三鷹教会のロゴ メッセージ

羊飼い 『「誰を意識して生きるのか』
マルコによる福音書15章1−15節
2007/9/23 説教者 濱和弘
賛美  357、344、372

さて、今日の聖書の箇所は、ローマの総督ポンテオ・ピラトの前で行われたイエス・キリスト様に対する裁判の様子が記されている箇所です。イエス・キリスト様を捕えたユダヤ教の指導者層の祭司長たちや律法学者および長老たちは、その日の夜に、イエス・キリスト様が神を汚し死刑に価するものであると言う結論を出します。もちろんそれは、最初から決まっていた結論ではありましたが、一応は審問すると言う手続きをとって出された結論でした。そして、その翌日に、このピラトのもとに連れてきて、ローマの法の下で裁きを下すよう求めたのです。このとき、ユダヤ人たちは、どうやらイエス・キリスト様を、ローマ帝国に逆らう反逆者として訴え出たようなふしがあります。というのも、ユダヤ人からイエス・キリスト様を裁くように求められたピラトは、自分自身でイエス・キリスト様を審問するのですが、そのときに、「あなたがユダヤ人の王であるか」とそう尋ねているからです。ですから、ユダヤ人達は、イエス・キリスト様をピラトもとに連れてきて訴え出たときに、「この人は自分を『ユダヤ人の王である』と自称している」といって訴え出た者と考えられます。

「ユダヤ人の王か」と言う言葉は何の変哲もない言葉ですが、考えようによっては意味深長な言葉です。なぜならば、この当時のパレスティナ地方はローマ帝国の支配下に置かれていたからです。それは、ローマ帝国がユダヤ人を統治していたということです。もちろん、ガリラヤ地方を治めていたヘロデ王のような存在もありました。しかし、そのヘロデ王でさえも、一ガリラヤ地方の領主としてローマ帝国から委託された存在でしかなかったのです。そのような状況の中で、ローマ帝国からの委託なしに、自分勝手にユダヤの王を名乗ると言うことは、ローマ帝国に対抗して自らを王と名乗っているとも受け取ることもできます。ですから、ユダヤ人たちが、「イエス・キリスト様がユダヤ人の王と自称している」とピラトに裁判を求めたのは、彼は自ら王を名乗って、ローマ帝国に反逆しているという政治犯として訴え出たと考えることもできるのです。

そのユダヤ人の訴えを聞いて、ピラトはイエス・キリスト様に「あなたがユダヤ人の王であるか」と確かめている。それに対して、イエス・キリスト様は「そのとおりである」とお答えになっています。しかし、この時のイエス・キリスト様のお答えは、マルコによる福音書14章61節で、ユダヤ人か「あなたは、ほむべきかたの子、キリストであるか」と問うた時に、「わたしがそれである。」とお答えになったときとは、明らかに違うお答え方をしています。ユダヤ人たちの問いに対しては、"εγω ειμι(エゴー エイミー:私はそれである"という、神を名乗る表現でお答えになっていますが、ピラトの問いかけに対しては、口語訳では、「そのとおりである」となっていますが、直訳すると"Συ λεγεισ(シュ レゲメイス):あなたの言うとおりである"と答えておられるのです。「あなたが言うとおりである。」と言っていますが、ピラトはイエス・キリスト様が何ものであるかについては何も言っていません。むしろ、ユダヤ人たちが「この人はユダヤ人の王と言っている」と訴え出たことに対して、「あなたが言っている通りである」と答えているだけです。もちろん、「あなたが言っているとおりである」というのは、ただ単に「あなたがユダヤ人の王であるか」と問いかけた言葉通り、ユダヤ人の王であるという意味に取る事も出来ます。しかし、ユダヤ人の王であると言っているのは、ピラトではなく、あくまでも祭司長や律法学者たちなのです。

