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羊飼い 聖餐式礼拝
『最も低いところに立って』
マルコによる福音書15章16−20節
2007/10/7 説教者 濱和弘
賛美  86、102、399

さて先週は、イエス・キリスト様が、ローマ帝国の総督ポンテオ・ピラトのもとで裁判を受けられた記事から、「私たちは神を意識して生きていかなければならない」と言うことを学びました。それは、その裁判の場面に登場した全ての人が、イエス・キリスト様以外、誰一人として神を意識せず、人の目を意識して物事の判断をしていたからです。そして、そのように神を全く意識しない人々の行動が、神の独り子であるイエス・キリスト様を十字架につけて処刑してしまうと過ちを犯させてしまったのです。つまり、神を意識しないということ自体が罪であり、その罪の中でイエス・キリスト様の十字架の死という受難が決定されていったのです。ですから、私たち人間の罪の中でもっとも罪深いことは、神を意識しないで生きていると言うことができるだろうと思います。そのような、私たちの罪深さの中でイエス・キリスト様は十字架に架かられて死なれるのですが、今日の聖書の箇所は、その十字架にかかる直前に、イエス・キリスト様が味われた苦難が記されている箇所です。

十字架に架けられる前に、イエス・キリスト様はローマ総督ピラトの邸宅の中に連れていかれ、紫の衣を着させられ、いばらの冠をかぶらされました。紫の衣は王の着る衣であり、いばらの冠は、王様がかぶる冠を模したものです。つまり、ローマの兵士たちは、イエス・キリスト様に王様の格好をさせたのです。これは、祭司長や、長老、律法学者たちから、「この人は、自らをユダヤ人の王であると名乗っている」という罪状で訴えたという背景があります。ユダヤ人の王と自称しているのだから、王様の格好をさせる。もちろん、彼らは、イエス・キリスト様が本当にユダヤ人の王であると思っているわけではありません。むしろ、「おまえは自らユダヤ人の王と自称しているが、お前が王であるというそのユダヤの民からお前は訴えられ、十字架に架けて処刑されるのだ」とでもいうかのようにして、わざわざ王様のする格好をさせてイエス・キリスト様をあざけり、嘲笑しているのです。そのときの様子を、聖書は次のように記しています。「そして、イエスの紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、『ユダヤ人の王、ばんざい』といって敬礼をしはじめた。また葦の棒でその頭をたたき、つばきをかけ、ひざますいて拝んだりした。こうして、イエスを嘲弄したあげく、紫の衣をはぎとり、もとの上着をきせた。」

私は、この聖書の言葉を読みながら、その場面を頭の中で思いめぐらしていました。マルコによる福音書15章15節にはピラトは、「イエスをむち打ったのち、十字架につけるために(兵士たちに)引わたした」とあります。ローマのむち打ちは、本当に厳しい刑です。イエス・キリスト様の弟子であるパウロは、コリント人への第2の手紙11章24節、25節で「ユダヤ人から40にひとつ足りないむちを受けたことが5度、ローマ人ンにむち打たれたことが3度」あると言っています。40にひとつ足りないムチを受けたとありますから、39回むち打たれたと言うことになりますが、ユダヤに置いては、むち打ちの刑は40回が限度とされていました。それで、数え間違いがあっては成らないので、最も多くても40回の手前の39回まで止めることになっていたようですが、しかし多くの人は39回まで行くまでに死んでしまったとも言われています。それほど、むち打で打たれるとは、過酷な刑だったのです。もちろん、パウロが受けた40にひとつ足りないむち打ちはユダヤ人から受けたものですから、イエス・キリスト様がローマ兵から受けたむち打ちとは違ったものです。

しかし、ローマのむち打ちは、ムチのさきにとがった鉛をつけたものですから、ムチで打たれると肉がえぐり取られるようにして裂かれてしまうのです。ですから、むち打たれた人は失神してしまう程に激しい苦痛を味わうのです。そういった意味では、ローマ兵によるむち打ちはユダヤ人のむち打ちと何ら変わりない、いえ、むしろそれ以上の苦痛を味わうものだったと考えられます。そのようなむち打ちをされ、痛む体の上に紫の衣を着せられ、いばらで編んだ冠をかぶらされる。ムチで肉が裂かれた体の苦痛のうえに、今度は頭にいばらの棘が食い込む痛みのが加えられる。いったいその辛さはいかほどであっただろうかと思うのです。そのような、苦痛を味わっている中で、ローマ兵たちが、自分をまるでおろかな道化師であるかのようあざけり、つばきをかけあざけり笑っている。そして、ちゃかすようにして、おどけて敬礼したり、拝んだりしていて侮蔑し愚弄している。その、あざけりと嘲笑、侮蔑と愚弄の中にたたずんであられるイエス・キリスト様のお姿を、じっと思いめぐらしながら、そのイエス・キリスト様のお姿を自分に置き換えてみるのです。もしわたしが、イエス・キリスト様のたたずまれている場所に私自身が立ち、兵士たちのあざけりと嘲弄の中におかれているとするならば、いったい私は、何を感じるのだろうか。じっと思いを馳せるのです。

