『十字架上の二人』
マルコによる福音書15章25−32節
2007/10/14 説教者 濱和弘
賛美 2、185、376
さて、先週私は、近畿教区で行われたイチゴJAMコンサートという集会に行って参りました。このイチゴJAMコンサートは、20年前に私が大阪にいるときに、当時近畿教区にいた青年たちと、「主をほめたたえよう」と一緒に始めたものです。このイチゴJAMコンサートというのは、その名のとおり、基本的には賛美をするグループが集まって行われるコンサートなのですが、賛美をするグループは、その持ち時間の中で、必ず独りが証しをし、また必ずコンサートの中で聖書のメッセージを聞くときを持っています。それは、単に自分たちが音楽が好きだからコンサートを行うのではなく、神を信じる信仰に立って、神を褒め讃えるのだということを明らかにするために証をするのであり、また、神を信じる信仰は、神の言葉を聞くことから始まるからこそ、神の言葉である聖書からのメッセージに耳を傾けるのです。つまり、賛美の基盤には信仰があり、その信仰の基盤は、神の言葉である聖書にあると言うことです。
この信仰の基盤が聖書にある。私たちの信仰は聖書の言葉によって養われ育まれていくと言う信仰の在り方は、私たちプロテスタント教会の大きな特徴であると言えます。と申しますのも、例えばカトリック教会も、正教会も、聖書と共に教会の伝統ということを重んじるからです。教会の伝統とは、長い歴史の中で、それぞれの教会に伝え守られてきた伝承のことです。例えば、カトリック教会では、教皇が教皇の座から語った道徳的な教えや信仰に関する教えについては、誤った教えを語ることがないというものがあります。これはカトリック教会の伝統です。このようなことは、聖書には記されていませんが、しかしカトリック教会の伝統としてカトリック教会の信仰を支える大切な基盤として受け継がれてきているのです。
そのような伝統に対して、私たちプロテスタントは否を唱えたわけですが、しかし、だからといってプロテスタント教会が伝統を全く無視しているわけではありません。そもそも、聖書が神の言葉であるということ自体が、教会の伝統なのです。と申しますのも、確かに、テモテ第Uの手紙3章16節で旧約聖書に対して「聖書はすべて神の霊感によってかかれたものである」言われていますが、現在の新約聖書の27巻が聖書と定められたのは、紀元397年の第3カルタゴ会議における教会の決定によるものだからです。つまり、私たちの信仰の基盤である聖書が、教会の正典であり、信仰の規範である神の言葉であると言うこともまた教会の伝統のひとつなのです。しかし、そのように聖書が教会の決定によって正典として定められた以上は、聖書が外の教会の伝統を図る物差しとなります。このことは、聖書が協会の信仰の規範となる正典であるという伝統は、他の伝統に優って重んじられるべきものであるということを意味します。ですから。私たちは聖書が語らないところの教会の伝統に私たちの信仰の基盤を置くことが出来ないのです。
ここに、聖書主義といわれる聖書を重んじ、全ての神学的営みの出発点を置くプロテスタント教会の信仰の在り方があります。このようなプロテスタント教会の信仰の在り方というのは、16世紀の宗教改革から始まっていますが、その宗教改革の発端はルターという人にあります。ルターという人は、色々な意味で中世のカトリック教会の在り方とは待った違った教会の在り方や神学の視点というものを示しましたが、その中のひとつに十字架の神学と呼ばれるものがあります。十字架の神学というのは、哲学を駆使することや自然を観察することで私たちは神を知ることは出来ない。ただ人と成られ、十字架で死なれたイエス・キリスト様のお姿のみが神を示している。だから、私たちは十字架の上で苦しんでいるイエス・キリスト様のお姿を通してのみ、私たちを救おうとしておられる恵みの神を知ることができるというのです。
しかし、十字架の上で苦しんでいるイエス・キリスト様は、ただ見るならば、30歳そこそこの大工の子でしかありません。ですからそのような、十字架に架けられたイエス・キリスト様の無惨な姿に、救い主の姿や神の子の姿など見る事はできないのです。ですからルターは、そのような、無惨な死に様をしているイエス・キリスト様の姿に恵みの神の姿を見ることが出来るのは、信仰によってのみ見ることができるというのです。つまり、神の御子であられるイエス・キリスト様の十字架の無惨な死に隠された神は、神の恵みによってのみ発見できるというわけです。今日の聖書の箇所は、そのルターが「十字架の神学」という言葉で言い表したような事態が描かれているところだと言えます。
イエス・キリスト様が十字架に架けられたとき、イエス・キリスト様のほかにも二人の強盗が一緒に十字架に架けられていました。その十字架に架けられたイエス・キリスト様のみじめな姿を見て、そこを通りかかった人たちは「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、十字架からおりてきて自分を救え」と言い、また律法学者や祭司長たちも「他人を救ったが自分自身を救えないイスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」と嘲弄しました。そして、イエス・キリスト様と一緒に十字架に架けられていた者達も、イエス・キリスト様をののしったというのです。このような事を言い、イエス・キリスト様の事を嘲弄した人の気持ちもわからないわけでありません。それほどまでに、十字架に架けられたイエス・キリスト様の姿はみじめなものであり、そこには、神の御子の輝きもなければ、偉大さも見られないのです。