ですから、イエス・キリスト様が、「あなたが言っている通りである」と言われるとき、それは、ピラト自身の目の前にいるイエス・キリスト様を、ピラトが自分の目で見て、感じとらえたありのままのイエス・キリスト様というお方、それが本当の私の姿だと言っていると考えることもできます。そして、そのピラトは、イエス・キリスト様が、ユダヤ人が訴え出たような罪に価する人ではないと考えていました。それは10節にピラトが、祭司長たちがイエス・キリスト様を引渡したのが、彼らのねたみのためであると言うことを、ちゃんとわかっていたと記されていることからも明らかです。だからこそ、イエス・キリスト様が「あなたが言っているとおりである」とお答えになったとき、3節にありますように、祭司長たちは、さらに色々と訴えたのかもしれません。つまり、ピラトがイエス・キリスト様を無罪だと思っていると言うことが、彼らにも感じ取られたので色々と訴えて何とかこのお方を処罰させようとしたというわけです。

けれども、そのような様々な訴えがなされる中で、イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様は、不思議なほどに何もお答えになりませんでした。そして、その沈黙はイエス・キリスト様は人々と論じあい、事の正否を正すことではなく、次々と色々な訴えをする祭司長たちの姿を通して、妬みのために一人に人の命までも奪ってしまう人間の罪深い姿を明らかにするかのような沈黙だといえます。そのような中、人々は、当時に祭りたびに行われていた「人々が願いでる囚人の一人を解放する」という慣習を行って欲しいと要求していたのを受けて、ピラトは「おまえたちはユダヤ人の王をゆるしてもらいたいのか」と問いかけたのです。先ほども、申しましたように、ピラトはイエス・キリスト様に処罰しなければならないような罪などないと思っていました。それこそ、ユダヤ人たちがイエス・キリスト様がユダヤ人の王だと自称してローマに抵抗している政治犯などではなく、ただただ祭司長たちが、このお方を妬んで訴え出たと言うことはわかっていたのです。ですからピラトは、祭司長たちの妬みから出たことであるならば、群衆に「おまえたちはユダヤ人の王をゆるしてもらいたいのか」と問いかけたならば、群衆は「イエス・キリスト様を赦して欲しい」と願い求めるだろうと思っていたのではないかと思われます。

ところが群衆は、祭司長たちに扇動されて、暴動を起し人殺しをしたバラバという囚人を赦して欲しいと願うのです。「暴動を起し人殺しをした」とありますが、どうやらこのバラバという男は、ローマに反抗する政治犯の一人としてとらえられていたようです。そういった意味では、祭司長たちが、イエス・キリスト様をピラトに訴え出た罪状通りの男がバラバであったと言うことができます。そのバラバを赦し、イエス・キリスト様を「十字架につけろ」と言うのです。群衆はイエス・キリスト様を赦して欲しいと願うだろうと思ったピラトの思惑は見事にはずれてしまいました。14節の「あの人(つまりイエス・キリスト様)は、いったい、どんな悪事をしたのか」というピラトの言葉は、思惑がはずれたピラトの困惑を感じ取らせますし、同時に、イエス・キリスト様を釈放しようと群衆を説得している言葉とも言えます。けれども、群衆は一そう激しく、イエス・キリスト様を十字架につけよ」と叫ぶのです。そのようなわけで、結局ピラトはバラバを赦し、イエス・キリスト様をむち打ったのち、十字架につけるために引渡します。このとき、聖書は、ピラトは群衆を満足させようと思ってそうしたというのです。

ピラトは、自分の目で見て、イエス・キリスト様が処罰されなければならないような罪などないお方であるとそう判断しました。だからこそ、正しい人を裁くと言った誤りをしないように、イエス・キリスト様を釈放しようとしたのです。しかし、彼は正しいことを全うすることよりも、人々の目を気にしました。新改訳聖書は、「群衆を満足させようとおもって」というところを「群衆の起源をとろうとした」と訳しています。まさに、ピラトの意識は群衆に向いていたのです。ここ数日間、テレビのニュースは自民党の総裁選に関することが大半です。おそらく、自民党の総裁に選ばれた人が、総理大臣に選ばれるのですから、関心が向けられるのは当然のことだと言えます。その総裁候補の演説や討論をきいていますと、老人福祉の問題や格差是正の問題なども取上げられて語られています。このような福祉の問題や格差是正の問題は、本当にきちんと取り組んでくれるならば、政治が国民のことを意識してくれていると言うことですから、それはそれで良いことだと言えます。しかし、いかに国民受けするからと言って、選挙での人気稼ぎのために無理な公約をかかげられても困ります。要は、正しい政治的な判断をする目を持ち、それを断固として実行することが出来ることが大切なのです。つまり、政治家が本当に意識しなければならないのは、国民の人気ではなく、正しい国の在り方であり、正しい国の運営の在り方であるといえます。

