三鷹教会のロゴ メッセージ

羊飼い 『心を備えて』
マルコによる福音書13章14−37節
2007/7/22 説教者 濱和弘
賛美  3、21、324

先々週は、マルコのよる福音書13章1節から13節からお話しをさせて頂きましたが、今日はその続きの14節から37節までのところから「心を備えて」というタイトルで御言葉を取り次がせて頂きたいと思っています。「心を備えて」というタイトルは、神の裁きの時に対して「心を備えて」と言う意味です。「神の裁きの時」というと何だか恐ろしい感じがしますが、そうではありません。神を信じる者にとって「神の裁きの時」は「神の救いの時」でもあるからです。イエス・キリスト様が十字架に架けられ死なれたことによって始まった救いの業が、やがてくる「神の裁きの時」に完成し、神を信じる民は、死んだ者も生きている者もみな神の栄光の御国に入れられるからです。ですから、「神の裁きの時」は、神を信じる私たちにとっては希望の時でもあるのです。

この、神の裁きの時、それは終末と言う言葉で言い表されますが、先々週ももう仕上げましたように、イエス・キリスト様はこのマルコによる福音書13章に置いて、やがて来る終末の出来事を、私たちに良くわかるように、過去に起った出来事や、近い将来経験する出来事を通しながら、それがどのようなものであるかを弟子たちにお教えになりました。そして、今日の聖書の箇所の14節から23節は、その過去の出来事や近い将来に起る出来事を取上げながら、やがて来る終末の時、神の裁きの時でありこの世の終りの時に対して、しっかりと心を備えていなければならないと言うことを教えられるのです。

そこで、今日の聖書の箇所の箇所は、次のようなイエス・キリスト様の予言の言葉で始まります。「荒らす憎むべき者が、立ってはならぬ所に立つのを見たならば、(読者よ、悟れ)、そのときは山に逃げよ。屋上に居るものは、下におりるな。また、家からものを取り出そうとしているものは内にはいるな。畑にいる者は、上着を取りにあとにもどるな、その日には、身重の女と乳飲み子を持つ女とは、不幸である。この事が冬起らぬように祈れ、その日には、神が創造の初めより現在に至るまで、かつてなく、今後もないような患難があるからである。もし、主がその期間を縮めてくださらないなら、救われるものはひとりもいないであろう。しかし、選ばれた選民のために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、『見よ、あそこにキリストがいる』といっても、それを信じるな。偽キリストたちや、偽預言者たちが起って、しるしと奇跡を行ない、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。だから気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。」

この予言は、極めて近い将来に、ローマ帝国によって現実のものとなりました。14節にはカッコ書きで「(読者よ、悟れ)」と書いてあります。それは、イエス・キリスト様の直接の言葉ではなく、聖書記者であるマルコがカッコ書きにして書き加えた言葉です。マルコによる福音書は大体紀元50年頃に書かれたものだろうと考えられています。この紀元50年前後には、例えば、皇帝カリギュラによって、ユダヤ人にもローマ帝国の至るところで、皇帝礼拝に参加すること強制し、ユダヤ人がこれに従わないために、ユダヤ人に対する厳しい格外が加えられたため、ユダヤ人の怒りや反発を買っていました。またローマの一兵士のみだらな行ないによって、エルサレムに反乱が起き、ローマの総督が武力でこれを鎮圧すると言った事件がありましたし、その他にも小さな反乱や騒動が起っていたのです。そして、そのような中で反ローマ帝国の地下組織が造られ、メシヤが現われると言った期待の中で不穏な雰囲気が漂っていたのです。

ですから、マルコがそのような不穏な空気から、やがてローマ帝国とユダヤ人の間で大きな争いが起ることが予測していたのかもしれません。そして、そのことをイエス・キリスト様の言葉と重ね合わせながら、(読者よ、悟れ)と書き加えたのかもしれないのです。もちろんこれは、単なる私の個人的憶測にしか過ぎませんから、それが事実であると言うわけではないのですが、そのような思いにさせられるほど、このカッコ書きの「(読者よ、悟れ)」と言う言葉は、もうそこに、危機が迫っているといった迫感を私たちに伝えてくれます。そして実際に、このマルコによる福音書が記された十数年後、第一次ユダヤ戦争と呼ばれる大規模なユダヤ人の反乱が起こり、エルサレム包囲されてしまい、紀元70年に、エルサレムの町は完全に陥落してしまったのです。その時に、ローマ帝国の提督であったティトゥスによって、エルサレムの神殿が焼け落ちてしまったのですが、この時に、ローマ軍の兵士達は、神殿の前庭に軍旗を立てて、それに向って犠牲を捧げたといいます。またヨセフスという人が書いた「ユダヤ戦記」によりますと、大祭司以外はいることのできなかった神殿の至聖所にティトゥスがは入ったと言うことが記されているのです。

