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羊飼い 『もっとも大切なこと』
マルコによる福音書 14章55−72節
2007/9/16 説教者 濱和弘
賛美 : 20,275,415

さて、今日の聖書の箇所は、イエス・キリスト様の裁判の様子が記されている箇所です。イエス・キリスト様を捕えた祭司長や律法学者は、すぐさま大祭司の邸宅で、イエス・キリスト様を裁判にかけます。もっとも、イエス・キリスト様の裁判については、四つの福音書の間では多少の違いがあり、ヨハネによる福音書18章12節、13節によりますと、逮捕後すぐに、イエス・キリスト様は大祭司アンナスの所に連れていかれたようです。そしてそこで、審問を受けた後、そのあと、大祭司カヤパのところに連れていかれたというのです。今日の聖書の箇所の大祭司の邸宅で行われた祭司長たちやサンヘドリン議会とイエス・キリスト様との間でなされたやりとりは、この大祭司アンナスの邸宅のことなのか、大祭司カヤパの邸宅での出来事なのかは、マルコによる福音書だけでは定かではありません。

しかし、マルコによる福音書に書かれている内容を見ますと、この祭司長たちやサンヘドリン議会とイエス・キリスト様とのやりとりは、大祭司カヤパの邸宅で行われた者と考えられます。というのも、マタイによる福音書にある大祭司カヤパの邸宅での出来事と、このマルコの記事の内容がほぼ一致するからです。ですから、このやりとりは大祭司カヤパの邸宅で行われたものだと考えてよろしいだろうと思います。その大祭司カヤパでの出来事を裁判と受け取るか、審問と受け取るかは微妙なところです。と申しますのも、翌日に正式なユダヤ人たちによる裁判が行われていますし、当時、サンヘドリン議会が大祭司の邸宅では行われることはなく、また、死刑の判決が夜なされることはなかったというような状況があったと言われるからです。そんなわけで、このカヤパでの邸宅の出来事は裁判と言うよりもは審問といった方が良いのかもしれません。

しかし、いずれにせよ、イエス・キリスト様は、カヤパの邸宅で有罪かどうかが問われたのです。そして、その後、夜が明けて正式に祭司長、長老、律法学者たちやサンヘドリン議会によって裁判にかけられ、それからローマ帝国の総督ピラトのもとに連れていかれています。マルコによる福音書は、このピラトのもとで十字架刑が確定しているように見えますが、ルカによる福音書は、ピラトがイエス・キリスト様がガリラヤの出であると聞いて、ガリラヤの領主ヘロデのもとに送ったとあります。そのヘロデから再びピラトのもとに送り返されて、そこで最終的に十字架刑が決定しているのです。ですから、逮捕からイエス・キリスト様の処刑が決定するまでに、大祭司アンナスの邸宅の審問から始まって、カヤパの邸宅の審問―ユダヤ人による正式な裁判―ピラトの裁判―カヤパの裁判―ピラトの裁判と6回もあちらこちらとたらい回しにされたことになります。このように、イエス・キリスト様がたらい回しにされたのは、結局のところ誰も、最終的にイエス・キリスト様を処刑するという最終決定を下したくなかったからだろうと思われます。つまり、本当のところは、だれもイエス・キリスト様を処罰に価するようなことをしているとは思っていなかったと言うことです。

このカヤパの邸宅の審問に置いても、イエス・キリスト様を死罪にあたるものと断定しはいますが、この審問以前に、すでに律法学者たちや祭司長たちはイエス・キリスト様を殺そうときめていたのです。ですから、このカヤパの邸宅で審問はしていますが、それは最初に死刑という結論ありきの審問であり、それだけに彼らには後ろめたいところがあったと思われます。だから、自分たちで手を染めるのではなく、ピラトの裁判によって、ローマの法律の下で政治犯として処刑させようとしたと考えられます。結局、誰も自分が無罪の者に処刑の決断を下したくないのです。

昨日、遅い昼食を取っているときに、ふと見たテレビに「袴田事件」で死刑の判決を下した裁判官のその後の人生を追ったドキュメンタリー番組をやっていました。「袴田事件」というのは、42年前の1966年に静岡県清水市で起きた一家殺害事件ですが、その犯人として袴田巌さんが逮捕されました。しかし、十分な証拠もなく、提出された証拠もねつ造されたのではないかと思われるほど問題があるものばかりなのですが、結局自供がもととなって死刑判決が下ったのです。そのとき事件を担当した裁判官の一人は、無罪の心証を持ちながらも、他の二人の裁判官有罪を主張したため、結局、最終的には多数決で死刑となり、その死刑の判決文を書くことになります。けれども、その良心の呵責から裁判官を止め、弁護士になるのですが、結局、その苦しみの中で酒に溺れ転落していくのです。そして、今、自分は裁判で判決を下したが、本当は無罪だと思うといって、もう一度弁護し資格をとって、自分が死刑判決を下した袴田さんの弁護をしようとしているというのです。

