『弱さの中から立ち上がる』
マルコによる福音書14章32−42節
2007/9/2 説教者 濱和弘
賛美 251、35、454
さて、今日の聖書箇所は、教会では「ゲッセマネの祈り」として知られた有名な箇所であります。この「ゲッセマネの祈り」において、イエス・キリスト様は、「恐れおののき、また悩み、悲しまれた」と聖書は告げています。マルコによる福音書14章32節から33節です。「さて、一同はゲッセマネと言うところにきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、『わたしがいのっている間だ、ここにすわっていなさい』。そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れていかれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここで待っていて、目をさましていなさい』。」このイエス・キリスト様の「恐れ」と「おののき」、また「悩みと悲しみ」は、イエス・キリスト様のうちにも弱さがあったのだということを私たちに教えてくれます。先週、私たちは、今日の聖書の箇所に先立つマルコによる福音書14章27節から31節を通して、私たちは弱さを持った存在であるということを学びました。そしてその弱さの故に、誘惑にまけ信仰から離れたり、試練に出会うことで教会から離れることはあったとしても、神は決して私たちを見捨てるお方ではないと言うことを学んだのです。見捨てないからこそ、もう一度、立ち上がることが出来るように、何度も何度も私たちに呼びかけて下さるのです。
そのような、つまづき倒れてしまうような弱さ、人間の誰しもが持っている弱さを、イエス・キリスト様も持っておられるのです。このイエス・キリスト様の弱さを示す「恐れ」、「おののき」、「悩み」「悲しみ」というのは、私たちの罪に赦しをもたらし、私たちの苦悩の根源である罪や死の問題に救いもたらすために十字架の上で死なれるという出来事を目前に控えた「恐れ」であり「おののき」であり、「悩み」「悲しみ」です。先日、テレビで「出口のない海」という映画を放送していました。残念ながら私はそれを見ることができませんでしたが、この映画はいわゆる特殊潜行挺、つまり人間魚雷「回天」で特攻隊員として死んでいった青年の物語です。実は、私は、中学生の頃、広島県の江田島に行ったことがあります。江田島には昔、海軍兵学校がありました。現在は海上自衛隊の幹部候補生学校になっていますが、そこには、実際に特攻につかわれた特殊潜行や戦艦陸奥の砲台などが展示してあるのです。そして、それらを見学することが出来ます。ですから、私も、実物の特殊潜行挺を見たことがあるですが、それだけではなく、教育資料館と呼ばれる建物があり、そこでは、特攻隊員として死んでいった青年たちの遺書や遺品を見ることができるのです。
私は、そこでその遺書の幾つかを呼んだのですが、その文面にある言葉の背後に、自分の命を投げ出して特攻に向う人たちの苦悩や悲しみといったものが、中学生ながらに感じ取られて、何とも言えない思いになりました。そんなわけで、戦没者学生の手記が集められている「聞け、わだつみの声」という本を買って呼んだりしたのですが、そこには、やはり死を運命づけられた人間の苦悩や悲しみが、綴られた文面の背後に聞こえてくるような気がしました。死に直面するときに、だれもが苦悩し、悩み、恐れる。それが悲惨なものであると言うことがわかればわかるほど、それから逃れたいと感じるのは自然な人間の感情です。その自然な感情をもって、イエス・キリスト様は十字架の出来事に向き合って下さったのです。それは、まさに十字架の死というものが指し示すものが、人間誰しも向き合わなければならない出来事だからです。一つは、まさに死という現実です。
死という現実は私たちを悲しみのどん底に陥らせますし、私たちに激しい苦悩をもたらし、こころにかっとうをかんじるものです。ですから、誰しも死と向き合うときに、できるものならば、それから逃れたいと言う思いになるではないでしょうか。それは、神の御子イエス・キリスト様であったとしても、人となってこの世に産まれてきたならば同じことなのです。逆に言えば、イエス・キリスト様がそのような苦悩や悲しみを表し、何とかそこから逃れることは出来ないかと祈っているお姿こそが、神の独り子私たちと同じ人となって下さったと言うことのまぎれも証なのだということもできます。しかし、それでもイエス・キリスト様は、苦悩の中から「しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と祈るのです。それは、イエス・キリスト様が、ただ私たちと同じ人となられたと言うことだけではなく、キリストとして私たちの苦悩や悲しみに救いをもたらして下さるお方でもあるからです。
