の図書券しかなかったのかもしれないのです。だから、その500年の図書券を献金の籠に入れたのかもしれない。
献金を惜しんで1円しか捧げなかったと受け止めたCSの教師も、礼拝献金の籠の中の500円の図書券を見て、間違えて入れてしまったなと思った私も、実は、自分の物の見方や価値基準で、事実としてそこにある出来事、結果としてそこにある出来事を解釈していたのです。一円しか持っていないと言うことなど考えられない。もっと持っているはずだ。だから、惜しんで一番少ない一円玉だけを捧げたのだ。あるいは、図書券を捧げるという言うことなど考えられない。だから間違えてしまったのだ。それはみんな、自分の物の見方、価値観による勝手な解釈です。ひょっとしたら、それがその時に、その人が持っている全てだったのかもしれません。そして、その人は、自分のもっている全てを捧げたのかもしれないのです。けれども、そのようなことに思いもよらない、全く想像力が欠如している姿がそこにあります。そして、自分で勝手に判断し、それによって相手が誰かはわかりませんが、しかしその誰かを評価している。
そういった意味では、想像力が欠如するということは本当に恐ろしいことですし、自分の物差し、価値判断だけでものごとをとらえるというのは更に恐いことだと思うのです。そして、もっと恐いと思うのは、自分の価値観や、物の見方が、そして想像力の欠如が、もっとも弱い人、もっとも苦しんでいる人、最も悩んでいる人、もっとも悲しんでいる人を虐げているかもしれないと言うことに気付かないでいることなのかもしれません。このレプタ銅貨二つ捧げた人は、たったレプタ銅貨二つ、ほんの2円ぽっちのものなのかも知れません。しかし全財産だったのです。たとえレプタ銅貨二つでもそれが全財産であるとしたならば、早々簡単にそれを捧げることは出来ません。けれども、このやもめの女はその全財産を捧げたのです。もちろん、心から神を信頼し、神を喜んで捧げたと言うことも考えられるでしょう。それはそれで素晴らしい信仰です。だからこそ、そのように受け取り解釈するならば、先ほどのイエス・キリスト様の言葉は賞賛の言葉と受け止められるのです。
ですが、必ずしもそうであったかどうかについては、考えてみなければなりません。すでに申しましたように、そうでない場合だってあるのです。たとえば、12章の41節を見ていると、多くの金持ちがたくさんの金を投げ入れていたとあります。投げ入れていたと言う言葉は、原語では未完了形になっていますから、次々とたくさんのお金がなげ入れづけられたのです。そのように、たくさんのお金が投げ入れられていく中で、とてもレプタ銅貨一つを投げ入れるような雰囲気ではなかったかもしれません。投げ入れられていた金額という結果を見ていたならば、そうなのかもしれません。ひょっとしたら、このやもめは、ひょっとしたら二つのレプタ銅貨の半分だけでも残しておきたかったのかもしれなないということだって考えられるのです。けれども、みんなが次々と大金を投げ入れていく中で、たとえ2レプタであったとしても全財産を捧げなければならいような気持ちに追い込まれていったのかもしれないのです。それこそ、周りの人々の行動が、意識的にではなかったにしても、そのやもめの女性に、持っているものを全部捧げなければならないように強いているのかも知れないと言うことだって考えられます。
もし、イエス・キリスト様が、ある人達が解釈するように、43節44節で語られた言葉、「良く聞きなさい。あの貧しいやもめはさい銭箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みなの者はありあまる中から投げ入れたのだが、あの婦人は貧しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を投げ入れたからである」。と言う言葉が、嘆きの言葉として語られたとしたら、そのような貧しい弱い人を、神の民が、知らず知らずのうちに更に虐げてしまっている現状に気付かないでいることを嘆かれたとも考えられるのです。そして実は、私たちも。神の民といいながら、神の家族と言いながら、その私たちが、同じ神の民を虐げ、神の家族を虐げているのかもしれないのです。そして、もしそうだとしたら、イエス・キリスト様は、そんな私たちのことを嘆いておられるに違いありません。そして、私たちがそのような状況にあったとするならば、それは、私たちに想像力が欠けているからかもしれません。そして、その想像力の欠如は、すでに私たしたちの中に出来上がっている既成の価値観や物の見方といったもの、それらは先入観と言っても良いものですが、そう言ったものためではないかと思うのです。