そこには、無罪の人間に死刑判決を下した人の苦悩や苦しみ、そして葛藤というもの映しだされていました。同じように、誰だって本当ならば死刑にあたるようなことをしていない人に死刑判決など下したくないのです。しかし、それでも祭司長たちや律法学者たちはイエス・キリスト様を殺したいのです。それは、もはやイエス・キリスト様が倫理的に、あるいは宗教的に罪を犯しているという事ではありません。ただ彼らには、妬みという動機があった。だから、最終的には宗教的に無罪の人間に、自分たちの宗教的な裁判の結果として死刑の判決を下すのではなく、ローマの総督の下での裁判で死刑にしたのです。イエス・キリスト様が倫理的に、宗教的に罪がないと言うことは、55節から59節までに多くの人がイエス・キリスト様に対する不利な偽証をしたという事からも明らかです。だれも、イエス・キリスト様に問題があると言うことを正しく示すことができなかったのです。できないからこそ、偽証をたててまでイエス・キリスト様を罪人としようとしているのです。

ですから、この偽証をしている人もまた、言葉の表面はどうであれ、本音としてはイエス・キリスト様を殺したいと思っている一人だといえます。そのような、偽証が述べられているとき、イエス・キリスト様はただ沈黙を守っておられます。大祭司が議場の真ん中に進み出て「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な偽証を申し立てているが、どうなのか」と問われたときでさえ、何もお答えにならなかったのです。ところが、大祭司が「あなたは、ほむべきかたの子、キリストであるか」と問われると、さっきまで沈黙を守っておられたお方が、はっきりとお答えになるのです。その答えというのは、「わたしがそれである。あなたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのをみるであろう」というものでした。「わたしがそれである」と言う言葉は、ギリシャ語では、"εγω ειμι(エゴー エイミー)"となっています。神学者の方の中には、この"εγω ειμι"と言う表現は聖書の中では、特別な表現だと言います。

というのも、"εγω ειμι"と言う表現は、旧約聖書の出エジプト記の3章13節、14節で、モーセという人が神から、エジプトで奴隷となって苦しんでいるイスラエルの民を救い出すように命じられたときに、モーセが神に向って、「あなたのお名前は何というのですか?」と問いかけたときに、答えた答えに通じるからです。モーセに「あなたのお名前は何というのですか?」と問いかけられた神は、「わたしは有って有る者」とお答えになっています。この「わたしは有ってある者」という言葉、これは旧約聖書に書かれていますから、ヘブル語で書かれているわけですが、これをギリシャ語に翻訳したときに"εγω ειμι(エゴー エイミー)"となるのです。ですから、ここにおいてイエス・キリスト様が自分自身に対して、"εγω ειμι"と言われたと言うことは、イエス・キリスト様ご自身が、わたしは神であると宣言したという事にもなるわけです。

イエス・キリスト様が、ご自身を「モーセに現われたあの神がわたしである。」と言われたのならば、大祭司が衣を裂いて「神を汚す言葉を聞いた」つまりイエス・キリスト様が、「(自分を神だと言って)神を汚す言葉をいった」と言うもの納得がいきます。あるいは、大祭司は「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」と問うているのですから、さきほどの"εγω ειμι"というお答えも、単に「わたしはキリストです」という意味に留まるものであると言う可能性もあります。しかし、「ほむべき者」というのは神の湾曲的表現です。ですから、祭司長の質問は「あなたは神の子、キリストであるか」というものであり、その質問に、「わたしは、神の子キリストだ」と答えているのです。そうすると、この神の子というのは特別な意味を持っていることになります。さらには、「わたしは神の子キリストである」といった言葉に「あなたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのをみるであろう」と付け加えているのです。

この「あなたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのをみるであろう」という言葉は、詩篇110篇1節の言葉とダニエル書7章13節に基づいています。詩篇110篇一節は、「主はわが主に言われる。『わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ』という言葉であり、ダニエル書7章13節14節は「わたしはまた幻のうちに見ていると、見よ、人のこのような者が天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と栄光と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語のものを彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。」と言う言葉です。これらは、結局、イエス・キリスト様が「あなた方は、やがて再び審判者として来られるのを見るであろう」と言っておられることであり、イスラエルの民にとって裁きを下す審判者は神しかおられませんから、これもまたご自身の神としての御性質を語っておられる言葉だといえます。