そうすると、何ともみじめな思いになってくるのです。「どうしてこんなことになってしまったのか」そんなおもいになってくる。そしてみじめで悲しい思いになってくる。そして、何ともやりきれない気持ちになってくるのです。そしてイエス・キリスト様も、こんなみじめで悲しくてやりきれない思いで、ローマ兵のあざけりと嘲弄の中に身を置かれていたのだろうかと思うのです。この上ない肉体の苦痛を味わされ、あざけりと嘲笑、愚弄の中に置かれじっと自分が殺される死のときを待ってている。それは人間としての尊厳性を全て奪い取られた最もみじめな姿であり、最も深い苦悩の中に置かれた姿のように思われます。そのもっとも悲惨でみじめだと思われるような苦悩をイエス・キリスト様は全て引き受けて下さったのです。24節に、ゴルゴダの丘に連れてこられたイエス・キリスト様が、没薬をまぜたぶどう酒を差し出されたけれども、それを飲むのを拒否したと言う出来事が記されています。没薬をまぜたブドウ酒というのは、苦しみを和らげるために感覚を麻痺させる一種の麻酔薬のような働きをするものだったようです。その苦痛を和らげるためのものを、イエス・キリスト様は拒まれたのです。

ゴルゴダの丘に来るまで、イエス・キリスト様は自分が貼り付けられる十字架の横木を背負って来なければ成りませんでした。しかし21節には、そのイエス・キリスト様が背負って歩かなければならない横木を、アレキサンデルとルポスの父シモンというクレネ人が無理に背負わされたとあります。きっと、イエス・キリスト様はもう十字架を背負うことが出来ないほど消耗しておられたのだろうと思われます。それほど苦しみ抜かれ、消耗しきった中にあっても、苦痛を和らげるための、没薬をまぜたぶどう酒を拒まれたのです。そこに、人間の味わう、最も悲惨でみじめで、苦しい苦悩をすべて引き受けておられるイエス・キリスト様のお姿を見ることができます。そうやって、イエス・キリスト様は人間としての尊厳性を奪われ、命をも奪われるという、人間にとってもっともみじめなところに身を置かれたのです。先ほど、礼拝の最初の賛美として、私たちは新聖歌86番「み使いのたたえ歌う」を賛美致しました。お気づきになった方もおられるでしょうが、この賛美はクリスマスの賛美です。神の御子がこの地上にお生まれ下さったことを讃え歌う賛美が、新聖歌86番の「み使いのたたえ歌う」なのです。

ところが、この歌詞をみますと一節、「み使いのたたえ歌うは誰ぞ、羊飼いたちの拝むわたれぞ」となっています。また二節には「むさき馬小屋に生まれしは誰ぞ、匠の子として生まれしは誰ぞ」とあります。これは、ルカによる福音書の2章1節から20節にある出来事をもとにした賛美ですが、神の御子がこの世にお生まれになったとき、飼い葉桶の中で寝かされ、この神の御子を最初に拝みに来たのは、羊飼いだったというのです。飼い葉桶の中に寝かされる。それは、宿屋に身重のマリヤとその夫ヨゼフが客間に彼らのいる場所がなかったからだといいます。身重の女性、しかも見るからに臨月を迎えていそうな女性をみて、いかにいる場所がないからと言って、馬小屋に泊らせるというのは何とも冷たい感じがします。ユダヤの馬小屋は、日本の馬小屋のように家屋のようにして建てられた中に馬を置くというのではなく、石の洞穴を馬小屋として使っていたのです。もちろん、馬小屋ですから衛生的にも決して言い訳ではありません。そこに、身重のお腹のおおきな女性を泊らせるというのは何とも冷たい感じがします。また、馬小屋に泊らなければならなかったヨセフもマリヤも、なんともみじめな思いではなかっただろうかと思うのです。

