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羊飼い 『真の救い主の姿』
マルコによる福音書14章1−9節
2007/7/29 説教者 濱和弘
賛美  18、341、379

さて、私たちは、一昨年からマルコによる福音書を通して礼拝で神のお言葉に耳を傾けて参りましたが、今週から、そのマルコによる福音書の14章に入って参ります。このマルコによる福音書の14章は、次のような言葉で始まります。それはこのような言葉です。「さて、過ぎ越しと徐酵との祭りの二日前になった。祭司長たちや、律法学者たちは、策略をもって、イエスを捕えたうえ、何とか殺そうと計っていた。彼らは、『祭りの間はいけない。民衆が騒ぎ起すかもしれない。』といっていた。」この言葉は、過ぎ越しと徐酵との祭りの二日前には、すでに祭司長たちや、律法学者たちによってイエス・キリスト様が殺害される計画がかなり具体的に練り上げられ、それがすぐにも実行されるように緊迫した状況にあったことを私たちに告げています。ただ、過ぎ越の祭りの期間中は多くの人がエルサレムにやって来ているので、その時に騒動が起きても困るので、祭りの期間中だけ、計画が実行されるのが先延ばしになっている状態でした。

そのような緊迫した状況を伝えながら、マルコによる福音書は、ひとりの女が、イエス・キリストの足に香油を塗った物語を語り始めるのです。この物語は、ヨハネによる福音書12章1節によると過ぎ越の祭りの6日の出来事であったと記されています。そして、このひとりの女というのは、あのイエス・キリスト様によって死からよみがえさせられたラザロの姉妹であったマリヤであったようです。このラザロが死人の中からよみがえさせられたという出来事は、同じヨハネによる福音書11章に記されています。聖書の中の物語としては、かなり有名な話ですのでご存知の方も多いとは思いますが、かいつまんで言うと、次のようなストーリーになります。ベタニヤに住んでいたラザロとその女兄弟マルタとマリヤはイエス・キリスト様とは、親しい関係にありました。そのラザロが死直面するような重い病気にかかってしまいます。そこで、マリヤとマルタはイエス・キリスト様に助けを求めて使いを送ります。しかし、イエス・キリスト様がベタニヤの彼らの家に行くまでに、ラザロは病のために死んでしまうのです。愛する兄弟の死を嘆き悲しむマルタやマリヤ、また周りの人々の姿を見て、イエス・キリスト様は深く心を動かされて、死んで葬られ、三日も経っていたラザロをよみがえらせてくださったのです。

この物語は、死と言うものに対しての勝利なさるイエス・キリスト様のお姿を私たちに伝えています。そして、私たちにも、神を信じるものの死は、決して悲しみだけでは終わらず、やがてイエス・キリスト様が再び来られる再臨ときに、死からよみがえらされ天国において生きるものにさせられるという希望の出来事を暗示しています。そういった意味では、驚くほどの恵みとそれをもたらす神の恵みを伝えてくれています。そして、死という厳しい現実の中にも、神によって天国で生かされるという希望の出来事を伝えているのです。一昨日も、故藤塚健二兄の記念会を藤塚姉妹のお宅で持たさせて頂きました。藤塚健二兄弟が召されてから27年が経ちますが、こうして記念会を行いますと、確かに兄弟はこの地上での生涯は終わりましたが、しかし、キリストにあって、藤塚家のご家族の中に生き続けており、また、やがて来る再臨の時に、再び天国で合うことができるという希望を私たちにもたらしてくれます。

それは、イエス・キリスト様の十字架の死が私たちと神との間に深い溝を産み出していた罪に赦しを与え、私たちを神と和解させてくださったからです。そして、私たちと神との間を和解させ、私たちに神の命である永遠の命を与えて下さったのです。イエス・キリスト様が十字架に架けられて死なれ、墓に葬られたあと、三日目によみがえられたのは、そのことを具体的に私たちに示してくれています。そのような、神を信じるものに対する死への勝利と、復活の恵みと天国での永遠の命という希望を、このラザロの復活の出来事は示しているのです。そして、それは神を信じるものには等しく与えられている。イエス・キリスト様が生きていた時代から2000年たった、今の時代の、イスラエルの力は何万qも離れるこの三鷹の地に生きる、私たちにももたらされるものなのです。もちろん、そのような力強い希望は、そのラザロの復活を目撃したラザロの女兄弟であるマルタやマリヤを始め、多くの人々も捕えたことに違いありません。実際聖書は、このラザロの復活を目撃した多くユダヤ人たちがイエス・キリスト様を信じたと記しているのです。

