『時を見る目』
マルコによる福音書13章1−8節
2007/7/8 説教者 濱和弘
賛美 11、354、308
さて、今日からマルコによる福音書の13章に入って参りますが、このマルコによる福音書は、私たちが税書を読む中でなかなか手強い相手であります。と申しますのも、この13章には、この世の終り、破滅、つまりは終末の出来事が記されているからです。言うまでもありませんが、この世の終りというものは、未だ誰も経験したことがありません。ですから誰も見たことのない出来事です。誰も見たことのないものを表現すると言うことは本当に難しいことであり、ほとんど不可能に近いことです。小説や映画にはサイエンス・フィクション、いわゆるSFと呼ばれる分野があります。未来のことや、遠い宇宙の出来事などを、小説や映画の世界の中で表現するものです。これらも、見たことのない未来のことや遠い宇宙のことを描くわけですから、色々なことを空想してそれを描き出さなければなりません。しかし、そう言った空想も、何もないところから出てくるわけではありませんから、今まで見聞きしたことを元にして想像しながら物語を作り上げていきます。そういった意味では、イエス・キリスト様が、この世の終り、世界が破滅すると言った出来事について語られるときも、少なくとも聞いている人たちが何らかの形で想像できるようにしながら離さなければなりません。
そういった意味で、イエス・キリスト様は、エルサレムにある神殿が崩壊するといった出来事を題材にして、この世の終りと言うことを弟子たちに教えら始められるのです。今日の聖書箇所のマルコによる福音書の13章1節において、弟子の一人がイエス・キリスト様が宮から出て行かれるときに「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、何という立派な建物でしょう」とそう言います。この「なんという見事な石、何という立派な建物でしょう」という言葉が指し示している建物はエルサレムにある神殿のことです。このエルサレムの神殿は、紀元前20年にヘロデ大王によって作り始められたもので、紀元前9年頃までには、大体の部分作り終わっていましたが、その後も工事は引き続き行われており、最終的には着工から完成まで64年かかったほど、手の込んだ、壮麗な神殿であったようです。その規模も、紀元前10世紀頃にソロモンが建てた神殿よりも、高さで2倍から3倍の50mもあったといわれます。そして、そこに用いられた石柱は長さ13m、高さ4m、幅6mの一枚岩から作られたものであったと言いますから、イエス・キリスト様の弟子が「なんという見事な石、何という立派な建物でしょう」と言ったのもうなずけます。
きっと、この弟子の一人だけでなく、弟子たち全員、またこの神殿を見た人たちは誰もが、この壮大で壮麗な神殿は、永久にここに立ち続けるのだろうと思っただろうと思います。それほど立派な建物だったのです。もちろん、どんなに立派な建物でも、永久に立ち続けると言うことはありません。必ず朽ち果て倒れるときが来るのです。けれども、このエルサレムに神殿は、ただ時間と共に朽ち果てるというような形で崩れていくのではない、突然の悲劇的な最後を迎え崩れ落ちます。それは、紀元70年にユダヤが、当時ユダヤ・パレスティナ地方を治めていたローマに対し独立をもとめて反乱を起したいわゆるユダヤ戦争の結果、あの壮大な神殿は、ものの見事に廃墟となってしまったのです。現在もエルサレムに参りますと、そこに神殿が建っていたところには、岩のドームと呼ばれるイスラム教のモスクがありなす。そして、この聖書の箇所にある神殿の名残りは、嘆きの壁と呼ばれる西壁部分だけになってしまっています。それほど見事に破壊されてしまったのです。
そういった意味では、イエス・キリスト様が、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう。」という言葉は、第一義的には、紀元70年のユダヤ戦争によって、エルサレムに神殿がこわされるとことを意味していたと言うことができます。しかし、そのローマに帝国によって神殿が破壊されると言う予言は、単にそれだけでなく、そのことを通して、やがて来る、見たこともないこの世の終り、世界の破滅と言ったことを、人々に終えておられるのです。つまり、この神殿が崩れ去ることによって引き起こされることが、この世の終りの出来事を知る鍵になると言うことです。実は、エルサレムの神殿が崩れ去ると言うことは、イスラエルの人達には経験ずみのことでした。そして、神殿が崩壊するときに何が起るかと言うことを、彼らは歴史を通して知っていたのです。と申しますのも、先ほど申し上げましたソロモンの神殿は、紀元前587年にバビロニア帝国によって破壊されるという出来事があったからです。