ですから、いずれにしても、大祭司たちにとって、このイエス・キリスト様の言葉は、死刑に価する「神を汚す言葉」として受け止められるものでした。もちろん、大祭司は、このイエス・キリスト様の言葉を聞く以前からイエス・キリスト様の事を殺そうとしていましたから、この言葉によって「死刑に価する」と判断したわけではありません。殺そうと思っていたその思いに都合の良い「言質」を取ったに過ぎません。しかし、いったいどうして、それまで沈黙を守っていたイエス・キリスト様が、相手に揚げ足をとられ、言質を取られるような言葉を言ってしまったのでしょうか。不思議な気がしますが、みなさんはどう思われるでしょうか。結局、それは沈黙を守ってはならない言葉だったからです。「あなたは、神の子キリストであるか。」と問われたならば、その答えは決して避けてはならない答えなのです。

イエス・キリスト様はご自分が神の子であり、私たちを救い主であること、そしてこの世を裁く審判者であるという事は、何かあっても人々に告白し伝えなければならない1番大切な言葉なのです。このように、神を信じる者には、絶対に語り、告白しなければならない言葉があります。イエス・キリスト様にとってはそれが、ご自分が「神の子であり、私たちを救い主であり、そしてやがて再び再臨するこの世を裁く審判者であるという事」だったのです。この言葉だけは、いつでも、どんな時でも人々に向って語り告白しなければならない宣言の言葉なのです。それでは、私たちキリスト者にとって、神を信じる者として告白しなければならない言葉とは、いったい何なのでしょうか?

教会には「信仰告白的事態」とか「信仰告白の事態」という言葉があります。この言葉は、もともとルター宗教改革が一段落した17世紀の頃の言葉です。ドイツのルター派教会の中に、宗教改革の神学をきちんと整理し体系化しようと言う運動が起ってきました。この運動を正統主義というのですが、この正統主義の走りとなった人がメランヒトンという人です。このメランヒトンという人は、平和主義的な考え方の人で意見が対立した場合は、どちらかというと議論を戦わせてどちらかが勝ちどちらかが負けると言った白黒の決着をつけるタイプではなく、双方の間に入って意見の調整をするという調整型の人間でした。そのメランヒトンの時代の正統主義の時代に、神学を整理し体系化しようとすると、当然色々と意見が分れることも出てきます。このときにはドイツのルター派宗教改革では、圧倒的指導者であったルターも死んでしまっていませんので、そのような意見が分れたときに、どうするかが問題になります。

そのときに、ルターの盟友でもあり支持者でもあったメランヒトンは、教会の教えの中にはアディアフォラというものがあるといって意見の調整をしようとします。アディアフォラというのは「どうでもいいこと」ということです。つまり、どちらの意見であっても良い、それは教会にとって対したことではないといって全体の対立をまとめ、更にはカトリック教会との間の調整さえしようとするのです。それに対して、フラシウス(もしくはフラツィッヒ)と言う人は、次のように言って、メランヒトンが言ったアディアフォラという考え方に反対するのです。「クリスチャンには『「信仰の中でこれはどうでも良いこと」では済まされない、絶対に譲ってはならない告白しなければならないとき(事態)がある。そのときにはすべての教えがその中に含まれるのであって、どうでも良いものなどない』フラシウスがいう「絶対に譲ってはならない告白しなければならないとき(事態)」を「信仰告白的事態」あるいは「信仰告白の事態」というのですが、それは迫害の時であり、また信仰の根幹が問われるような事態を指します。つまり、そのときのキリスト教会の在り方、あるいはクリスチャン個人の在り方次第によっては、キリスト教自体が問われるような事態を「信仰告白的事態」というのです。

この「信仰告白的事態」と言う言葉が、近代において使われたのは、第2次世界大戦のナチの支配下にあったドイツの教会においてでした。土居ツオし拝していたヒットラーは「ドイツ的キリスト者」と言う言い方をして、ドイツの教会をヒットラーの支配下に置き、その考え方を教会に認め受け入れさせようとしました。教会にとって、国家の指導者が誰になろうと、教会の教理、教義には関係ないアディアフォラのように思われますそして、ドイツも多くの教会もヒットラーに迎合していくのですが、そのような中にあって、ヒットラーの政権に迎合することは、キリスト者の本来のあるべき姿ではないといって、今は「信仰告白的事態である」といって、自分たちの信仰の良心にもとづいて、私たちの主はヒットラーでもなければ、ヒットラーが率いるナチ政権でもない。イエス・キリストのみが主であって、キリストの教え以外には従わないと宣言したのです。

