『人間の弱さ』
マルコによる福音書14章27−31節
2007/8/26 説教者 濱和弘
賛美 11、308、396
さて、今朝の聖書の箇所は、最後の晩餐を終えた後、主イエス・キリスト様と弟子たちが、オリブ山に出かけていったことが記されている箇所です。マルコは、このオリブ山にて、弟子たちがイエス・キリスト様につまずくということをお告げになっています。特に一番弟子とも言えるシモン・ペテロについたては、「今夜、鶏が二度鳴く前に、三度私を知らないと言うであろう」とかなり具体的に、ペテロがイエス・キリスト様につまずくと言うことを予告しているのです。そういった意味では、今日の箇所は、同じマルコによる福音書の14章17節から21節に記されている「弟子たちの中の一人が、イエス・キリスト様を裏切る」という予告と相通じるものがあります。しかし、裏切りとつまづきは、必ずしも同じものではありません。
裏切りは、その人自身の内側から出てくる積極的なキリストへの反逆です。それに対して、つまずきは、外部からやってくる圧力などといった外的な要素によってキリストに背く、拒否するといったニュアンスになります。じっさい、新約聖書が書かれた元々の言語であるギリシャ語を見ますと14章28節の「裏切り」と訳されている言葉は、本来「引渡す」と言う言葉です。つまり、イエス・キリスト様を積極的に祭司長たちに売り渡し、その身柄を引渡す行為であるが故に、「裏切り」と訳されているわけです。それに対して、27節のつまずくと訳されている言葉は「信仰を拒否する」とか「信仰から離反する」といった意味を持つ言葉になっています。まさに「わたしは羊飼いを打つ。そして、羊は散らされるであろう」と言われておりますようにイエス・キリスト様が祭司長に捕えられ十字架の死という受難を味われることによってもたらされる弟子たちの困難な状況によって起るキリストからの離反であるがゆえに「つまづき」と訳されているわけです。
このようなキリストからの離反に対して、「信仰を拒否する」よか「信仰から離反する」と言った言葉を用いているのは、キリスト教の信仰は、キリストに対する信仰だからです。本来、信仰とは神に対する信仰であります。しかし、キリストから離反することが「信仰からの離反」、「信仰の拒否」になるのはキリストと神とが切っても切り離すことが出来ない不可分な関係にあるからです。神学の世界では三位一体と言う言葉を使いますが、父なる神と子なるキリスト、そして聖霊は決して切り離すことのできない深い結び付きによって一つにされた神なのです。ですから、父なる神を信じ敬うならば、キリストもまた子なる神として信仰の対象であり、信じ畏れ敬わなければならないのです。ですから、父なる神を信じながら、キリストを神として信じ敬うことが出来ないと言うことは、キリスト教の信仰では考えられないことです。「キリスト教はキリストです。」といった人がいますが、まさしくその言葉通りであろうかと思います。
むしろ、キリストを信じ、敬い礼拝することによって、このキリストと切っても切り離せない不可分な存在である父なる神を礼拝し、また、聖霊なる神を礼拝するのです。父なる神も、また聖霊なる神も私たちにとっては見えない存在であり、かつ十分に知ることのできない存在だからです。たしかに、旧約聖書には、父なる神が語られ、表わされています。また、この世界を見渡しますと、天地創造の神の御業を通して、神の偉大さを知ることが出来ます。しかし、それだけ、十分に神を知ったと言うことは出来ないのです。ときどき、このようなことを言われる方の言葉を耳にしたり、あるいは文書で目にすることがあります。それは旧約聖書に描かれた人を裁く厳しい神と、新約聖書の愛の神とがあまりにもかけ離れているように感じると言ったような言葉です。ここに集っている皆さんの中にも、そのような問いを投げかけかけられた経験がおありの方もいらっしゃるかもしれませんし、ひょっとしたら、皆さん自身がそのようにお感じになったことがあるかもしれません。
たしかに、旧約聖書と旧約聖書の間には埋め難い深い溝があるような感じがしないわけでもありません。それは、旧約聖書に於いては、神という存在が目に見ある存在として私たちの前には顕わされていないからです。もちろん、旧約聖書には預言者を通して語られた神の言葉が記されています。また歴史の中に顕わされた神のみ業も記されている。しかし、だれも神を見た者はいないのです。あの旧約聖書の中の最も偉大で、権威ある預言者であるモーゼですら、決して神の顔を見ることができず、ただ神のうしろのみを見ることしかできなかったといいます。
