『最後の約束』
マルコによる福音書14章22−25節
2007/8/19 説教者 濱和弘
賛美 2、109、112
さて、今日の聖書の箇所は、最後の晩餐の時に語られたイエス・キリスト様の言葉が記されているところです。イエス・キリスト様は最後の晩餐の席で、パンを取りこれを割いて「これは、私のからだです。」とそう仰いました。また、同じように杯を取り、その杯に注がれているぶどう酒をとり「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である」とも言われました。しかし、このイエス・キリスト様の言葉が、後の教会に大きな問題を引き起こします。それは聖餐式に関わる問題です。私たちの教会でも、月に1回聖餐式を持ちますが、この聖餐式の起源は、最後の晩餐にあると考えられています。ともうしますのも、コリント人への第一の手紙11章23節から26節には、このキリストのパンとぶどう酒に対する「これは、私のからだです。」と「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である」と言う言葉に基づいて、キリストの死を記念する食事が行われていたことが記されているからです。そして、このキリストの死を記念する食事が、カトリック教会においては聖体拝受という宗教儀式となり、プロテスタント教会では聖餐式という礼典となったというわけです。
しかし、それではなぜ、この割かれたパンに対して「これは、私のからだです。」とそう言い、また、杯に注がれたぶどう酒に対して「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である」とも言われキリストの言葉が、後の教会に大きな問題を引き起こしたかというと、それは、このパンとぶどう酒とキリストの肉と血がどのような関係にあるかと言うことについての神学的見解が分れたからです。カトリック教会の聖体拝領に出席してみますとわかりますが、カトリック教会においては信徒の方は、聖餐の杯に預からず、ホスティアとよばれるせんべい状のパンだけを食します。というのも、カトリック教会では、聖餐の杯をこぼしたならば、大変なことになるからです。
たとえば、私たちの教会の聖餐式では、あらかじめいくつもの小さな杯に小分けされたものを、それぞれがびとつづつ取ってそれを頂きます。しかし、カトリックの聖体拝受では、カリスと呼ばれる杯に注がれたぶどう酒を回し飲みするのです。このように回しの飲みをすると、途中で信徒の方が誤って杯からぶどう酒をこぼしてしまうかもしてません。しかし、そうなってはこまるのです。なぜなら、カトリック教会では実体変化といって、祭司がパンと杯を高くかかげて祝福の祈りをした時に、そのパンとぶどう酒は、見た目はパンとぶどう酒だけれども、実体は真のキリストのからだとなり、真のキリストの血となるのだという考え方があったからです。そして、祭司が祝福したパンが、真のキリストの体になるならば、肉には血が入っているのだから、パンだけを食すれば、一緒にキリストの血を食する事になるのだから、パンだけでも問題はないとして、信徒の方にはパンだけを与えたのです。
どうして、そのようなことが起きるのかと言うことについて、中世のカトリック教会はアリストテレスの哲学を用いて説明したのですが、宗教改革の時に、プロテスタント教会は、そのような説明では納得できませんでした。そして、聖餐式のパンとぶどう酒はキリストの体と血に実体変化するというカトリックの考え方を拒否したのです。そして、それは、カトリックとプロテスタント教会の間にとってはとても埋められないような深い溝となったのです。今日のカトリック教会では、中世の時代のようにパンとぶどう酒が本当のキリストの血となり肉となると言う言い方をほとんどしません。教理としてはまだ残ってはいるのですが、そのことを強く強調はしなくなっているのです。そういった意味では、今日では、かつてあったプロテスタント教会とカトリック教会の間にあった溝は、随分と埋められてきたと言えます。しかし、いずれにしても、このイエス・キリスト様の「これは、私のからだです。」と「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である」と言う言葉は、論争の種となったのです。もちろん、このイエス・キリスト様の言葉をどのように理解するかと言うことは、神学的には重要なことではあります。しかし、今日、私はそのこと、この説教の中で取上げたいとは思っていません。
むしろ、この言葉をもといして聖餐式、あるいは聖体拝領が執り行なわれるようになったことの意義を考えたいと思うのです。ともうしますのも、この聖餐式においてパンと杯をいただくと言うことは、確かに宗教儀礼としての行為ではありますが、それを支えているのは、イエス・キリスト様の十字架の死によってもたらされた約束だからです。そこで今日のテキストですが、先週もお話ししましたが、マルコによる福音書においては、この最後の晩餐は、過ぎ越の食事としてユダヤの暦で言うニサンの月の15日に行われたと書かれています。それはマルコの福音書の14章12節から18節を見ればわかることです。すなわち、12節にある除酵祭の第1日目で「過越の小羊をほふる日」というのが、ユダヤ歴のニサンの月の14日であり、その日の夕方というのは、夕方から翌日の夕方までを一日と考えるユダヤの人々にとっては、翌日の15日にあたるからです。