そう考えますと、裁判を司ったピラトの意識は、群衆に向けられるのではなく、正義に向けられなければ成らなかったといえます。なのに、彼の意識はその正義にではなく、群衆に向けられたのです。そして、その群衆の気持ちが裁判の行方を左右しました。そして、群衆は群衆で、祭司長たちに扇動されたとありますから、彼らの意識は祭司長たちに向けられていたと言えます。いえ、群集心理と言うこともありますから、祭司長たちのことを意識すると言うことではなく、周りの人々を意識していたと言うこともできるかもしれません。けれども、いずれにしても、イエス・キリスト様を十字架につけた人々は、誰一人としてその意識を神に向けていた人はいなかったのです。神は義なるお方です。ですから、罪を認めることも、間違ったことをすることも認めることのできないお方です。この善悪をきちんと判断するお方を意識していたならば、決して誤った判断をすることはないのです。なのに、このピラトのもとで行われた裁判においては、誰一人正しい判断のもとで行動する者がいないのです。それはつまり、この場面において、イエス・キリスト様を除いて、誰一人として神を意識して生きている者がいなかったと言うことです。ただ、イエス・キリスト様お一人が、神のご計画とお心を知って、黙々とそれに従っておられるのです。

祭司長たちが、ピラトに色々と訴えても、自分の正しさや、祭司長の誤りも主張ぜず、ただ何もお答えにならずにおらたのは、ただ神のみ旨に身を委ねておられたイエス・キリスト様の生き方の現われだと言えます。それは、善と悪を正しく判断し、善のみをなされる神が、罪人の私達が、神の義を一切損ねることなくして救われるために最も良き業をして下さる神のみ手の中に、自らの身を委ねておられるお姿でもあるのです。このように、神を意識して生きて行くということは、私たちにとって最も大切なことだと言えます。しかし、なかなかそれができないのです。特に、私たち日本人は、周りを意識して横並びに成ろうとする民族ですから余計かもしれません。

以前もお話ししたかもしれませんが、インターネットで見たジョークの中に、こういうジョークがのっていました。有名なジョークなので知っている方もおられるかと思いますが、ある客船が、航海に出ました。その船には色々な国の人が乗っていましたが、海上で事故に会い、もうしばらくすると船が沈没してしまいそうな状況になりました。ところが、救命胴着がたりません。そのため、男性の乗客に、救命胴着なしに海に飛び込んでもらわなければなりません。そこで船長は起点を働かせ「紳士は海に飛び込むことになっています」と言いました。するとイギリス人の男性はこぞって海に飛び込みはじめたというのです。次に船長は、海で美しい女性が溺れていますといいますと、イタリア人の男性はみんな海に飛び込んだというのです。そして、「海に飛び込むのが規則ですので飛び込んでください」というとドイツ人が、「今、飛び込むとヒーローになれます」というとアメリカ人が、そして、「海に飛び込まないで下さい」というとフランス人が、みんな海に飛び込んだというのです。そして、最後に日本人が残りました。そこで船長は、「皆さんはもう海に飛び込んでいますよ」といいますと、日本人は一斉に海に飛び込んだというのです。

これは、それぞれの国民性を言い表したジョークですが、結局は、どの国民も人の目を気にして行動しているのです。しかし、その中でも、「皆さんはもう飛び込んでいますよ」といわれて飛び込む日本人は、まさに横並びで、周りの目を気にして人と同じようにしようとする国民性を見事に言い表されたような感じがして、笑うに笑えないというか、苦笑いするしかないような感じがしました。そして、やっぱりそれではいけない、私たちは、ちゃんと義なる神の目を意識し、神の御前で生きていかなければならないと思うのです。もちろん、私たちは、私たちの周りにいる人のことに気を配る必要があります。教会の中にいる一人一人に気を配り、配慮していかなければなりません。また家族や友人、教会の周囲にいる人たちのことも気にかけていなければならないのです。そういった意味では、周りを意識すると言うことが大切なことです。しかし、周りを意識すると言うことと周りの目を意識すると言うことは同じ事ではありません。私たちは神の目をもって周りの心を配ると言うことが大切なのです。ですから、それは結局のところ神を意識して生きていると言うことです。