そのような出来事があって、マリヤは高価なナルドの香油が入っている石膏の壺を割ってイエス・キリスト様の頭に注ぐのです。ヨハネによる福音書では、それを足に塗り自分の神でそれをふいたとも書かれています。このナルドの香油はヒマラヤ産のナルドという植物からとった香料からなる香油で、非常な高値で取引されたようです。そして、その通りマルコによる福音書は、この香油が300デナリ以上で売れる高価なものであったと言っています。300デナリと言いますが、1デナリが労働者1日分の労賃に匹敵しますから、人の約一年分の給料にもなるような金額のものです。それを、惜しげもなくイエス・キリスト様の頭に注ぎ、その高価な香油で足を洗ったというのですから、イエス・キリスト様に対して、できる限りのことをしてあげたいというマリヤの思いが伝わってきます。そして、その背景には、先ほどのラザロの物語がある。私たちに、神との和解をもたらし、死をも乗り越えさせ、神の国、永遠の希望をもたらすイエス・キリスト様への感謝と献身の気持ちがあふれているといっても良いだろうと思うのです。

ところが、その同じ出来事、つまりイエス・キリスト様がラザロを蘇らされた出来事を聞き、またそれによって、多くの人がイエス・キリスト様を信じ受け入れたという出来事を聞いた祭司長たちとパリサイ派の人たちは、それによって、イエス・キリスト様を捕え殺そうと相談し始めたというのです。そして、そのイエス・キリスト様を捕え殺害しようという相談は少なくとも、過ぎ越しと徐酵との祭りの二日前には、具体的な計画としてまとまっていたのです。そういった意味では、このヨハネによる福音書11章に記されているラザロのよみがえりといった一つの出来事は、二つの態度を産み出していると言えます。一つは、このマルコによる福音書の14章1節から2節までの祭司長、律法学者のイエス・キリスト様を殺そうとする態度と、3節から9節までの、高価な香油を注ぐという態度です。

このような、一つの行為に対して二つの異なった態度が見られるというのは決して珍しいことではありません。例えば、私はこの9月から6時間ばかりではありますが、聖書学院で教理史という講義の一部分を担当させて頂きます。それは、私がここ数年宗教改革と言うことを学んできたからでありますが、そのような学びをするきっかけは、以前、エラスムスという人について学ぶ機会があったからです。エラスムスという人は、まさに宗教改革の時代に生きた人ですが、この人は、プロテスタント側の人からも、カトリック教会側の人からも余りよく思われてはいません。というのも、彼は、プロテスタントの主張の多くを認め、また教会の改革の必要性を認めながらも、プロテスタントの立場に立たず、生涯カトリック教会に留まっていたからです。ですから、プロテスタントの立場からすれば、どちらつかずのコウモリのような存在であり、カトリック教会にしてみれば、カトリック教会にいながらプロテスタント教会と内通するもの、あるいはカトリックの立場に立つものとして凛として反プロテスタントの姿勢を見せない優柔不断なもののように見られていたのです。

しかし、実際の彼のなそうとしたことは、教会が二つに分れてしまうことによって起る様々な問題や争いを回避して、より穏健な形で教会の改革を目指していたのです。しかし、それぞれの立場や主張にたって物事を見るならば、それは全く違ったものに受け取られてしまいます。ですから、プロテスタントの立場からすれば、獣か鳥かわからないコウモリのようなどっちつかずの存在に映ったでしょうし、カトリックの立場からすれば、プロテスタントに通じるもの、あるいは優柔不断なものと思われても仕方なかったのかもしれません。それは、エラスムスという人物の実際の姿ではなく、それぞれの立場を通して見た姿なのです。ですから、祭司長や律法学者たちがイエス・キリスト様を謀略をもって捕え、殺さなければならない人物として見たのも、彼らの立場がそうさせたのです。

同様に、このひとりの女、ベタニヤのマリヤが、ある人々に「何のために香油をこんなにむだにするのか。この香油を300デナリ以上で売って、貧しい人に施すことができたのに」と憤りを持って厳しく咎められる程の高い高価香油をイエス・キリスト様の頭に注ぐにふさわしい方であるとイエス・キリスト様をそう捉えたのにも、彼女の立場がそうさせたのです。そして、そのベタニヤのマリヤ立場とは、まさに、兄弟ラザロが死から命を与えて下さったように、自分もまた、自分の罪を赦され、神と和解させて頂き、神の命である永遠の命を与えて頂くことができたというそのことに立っていると言えるだろうと思います。まさに、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主として信じ受け入れるという立場であり、そこには、罪人としての深い自覚があるのです。その自覚を持ってイエス・キリスト様を見上げるときに、イエス・キリスト様は、私たちの罪を赦す救い主であり、命の与えて下さるお方なのです。