どんなに深い苦しみや悲しみが伴うものであったとしても、御自身の生涯に救い主として、人を罪から救い、死という苦悩から救い出すという神のみこころ、神からの使命があるならば、それがなされるようにと祈られるのです。ですから、ゲッセマネの祈りには、神の独り子としてのイエス・キリスト様の使命と人となられたイエス・キリスト様の弱さの間にある深い葛藤の祈りであると言えます。そして、その葛藤を「神のおこころがなりますように」という祈りで乗り越えて行かれたのです。「神のみこころがなるように」と言う祈りは、神のご計画が私の上に行われますようにと言う祈りです。十字架の死ということを突きつけられながら、それが神の私に対するご計画であるならば、そのことが実現しますようにと、イエス・キリスト様は祈られるのです。このような「神のみこころがなりように」と言う祈りは、その背後に、神のご計画が実現するところには、必ず幸いがあるという信頼がなければ祈ることが出来ません。神様のみこころにゆだねて、神のご計画が実現したならば、そこに災いや不幸があるならば、到底「神のみこころがなりますように」と祈ることなど出来ないのです。
ですから、イエス・キリスト様が、十字架の死という出来事を見据えながらも、「神のみこころがなりますように」と祈りながら、神の独り子として神の使命と人間としての弱さの間にある激しい葛藤を乗り越えて行かれたのは、御自分が十字架で死なれることが、幸いをもたらすことだからです。もちろん、イエス・キリスト様にとって、死そのものが幸いなわけではありません。死は人間にとっては忌むべきものであり、幸いなものにはなりえないものです。だから、イエス・キリスト様であったとしても、それから逃れたいと思ったのです。けれども、イエス・キリスト様が十字架で死なれることによって、幸いは確かにもたらされるのです。それはイエス・キリスト様ご自身にではなく、私たちにもたらされる幸いです。私たちの罪を赦し、その結果、私たちが決して逃れることのできない死に対して、天国の希望と永遠の命という、死からの解放の約束をもたらす幸いなのです。この幸いが神を信じる者達にもたらされるからこそ、イエス・キリスト様にとっては不幸以外の何ものでもない、十字架の死というものを引き受けられたのです。イエス・キリスト様はご自分の幸いのために「みこころがなりますように」と祈られたのではありません。私たちのために「みこころがなりますように」と祈られたのです。私たちに幸いをもたらそうとする神の愛に対するイエス・キリスト様の信頼と私たちに対する深い愛があります。
この信頼と私たちに対する愛が、イエス・キリスト様を弱さの中から立ち上がらせるのです。「できることなら、この(十字架の死と言う受難の時、苦しみの)時を過ぎ去らせて下さい。」「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この(十字架の死と言う受難の時、苦しみの)杯をわたしからとりのけてください」と祈る弱さの中から、「しかし、私の思いではなく、みこころのままになさって下さい」という祈りへと立ち上がらせるのです。イエス・キリスト様は、このようにゲッセマネの祈りを通して、そのような弱さや葛藤の中から立ち上がって行かれたのですが、そのとき弟子たちはどうしていたかというと、眠っていたと言うのです。この時のイエス・キリスト様の祈りは、激しい葛藤の中で祈られた祈りですから、けっして、チャチャット祈られたというものではなく、真剣な祈りであり、おそらくは長い祈りであっただろうと思います。ですから、その長い祈りがなされている間に、彼らは眠くなってしまい、それで眠ってしまったと言うことかもしれません。
この時眠っていたのはペテロとヤコブとヨハネです。この三人は、イエス・キリスト様の弟子集団の中では中心的人物となっていく人たちです。ペテロは、それこそ12使徒のリーダー的存在ですし、ヤコブは後に弟子集団を代表する人物として殉教の死を遂げますし、ヨハネは、使徒たちの中では、最後まで生き残り、出来たばかりの教会を慰め励ました人です。ですから、彼らは、弟子たちの中では際立った存在であったと言うことができます。だからこそ、イエス・キリスト様は、このゲッセマネの園で祈られるときに、この三人を弟子たちの中から選び出して、祈りの場に連れていったのだろうと思います。ところが、その三人が祈りの最中に寝てしまうのです。それが以下に長い祈りであったとしても、最初に「恐れおののき、悩みはじめて」彼らに「私は悲しみのあまり死ぬほどである。」とそう言われているのですから、尋常な事態ではないことがおこりそうだということぐらいはわかりそうなものです。そして、そのような中で祈る祈りですから、それは極めて重要な祈りであると言うことも、彼らにはわかっていただろうと思うのです。けれどの、彼らはそのような祈りが捧げられていると言うことがわかっていても眠ってしまうのです。