ソロモンの神殿が破壊された後、何が起ったのかと言いますと、イスラエルの民がバビロニア帝国に捕われの身として連れ去られる、歴史でいうバビロン捕囚と言う出来事です。バビロン捕囚は、実際には神殿崩壊前の紀元前597年から始まっていますが、この時はイスラエルの王エホヤキンが退位させられ、その家族と一部の廷臣たちとともにバビロンに捕われて行っています。そして、583年の神殿の破壊と共に、エルサレムに残っていた上層階級の人々や有力者たちが、バビロンに連れて行かれたのです。そういった意味では、バビロン捕囚を経験したほとんどのイスラエルの民は、エルサレムの神殿が破壊されると同時に、異国に捕えられていかれたのです。そして、そこで、辛く長い時を過ごさなければならなかったのです。やがて、そのバビロン帝国もペルシャによって滅ぼされます。そのことによって、イスラエルの民は、捕われの身として留めおかれていたバビロンの地から解放され、自分の祖国に帰ることができました。こうして、長い捕囚の期間から解放されるという救いの出来事を経験したわけです。
実は、イスラエルの民がこのバビロン捕囚から解放されるという出来事は、預言者イザヤを通してずっと前から預言されていたことでした。イザヤ書というのは、イスラエルの民が神に背き、神から離れて自分勝手に生きていることに対して、神の裁きが下ると言うことを預言したものです。そして、イスラエルの民がバビロンに捕われると言うこともまた、イザヤ書に置いて預言されています。イザヤ書39章5節から6節です。そこにはこのように書かれています。「するとイザヤはヒゼキヤに言った。『万軍の主の言葉を聞きなさい。見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物すべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい。と主は仰せれます。またあなたの生む、あなたの息子たちのうち、捕えられてバビロンの王の宮殿で汗顔となる者があろう。』」このように、神の裁きとしてのバビロン捕囚語られると同時に、その裁きの後におこる救いの出来事が約束されるのです。イザヤ書44章26節から28節に、その救いの約束がこう記されています。
「わたしは、わがしもべの言葉をとげさせ、わが使のはかりごとを成らせ、エルサレムには『これは民の住むところとなる』と言い、ユダのもろもろの町については、『ふたたび建てられる、わたしはその荒れ地を興そう』と言い、また淵については、『かわけ、わたしは、あなたのもろもろの川を干す』と言い、またクロスについては、『彼はわが牧者、わが目的をことごとく成し遂げる』と言い、エルサレムについては『再び建てられる』と言い、神殿については、『あなたの基がすえられる』と言う」エルサレムには『これは民の住むところとなる』あるいは『再び建てられる』といわれ、ユダのもろもろの町については、『ふたたび建てられる、わたしはその荒れ地を興そう』といわれる。さらには、神殿については、『あなたの基がすえられる』と言われていることは、イスラエルの復興を意味している言葉です。そして、これはイスラエルのバビロン捕囚からの解放をも意味しているのです。ですから、イザヤ書45章13節で「『わたしは義を持ってクロスを起した。私は彼の道をまっすぐにしよう。彼はわが町を建て、わが捕囚を価のためでなく、また報いのためでもなく解き放つ』と万軍の主は言われる。」とも言われるのです
そして、預言者イザヤが語ったように、イスラエルの民は、587年の神殿崩壊と共に、バビロンの王ネブカデネザルによってバビロンに連れ去られ、その後ペルシャの王キュロスによってイザヤの預言通りに解放されるのです。イザヤは、大体紀元前750年以後の人ですから、イザヤの預言は実際に出来事が起る100年以上も前に語られていたことになります。このイザヤの預言と、実際に神殿が破壊されるという出来事の成就の背後にあるイスラエルの民のもつ経験は、辛い捕囚に時期とそこからの解放という救いの出来事なのです。ですから、イエス・キリスト様が、神殿が破壊されると言うことをお語りになったとき、弟子たちを初めとし、イスラエルの人々が心に思い浮かべるできごとがあるとしたら、神の裁きとしてのバビロン捕囚とそこからの解放の出来事であると言っても良いだろうと思います。だからこそ、弟子たちは、イエス・キリスト様に「わたしたちにお話し下さい。いつそんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」とたずねたのだろうと思うのです。
この時、弟子たちは神殿が破壊されるという出来事だけでなく、自分たちの民族が経験した苦難の歴史を思い出しながら、そのような苦難が再びやってくると言う思いで、イエス・キリスト様にたずねたのではないかと思います。それに対して、イエス・キリスト様は次のようにお答えになっておられます。5節から8節です。「人に、惑わされないように気をつけなさい。多くの人がわたしの名によって現われ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らなければならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、また飢饉が起るであろう。これらは産み苦しみの始まりである。」「多くの人がわたしの名によって現われ、自分がそれだと言って人を惑わすであろう」というのは、偽預言者や偽キリストのことを指すのだろうと思います。そして戦争の噂や地震や飢饉といったものは、天変地異のような出来事ですが、この言葉は、何となく現代の世相に似ているような感じがします。
