『神のご計画と人の意思』
マルコによる福音書14章12−21節
2007/8/12 説教者 濱和弘
賛美 19、344、376
先週は、マルコによる14章10節、11節においてイスカリオテのユダがイエス・キリスト様を裏切ろうとしているところからお話しをさせて頂きましたが、礼拝の後、ひとりの方から、ご質問をいただきました。そのご質問の趣旨というのは、次のような内容のものでした。すなわち「イエス・キリスト様が私たちの罪を許すため十字架にはりつけられ、それによって私たちに永遠の命を与えて下さったものであり、それが神のご意志とご計画であるならば、イスカリオテのユダの行為は神のご計画を支えているのではないか。だとすれば、キリスト教会のイスカリオテのユダに対する扱いは不当に厳しいものになってはいないか」と言うものでした。このご質問は、実は極めて厳しいところを付く問題です。確かに神のご意志はイエス・キリスト様が十字架に架かって死なれることにありました。確かに、そういった意味では、その神のご意志を実現させるきっかけを作ったユダは、神のご計画が実現することに寄与した一人だとも言えます。しかし、キリスト教会では、ずっとユダのことを、キリスト様を裏切った大悪人として扱ってきたのです。
この、結果として神の計画を推し進めたユダが、なぜこのような悪人とされるのかという問いは、実は私が学生だった頃の問いでもありました。また、私だけではない、初代教会の時代のころから、この問いはあったようです。一昨年でしょうか、話題となった映画は「ダビンチ・コード」でした。この「ダビンチ・コード」は、現在のキリスト教は、キリストの弟子たちによって歪められてしまったもので、本来のものとは違っているという見方で書いた小説です。もちろん、「ダビンチ・コード」自体は小説であり、根拠となる証拠は何もありません。ところが、そのダビンチコードと平行して、「ユダの福音書」というものをナショナル グラフィック社が取上げ、それが話題となりました。日本でも、このユダの福音書を取上げた本が行くつか出版されたほどです
このユダの福音書は、「ダビンチ・コード」のような根拠のない歴史的にはいい加減なものではなく、実在する歴史的古文書です。紀元2世紀のエレイナイオスという人が書いた文書には、異端の書として、このユダの福音書の名前が記されています。ですから、まさに初代教会時代には、存在していたことがわかっています。現在は、そのコプト語の写本が発見され復元されており、その内容も明らかになっているのです。そして、その内容というのは、現在の聖書は、キリストの弟子たちによって伝えられた誤ったキリストの姿や教えであって、キリストはユダだけに本当のお心と神の真理を伝えたというのです。そして、そのユダがイエス・キリスト様を裏切ったのは、イエス・キリスト様の指示によるものであったのだというのです。もちろん、このユダの福音書の内容は、聖書の伝える内容とは全く違っています。だからこそ、2世紀の初代教会の指導者(この指導者のことを教会教父と呼びますが)エレイナイオスによって、ユダの福音書は異端だとされているのです。そのユダの福音書の背後にある異端とは、グノーシス主義的キリスト教と呼ばれるものです。
私たちとは神学的立場は違いますが、東京大学に初代教会時代の歴史を教えている大貫隆という方がおられます。この方は、まさに初代教会時代の時代のグノーシス主義の専門家です。その大貫隆教授もまた、ユダの福音書は、当時の2世紀頃のキリスト教を取り巻くグノーシス主義的キリスト教という異端を知るには一級の資料であるが、それでキリスト教自体がどうこうなるようなものではないと言われておりますが、私も確かにそうであろうと思います。もちろん、グノーシス主義的キリスト教でも、イエス・キリスト様を特別な存在として認めていることは間違いありません。ですから、そのグノーシス主義的キリスト教においても、神のご計画としてイエス・キリスト様が十字架について死なれると言うことのきっかけを作り推し進めたのがユダの裏切りをどう捉えるかという問いはあったものと思われます。だからこそ、ユダは、イエス・キリスト様がご自分の計画をお進めになるために、あえて、ユダだけに真意を伝え、イエス・キリスト様を裏切るように支持なされたのだ、そしてユダは、そのイエス・キリスト様の指示を受けてイエス・キリスト様を祭司長たちに売り渡したのだと、ユダの行動を解釈したのです。
このように、神のご計画の中にあるユダの裏切りと言うことをどう捉えるかと言うことは、極めて難しく、いまでも問い続けられている問いの一つだと言えます。そのようなわけで、私は、先ほどの「イエス・キリストの十字架が、神のご意志とご計画であるならば、イスカリオテのユダの裏切りは神のご計画を支えているのであって、イスカリオテのユダを大悪人とするキリスト教会は不当なものではないのか」と言う問いに、十分な説明ができませんでした。実際、それは難しい問いなのです。そして、今日2000年の営みをもつ、長い神学の歴史の中にあっても、このご質問を含み、聖書の中には、まだまだ解決していない問題が多く残されています。その解決されていない問題の一つの神のご計画と人間の意志の問題があります。言葉を換えるならば、神の予定と人間の意志の問題です。
