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羊飼い 『誘惑に負けない』
マルコによる福音書14章10−11節
2007/8/5 説教者 濱和弘
賛美  251、357、396

さて、今日の聖書箇所は、イエス・キリスト様の12弟子の一人であるイスカリオテのユダが、イエス・キリスト様を裏切り、敵対する祭司長たちに売り渡そうとした出来事が記されている短い箇所です。このイスカリオテのユダの裏切りの行為は、イエス・キリスト様を捕え殺そうと考えていた祭司長や律法学者たちの思いと呼応しています。ですから、文脈的には、このマルコによる福音書14章1節から11節までは、ひとまとまりの文脈と考える方が良いのかもしれません。つまり、イエス・キリスト様を十字架に追いやった人々、それは一つは祭司長たちや律法学者たちであり、もう一つはイスカリオテのユダでありますが、その二つの存在の間に、「全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」とイエス・キリスト様が言われた。ベタニヤのマリヤがイエス・キリスト様の頭に高価なナルドの香油を注いだという出来事が挟まれて一つの文脈を築いていると考えられるのです。

 このように、ベタニヤのマリヤの物語が間に挟まれることによって、彼女の行為、あるいは信仰と祭司長や律法学者たちが比較され描き出されます。そして同じように、イスカリオテのユダの裏切りの行為もまた、ベタニヤのマリヤの行為と比較され、より対称的な行為として描かれるのです。そして、マリヤの行為が、イエス・キリスト様に「全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」と賞賛され輝いていますがゆえに、イスカリオテのユダの行為は、背教的行為として、より一層その暗さを増していると言えます。マルコによる福音書は、そのイスカリオテのユダの裏切りについて、なぜユダが裏切ったのかという理由については何も述べていません。ところが、マタイによる福音書では、彼が金目当てにイエス・キリスト様を売り渡したといっています。というのも、マルコによる福音書は、今日の箇所にありますように、イスカリオテのユダがイエス・キリスト様を引渡そうとして、祭司長達の所に行ったところ、祭司長たちが「これを聞いて喜び、金を与えることを約束した」といっていますが、マタイによる福音書26章14節15節では「時に12弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って」「イエス・キリスト様をあなたがたに引渡せばいくらくださいますか」となっているからです。

つまり、イスカリオテのユダの方からお金と引き替えにイエス・キリスト様を引渡しましょうと話を持ちかけているのです。そんなわけで、マタイによる福音書は、ユダの裏切りの理由を、金目当ての為であったと見ていると言うことができるのです。また、ヨハネによる福音書12章4節から6節には、ユダはイエス・キリスト様の弟子集団の金庫番として財布を預かっていたのだけれども、その財布の中身をくすねていたということが記されています。その記述から、イスカリオテのユダがお金にルーズだったということが伺われますので、そういった意味では、マタイによる福音書が、ユダがイエス・キリスト様を裏切ったのはお金目当てだと理解していることには一理があるように思われます。そうだとすると、彼はこの世の富みに心が奪われてしまって、決してこの世の冨では手に入れることのできない大切な宝物を見失ってしまったことになります。

先週は、私共一家は、少し早い夏休みをいただいて私と家内の親が住む大阪に帰省させて頂きました。2泊3日で両方の親の元に行かなければなりませんので、私の父のところには私が泊り、家内の良心のところには家内と子どもたちが泊り、夕食だけ一緒にするという変則的な形での帰省でしたが、その時父が私にしみじみと言うのです。それは、こういう言葉です。「和弘、人の命だけはお金では買えんのぉ。」皆さんもご存知のように、2年半前に私の母が肺ガンで召されました。そ母が亡くなった事からの父はまだ完全には立ち直れていません。また母が亡くなった直後に、自分自身も胃ガンであることがわかり、手術をしたような関係で、いろいろと死という問題を考えることがあったのでしょう、それが「人の命だけはお金では買えんのぉ」という言葉になって現われたのだろうと思います。たしかに、最近は健康食品が多く出回っていますし、お金があれば高度な治療を受けることもできるのかもしれません。しかし、どんなに高い薬を使っても、また高度な治療を行っても、人には必ず死が訪れてきます。そういった意味では、どんなにこの世の冨を手に入れたとしても、それで命を買うことはできないのです。

しかし、イエス・キリスト様は命を与えることができるお方です。そしてそのイエス・キリスト様が与える命は、永遠の命という神の命なのです。先週もお話し致しましたが、この文脈的には、このマルコによる福音書14章1節から11節までが、ひとまとまりの文脈の中だといえます。そのひとまとまりの文脈には、一人の女性ベタニヤのマリヤが高価なナルドの香油をイエス・キリスト様の頭に注いだという物語が記されています。そしてその物語の背景には、彼女の兄弟ラザロが病気で死んでしまったのち、墓に治められて三日も経っていたのに、イエス・キリスト様によって蘇らされたという出来事がありまた。それは、まさに死んでいたのに命が与えられたという出来事なのです。イエス・キリスト様自身が、このラザロを蘇られる時に「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。」とそう言われています。イエス・キリストを信じる者には命が与えられると明言なさっているのです。そして、その言葉通り、ラザロは蘇り、墓の中から出て来たのです。