それ出エジプト記の33章23節にある記述です。そこにはこうあります。「主はモーセに言われた、『あなたはわたしの前に恵みを得、またわたしは名をもってあなたを知るから、あなたの言ったこの事をもするであろう。』モーセは言った、『どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください』。 主は言われた、『わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ』。 また言われた、『しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである』。そして主は言われた、『見よ、わたしのかたわらに一つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。そしてわたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう』。
ここには、「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」というモーセに対して「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」と神はお答えになります。しかし、その「もろもろの善を前に通らせ、恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」神は、決して正面から顔を見ることができず、ただ神の後ろだけしか見ることが出来ないと言うのです。確かに人の後ろ姿は、多くのことを語ります。ですから、後ろ姿だけでも多くのことを悟ることや推し計ることはできます。けれども後ろ姿だけでは、その人のすべてがわかるわけではありません。むしと、正面から顔と顔とを合わして、始めてわかることの方が大きいのです。その意味では、旧約聖書における最大の預言者であり神の人であったモーセですら、神の後ろしか見ることが出来ないと言うですから、旧約だけでは、神の全体像といいますか、神の姿を十分に知ることが出来ないのです。
それはつまり、「もろもろの善を前に通らせ、恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」その善と恵みがそのようなものであり、どれほど深く広いものであるのかと言うことが、旧約聖書だけでは私たちには十分にわからないと言うことであります。旧約聖書においては、この恵み深く憐れみに広い、そして善をもたらす神というお方は、私たちにとってはまだ隠された神であり見えざる神なのです。ところが、その見えない、隠された神が、イエス・キリスト様という存在を通して見える神として私たちの前に顕れて下さったというのです。ヨハネによる福音書の1章16節から18節です。「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」。
ヨハネによる福音書の1章は、神のひとり子である、子なる神が、おとめマリヤを通して人となって私たちの間に住んで下さったと言うことが書かれているところです。つまり、見えざる神が人となることで目に見える存在として私たちに顕れて、神を啓示して下さったと言うのです。その啓示された神、イエス・キリスト様を通して、私たちは、私たちを「あわれもうとしてあわれんで下さる神、恵もうとして恵んで下さる神」を知るのです。そして、その「あわれもうとしてあわれんで下さる神、恵もうとして恵んで下さる神」の「満ち満ちた」恵みと憐れみを受け、恵みに恵みを増し加えて頂くことが出来るのです。だからこそ、このイエス・キリストから離れてはなりませんし、私たちの信仰の中心、すなわちキリスト教の中心はイエス・キリスト様を信じるところにあると言えるのです。ところが、そのような恵みと憐れみを私たちに豊かにもたらし、私たちの前に善を通らせるお方であっても、試みや苦難、あるいは様々な誘惑によって、私たちは、このイエス・キリスト様はから離反し、信仰から離れてしまうことがあるというのです。
いや、そんなことがあるのでしょうか。子なる神イエス・キリスト様があふれるばかりの恵みと憐れみ深いお方であると言うことがわかっているのに、その方から離れていってしまうと言うことがあるなどと言うことが考えられるのでしょか。それこそ、そんなことなどあり得ないというように思われます。それこそ、イエス・キリスト様の御側で生活し、その恵み深さや憐れみといったものを身近に感じ、経験していたペテロや他のお弟子たちにとって、イエス・キリスト様から離反してしまうと言うことなど考えられないことだったろうとおも、います。だからこそ、かれらは、「たといあなたと一緒に死ななければならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません。」と言ったのです。しかし、実際の人間の姿は、私たちが思う以上に弱いのです。私たちはどんなに神の恵みを知り、神の憐れみ深さを知ってそれを経験していたとしても、誘惑があったり、困難や試練に出会うとき、キリストから離れ、信仰から離れ、教会から離れてしまうことがあるのです。