確かに、偽預言者と思われるような人が教会の中に現われ、問題を起すケースを耳にします。最近でも滋賀の方で問題を起した牧師の話がニュースで流されましたし、韓国発祥のキリスト教系の新興宗教の教祖が中国で捕まったというニュースも聞きました。また、皆さんのお宅にもエホバの証人の人たちが一度か二度は訪ねてこられたと思いますが、彼らの指導者たちは、昔は自分たちは預言者だと言っていた時期があるのです。また、日本ではすっかり有名になった統一協会の教祖などは、自分は再臨のキリストであると言っているのです。これらは、まさにここで言う偽預言者であり、偽キリストであると言えます。また戦争の話は絶えませんし、地震や飢饉の話、特に自身の話はよく耳にしますし、実際世界では食糧不足なのも確かにその通りなのです。そんなわけで、今こそまさに、世の終りがいつ来てもおかしくないと言うふうに言われる声も聞かないわけではないのですが、しかし、考えてみますと、「今の世相を見ると、世の終りは近い」などと言う言葉は、私がクリスチャンになった30年前からずっと言われていることのように思います。
実際、このイエス・キリスト様がお語りになったような状況「偽預言者や偽キリストの出現、戦争の噂、地震や飢饉」といったことは、どの時代でも似たようなことあったわけで、だからこそ、どの時代であっても、ここから世の終りは近いと言おうと思えば言えるのです。そういった意味では、この5節から8節まで語られたイエス・キリスト様の言葉は、どの時代にも当てはまるような言葉なのです。しかも、イエス・キリスト様の御言葉は、「それらは起らなければならないが、まだ終りではない」であり「これらは産みの苦しみの始めである。」というものです。ですから、この聖書にあるイエス・キリスト様の御言葉をもって、即、もう世の終りが来るとか、世界は破滅するなどと言って騒ぎ立ててはいけませんし、浮き足立つ必要もありません。だとすれば、どうしてどの時代に当てはまるようなことを、あえて前兆としてイエス・キリスト様はお語りになられたのでしょうか。いったい、私たちは、このイエス・キリスト様の御言葉から何を読みとっていけばいいと言うのでしょうか。
それは、おそらくは、私たち一人一人が、今ここで生きている時代がすでに終末の時代なのであるから、クリスチャンとして心して、神の約束に目を向けて生きていかなければならないと言う警告の意味が込められているのではないかと思うのです。と申しますのも、この神殿が破壊されると言うことは、第一義的には、エルサレムの神殿が破壊されると言うことですが、それに重ね合わされるようにした別の意味があると思われるからです。その別の意味を見出す鍵は、ヨハネによる福音書の2章19節のイエス・キリスト様の言葉にあります。そこにはこうあります。「この神殿を壊したら、わたしは三日の内にそれを起すであろう。」このとき、イエス・キリスト様の言われた神殿とは、イエス・キリスト様ご自身のことです。それは、同じヨハネによる福音書の2章21節、22説に「イエスは自分の体である神殿のことを言われたのである。それでイエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉を信じた」とあるからです。このように、神殿が壊されると言うことは、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の意味があるのです。そのイエス・キリスト様の十字架と復活の出来事は、神の救いの新しい約束が私たちにもたらされた出来事でありました。
先週、私たちは聖餐式を持ちましたが、私たちの教会では、聖餐のパン杯が分散されるとき、これはキリストの肉です、また、これはキリストの地ですとそう告げて分散します。そして、パンを食するときにはこれは、「私たちの為に割かれたキリストの体です」と言って、一斉にパンを食し、杯は、「これは私たちのために流された新しい契約の血」ですといって、一斉に杯を飲み干します。それは、イエス・キリスト様の十字架の死がまさに、わたしたちにとって神の救いの約束をもたらすものだからです。そして、その救いをもたらす約束が与えられたと言うことは、同時にこの世の終りは、すでにそこから始まっていると言うことです。少し厳しい言い方をすれば、イエス・キリスト様が十字架に架けられたことによって、すでに裁きが始まっているというふうに言っても良いだろうと思います。つまり今日の聖書の言葉で言うならば、産みの苦しみが始まっているのです。