それでは、それに対する祭司長や律法学者たちの立場とは何だったのでしょうか。みなさんは、いったいどのようにお考えになるでしょうか。そのことについて、マルコによる福音書14章2節には、本当にわずかではありますが、その手がかりとなる祭司長や律法学者たちの言葉が記されています。お読み致しますが、こう書かれています。「祭りの間はいけない。民衆が騒ぎ起すかもしれない。」この民衆という言葉は、人々とも訳せますし、神学的な意味から行けば神の民という意味を持つこともある言葉です。しかし、ここでは、一般的な意味で民衆をさしており、そこには、「民衆が騒ぎ起すかもしれない。」と言っている言葉の中に自分たち祭司長たちや律法学者たちは入っていません。つまり、自分たちと一般の人々を区別して「民衆が騒ぎ起すかもしれない。」と言っているのです。そして、その時の彼らは、民衆ではなく民衆の指導者たちなのです。

そのような、民衆の指導者としての立場からイエス・キリスト様を見るならば、彼は、民衆が次々と彼を救い主として信じ、やがて指導者として祭り上げるだろうと見ていたのです。そのことは、先ほど申し上げましたラザロの復活の出来事をみた多くのユダヤ人がイエス・キリスト様を信じたということをきいた時に、彼らが言った言葉の中に見出すことができます。彼らはこう言っているのです。ヨハネによる福音書の48節です。「もし、このままにしておけば、みんなが彼らを信じるようになるであろう。そのうえ、ローマ人がやって来て、私たちの土地も人民も奪ってしまうであろう。」つまり、祭司長や律法学者は、「人々がイエス・キリスト様を信じ受け入れる様になったならば、ロー人によって、国が滅んでしまうことになる」と言っているのです。これはどういうことなのでしょう。

おそらく、彼らが頭に描いていたことは、このようなことであったろうと思われます。すなわち「人々がイエス・キリスト様をメシヤ、つまり救い主として受け入れたならば、イエス・キリストを総大将に祭り上げ、国の独立と民族の解放の為にローマと戦うだろう。そうすれば、ユダヤの国はローマに破れ、国土も人民もローマに奪われてしまい国は滅んでしまう」といったようなことだろうと思われます。実際、この時代の救い主に対する期待は、そのような軍事力によってユダヤの国を再興してくれるような存在としての期待でした。それは彼らの切なる願いだったのです。ですから、祭司長たちや律法学者が、人々がイエス・キリストというお方を祭り上げて、ローマに反乱を起すといったような危惧を持ったとしても、それは決して不思議なことではないのです。もちろん、それは間違っていました。なぜなら、救い主メシヤは、決してそのような軍事的な存在、政治的な存在ではなかったからです。しかし、そのことに民衆も祭司長たちも律法学者も気が付きませんでした。それほど、当時のユダヤの民衆の中には軍事的・政治的メシヤを待ち望む期待が強かったのです。そして、人々はメシヤが自分に何かしてくれることを期待していたのです。

だからこそで、祭司長や律法学者たちもイエス・キリストを殺そうとするのです。イエス・キリストが民のメシヤとして民になったならば、それこそ国が滅んでしまうかもしれないと思われるからです。ですから、民衆の目には、イエス・キリスト様は自分たしの願いを聞いてユダヤ人をローマの帝国支配下から解放してくれる救い主として映り、祭司長や律法学者たちの目には、全く逆の国を滅ぼす存在、つまり、救い主ではなく日本流で言うならば疫病神のような存在だったのです。そして民衆が救い主であるキリスト、つまりメシヤがどのようなお方であるかを正しく理解していなかったように、彼らもまた、イエス・キリスト様を正しく理解していませんでした。彼らもまた本当の救い主の使命と目的が何であるかについて彼らもまた全く理解していなかったのですそのような、キリストという存在に対する誤解が、イエス・キリスト様を十字架に追いやったと言うこともできます。それは、自分の願いや願望を神に押しつける所の信仰から起った出来事だといえます。そして、そのように、自分の願いや願望をキリストにまで押しつけていく自己中心的な姿を、聖書は罪と呼び、そのような罪が、私たちの生活の中の様々な問題を引き起こしていくのです。