イエス・キリスト様は、そんな人間の弱さをちゃんと見抜いておられる。神はそのような人間の弱さをちゃんと知っておられるのです。おそらく、「たといあなたと一緒に死ななければならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません。」と言う気持ちは、ペテロや弟子たちの本心であったろうと思いますし、それは嘘偽りのない気持ちだったろうと思います。けれども、どんなに強い意志や決心をもっていたとしても、それがもろく崩れ去ってしまうような弱さを誰しもがもっている。そのようなペテロを始めとする弟子たちの弱さを全部ご存知の上で、イエス・キリスト様は、彼らを弟子として召し、御そばに置かれたのです。そして、同じ弱さをもつ一人一人として私たちもまた、こうしてここに召し出され、この教会に集っています。イエス・キリスト様は、いつつまずいてもおかしくない私たちの弱さをご存知の上で、私たちを個々に呼び集めて下さっているのです。そして、その弱さをそのまま受け解けて下さっている。
というのも、イエス・キリスト様が「わたしは羊飼いを打つ。そして、羊は散らされるであろう」という、弟子たちがイエス・キリスト様につまずくという予告は、まさに予告であって、それが現実になると言うことの上に語られています。ですから、やがて散らされるような試みが来るから心してつまずかないようにしなさいと言うような警告的な意味ではないだろうと思います。ですから、ペテロが「たとい、みんなの者がつまづいても、わたしはつまづきません。」という固い意志と思いを告げたとしても、必ず、つまずく、わたしから離反していくという事実を見越して語っているのです。そのような弟子たちの離反を見越した上で、イエス・キリスト様は「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤに行くであろう」。とそう言われるのです。この場合「あなたがたより先にガリラヤに行く」というのですから、イエス・キリスト様が復活の後にガリラヤに行かれる目的は、「散らされた羊」である弟子たちと再び会うためと考えて良さそうです。
つまり、イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様が十字架の死という受難の出来事の直面し、キリストの弟子であると言うことで、自分たちに降りかかってくる災いを畏れて逃げ出し、信仰から離反した弟子たちと、蘇られた後に再び合おうとして、ガリラヤに行かれるのです。イエス・キリスト様は、再び弟子たちと合おうとしてガリラヤに向われる。それでは弟子たちはどうしてイエス・キリスト様の十字架の死という受難の出来事の後にガリラヤに行くのでしょうか。考えてみて下さい。ガリラヤは弟子たちにとっては故郷です。彼らは、かつてはそこに住み、そこで暮していた。例えばペテロとヨハネとヤコブは、ガリラヤの湖で魚を捕っていた漁師だったのです。その弟子たちが、ガリラヤに行く、いえ替えるという表現の方が適切だろうと思いますが、ガリラヤに帰えるのは、キリストの弟子としての生活ではなく、かつての暮らし、もといた世界に戻るためです。事実ヨハネによる福音書21章をみますと、ペテロが、トマスやナタナエル、またヤコブやヨハネ、そして他の二人の弟子たちと漁をして魚を捕ろうとしたが一匹もとれなかった記事が出ています。そこに復活のイエス・キリスト様があらわれたのです。
ですから、イエス・キリスト様はキリストの弟子としての生き方を捨て、イエス・キリストを信じる信仰から離れてしまっている弟子たちともう一度会われるために、ガリラヤに行かれたのだと言えます。イエス・キリスト様につまずき、離反し信仰から離れてしまい元の生活に戻ってしまっている弟子たちに、イエス・キリスト様の方から、彼らに先立って出かけていって、お会いになられるというのです。もちろん、それは弟子たちがもう一度やり直すためです。復活のイエス・キリスト様と出会い、もう一度キリストの弟子としての生活に出発するためだったのです。イエス・キリスト様は、困難や試練が訪れると、信仰から離反してしまう弟子たちの弱さを知って、彼らを弟子として迎え入れられました。そして一度、弟子として迎えられたならば、その弱さゆえに、彼らがキリストから離反し、信仰から離れてしまったとしても、イエス・キリスト様の方から、彼らのところに出向いて行かれるのです。