もちろん、ラザロが墓の中からよみがえった時に与えられた命は、永遠の命ではありませんでした。ですから、やがてラザロは再び死を経験することになるのですが、この事を通して、イエス・キリスト様というお方は永遠の命を与えるお方であるということをお示しになったのです。その出来事を真摯に受け止め、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。」という言葉を信じ受け入れたベタニヤのマリヤは、この世にあっては、一年分の年収に匹敵するような高価な価値のあるナルドの香油を捧げたのです。それは、まさに、イエス・キリスト様が与えて下さる永遠の命というもののもつ価値と比べれば、とるに足らない者だったのです。

そして、それと対照されるイスカリオテのユダの裏切り行為が、お金というこの世にあって価値あるものであったことは、なんともいえない人間の愚かさを見せられるような感じがします。イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様を信じ受け入れる者に、それこそお金では買うことのできない永遠の命を与えて下さると言うのに、目の前のお金というこの世のものに心を奪われて、そのイエス・キリスト様を裏切り売り渡してしまったのです。それは、何とも愚かしい事のようにおもえるのですがどうでしょうか。ところが、よく考えてみますと、私たちもこのイスカリオテのユダのことを笑ってはいられないのかも知れません。と申しますのも、イスカリオテのユダがお金にルーズだったということを書きとどめていたヨハネ自身は、ユダが裏切った理由を、マタイのようにお金のためであったと言うのではなく、サタン、つまり悪魔がユダを惑わしたからだと言っているからです。

ヨハネによる福音書13章2節です。そこにはこうあります。「夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた。」このユダの裏切りが、サタンによる惑わしだというのは、ルカによる福音書も言っていることです。そこには「イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンが入った」と記されています。もちろん、このような、悪魔によって惑わされたというのは、何も悪魔が直接現われてユダを惑わしたというのではないだろと思います。むしろ、そのように悪魔自身が自らを現して惑わすのではなく、それこそ、自分自身の存在は巧みに隠しながら、私たちに知られないように、私たちの周りにあるものを用いながら、ユダの心を誘惑したと考えられます。それが、ヨハネがお金にルーズだったというユダにとってはお金であった。彼にとってはお金というこの世の冨の魅力が誘惑となり、心を惑わされて本当に大切な者を見誤ってしまったのです。

このように、私たちの心を引きつけ誘惑するものは数多くあります。それはものやお金だけに限りません。自分の趣味や楽しみと言ったものも私たちの心を奪い、私たちに永遠の命を与えるイエス・キリスト様というお方を見失わせてしまうことがあります。あるいは、地位や名誉、名声と言ったものも、私たちをイエス・キリスト様から引き離してしまうこともあるのです。それらは、それらは、私たちの心の欲を満たすものだと言えます。そういった意味では、人間の欲と言ったものを満足させるものが、悪魔が私たちを誘惑し惑わす格好の材料となるのです。そして私たちの欲を満足させるようなものは、私たちの周りに山ほどもあるのです。ですから、私たちも、いつイスカリオテのユダと同じ道を歩んでしまうかわからない者だと言えます。

聖書には、このように書かれている部分があります。マタイによる福音書16章24節から26節です。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて私に従ってきなさい。自分の命を救おうとする者はそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを見出すであろう。たとえ全世界をもうけてでも、自分の命を損したら、何の得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」この言葉はイエス・キリスト様の言葉ですが、ここで「たとえ全世界をもうけてでも、自分の命を損したら、何の得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」と言う命はイエス・キリスト様が与えて下さる永遠の命です。この永遠の命は何ものにも優る価値があるのです。だからこそ、「自分の命を救おうとする者はそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを見出すであろう。」というのです。これは、決して失われることのない永遠の命のほうが、必ずいつかは失われてしまうこの地上の命よりも優るものであるということを示しています。

もちろん、いつかは失われると言っても、この地上の命も、この世にある限りこの地上にある全てのものに優って大切なものであり、全世界に優って価値ある大切なものです。それは、何かをもって証明しなくても良い当然のこと、自明なことだといえます。自明なことだからこそ、現在アフガニスタンにおいて、タリバンが韓国の方を拉致拘束し、政治的取引の材料としているのです。この世の命であっても、それが、この地上にある何ものにも優って尊ばれなければならない大切なものだからこそ、彼らは交渉の材料にしているのです。もちろん、それは許されるべき行為ではありませんし、認めてはならないことです。命より大切なものがないからこそ、それを政治的交渉の道具に使うなどと言うことは許されてはならないのです。神が与える永遠の命は、そのような大切で価値ある地上の命に優るものだからです。だからこそ、なおさらそれは、大切にされなければなりません。ですから、私たちは決して誘惑に負けてはならないのです。もし、私たちに、私たちをイエス・キリスト様から引き離すような誘惑が訪れたならば、私たちはその誘惑に立ち向かい、敢然とその誘惑を退けなければなりません。