たとえば、献金ならば多くの金額が捧げられることが素晴らしい信仰であると言った先入観です。そして、この時に多くの金額というのは、まさしく額面であって、大金が捧げられると、その人は素晴らしい信仰の持ち主であるかのように思ってしまう価値観です。しかし、イエス・キリスト様は、この女がその乏しい中からあらゆる持ち物、その生活費の全部を捧げたと言うことを見抜いておられました。もちろん、イエス・キリスト様は神の御子であらせられますから、なんでもかんでもお見通しであったと言うこともできます。けれども、必ずしもそれだけではありません。42節に「ひとりの貧しいやもめが来て」とありますから、イエス・キリスト様、ちゃんとそのやもめのことを見ておられたのだろうと思うのです。なにも、彼女の財布の中身をのぞき込まなくても、彼女の身なりや動作、立ち居振る舞いを見ておられた。だからこそ、彼女が自分の持っているものの全てを捧げ、生活費全部を捧げたのだと言うことがわかったのだろうと思うのです。
相手のことを心にかけ、相手のことを思い、想像力を働かせるならば、その人のことを思いやって挙げることは出来ても、虐げるようなことはしません。きっと相手のことがわかってくる。自分の価値観や物の見方といった先入観や偏見に破産して、キリストの目を持って相手を見つめ、相手のことを思う想像力があれば、きっと私たちが、神の民を神の家族を、また神が愛しておられるこの世にある全ての人を虐げるものにはならないだろうと思うのです。私は、今日のこの礼拝の説教を、どの方向に向って進路を取ればよいかと言うことがわかれば、今度はどうやってその方向に向って進んでいかなければならないかと言うことを考えなければなりません、という問題提起から始めさせて頂きました。つまり、謙遜とヘりくだりの生涯を生きるという生き方の方向性を見出したとして、ではどうやって謙遜な者、へりくだった者となるのかと言う問題です。そして、今日の聖書の箇所が、献金ということを取り扱っていることから、献金と言うことは献身であると言うことをお話しさせて頂きました。つまり神のみ業に参加すると言うことです。この神のみ業に参加すると言うことは、まさにキリストの謙遜とへりくだりを生きると言うことだろうと思います。そして、それはキリストの目を持って物事を見ると言うことであるとも言えるだろうと思うのです。
もちろん、私たちは、不完全な人間ですから、完全にイエス・キリスト様の目線になりきることは出来ないかもしれません。しかし、イエス・キリスト様が、この貧しいやもめのことにしっかりと目を留め、彼女のことに思いをめぐらせたような想像力を持つならば、私たちもきっと、人となるまでにへり下られたキリストの生き方に倣うことが出来るだろうと思うのです。ですから、どうやって謙遜な者、へりくだった者となるのかと言う問題に対する答えは、相手のことを心にかけ、相手のことを思い、想像力を働かせると言うことになるだろうと思うのです。私たちの教会の中にいる一人一人に思いをはせ、また私たちの生活の場で私たちの周りにいる人のことを思いやる、たとえば、それは聖書の言葉でいうならば「この小さき者にしたことはわたしにしたことである」と言えるだろうと思います。たとえばそれは、教会の中では子どもたちがもっとも弱い立場に置かれている人の一人だろうと思います。その子どもたちに、大人のクリスチャンの価値観や物の見方ではなく、彼らをイエス・キリスト様がどのように見ておられるのか、それを思いめぐらせて接するならば、自然と、私たちが教会に与えられている子どもたちに対する、立ち振る舞い、接し方というのが生まれてくるだろうと思うのです。
まさに、私たちが豊かな想像力を働かせて、キリストの目を持って人々を見ようとするならば、イエス・キリスト様が謙遜でへりくだり、上に向って生きたのではなく、下に向って生きられたように、私たちもキリストに倣って下に向って生きていく生き方ができるようになるだろうと思うのです。そしてそれこそが、神に向き合う姿勢、つまり霊性と言うことだと言えます。
今日は聖餐式がこれからもたれます。この聖餐の霊性と言うことに対して、クスタボ・グティエレスというカトリックの司祭がこのようなことを言っています。このグティエレスはラテン・アメリカで政治的に虐げられている人々たちと共に住む中で「解放の神学」というものを提唱した人ですが、このような内容のことを言うのです。要約して言いますが、「聖餐は、イエス・キリストが私たちの弱さや苦しみと連帯して下さったことである。だから、その聖餐に預かる私たちもまた、弱い人達の弱さや苦しみに連帯することなのだ。それが聖餐の霊性である」今日、これから私たちは聖餐に預かります。この聖餐に預かる私たちは、豊かな想像力を持って、キリストの目で、お互いのことを思い、また私たちの周りにいる人々を思いやる者ならなければならないと言うことです。そして、そのような形で、共に生きていくところに教会の本来の姿があるのです。
お祈りしましょう。