しかも、そのように眠っている弟子たちのところに、イエス・キリスト様がわざわざ彼らを起して、「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」と言われたのに、また眠ってしまうのです。そんなことを、ペテロとヨハネとヤコブの三人は、そんな失態を二度もくり返すのです。それは、彼らの気持ちがだらけていたとか、緊張感に欠けていたと言うことではないだろうと思います。と申しますのも、イエス・キリスト様が彼らを起され「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」と言われた後に、「心は熱しているが、肉体は弱いのである。」と言われているからです。私たち日本人は、ともすれば精神論が先行しますから、気持ちがこもっていれば眠気なんか吹き飛ぶとか、気合いが入って集中していれば眠気を感じない。眠くなるのは気持ちがたるんでいるせいだといいたくなりますが、気持ちが小乗っていれば眠くならないなどと言うのは嘘です。どんなに気持ちがこもっていても、集中していても、体が疲れていたならば眠くなると言うことはあるものです。第一、体が疲れていますと、そもそも集中なんかできません。仮に集中することがあったとしても長続きはしないのです。
以前、ある大きな集会に出席したときのことです。それこそ700人800人とあつまる集会で、講壇の上には、日本を代表するような有名な牧師が何人も並ぶような集会でした。そのような中で、説教が語られたのですが、講師は外国から来られた方で、通訳付きの説教が語られていました。その説教を聞きながら、私はなんだかだんだん眠くなってきたのです。実は、前の晩夜更かしをしてしまって、それで眠くなってしまったわけですが、講師は、手振り身振りを交えながら熱心に聖書から語らえている。聞く私も真剣に聞かなければならないと思っているのですがだんだんと眠くなる。私もどちらかというと体育会系の人間ですから、精神論的傾向を持っています。そんなわけで、真剣に聞かなければならない説教中に眠くなった自分に対して、「いかん、いかん、気持ちがたるんでいるから眠くなるのだ」と太股をつねったり、手の甲に爪の跡が残るくらい強くつねったりして、必死で目を開けて話を聞こうとしていました。
そのとき、ふとみると、その講壇の上で説教者の後ろに控えてすわっている著名な牧師の方々の中のお一人が、こっくり、こっくりと船をこいでいらっしゃるのです。その船をこいでいる牧師は、わたしも良く存じ上げている牧師で、けっして不真面目な方ではありません。おそらく、お名前を挙げれば皆さんもきっと知っておられると思いますが、むしろ、信仰の厚い熱心な牧師なのです。その牧師が、説教の途中に居眠りをしている。しかも、説教をしている講壇の上に席を取って座っておられるその席で眠っておられるのです。講壇の上ですから、自分もまた講師と共に700から800人の会衆の目に曝されているのです。ですから、本来なら寝ようにも寝られないところだろうと思うのですが、しかし、それでも船をこいでいる。私はそのとき、「ああ、あの牧師も本当に疲れていらっしゃるんだろうな」とそう思ったのです。そして、「あの牧師ですら、疲れたら眠くなるのだから、どんなに頑張っても、私が眠くなるのは仕方がないな」とおもって、私も安心して説教中に寝てしまいました。
もちろん、私は説教中に居眠りしましょうとか居眠りしても良いと言うことを言っているわけではありません。もちろん本来、説教はきくべきものです。しかし、どんなに一生懸命頑張ろうと思っても、体が疲れていたならばどうしようもないときもあるのです。気持ちはあっても体が着いていかないと言うことは確かにあるのです。そういった意味では、ペテロにしろ、ヤコブにしろ、ヨハネにしろ、本来は目をさまして祈り、イエス・キリスト様の祈りを支えるべきだったのです。だからイエス・キリストは、彼らを二度にわたって起したのです。しかし、同時に、私たちの肉体的限界と言うこともちゃんと知っておられるからこそ、「肉体は弱いのです」とそう言って、私たちの思いだけではどうにもならない弱さを受け止めていて下さるのです。この、自分の思いだけではどうにもならないということは、単に体の問題だけではありません。私たちを取り巻く生活の様々な問題において、自分の思いだけではどうしようもない問題がたくさんあります。たとえば、先ほどの死の問題などもそうです。どんなに、自分で頑張ろうと、自分の寿命を延ばすことはできません。