ですから、私たちは、よくクリスマスのときに、イエス・キリスト様がお生まれになったときに飼い葉桶の中で寝かされていたということから、イエス・キリスト様は、最もみじめで悲惨な中に生まれてきたのだという受け止め、そのような切り口からお話しすることがあります。そして、それは確かにそうであろうと思うのです。イエス・キリスト様は人の心の冷たさとみじめさを味あう中にお生まれになられたのです。それは、まさに私たちが経験する人の世の冷たさや、みじめさを神の御子もまた味わい、私たちの苦悩や悲しさみじめさを共に負って下さるためだったのです。そのような人生の始まりをなされたお方は、その人生の最後に置いても、みじめさや苦悩を味わいながら死んで行かれようとしておられる。そこには、私たち人間が経験するもっとも低いところを歩まれる神の御子のお姿があるのです。もちろん、一人一人の人生に置いて、最も低いところというのは違っているだろうと思います。人生に山があり谷があると言っても、私にとっての谷は、他の人から見れば、そんなのことは苦労と呼べるものではないと言われることがあるかもしれません。その人にとっては、もっと、もっと苦しくて辛い現実があるからです。

けれども、どんなに人から「あなたの場合は、まだましな方よ」と言われても、実際に苦しんでいるものにとっては、それは、本当に人生の谷間であり、低いところなのです。ですから「「あなたの場合は、まだましな方よ」と言われても、それは慰めにも成りませんし、励ましにもなりません。苦しみや悲しみの中にいる人にとっては、そのときが最もどん底にいるときだからです。そのときに本当に必要なのは、その人生でもっとも低いところに置かれた私たちと一緒に道行いてくれるお方の存在です。そして、そのようなもっとも低いところを歩く、私たちと共に道行く神と成られるために、生まれたばかりのイエス・キリスト様は、飼い葉桶の中で寝かされ、死に行くイエス・キリスト様は、ムチで切り裂かれた体に紫の衣を着せられ、いばらの冠をかぶらされ、つばきをかけられあざけりと嘲弄されるのです。私たちは、先ほどイザヤ書53章を交読致しました。礼拝における交読では、この講壇の上の司式者と会衆席にいらっしゃる皆さんとが、互いに聖書の言葉を読み交わします。そのように、聖書の言葉を互いに読み交わすことで、イエス・キリスト様を証するところの聖書の言葉が語られる講壇と会衆の皆さんとがひとつに結ばれていくのです。それはつまり、私たちとイエス・キリスト様が、たがいにひとつに結び合わされるということでもあるのです

その交読で新聖歌の交読文50番旧約聖書イザヤ書53章が読みかわされました。イザヤ書53章は苦難の僕の歌と言われています。それはイエス・キリスト様の受難が預言された聖書の箇所だからです。その交読文50番イザヤ書53章には、こう書かれていたではありませんか。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼は人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。かれば罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼に打ち傷によって、私たちは癒された。私たちは羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向って行った。しかし、主は、私たちの全ての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられたが、それを忍んで口を開かず、ほふり場にひかれていく子羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。彼は多くの人の前で人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」

人々からのけ者にされ、人が顔をそむけるほどさげすまれ、その身を肉を切り裂かれるまでして苦しみを負い、痛みつけられたイエス・キリスト様のお姿は、まさに今日の聖書の箇所にある、ムチで切り裂かれた体に紫の衣を着せられ、いばらの冠をかぶらされ、つばきをかけられあざけりと嘲弄されるイエス・キリスト様のお姿と重なり合うかのようです。ですから、そのイザヤ書53章を交読することによって、私たちは、あざけりと嘲弄のなかにある、まさに人間としての尊厳を全て奪い取られたようなどん底にあるイエス・キリスト様とひとつに結びあわされるのです。それは、私たちが人生の最も低いところを歩むときに、このイザヤ書53章で結びあわされたイエス・キリスト様が、私たちと共に歩んで下さるためです。そして、その私たちの人生の最も低いどん底のところを歩んで下さるお方は、自らの受難を持って私たちに平安をもたらし、癒して下さるお方なのです。

今日、私たちはこれから聖餐式をもちます。宗教改革者のカルヴァンという人は、この聖餐は、われわれとキリストがひとつに結びあわされたことを証明するものであると考えました。聖餐に対する考え方の多くの点で、私たちの教会とカルヴァンとの間には違いがあり溝がありますが、この聖餐に置いてキリストと私たちがひとつに結び合わされているという考え方については、同意できると思います。それは、この聖餐に与ることによって、私たちの内にキリストの約束にもとずく神の義と神の命がもたらされるからです。そのように、私たちはイエス・キリスト様と深くひとつに結ばれていることを主ながら、このお方に私たちの生涯を、その山ある時も他にあるときも共に歩んで頂きたいとそう思います。

お祈りしましょう。