また、私たちを教会から引き離そうとするものがあるならば、それもまた退けなければなりません。なぜなら、教会はキリストの体だからです。もちろん、この場合に教会というのは、例えばこの三鷹キリスト教会という一地域に現われた狭い意味での教会だけを意味しているわけではありません。ニケヤ・カルケドン信条を告白するいわゆる正統的なキリスト教信仰を受け継ぐ全ての教会を指します。私たちは様々な事情で教会を代ることがありますが、たとえ教会を変わることがあったとしても、それが正統的な信仰を受け継いだ教会であるならば、それは、広い意味での教会に留まっているのであって、ここで言う教会から引き離そうとすることではありません。けれども、もし、私たちをイエス・キリスト様を全き人であり、かつ全き神であるという信仰から引き離す者があるならば、私たちはそれを断固としてそれを退けなければならないのです。また、イエス・キリスト様が私たちの罪の救い主であり、このお方によって私たちの罪が赦され、神の命である永遠の命が与えられるのだと言うことを否定する者があれば、どんなにそれが魅力的に見えても、それもまた退けなければなりません。

イエス・キリスト様が与えて下さる命、永遠の命は、決して失ってはならない何ものにも優る価値あるものだからです。そして、この永遠の命は、この地上の命と繋がっています。けっして断絶はしていないのです。先週もお話し致しましたが、先々週には、故藤塚健二兄の記念会を持ちました。また次週には、故田中平太朗さんの記念会が行われます。また、前回の役員会で話し合われ決定したことですが、9月の第一聖日の午後、教会としての故加藤亨先生の記念会を行うことになりました。それ以外でも、私たちの教会では毎年11月に召天者記念礼拝を行っています。このように記念会を持つのは、個人のことを単に忍ぶと言うだけではなく、個人のことを忘れないように心に刻み続けるためです。どうして、心に刻みつけて忘れてはならないのか?それは、やがて再び故人たちと神の国で再会するからです。どんなに月日が経っても、やがて再びイエス・キリスト様がこの地上に来られるときには、神が打ち建てられた神の国で、再び顔と顔とを合わせて相見えることが出来るのです。だから忘れはならない。そのときに、「失礼ですが、どちら様でしたっけね」となんてことになってはならないのです。

でうから、心に刻み忘れないと言うことは、ただ思い出に浸ると言うことではありません。そこには再会という確かな希望があります。この希望を持って生きる事ができるからこそ、忘れてはならないのです。このように、永遠の命をもって神の国で再び会うことのできる希望をイエス・キリスト様は私たちに与えて下さっています。だからこそ、このイエス・キリスト様の与える永遠の命は、全ての全てに優って価値ある大切なものなのです。ですから、あのイスカリオテのユダのようになってはなりません。本当に大切な、何物にも代え難い一番価値あるものをお金や名誉や、私たちの心の欲を楽しませる者などと替えてしまってはならないのです。お金も、名誉も楽しみも、それは一時的な過ぎゆくものです。ですから、私たちは、そのような過ぎゆくものの誘惑に負けては行けません。そして、しっかりと立って神を信じ、イエス・キリスト様を信じて歩んでいくのです。そしてしっかりと教会につながり、神の民として礼拝を守り、自らを神に捧げて、イエス・キリスト様にしたがって生きていくものでありたいと思います。

イエス・キリスト様は、そのように神を信じ、イエス・キリスト様を受け入れお従いするものに、何者にも替えることができない永遠の命を与えて下さいます。そのために、2000年前にイスラエルのエルサレムの地にあるゴルゴダの丘で、私たちの罪を赦すために十字架に架かって、死んでくださったのです。今日は月の初めの聖日ですから、聖餐式が持たれます。聖餐のパンはイエス・キリスト様が十字架の上で割かれた肉を表し、聖餐の杯は、イエス・キリスト様が流された新しい契約の血を表します。私たちが、これに預かるとき、このパンと杯は、私たちは、私たち永遠の命を与えると約束されたそのイエス・キリスト様の約束の内にあることを証しします。そのことを、覚えながら聖餐のパンと杯に預かりたいと思います。そしてどんなことがあっても、イエス・キリストを信じる信仰を心にしっかりと抱きながら生きて行きたいと思うのです。

お祈りしましょう。