一方で、神は私たちに対してご計画を持っておられる、すなわち予定されておられる。だから全てのことは神の予定によるものであるという考えがあります。そして、どの教会においても、おそらく神のご計画と言うことを真っ向から反対する教会はないだろうと思います。しかし、その反面で、人間は自分の意思を持っており、その意思によって行動するという一面もあるのです。ですから、神のご計画と人間の意志というものがどのような関係にあるのかと言うことは、極めて難しい問題を含んでおり、それゆえにそれぞれの立場で理解の違いが生じています。その中には、ルター派のように、人間には自由意志などはなく、表面的には自分の自由な意志で行動しているよう見えるが、その実、人間の意志は罪に支配された奴隷意志であるという立場もあります。逆に、人間の自由意志を認め、人間は自由な決断をすることができるというエラスムスや、私たちウェスレーの系列にある教会もあるのです。私は、今日の説教でその違いを取上げてどうこう言おうというのではありません。
むしろ、今日の聖書の箇所から、どのような立場であっても共通している神のご計画と言うことを考えながら、全知全能の神のお心を知り、お心を求めて生きていこうではないかと言うことを学びたいと思っているのです。つまり、罪に支配されるのではなく、神の意志に支配されようということです。そこで今日の聖書箇所でありますが、今日の聖書箇所は、過ぎ越の食事の準備をめぐってのことです。過ぎ越しの食事というのは、旧約聖書出エジプト記に記されている、昔ユダヤの民が奴隷となったエジプトの地から神が救い出して下さった事を記念する食事です。その記念の食事を、ユダヤ人たちは除酵祭の第一日目のよるに行うのですが、除酵祭というのは、ユダヤの暦でニサンの月、ユダヤの暦は太陰暦ですから、今の暦で言えば3月から4月頃になりますが、そのニサンの月の14日が除酵祭の一日目にあたります。もっとも、ユダヤの一日は夕暮れに始まり、翌日の夕暮れまでですから、過ぎ越の食事がなされるのは実際はニサンの月の15日になります。その過ぎ越の特別な食事をするための用意をどうしましょうかと、今日の聖書の箇所において弟子たちは尋ねているのです。
それに対して、イエス・キリスト様は、こう答えられます。「市内に行くと、みずがめを持っている男に出会うであろう。その人について行きなさい。そして、その人が入っていく家の主人に言いなさい。『弟子たちと一緒に過ぎ越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます。』すると主人は、席を整えて用意された二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために用意をしなさい。」この言葉は、一見するとイエス・キリスト様が超自然的な力を持ってこれから起ることを余地なされた言葉のように思われます。そして、わたしたち福音主義と呼ばれる立場のクリスチャンの多くはそのように受け取ります。もちろん、そうではないキリスト様による奇跡を認めない立場の人たちは、当然超自然的な力というものも認めませんから、あらかじめキリストが家の主人と話をつけてあったのだと言います。
私個人としては、イエス・キリスト様は全き人であり、全き神であられたのだから、イエス・キリスト様の内には全知全能の神のご性質も宿されていられるのだから、将来のことをあらかじめ予知しておられるということがあっても不思議ではないと思うのですが、しかし、ここの文脈は、キリストの奇跡的な業ということを強調している様な感じでの文脈でもありませんので、ここでは、これが奇跡であったかなかったかと言うことに目くじらを立てる必要な内容に思われます。それよりも、私が注目したいのは、たとえそれが予知であったにしても、また仮にあらかじめ話をつけていたと言うことであったとしても、弟子たちが過ぎ越の食事をどうしようかと心配し、イエス・キリスト様に相談する前に、既にイエス・キリスト様はそのことをについて考えておられ、そのことについてご計画をなさっていたと言うことです。
つまり、過ぎ越の食事をどうしようかと言う弟子たちが心配し、気に病む前に、すでにイエス・キリスト様の方で、そのことに対する備えがきちんとできており、そしてその備えにそってきちんと弟子たちを導いておられるのです。そして、そのイエス・キリスト様の御言葉通りにしていったところどうなったというと、16節にある通りです。すなわち、「弟子たちが出かけてしないに言ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過ぎ越の食事の用意をした。」というのです。つまりそれは、イエス・キリスト様の御言葉を信じ、その言葉にそって従っていくならば、イエス・キリスト様があらかじめ予定し、準備されていたことは必ず現実の出来事になると言うことだと言えます。ですから、神の計画が開示される、示される、語られるならば、その言葉を信じ従っていくことが大切になります。それによって、私たちは神の真実に出会い、それを知ることができるのです。