イエス・キリスト様にとって「あなたは、神の子キリストであるか」と問われたとき、その答えは「そうでも言いアディアフォラではなかったのです。色々な人が偽証をする。その偽証はある意味どうでも良いことであり、事の真実を争う必要もない。けれども、「あなたは、神の子キリストであるか」と聞かれたならば、それは放ってはおけない問いかけなのです。それは、ご自分が誰であるかに、キリスト教の全てがかかり、信仰のすべてがかかり、救いのすべてがかかっているからです。だから、たとえその答えによって揚げ足を取られ、殺されることになっても、「(εγω ειμι)わたしがそれである。あなたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのをみるであろう」と答えなければならないのです。同じように、私たちも、それによって私たちの信仰の根幹が揺らいでしまうような場面においては、自らの信仰を告白しなければならないときがあるのです。お前は誰だと問われたときに、「わたしは、神を信じ、イエス・キリストを信じるクリスチャンです。」と答えなければならない時がある。

マルコによる福音書は、イエス・キリスト様が、ご自身にとっての「信仰告白的事態」において、自らが「神の子キリストであり、やがて来る審判者である」と告白なさった記事の後に続いて、ペテロが、三度、キリストを知らないといった記事を記しています。それは、「信仰告白的事態」、なすべき信仰の告白をしたイエス・キリスト様のお姿とは対称的に、「信仰告白的事態」に信仰を告白できなかった者の姿であるといえます。ペテロは自らの信仰がよってかかっているような事態に、しっかりと告白しなければならないときに告白することができなかったのです。そのペテロの失敗の最後を、この福音書を書いたマルコは「ペテロは『にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思い返して泣き続けた」と結んでいます。おそらくマルコは、ペテロがキリストの言葉を思い出しつつ鳴いたのは、しっかりと告白しなければならないときに告白することができなかった自分の弱さを悔いてのことだといいたかったのだろう思います。

それはマルコの福音書が、迫害の中にあるクリスチャンたちを励ますために書かれたものであるといわれるからです。だから、あなたがたはしっかりと告白しなければならないときに、しっかりと告白しなさいねと言う奨励の言葉をマルコは伝えたかったのであろうと思うのです。しかし、私はもう一歩踏み込んで理解したいと思います。ひょっとしたらそれは読み込みすぎだと言われるかもしれません。けれども、あえてもう一歩踏み込んで、捕えたいのです。それは、「あの大使徒ペテロでさえ、失敗したのだ。そして、失敗の中から立ち上がって、今日、大使徒と呼ばれるにまで至っている。私たちは、確かに主イエス・キリスト様のようにしっかりと告白しなければならないときに、しっかりと告白しななければなりません。けれども、それができないで失敗することもあるのです。けれども、もし失敗したならば、ペテロのようにもう一度立ち上がってくることができるのです。だから、あなたがたは、自分心の中に、告白しなければならない最も大切な言葉、「イエスはわたしの主であり、キリストです」という信仰告白の言葉を、心の中に大事に持っていなさい。」とそう聖書は言っているように思うのです。

近年、日本の教会でも、「信仰告白的事態」と言う言葉を使う、使わないは別としてこの「信仰告白的事態」ということを意識しはじめている教会が多くあります。それは、教育基本法の改正や憲法改正に伴う、右傾化の傾向に対してです。確かに、教育基本法の改正や憲法改正は、教会の教義や教理にとってはアディアフォラです。しかし、かつての日本におけるキリスト教への弾圧を経験している教会にとっては、それが教会の信仰の根幹に関わるを守っていなければ、教会そのものの屋台骨が揺るがされると感じている人たちがいるのです。 もちろん、今が本当に、、「信仰告白的事態」であるかどうかは慎重に見極めていかなければ成りませんが、しかし私達は、この「イエス・キリスト様こそ、私達の主です。」という一番大切な信仰の告白の言葉を、しっかりと心に刻んで大切に持っておかなければならないと言うことは、間違いありません。ですから、私達は、しっかりと、信仰告白を宣言できるとき、あるいはできずに失敗するようなことがあっても、この一番大切な信仰告白の言葉だけはいつも心に刻んで、何度でもくり返し立ち上がって神と人の前で生きていく者でありたいと思います。

お祈りしましょう。