ですから、そういった意味では、まさに「荒らすべき憎む者が、立ってはならぬ所に立つ」といわれるような出来事が起り、神殿が汚されるといった出来事がおこったのです。この第一次ユダヤ戦争で、エルサレムの町はローマ軍によって包囲されましたが、包囲された町の中は、飢饉と伝染病で悲惨な状況だったようです。また、勝利者たちはエルサレムの町を略奪し破壊して多くの人を殺戮したようです。そのような悲惨な状況に終末の出来事が重ねせさながら、イエス・キリスト様はやがて来る神の裁きの時を語られるのです。それは、私たちの罪に対して下される神の裁きの厳しさ、恐ろしさを伝えるには十分な状況なのです。けれども、そのやがて来る神の裁きの時の厳しさ恐ろしさも、「荒らす憎むべきものが立つのを見たならば(読者よ、悟れ)」という言葉によって、希望の光が与えられます。なぜなら、一般的には、この「荒らす憎むべき者が、立ってはならぬ所に立つ」ということは、多くの注解者が、ローマ帝国の提督ティトゥスのことではなく、紀元前167年にセレウコス朝シリアの王アンティオコス四世・エピファネスという王が、ユダヤ人が汚れた動物であると考えていた豚の血をエルサレムの神殿に捧げたこと関係づけて考えているからです。

ですから、「荒らす憎むべき者が、立ってはならぬ所に立つ」ということばによって、ローマ帝国がエルサレムを陥落させ、ローマの提督ティトゥスが大祭司以外は入れない至聖所に入り、ローマの兵士達が、神殿の前庭でローマ軍旗に犠牲を捧げると行った神殿を汚す行為が、それよりも237年も前のアンティオコス四世・エピファネスの出来事と関連づけられているのですこのアンティオコス四世・エピファネスによって、ユダヤの人々は神を礼拝することを禁じられ、安息日や割礼の規定を守ることを禁じられたりしました。また神に祈りを捧げる事も禁じられ、聖なる書物も火にくべさせられたのです。そして、その代わりに国内の至るところにゼウスの祭壇が築かれるという事があったのです。このようなアンティオコス四世・エピファネスの宗教弾圧は、神の選びの上に立つ宗教国家であるイスラエルにとっては、まさに終末的な出来事であったといえます。しかし、このような宗教弾圧に対して一人の人が起されます。それは、マッテアという人で、聖書の神を礼拝することを禁じ、ゼウスに犠牲を捧げるように命じた命令に従わず、反乱を起すのです。このマッテアの反乱は、マッテアの死後、彼の三男マカベヤに受け継がれ、結局マカベヤは、再び神を礼拝する自由を勝ち取ったのです。

ですから、このマカベヤの勝利は、宗教国家としてのイスラエルが、自分たちの神である聖書の神を礼拝することを禁じられるという宗教国家としてのイスラエルの存亡の危機を救った出来事だと言えます。このことを記念するのがユダヤ人たちのハヌカというお祭りです。いずれにしても、「荒らすべき憎む者が、立ってはならぬ所に立つのを見たならば」というイエス・キリスト様の言葉は、その言葉を直接聞いている人々にこの、アンティオコス四世・エピファネスによる神殿陵辱の出来事とマッテアとマカイオスによる回復の出来事を、思い出させるものでした。つまり、この14節から23節に記されているローマ帝国によるエルサレム滅亡の出来事に重ね合わされているこの世の終り、終末の時のも、一人の人が起されると言う期待が、そこにあるのです。

聖書のマルコによる福音書14章24節から27節には次のように記されています。「その日には、この患難の後、日はクラクなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体はゆり動かされるであろう。そのとき、大いなる力をもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。そのとき、かれは御使い達をつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。」この人の子が雲の乗ってくるという出来事は、まさに終末の時、神の裁きの時に、イエス・キリスト様が雲に乗ってこられる再臨の様を語っているものです。そして、イエス・キリスト様が再臨なされ、御使いたちを使わし、地の果てから天の果てまで、四方から選民を呼び集められるというのです。