そして、まさにその通りに、弟子たちは、そのイエス・キリスト様の語られた言葉に従っていた結果として、イエス・キリスト様と弟子たちは、用意された二階座敷で過ぎ越の食事を取ります。そして一同が過ぎ越の食事についた時に、イエス・キリスト様は弟子たちに次のように言うのです。18節です。「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」この言葉を聞いて、心配になったと聖書は言いますが、その心配は裏切られたイエス・キリスト様がどうなるかという心配ではなく、自分が裏切り者になるのではないかという心配です。だから、ひとりびとりが「まさか、わたしではないでしょう」(14:19)と言いだしたのです。このように、「まさか私ではないでしょう」という心配の背後には、「絶対に自分は裏切り者ならない」といった強い気持ちではなく、「自分が裏切りってしまうかもしれない」という不安と、人間の弱い一面が顔を除かせているように思います。
というのも、19節において、不安と訳されている言葉は、言語のギリシャ語ではλυπεισθαι(ルペイスサイ)、悲しむとか苦しむ、心痛すると言った言葉だからです。ですから、彼らは自分がその裏切るものになるかもしれないと言う不安で心が痛み、悲しくなったのです。それはまさに、弟子たちの持つ弱さです。その弱さが不安となって弟子たちの心をよぎった、それが「まさか、私ではないでしょう」という言葉になって現われたのだろうと思います。それは弟子たちの人間味のある姿のようで、そう言う弟子たちの人間くさいところに触れますと、ホッとする感じがします。と言うのも、私自身も、そしておそらくは皆さんも同じだろうと思いますが、私たちは、魔が差すと言った感じで、誘惑に負けてしまう弱さもっているからです。そしてそれは、弟子たちも同じなのです。
もちろん、不安と心の痛みの中で「まさか、自分ではないでしょう」といった弟子たちは、自分から進んでイエス・キリスト様を裏切ろうと思ってはいなかっただろうと思います。しかし、もし何かあったら、自分はひょっとしたらひょっとしたらイエス・キリスト様を裏切ってしまうかもしれないと思うような弱さを感じたのでしょう、だから心が痛み不安を感じたのです。それほど人間の意志は弱く不確かな者なのです。どんなにイエス・キリスト様にお従いていこうと思っても、自分の意志に反して心がくじけてしまったり、誘惑に負けてしったりする弱さを、誰もが持っているのが、現実の人間の姿であり、私たちの姿だと思うのですが、どうでしょうか。そのような、自分の弱さを知り、不安になっている弟子たちに、イエス・キリスト様は「12人の中のひとりで、私と同じ鉢にパンをひたしている者がそれである。」とそう言われます。これは、その裏切り者がイエス・キリスト様のすぐ側の席に座っている者であることを意味しています。ユダヤ人はパンを、干した果物や香料に酒か巣を混ぜたソースにひたして食べるのですが、そのソースを入れる鉢を何人かの者が一緒に使っていたからです。
ですから、イエス・キリスト様と同じ鉢にパンを浸して食べていた人というのは、せいぜいおおくても5,6人ぐらいには絞られてきます。そうやって、誰が裏切るのかと言うことについてイエス・キリスト様は示唆を与えながら、「たしかに、人の子は聖書に書いてあるとおりに去っていく」と言われるのです。それは、ご自分の死が、神の意志に基づくご計画であり、イエス・キリスト様の意志を明らかにつげる言葉だと言えます。ですから、それは誰彼と言ったのは、人間の意志や行動によって左右される者ではありません。少し極端な言い方をすれば、ユダが裏切ろうと裏切らまいと、それに関係なく、イエス・キリスト様は十字架で死なれたのです。けれども、そのようなイエス・キリスト様の十字架の死に、ユダは裏切りという形で関わっていくのです。それは、人間の意志という者は神に従うことにおいては極めて弱さを持っているのですが、神に背を向ける、逆らうと言うことにおいては極めて強固な強さを持っているからです。