まさに、イエス・キリスト様が十字架で死なれるという神殿が崩れ落ちる出来事によって世の終りの時代が始まったのです。だから、その前兆である「多くの人がわたしの名によって現われ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らなければならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、また飢饉が起るであろう。」という言葉は、十字架と復活の後のいつ時代の状況にもあてはまるのです。もちろん、「最後の審判」と言われているような決定的な終りの時は、いつかはわかりません。それはまだ先のことかもしれませんし、近い将来のことかもしれません。しかし、今、確かなことは、私たちは、そのような決定的な終りの時に向って進んでいる世の終りの時代、つまり終末の時代を生きていると言うことです。
ですから、私たちは今、そのような時代に生きているのだと言うことを見抜く目を持っていなければ成りません。まさにイエス・キリスト様という神殿が破壊されたときから、神の裁きが始まっているのです。 それは、ちょうどソロモンの神殿が、バビロンの王ネブカドネザルに破壊されたのちに、神の裁きとして、イスラエルの人々がバビロンに囚われの身となって連れていかれた物語に重なり合います。そのように、私たちは、今すでに神の裁きの中を生きているのですから、しっかりと神を求めながら生きていかなければ成りません。なぜなら、あのバビロン捕囚は確かにイスラエルの民にとっては辛く苦しい時代ではあったのですが、今日、私たちが説教の前半で見てきましたように、そのような中にあっても神の救いの約束が与えられていたからです。つまり、あの捕囚の苦しみは神の救いの約束に至る産みの苦しみでもあったのです。同じように、イエス・キリスト様の十字架の死という、キリストの体である神殿が破壊された後の「産みの苦しみ」の期間にも、十字架によってもたらされた救いの約束があるのです。
そのようなわけですから、今、私たちの生きている時代がどんな時代であって、またどのようなことが起ってきても、イエス・キリスト様の救いの約束を持って希望を見出して生きていきたいと思います。そして、私たちがどんなに苦しい時を過ごしていたとしても、その時の背後にあるイエス・キリスト様の約束を信じて、歩んでいく者でありたいと思います。例えば、今日の聖書の箇所の9節以下に記されていることは、実際にイエス・キリスト様の弟子たちが経験したことです。そこには、「あなたがたは、私のために、祝儀書に引渡され、会堂で打たれ、長官や王たちの前に立たされ、彼らに対して証をさせられるであろう、」「また兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえに、全ての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」こう言ったことをイエス・キリスト様の弟子たちが経験したのは、彼らの罪が裁かれたから苦難にあったのではありません。むしろ、イエス・キリスト様の十字架によって裁きがすでに始まっているからこそ、福音を宣べ伝へ、一人一人の心の中に神の国を産み出す、産みの苦しみを味わっているのです。そして、この世にある全ての人が、この神の裁きを受けなければならないからです。
そして、そのようなこの世にある全ての人が裁かれるからこそ、神を信じる神の民は、自らの苦悩を通して、神のもたらす希望の約束を語っていかなければならないのです。そうやって、あのバビロン捕囚の時ときとは事情が異なってはいますが、しかし、神を信じる民の苦しみが、約束をもたらすのです。その神の民である、私たちの苦しみを通して語られる福音によって伝えられていく希望の約束は、私たちの努力や頑張りではなく、聖霊の業によってなされる業です。11節に「そして、何をいおうかと、前もって心配するな。その場合。自分に示されることを語るがよい。語るのはあなたがた自身ではない。聖霊である」とあるからです。この言葉は、裏を返せば、どんな困難なときであっても、聖霊なる神は私たちと共にいて下さると言うことを意味しています。
私たちは、イエス・キリスト様の弟子たちが味わったような直接的な迫害を受けているわけではありません。けれども、色々な場面で悩み、葛藤し、苦しみます。それは子育てという場面で起ることであったり、仕事上の場面で起ることであったり、健康上の問題で起ること出会ったり、人間関係の場面で起ったりする者です。そんな時、神様なぜですかとそう叫びたい気持ちになりますし、神様これでは正義が通りませんと訴えたい気持ちになります。けれどの、そんな時に、まさに「時を見る目」をもって、そのような苦しみや辛さの中にも、神の救いの約束が貫かれていて、それは確かに私たちの救いの出来事に導いていって下さるのです。今の苦しみは苦しみだけで終わるのではありません。どんな苦しみの中にでも、「最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。」神様は天国の門を開いて私たちを待っていて下さいます。そして、キリストの御霊である聖霊様は私たちと共に歩んで下さり、天のみくにという、主イエス・キリスト様が十字架で死なれことでもたらされた約束を確かな者として下さるのです。だからこそ、私たちは、どんなに弱い私たちであったとしても、イエス・キリスト様を信じ、見上げながら歩いていきたいと思うのです。
お祈りしましょう。