命だけの問題ではない、経済上の問題や人間関係での問題、そして信仰上の問題、私たちはあらゆるところで、自分の思いや頑張り、熱心さと言うことではどうにもならないことにぶつかることがあります。そして、そのような現実の前に立つと、私たちは、どんなに思いはあっても。もうそこに座り込んでしまうしかなくなってしまうのです。そのような、もう自分の思いや力では立ち上がれないというような弱さに、私たちは至ることがあるのです。けれども、そのような弱さをもつ私たちを、イエス・キリスト様は受け入れて下さっているのです。そして、時がきたらならば、私たちを再び立ち上がらせて下さるのです。14章の41節42節には、三度目にイエス・キリスト様が弟子たちのところにやってきたときの言葉がこう記されています。「まだ眠っているのか、休んでいるのか、もうそれでよかろう。時がきた。見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ。立て、さあ行こう。見よわたしを裏切る者が近づいてきた。」
「まだ眠っているのか、休んでいるのか」というのですから、イエス・キリスト様が弟子たちを二度にわたって起した後であっても、弟子たちは寝込んでしまっていたようです。そんな弟子たちに、イエス・キリスト様は「もうそれでよかろう」と声をかけられています。この「もうそれでよかろう」と言う言葉は、何度も眠りこけていた弟子たちに対して、「そんなに眠っているならば、十分に寝ていなさい」という皮肉の意味で言われたのだという解釈もあるようですが、しかし、そういう意味ではなく、「もう十分に眠っただろう」という意味に理解した方がよいだろうと思います。つまり、「どうしようもないほど疲れていたその疲れを癒すには十分な眠りをとっただろう、だから時がきたのだから、さあ立ち上がって、出かけていこう」というように理解する方が、分の流れを考えると良いように思われます。ということは、イエス・キリスト様は肉体の物弱さ故に、起きておくことの出来なかった弟子たちをあえて起すのではなく、立ち上がることが出来るようになるまで待っていてくださったということです。そして、立ち上がることが出来る力が回復して、はじめて、それじゃ、立ち上がってわたしと一緒に行こうと言っておられるのです。
ここにも、キリストの愛があります。私たちの幸いのためであるならば、ご自分は十字架の死という苦難さえも甘んじて受けて下さる主は、弱さの中で立ち上がることが出来ないなら、立ち上がることが出来るようになるまで、じっと忍耐して待って下さるお方なのです。眠っているからと言って、立ち上がれないからと言って、決して私たちを置いてきぼりにはなさりまません。同様に私たちが動けなくなって座り込んでしまうならば、じっと私たちのかたわらに留まって下さり、愛を持って見守って下さっているのです。私たちは、祈れないこともあるだろうと思います。聖書を読むことも出来ないときだってあるに違いありません。礼拝に来ることが出来ないことだってあるでしょう。また、人を赦そうと思っても赦せないときだってあるし、愛せないときだってある。もちろん、祈ることは大切ですし、祈らなければなりません。聖書を読むことは大切です。礼拝を守らなければなりませんし、人を赦し、愛することはなさなければならないことなのです。そしてそれが大切だ、そうしなければならないとわかっている。それでもどうしても出来ない時があるのです。そんな時、イエス・キリスト様は出来ない私たちに「それをしろ」とは言われません。ただじっと愛を持って見守り、出来るようになるときまで待っていて下さるのです。
だからこそ、だからこそあえて言わせてもらえれば、キリストがそのように愛を持って見守っていて下さるからこそ、私たちは自分の中にある弱さを認め、その弱さの故に立ち上がれない現実を受け入れたとしても、いつまでもそこに留まっていては行けないのです。むしと、それが出来るようになるまで、十分に癒され、休息をいただいたなら、そこから立ち上がって、イエス・キリスト様と共に歩んでいく生涯に、一歩を踏み出していかなければならないのです。私たちは、私たちの幸いのためには命を投げ出してくださる愛によって導かれ、じっと忍耐を持って私たちを見守って下さる愛によって守られているのです。だからこそ、「もうそれでよかろう。十分だ」と言われるときがきたならば、勇気を持って弱さの中から立ち上がっていく者でありたいと思います。
お祈りしましょう。