このニサンの15日に食べる夕食は過ぎ越しの食事と言って特別な食事でした。それは、旧約聖書出エジプト記に記されている、昔ユダヤの民が奴隷となったエジプトの地から神が救い出して下さった出来事を記念するもので、食事のメニューも、食事の食べ方も定められた、まさに宗教的な意味を持つ特別な食事なのです。そして、それは今日でも敬虔なユダヤ教徒の間に守られています。それほど、重要な食事なのです。マルコは、その特別な食事の時に、イエス・キリスト様はその食事のパンをさして、「これは、私のからだです。」といい、ぶどう酒をさして「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である」といったと記していますが、ところが、ヨハネによる福音書は、それはニサンの月の15日の出来事ではなく、その前日のニサンの月の14日の出来事だったと言うのです。つまり、マルコによる福音書と(そしてマルコによる福音書だけでなく、マタイによる福音書とも、またルカによる福音書とも)、ヨハネによる福音書とでは、一日のずれがあるのです。
いったい、マルコとヨハネとどちらが正しいのか?どうしてそのようなずれが生じたのか?疑問は一杯あります。 それについて、たとえば、どちらが正しいかについては、一般に今日では歴史的時系列においてはヨハネによる福音書が一番正確に書かれているであろうと言われています。だとすると、この最後の晩餐に置いてもヨハネによる福音書の14日にそれが行われたと考えられます。そうすると、なぜマルコはその14日に行われたであろう最後の晩餐を15日の過ぎ越しの食事としてしるしたのか?これには色々な説がありますが、しかし少なくともマルコは、このイエス・キリスト様が、「これは、私のからだです。」といってパンを割き、ぶどう酒をさして「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である」といてぶどう酒を回し飲みしたその食事が、過ぎ越しの食事ときっても切り離せないものだという理解していたのだろうと思われます。それはマルコの神学的理解です。そしてその理解は決して間違ってはいませんでした。なぜならば、イエス・キリスト様の十字架の死は、私たちの救いを成し遂げた神の業であり、神の御子の業だったからです。そしてこのイエス・キリスト様の十字架の死という出来事の上に、キリスト教の信仰の全てが寄りかかっているのです。
このことを考えますと、まさにイエス・キリスト様の印象的な言葉によってパンが割かれ、ぶどう酒が回されたあの食事は、そのキリストの十字架の死と苦しみを決して忘れないように、キリストの十字架を記念するために食事だったのです。そしてそれは、イエス・キリスト様を信じる者にとっては、救いの出来事を伝え知らせる過ぎ越しの食事であるといえるものなのです。だからこそ、マルコはどうしてもそれを過ぎ越しの食事として語り伝えなければならなかったのです。救いの業は私たちの手によってなされたのではなく、モーセによってユダヤの民が、エジプトで奴隷とされていたところから解放され助け出されたように、神の御子イエス・キリスト様の十字架の死によって私たちも罪と死から解放されたのです。
ところで、ユダヤの人たちは、自分たちが神の民であるという事の自覚を、モーセによる出エジプトの出来事に置いていたと思われます。と申しますのも、旧約聖書を読んでおりますと、くり返し、くり返しモーセによる出エジプトを思わせる表現を使っているからです。たとえば、私たちは今日の礼拝において詩篇66篇を交読致しましたが、そこには「われらは火の中、御簾の中を通った。しかしあなたはわれらを広いところに導き出された。」という表現がありますが、これは出エジプトのモチーフがそこにあります。そして、このような出エジプトという神の恵みを得られる根拠は、イスラエルの民の中には何もなかったのです。申命記7章6節8節には次のようなことが述べられています。それは、神がユダヤの民を神の民とし選び、恵まれた理由が書いてあるのですが、このように書かれています。「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ、主があなた方を愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトのパロの手から、あがないだされたのである。」