先ほどのヨハネによる福音書の21章14節を見ますと、漁をしているペテロを始めとする弟子たちのところに蘇られたイエス・キリスト様がお現われになったのは、これで3度目であったと記されています。おそらくは、前の二度の顕現の時は、弟子たちに喜びは与えたかもしれませんが、しかし、弟子としての生活に戻るまでには至らなかった者と思われます。つまり、イエス・キリスト様は、彼らが戻ってくるまで、何度でも何度でも弟子たちのところに足を運んでいるのです。決してあきらめてはいません。みなさん、私たちの教会は、日曜日の礼拝の他に木曜日の午前中に祈祷会をもっています。祈祷会は教会の祈りの集会であり、私たちの教会の抱えている様々な祈りの課題を祈っています。その祈祷会において必ずお祈りすることの中に、教会から離れている人たちのことを覚えてお祈りしています。それこそ、思い出す限り一人一人のお顔を思い出しながら、名前を挙げてお祈りします。もちろん、どうか教会の交わりの中に帰ってきていただきたいというのが一番の願いではありますが、しかし、かりにそれが私たちのこの三鷹教会というのでなくても、正統的な信仰に立つ教会であるならば、どの教派の教会であっても良いと切に願いながら祈っています。
そのように、教会から離れていった人たちのために祈りながら、いつも私の心によぎる思いは、「神様決して彼らから離れておられないなぁ」という思いです。どんなに人が神から離れ、キリストから離反していったとしても、神様の方から、彼らを見捨て離れることはありません。あのキリストから離れ、信仰から離反してしまった弟子たちを、イエス・キリスト様が決してあきらめず、見捨てないで、何度も何度も彼らのところに現われたように、私たちもイエス・キリスト様から見放されることはないのです。ですから、同じように私たちの教会から今は離れてしまっている兄弟姉妹のお一人お一人もまた、だれ一人として神から見放され、見捨てられていると言う人などはいないのです。人間の弱さを知り尽くしておられながら、その弱さをもったままでご自分の弟子として、神の民として迎え入れて下さったお方は、その弱い私たちを見捨て離れてしまうことなどないのです。どんなに、信仰から離れ、信仰の世界ではなく、この世の生き方、かつての生き方に戻ってしまっていたとしても、神が見捨てておられないのですから、私たちがあきらめてはなりません。ですから、私たちは、教会から離れておられるお一人お一人のために祈っていかなければならないのです。
また、私たち自身も、神は決して私たちの弱さを責め、私たちを見捨てて行かれるお方ではないと言うことを、決してわすれてはなりません。先ほども申しましたように、「たといあなたと一緒に死ななければならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません。」と言うテロや弟子たちの気持ちは、決して生半可な者ではなかっただろうと思います。じじつ、彼らは職を捨て、家族からも離れてイエス・キリスト様の弟子として、三年以上も一緒に旅をしてきたのです。それは決して楽な旅ではありませんでした。ですから、彼らの意志や思いはかなり強い、しっかりとしたものであったことは、容易に予測がつきます。けれども、そのペテロやヤコブ、ヨハネと言ったイエス・キリスト様のごく身近で親しくしていた弟子たちであっても、そのうちにある弱さは隠しきれないのです。ましてや、私たちは、彼らと比べるならば、もっともっと弱い、弱さをもった一人一人なのです。ですから、私たちもいつ、試練や困難、あるいは様々な誘惑やつまずきの中で、信仰から離れ、信仰生活から離れてしまうことがあるかもしれません。私たちはそう言う人間の持つ弱さをもっているのです。
けれども、ペテロを始めとする弟子たちが、イエス・キリスト様につまずき、「羊が散らされる」よう、信仰から離反することがあったとしても、キリストは、彼らに、先だって行かれ、散らされて散りじりになった羊を捜し、再び出会って下さるとそう約束して下さっているのです。そして、私たちも同じ約束のもとに置かれ得ています。仮に私たちが、私たちの持つ弱さの故に、つまずくことがあって、イエス・キリスト様は決してあきらめることなく、私たちと再び出会ってくださり、私たちを神のもとへ、キリストのもとへ呼び戻して下さいます。それこそ、今は、キリストにつまずいてしまっていると言うときであっても、その人生の将来に先だって言って下さって、私たちを待っていて下さるのです。ですから、決して私たちを見捨てず、見放さず、私たちから離れないキリストの愛を、私たちはしっかりと覚えていましょう。そして、キリストが弟子たちになさった「しかしわたしは、よみがえってから。あなたがたより先にガリラヤに行くであろう。」という約束の言葉を心に留めておかなければなりません。それは、このイエス・キリスト様につまずいた弟子たちに対する希望の言葉であると同時に、同じ弱さをもった私たちにとってもまた、希望の言葉だからです。
お祈りしましょう。