この選民というのは、民族的意味でのユダヤ人のことではありません。イエス・キリスト様を救い主として信じた、新しい霊のイスラエル、つまりクリスチャンの事を指しています。そして、このように御使いたちによってクリスチャンが呼び集められるのは、神の裁きを受けるためではなく、神の子とされた栄光を受けるためなのです。聖書は、イエス・キリスト様を信じクリスチャンとなったものは、神の子とされると書かれています。その箇所を見てみたいと思いますが、ヨハネによる福音書1章12節です。「彼を受け入れたもの、すなわちその名を信じた者(これはイエス・キリスト様を救い主と信じ受け入れた人のことですが、その人たちには)には、彼(イエス・キリスト様)は神の子となる力を与えたのである。」この箇所は、新改約聖書では、このようになっています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。」

「神の子となる特権が与えられる」というのでは、若干ニュアンスが違った感じがしますが、私は、特権があたられるという言葉のニュアンスの方が良いように思います。というのも、私たちは、ただ神の恵みによって神の子とされるのですから、それは自分の力によって得たものではない特別な恵み、まさに特権に預かっていることだからです。神の子とされると言うことは、何という光栄なことかと思うのですが、しかし、イエス・キリスト様を信じる信仰によって神の子とされると言われましても、現実に生きている私たちは、けっして神の子と呼ばれるにふさわしいものではありません。実際の私たちは、クリスチャンであると言いながら、相変わらず人の悪気地を言ったり、妬みや嫉妬に身を焦がしたりします。自分に嫌なことをする人は憎むこそすれ愛することなどできません。許そうと思ってもなかなか赦せなかったり、仮に赦したとしても、取りあえず相手の頭を一発ごつんとやって、少しせいせいしてから、相手を赦すといったことがあるのではないでしょうか。そして、どうしても、どこかで自己中心的な思いが首をもたげてくる。人のことよりもまず、自分の都合が優先してしまう。

正直、私自身の中にこのようなことがあるからこそ、すらすらとこのような言葉が出てくるのですし、皆さんにも、そういった一面があるのではないだろうかと思うのですが、どうでしょうか。神の子という言葉は、即座にイエス・キリスト様を思い出させます。イエス・キリスト様の歩まれた御生涯を聖書の中の福音書をたどってみながら、自分の現実の姿比べてみるならば、私は、とても神の子とは言えるものではないと思うですが、それは皆さんも同じではないでしょうか。イエス・キリスト様と比べると、私たちはあまりにも欠けが多い不完全なものなのです。しかし、聖書は、イエス・キリストを自分の救い主として信じるものには神の子として下さるというのです。現実の姿に置いてはとても神の子とは呼べないかけだらけなものなのですが、けれども神を信じ、キリストを信じる信仰に置いては完全な神の子であると、そう神は言ってくださっているのです。

現実に生きている自分の姿を見ながら、「さぁ、神の裁きの時が来た。」といわれたならば、神の裁きの前に、震え上がり恐れおののかなければ成りません。それこそ、ここに救いある、あそこに助けがあるといわれれば、いってそれにすがりつきたいような気持ちになります。けれども、あわてなくてよいのです。なぜなら、神を信じ、イエス・キリスト様を救い主として信じ受け入れたものは、どんなに現実の姿が神の子と呼ばれるにふさわしくないみじめなものであったとしても、信仰に置いては完全なものだからです。そして、イエス・キリスト様の再臨の時には、現実において不完全な自分と、信仰において完全な自分が、全く一つにされて、現実に置いても信仰に置いても神の子と呼ばれるにふさわしいものにしていただく事が出来るのです。ですから、大切なことは、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。」という、イエス・キリスト様のお約束を堅く握って生きていくことなのです。

28節から37節は、その神の裁きの時はいつ訪れるかわからないということが述べられています。28節には「いちじくの木から、この譬えを学びなさい。その枝が柔らかくなり、葉が出るようになると、夏が近いことがわかる。そのように、これらの事が起るのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」とあります。また、32節には、「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使いたちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。」ともあります。この神の裁きの時はいつ訪れるかわからないのですが、しかし、このマタイ13章に記されている様々な前兆が見られたならば、いついつ、この時と明示することはできなくても、近いうちに必ずやってくるのです。そして、このような前兆は、イエス・キリスト様の十字架と復活以後、歴史の中でくり返し見ることが出来るものです。それはつまり、私たちは、イエス・キリスト様の救いの始まりから完成の時という二つの点に間に、ピンと張られた糸の上を生きているということなのです。