この「主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。」という言葉は、神の選びに対して、イスラエルの民の中に、神に選ばれるべき根拠は何もなかったと言うことを示しています。自分たちの中に選ばれるべき根拠がないからこそ、彼らは選ばれたという事実を指し示す「主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトのパロの手から、あがないだされた。」という事実に依り頼むしかないのです。神が私たちを愛し、選んで下さった。それがなぜかはわからないが、出エジプトという出来事が神が私たちを愛し選んでくださったということを証ししてくれている。だから、くり返し、くり返しかれらは、この出エジプトの出来事にたちかえるのです。そこにしか、自分たちが神に愛され選ばれたと言うことを保証するものはないからです。神の愛と選びの根拠は、自分たちの内側になく、ただ神がなしてくださった出エジプトという外側に出来事にしかそれを見出すことができないのです。それが、旧約聖書に記されたユダヤの民の姿です。
そのような、旧約聖書のユダヤの民の自己理解と比べると、現代に生きる私たちは、もっと人間の内に秘めた可能性というものを信じています。そしてそれは、人間は努力すれば必ず向上していくと言う確信にも繋がっています。程度の違いはあっても、勉強にしても、スポーツにしても努力する者は必ず向上して行くと私も信じていますし、多くの人もまたそう信じていると思うのですがどうでしょうか。実際、私は子どもたちに「練習は裏切らない」とか「勉強は裏切らない」というようなことを、いったりします。頑張る者は確かに、技術やあるいは理解力といったものは、確かに個人差はありますが、しかし、確かにその人の中にあっては確かに向上していくものです。それは、向上する可能性というものが私たちの内側にあるからです。私たち人間には、神様が与えて下さった能力というものを内側に持っているのです。だから、頑張れば必ず向上する。
しかし、こと救いということについては、私たちが救われる根拠は私たちの内側にはないのです。どんなに頑張っても、私たちは自分の欲や罪からは離れることは出来ません。時には、頑張って向上しようとする一見健全に見える思いの背後に、実は私たちの欲望と言ったものが潜んでいることすらあるではないですか。そういった意味では、私たちは、神の与えて下さった素晴らしいものと同時に、罪に染まった見にくい者を合わせ持っているものです。ですから、どんなに私たちの持つ素晴らしさを強調したとしても、それで私たちが神の前に胸を張って正しいものだと言い切ることは出来ません。どんな意素晴らしい一面があったとしても、その反面で、決して神の前に立てない罪人としての一面を持っているからです。ですから、私たちは自分の力や努力では、神の前に正しいものして胸を張って立つことが出来ないのです。そして自分の内側に神に自分の正しさを訴え、神に愛され選ばれるにふさわしいだけの根拠を持っていないのです。そのように、私たちは自分の内側に、神に愛され選ばれるだけの義、正しさを訴える根拠がないからこそ、私たちは私たちの外側にそれを持っていなければなりません。その自分の外側にある私たちの救いの根拠が、イエス・キリスト様が十字架の上で苦しまれ死なれたというその出来事にあるのです。
イエス・キリスト様の十字架の苦しみと死は、神が私たちを愛してくださり選んでくださったがゆえにおこった救いの出来事です。そして、この救いの出来事に寄りかかって生きる者が新しいイスラエル、神の民なのです。だからこそ、イエス・キリストの十字架の死による救いの出来事に寄りかかる私たちは、十字架の上に示された救いの出来事を忘れてはなりません。それは、約束だからです。イエス・キリスト様は、ぶどう酒が注がれた杯を取られて「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である」とそう言われました。契約とは約束です。イエス・キリスト様はイエス・キリスト様の弟子たちに対して、罪に対する神の裁きに対して赦しを与え、私たちを死から解放して下さり、神の子として神の国に迎え入れて下さることを約束して下さったのです。そして、神を信じ、イエス・キリスト様を信じ受け入れるものは、全てキリストの弟子なのです。それはつまり、イエス・キリストの十字架の死が、私たちに罪の赦しをもたらし、私たちを神の子として永遠の命を与えて下さり、神の国に迎え入れて下さることを信じる者なのです。
このキリストの血による契約にたいして、イエス・キリスト様はこのような言葉で結んでいます。それは、マルコによる福音書14章25節の言葉です。そこにはこうあります。「あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、私は決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。この言葉は、キリストの約束が、私たちを神の子として永遠の命を与えて、神の国すなわち天国に迎えて下さることをよく表わしています。それはキリストの十字架の死が、決して死では終わるものではないと言うことを示しています。イエス・キリスト様が、「これはわたしの契約の新しい血である」と言われるとき、それは紛れもなく十字架で裂かれたキリストの体から流れ出る血です。そして、それはイエス・キリストの死を意味しています。