そして、そのような私たちの自己中心的な罪が、イエス・キリスト様を十字架につけて死なせ、イエス・キリスト様もまた、私たちの自己中心という罪を背負って十字架の上で死なれたのです。そして、それこそが真の救い主としてのイエス・キリスト様のお姿でした。それは軍事的・政治的な救い主ではなく、私たちの罪を神の前に執り成し、神と私たちを和解させ、命を与える救い主だったのです。だからこそ、ここにひとりの女の行為として、ベタニヤのマリヤのマリヤが香油をイエス・キリスト様の頭に香油を注いだ出来事が特別なこととして記されているのだろうと思います。と申しますのも、彼女の行為は、自分の兄弟に対して死から命を与えいただくという恵みと、それをなさしめたイエス・キリスト様の愛に触れたことによって引き起こされた行為だからです。それは、まさに、私たちに永遠の命を与える神の御業に基づく行為だったのです。ですから、それはこれからキリストが自分に何をしてくれるかという期待によってなされた行為ではなく、キリストがすでに自分にして下さった愛の行為、与えて下さった恵みに対する応答の行為なのです。

それは、私たちが、キリストは自分たちに何をして下さるのかという自分の願いを叶えて下さるお方として期待をかけている姿ではなく、キリストがして下さった御業に立って、私がキリストに何ができるかということを示している行為です。それは、これから起る出来事を期待してキリストを信じ受け入れるのではなく、キリストがすでにして下さった御業のゆえに、キリストに感謝し献身している人の姿のです。そして、そのとき彼女がキリストに対してできることは、自分の持っているナルドの香油をキリストの頭に注ぐと言うことだったのです。ベタニヤのマリヤは、イエス・キリスト様を政治的存在、軍事的存在としてみて言いません。彼女が見ているのは、彼女の兄弟ラザロの復活を通して、命を与える愛と慈しみなのです。そして彼女は、その「私たちに赦しを与え、死に勝利して命を与えてくださるイエス・キリスト様の愛と恵み行為」に触れました。そのベタニヤのマリヤが触れた愛はと恵みは、イエス・キリスト様の十字架の死と復活を通して私たちに示されています。

ですから、私たちに対するキリストの愛の行為、恵みのみ業は、あの2000年前の十字架の上の死と復活の出来事によって、既に成し遂げられ完成されているのです。ですから、私たちはイエス・キリスト様が私の願いを聞いて、私に何をして下さるお方であるかということを期待すべきではありません。そうではなくて、イエス・キリスト様が、神から裁かれなければならない私たちの罪に赦しを与えるために、十字架の上で死んでくださったという事実を受け止め、感謝し、神に自らを捧げ、今、ここで私たちがイエス・キリスト様にしてあげることのできる最高のものを捧げて生きていくことが大切なのです。マリヤが捧げたナルドの香油は、それこそ、その時にマリヤがイエス・キリスト様にしてあげることのできる最高のことでした。その行為をイエス・キリスト様は次のようにいっておられます。「この女は、できる限りのことをしたのだ。すなわち私の体に油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。良く聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう。」

確かに、ユダヤ人たちは死体を埋葬する時に油を塗りましたが、しかし、マリヤが高価なナルドの香油を捧げたとき、意識的に葬りの備えとしてイエス・キリスト様の体に香油を塗ったとは思えません。それは、その時のマリヤのイエス・キリスト様に何かをしてさしあげたいと思う思いの中でできる精一杯のことだったのですしかし、彼女が彼女にできる精一杯のことをしたときに、イエス・キリスト様はそれを最高の奉仕として、特別な意味を見出して受け止めてくださったのです。そのように、私たちが、イエス・キリスト様が私たちのためにしてくださった御業、それは私たちの罪に神の赦しを与え、神との和解をもたらし、それによって私たちに永遠の命という神の命を与えてくださったということを信じ受け入れたことですが、そのことを信じ受け入れて、その時々に私たちにできる最高の精一杯のことをするならば、神はそれを最高の奉仕として喜び受け入れてくださるのです。そして、そのような奉仕は、決して人を殺そうと言った企てにはなりません。なぜなら、神は人の命を奪う方ではなく、人に命を与える方だからです。人の中に争いを産み出す方ではなく、和解と平和をもたらす方だからです。ですから、イエス・キリスト様を救い主と信じ受け入れるものは、平和を産み出すものとなるのです。

私たちは、今日、今ここで、この礼拝を通してそのイエス・キリスト様の前に立っています。そして、イエス・キリスト様が十字架の上で成し遂げてくださった救いのみ業の前に立たされているのです。だからこそ、私たちは、イエス・キリスト様が十字架の上で成し遂げてくださった救いのみ業を思い、心から、私たちのできる精一杯のことをしていきたいと思います。それこそが私たちのできる最高の神への捧げ物なのです。

お祈りしましょう。