だからこそ、私たちは心して目を覚ましていなければなりません。それは、私たちの信仰の目を覚ましていると言うことです。信仰の目を覚まして神の約束を信頼すると言うことなのです。イエス・キリスト様は「天地は滅びるであろう。しかし私の約束は滅びることはない。」といっておられます。それは、イエス・キリスト様の約束は信頼するに足るものであるということを、保証しておられる言葉です。そして、その保証は、イエス・キリスト様の十字架の死が担保しているのです。ですから、私たちがイエス・キリスト様の言葉を信じ、信仰の目を見開いて、私がどんなに欠けの多い不完全なものであったとしても、その私が、信仰に置いては完全な神の子なのだという人口の事実を見続けるならば、私たちは、イエス・キリスト様の再臨の時に神の国に、神の子として迎え入れられるのです。神の裁きの時に、きちんと心備えをしておくということは、自分がイエス・キリストを信じる信仰のゆえに、完全に神の子とされたのであるという信仰の事実をしっかりと確信を持って、日々生きていくと言うことなのです。

そして、それはとても大切なことなのです。というのも、私たちは現実の自分の姿の不完全さのゆえに、絶えず、今に自分では、神の救いにふさわしくないのではないかという不安に駆られるからです。そして、そのような恐れを惑わすものは見事についてきます。今のあなたのままではダメだ。だから頑張ってこのようなことをしなさい。このような聖い生き方をする人にならなければ成りませんといわれると、本当にそうだと思ってしまうのです。確かに、たくさんの奉仕ができることはそれはそれで素晴らしいことです。聖い生き方が良いということは、誰にでもわかることです。だから、私たちは、聖い生き方をしたいし、それを求めていきたいと思います。それは決して悪いことではありません。むしろよいことなのです。けれども、たくさんの奉仕をしていることが神の裁きに対する備えではありません。また聖い生き方をしていること、聖い生き方を求めて生きていることが、終末の時代を生きるための心備えではないのです。

もし、神の裁きの時がいつ来るかわからないから、しっかりと目を覚まして心備えをしておきなさいと言うことを、このように、しっかりと奉仕をし、聖く生きていなさいということと結び付けてかたられたならば、本当に信仰生活は苦しいものになるだろうと思います。宗教改革者のマルティン・ルターは、神の裁きが恐ろしく、人よりも多く断食をし、自分の罪の悔い改めを懺悔を、自らの生活を律し修道生活生きていても、その恐れと不安は消えることはありませんでした。というのも、ルターが学んだ神の救いというのは、人間が十分に頑張って、神に認められるにふさわしい生活をしたならば、神は受け入れて下さるという中世カトリック教会にあったオッカニズムという考え方にもとづくものでした。けれども、そんなに頑張っても心に平安はなく、心が休まらないのです。というのも、どんなに懺悔をしても、自分が知らないおかした罪、忘れてしまったがあるならば、懺悔のしようがないからです。中世カトリック教会では、懺悔をし、司祭から罪の赦しの言葉をもらい、その罪に対する償いの行為をしないければ、その罪赦は赦されないと教えていたからです。

ですから、ルターは頻繁に罪を告白し懺悔をしていました。ある時など、懺悔をし終わって部屋に帰ろうとしたときに、まだ告白していない罪を思い出したので、そこから引き返してもう一度懺悔をしたというようなことさえあったのです。そのようなことをしたのは、今、再臨が起り、神による罪の裁きがあったならば、まだ赦されていない罪があるならば、自分は神に裁かれてしまうという恐れからでした。そのような、信仰生活は、決して心に平安が訪れることはありません。不安と恐れしかないのです。しかし、神の裁きの時に対する本当の心備えは、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事に担保された神の約束を信頼することです。そして、何かをしなければとあくせくすることなく、その約束に対する信頼を持って、イエス・キリスト様の約束の言葉を握って、心ゆるやかに生きることです。さきほどの、マルティン・ルターもそのこと気が付きました。そして、そこから、彼の生き方が変わり、心の中にあった恐れや不安はなくなったのです。

みなさん、私たちは今、やがて来る終りの時に向って今を生きています。その日はいつかわかりませんが、必ずやってきます。けれどの、神を信じイエス・キリスト様を信じクリスチャンとなったものに対しては、その時は決して恐ろしい時ではありません。むしろ、私たちは、神を信じ、イエス・キリスト様を信じ受け入れたその信仰によって、裁きから救われ、神の子として天国に迎え入れられるのです。ですから、その約束を信じ、信仰生活を喜びを持って生きたいと思います。それこそが、私たちに求められている心備えなのです。

お祈りしましょう。