旧約聖書のレビ記17章10節11節には「イスラエルの家の者、あなたがたの内に宿る寄留者は、だれでも血を食べるならば、わたしはその血を食べる人に適して。私の顔を向け、これをその民のうちから断つであろう。肉の命は血にあるからである。」とあります。じつは、ここからエホバの証人は、輸血を禁じているのですが、当然のことですが、この箇所は輸血を禁じているものではありません。むしろ、ここで言われている内容は、祭壇の上で動物の血を流すことによってユダヤの民の贖いがなされると言うことを中心的な主題として語られているのです。そして、そのようにユダヤの民の罪の贖いのために血が用いられる理由が、血は命だからであると言うことにあるのですが、いうまでもなく、今の私たちから見れば、血そのものが命であるわけではありません。しかし、それこそ、3000年以上も前の古代イスラエルの時代に生きていたユダヤ人たちにとっては、獣が家畜を襲って喰い殺すときに流れるおびただしい血や、争いで人が傷つき、その傷ぐちから血を流して死んでいく姿を見るとき、血が命であるということが、命というものを示すにあたって極めて理解しやすい表現だったのです。
だからこそ、イエス・キリスト様が、「これはわたしの契約の新しい血である」といってご自身の裂かれた肉のその傷ぐちから、流れ出る血を指し示すとき、それはご自分の命が流れ出る死を意味しているのです。しかし、そのようにイエス・キリスト様の死が語られると同時に、「神の国で新しく飲むその日までは、私は決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」といわれるのです。それは裏を返せば、神の国で新しく飲む日が来ると言うことです。つまり、イエス・キリスト様の死は死が死で終わらない復活の日を見据えているのです。ですから、イエス・キリスト様の十字架の死によってもたらされた約束は、この世の終りの時に、私たちもまた復活させられるという約束でもあるのです。そして、その復活の時が来るまでは、もう二度と、イエス・キリスト様の契約の血が流されることはないのです。ですから、イエス・キリスト様が、2000年前に、あのイスラエルのエルサレム郊外にあるゴルゴダの丘で、十字架で死なれることによって約束して下さった救いの約束は、神と私たちの間に結ばれた最後の約束なのです。
つまり、イエス・キリスト様の十字架以外に、私たちクリスチャンがよって立つ土台は他にはないのです。だからこそ、私たちは、聖餐式をくり返し、くり返しおこなうことによって、私たちが、イエス・キリスト様が十字架の死のもたらして下さった神の最後の約束のうちに留まっていることを確認していかなければならないのです。確かに、私たちは神を信じ、イエス・キリスト様を自分の救い主として信じることによって、私たちの罪の結果としての神の裁きから救われます。そして、その救いを保証するのがイエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事なのです。だからこそ、そのことの記念である聖餐式は、決して軽んじられてはなりません。私たちは、それを尊び、厳かに聖餐に預からなければなりません。そして、その聖餐に預かり、自分は紛れもなく神の救いの内に入れられているのだと言うことを確認するためにも、洗礼を受け、ともに聖餐に預かる者となって頂きたいのです。だから、洗礼もまた軽んじられてはならないのです。
そう言った中で、先週、二人の姉妹が洗礼を受けると申し出てくれました。それは、私たちの教会にとっては、長い祈りの課題でもあり、本当に嬉しいことです。そうやって、神の救いの約束の中に導かれていたものが、揺るぎのないよって立つ土台を手にしたからです。今日の聖書の箇所で、イエス・キリスト様は「取れ、これは私のからだである。」と言われています。「取れ」といわれているのは、それを積極的に受取り手に入れていくことです。そして、それは私たちが救われているということの確証を受け取り手に入れていくことです。そして、それを手に入れていると言うことを、目に見える約束の言葉として、私たちの外側にあって、その約束を証しし、保証しているものが洗礼であり、その洗礼によって指し示されている死と復活が私たちの内に留まり続けていることを聖餐が証しているのです。
ですから、私たちは、この三鷹教会のひとりびとりと、また世界中のクリスチャンと洗礼と聖餐に置いて一つにされた共同体として、神の恵みを確認し感謝しながら歩んでいきたいと思います。また、まだ洗礼を受けておらす、聖餐に預かっておられない方々も、イエス・キリスト様を信じ受け入れておられるのであれば、その信仰ゆえにすでに神の救いの約束に入れられています。そして、救いの約束に入れられているからこそ、目に見える約束の言葉としての洗礼と聖餐の恵みに預かり、神の国のこの地上の現われである教会の交わりに与って頂きたいと心から願います。
お祈りしましょう。