少しうがった見方かもしれませんが、イエス・キリスト様が、あえて「あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」と言われたのは、その人が裏切ろうとするような場面がきたならば、思いとどまれと暗に諭している言葉のようにも見えます。だからこそ、「まさか、自分ではないでしょう」と心配し心を痛めている弟子たちに、「12人の中のひとりで、私と同じ鉢にパンをひたしている者がそれである。」とそう言ってその範囲を狭めながら、心していなさいと言っているようにさえ思えるのです。たとえば、マタイによる福音書を見ると、最後には、「まさか、わたしではないでしょう」と言って来たイスカリオテのユダに「いやあなただ」とはっきり言っているのです。それは、まさにユダがサタンの誘惑にさらされると言うことを見越して、あなたが私を裏切るというサタンの試みに会うのだから、誘惑に負けないようにしていなさいという、イエス・キリスト様の御言葉のようにも思えるのです。
しかし、私たち人間の心と意志は、神に背を向けると言うことにおいては、極めて強固なものを持っています。皆さんもわかりますよね、自分が自分の意思を持って何かをやろうと決めたなら、少々説得しても、その説得に応じることはありません。それこそ、仮に親子の関係に置いて、親の権限をもって親に従わせるようなことはあっても、心のどこかでは納得せず、不満を感じ、反発しているものです。それと同じで、神様、あなたにお従いします、神様におゆだねしまうと祈りながら、私たちは、早々自分の願いや夢をあきらめられないものです。それは、人間が自分の意志をしっかりと持っているからです。人間が人間としての尊厳性を持っているのは、この自由な意志によると言うことができるかもしれません。人間は誰にも犯されない自由な意志を持っているからこそ、誰とも違う唯一無二の尊い存在なのです。
しかし、逆にその人間を尊厳あるものとする自由な意志があるからこそ、神の言葉を頑なに拒むと言うことがあるのです。神がなんと言おうと、それに背を向けて自分のしたいことをやろうとしてしまうのです。そうでないですか。面従復誹と言う言葉がありますが、祈りの言葉では神様にお委ねしまうと言いながら、心の中はそうではない、何とか自分の重い道理に神をも動かしてしまおうとする。そんな一面が私たちにはないでしょうか。私、私がまだ学生だった頃、お亡くなりになった加藤安子牧師に、あの会堂の後ろの、食道でこう言われたことが忘れられません。「濱君ねぇ、あなたは神様にお委ねしたと言ってはいるけれど、あなたは右手でそれを手放したかもしれないけれども、こんどは左手でしっかりと握り直しているのよ」と、そう言われるのです。
それは、静かな優しい声ではありましたけれども、私の本質を鋭く見抜いた言葉でした。だから私の心を鋭く刺し通したのです。だから忘れられない。「右手で離して、左手でしっかり握り直す」。それはどんなに神様に委ねたと口では言い、祈りの言葉になっていたとしても、結局は心は頑なに自分の意志や思いを貫き通そうとしている私の姿を見事に言い表していました。みなさんは、そう言ったところはありませんでしょうか。そのような頑なな心が、私たちに神を拒絶させてしまうのです。だからこそ、そのような頑なな心、頑固な意志に気づき、神の言葉に耳を傾けて生きるものにならなければならないと思うのです。
私たち、ホーリネス教会では、「きよめ」と言うことを言いますが、私は、「きよめ」というのは、この頑なな心、頑固な意志が砕かれることではないかと思っています。そうやって、神の言葉に聞き従い、神が備えて下さった出来事を見、そこに神の真実を発見し驚き喜ぶ心がきよめられた心であろうと思うのです。「たしかに、人の子は聖書に書いてあるとおりに去っていく」というイエス・キリスト様の言葉には、何があっても私たちを罪から救い、赦そうとする神の愛と真実さを感じさせます。そのような愛と真実さを持って神は私たちに向き合って下さっているのに、私たちは、頑なな心でそれを拒んでしまう。イスカリオテのユダに、裏切りの心が芽生えてきても、それを思いとどまれと、イエス・キリスト様がどんなに暗示し、名指しでそれを言っても、思いとどまれない頑なな心と、強情な意志がそこにあるとき、最後は「しかし、人の子を裏切るその人はわざわいである。その人は生まれなかった方がよかったであろう」といわれるような者になってしまう。
だから、私に留まりなさいと、イエス・キリスト様はそう呼びかけているように思うのです。そして、同じ言葉を持って、イエス・キリスト様は私たちに呼びかけておられるように思います。愛する兄弟姉妹の皆さん、私たちもやはり心の頑ななものであり、強情な意志の者です。神様のお心に従い、神様におゆだねしていきたいと願い、思いつつ、いつもどこかで自分の願いを神様に押しつけて生きているような心の頑ななものです。けれども、少なくとも、そのような私たちであったとしても、イエス・キリスト様が愛と慈しみをもって貫き通された十字架の真実の前では、心砕けて、信じ受け入れたいと思います。そして、弱さを持つ私たちではありますが、イエス・キリスト様のもとに留まりたいと思うのです。そのキリストを信じる信仰に留まって生きると言うことを、神が私たちに与えて下さった意志によって決断し歩んでいきたいとそう心から願い生きる者になりたいとおもいます。
お祈りしましょう。