私たちは、時には模範的なクリスチャンと思われるような信仰的な生き方をしているときですら、神の御前に生きるということを意識するのではなく、人の目を意識している場合があります。例えば、マタイによる福音書6章5節に書かれているような人たちがそうだと言えます。そこにはこのように書かれています。「祈り時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りの辻にたって祈る。」あるいは、同じ6章18節には「また、断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。」とも書かれています。祈りも断食も信仰的な行ないです。けれどもその祈りを通して周りの人によく見てもらおうとするならば、それは神を意識した信仰の業ではなく、人を意識した見栄のなす業であるというのです。そして、そのような人を、聖書は「偽善者」と呼んでいるのです。つまり、本当に信仰的な行ないとは、神を意識して行う業なのであって、見た目の行ないにおける熱心さではないと言うことであり、心の問題だと言うことです。結局それは、心が神に向いていなければ、神にとっては良いことでないと言うことなのです。

神を意識して生きるということ、それが私たちクリスチャンに本当に求められていることだろうと思うのです。そういった意味では、今日の聖書の箇所において、イエス・キリスト様が、神を意識しなかった人々によって十字架に架けられることが決められていったということは、実に意味深いことのように思われるのです。と申しますのも、聖書は、この神を意識しないでいきると言うことが、人間の罪の根源だと言っているからです。私たちが、今学んでいるのはマルコによる福音書ですが、このマルコによる福音書の1章にある、イエス・キリスト様が伝道をはじめられた時の最初の言葉が、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」という言葉でした。この悔い改めよと言われる言葉は、ギリシャ語でμετανοια(メタノイア)と言う言葉です。このμετανοιαと言う言葉は方向転換をすると言う意味でありまして、ぐるっと180度方向転換をして、神を見上げながら生きていくというのが、μετανοιαと言う言葉の意味です。つまり、神を意識しながら生きるようになると言うことが悔い改めと言うことなのです。そのように、悔い改める事によって、神を意識しながら生きるということは、悔い改める以前は神を意識していなかったと言うことです。ですから、罪の中にいると言うことは神を意識しないで生きている生き方であると言うことができるのです。

そう考えますと、イエス・キリスト様が、神を意識しなかった人々によって十字架に架けられることが決められていったということは、まさに罪がイエス・キリスト様を十字架に貼り付けたと言うことができます。そして、私たちが神を意識して生きていないとするならば、その私たちの罪が、イエス・キリスト様を十字架につけたと言うことなのです。だとすれば、私たちは、もはや神を意識しないで生きていくということなどできなくなります。少なくとも、今日、この三鷹キリスト教会の礼拝につどっているお一人お一人はそうだろうと思います。なぜならば、誰一人として神の招きなくして礼拝に集うことができないからです。ですから、今日、こうして礼拝に集っている私たち一人一人は神の愛の中に置かれているのです。そんな私たちが、神を意識せずに生きると言うことなどできようはずがありません。同じように、今日、この礼拝の場に来ることができなかった方々であったとしても、教会につながり、教会と関わっておられるお一人お一人もまた神の愛の中に置かれ、神の愛の中で生きているのです。そのような、神の愛の中に置かれた私たちだからこそ、もはや神を意識して生きないわけにはいかないのです。そして、何よりも神に喜んで頂けるような生き方をする者になりたいと思うのです。神に喜んで頂ける生き方をするならば、人にも喜んで頂ける生き方と成ります。愛なる神が喜ばれる生き方は、隣人を愛する生き方となって行くからです。そしてだからこそまた、私たちは神を意識しながら生きる人生を生きたいと思うのです。

お祈りしましょう。