しかし、ところで、マルコによる福音書には、イエス・キリスト様と「一緒に十字架につけられていた者たちも、イエス・キリスト様をののしった」となっています。マタイによる福音書も同じようになっています。ところが、ルカによる福音書では、共に十字架に架けられた二人の強盗が、どちらも同じようにイエス・キリスト様をののしったのではなく、ひとりはののしり、もうひとりは「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互いは自分のやったことの報いを受けているだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何の悪いことをしたのではない。」と言い、イエス・キリスト様に向って「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、私を思い出して下さい。」と憐れみを請うたことを告げています。このように、マルコによる福音書あるいはマタイによる福音書とルカによる福音書の間に違いがあるのは、ひとつにはルカによる福音書の著者ルカの方がマルコやマタイより、より詳しい資料を持っていたと言うことにもよるだろうと思います。
しかし、結果として、マルコによる福音書のように、誰もがイエス・キリスト様をののしったと言うことで、むしろ、誰一人として、十字架上のイエス・キリスト様のみじめなお姿を見て、そこに神を見出すことが出来なかったと言うことが強調されているのです。道を通りかかった者も、祭司長や律法学者も、また、十字架に架けられた二人も、十字架につけられたイエス・キリスト様のみじめなお姿をみて、誰一人、このお方がイエス・キリスト様が神の御子であると気付かなかった。それは、まさしく、恵みの神の姿は、十字架上のイエス・キリスト様の姿の中に隠されているということを明らかにしているのです。確かに、みじめな姿に中に神の姿を見出すと言うことは、極めて困難なことです。私たちだって、何の予備知識もなく、あの十字架上にみじめに貼り付けられたイエス・キリスト様を見せられ、これが恵神だといわれたとしても、にわかには信じられないのではないでしょうか。
どうして信じられないのか。そこには、私たちの先入観があります。神は権威と尊厳と栄誉ある存在す。それは紛れもない事実なのですが、そして、そのような威厳と尊厳と栄誉はみじめな姿、弱々しい姿とは縁のないもののように思われます。少なくとも私たちはそう考えてしまう。それは、私たちの価値観や物の見方からすれば、常識的な見方と言っても良いのかもしれません。この私たちの価値観や物の見方というのは、否応なしに私たちの生きている世界の影響を受けています。つまり、私たちの常識的な価値観や物の見方というものは、この世の価値観と物の見方の反映されたものなのです。そうすると、私たちが、この世の価値観や物の見方から十字架のイエス・キリスト様を見上げるならば、私たちは、十字架の上におられるイエス・キリスト様のみじめなお姿を通して、恵みの神のお姿を見出すことは出来ないと言うことになります。そして、事実、見出すことが出来ないのです。
この世の価値観、物の見方、例えば一般的に言うならば、冨や名誉と言うことに象徴されゥような価値観かもしれません。そして、確かに、お金や富みといった者は私たちに取って魅力的なものです。もちろん、必ずしもお金や冨が全てではないと考えておられる方も少なくはありません。むしろ、お金や富みに絶大な価値を見出して生きていく生き方には問題がある。人間にとって最も大切なものは外にあると言うことに、気づいている人も多くいるのです。しかし、例えそうであったとしても、自分自身の願いや思いの中から、イエス・キリスト様の十字架を見上げるならば、そこに神なるキリストの姿をみることはできません。つまり、この世の価値観や物の見方と言いましても、とどのつまりは、最後は私の願いや望みに行き着くのです。
例えば、病が癒されることだけを願って、十字架の上のイエス・キリスト様を見上げても、そこには十字架のキリスト様の姿に隠された恵みの神のお姿を見ることはできませんし、また、自分の夢や望みの実現を求めて十字架のイエス・キリスト様を見上げても同じです。結局、私たちは、この世の価値観の中で色づけされた自分自身の思いから、イエス・キリスト様をみていてはダメなのです。その最も典型的な例が、このイエス・キリスト様と一緒に十字架に架けられた二人の強盗の姿から見ることができるのです。先ほどご紹介しましたように、ルカによる福音書24章39節から43節では、イエス・キリスト様と一緒に十字架に架けられていた二人の強盗の内、ひとりは他の人たちと同じように「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれを救ってみよ」と悪口を言い続けてとあります。
このキリストと共に十字架に架けられた二人の犯罪人は、キリストが味わっている十字架の苦しみを一番よく知っている人達です。その中の一人は、同じ苦しみを味わいながら、その苦しみから逃れられないキリストに無力さを感じてののしるのです。おそらく、彼が望んでいたことは、自分自身をこの十字架の苦しみから救い、死の恐怖から救ってくれる救い主であっただろうと思います。ところが、そのような思いを持ってイエス・キリスト様を仰ぎ見ても、そのイエス・キリスト様自身が、自分を十字架の苦しみから救い出すどころか、みじめに苦しみながら十字架に架けられているのです。そこには、自分のいまの望みを叶えてくれるお方ではない。キリスト、すなわち救い主と言いつつ、彼の願いを聞いてくれる救い主の姿を彼は十字架上のイエス・キリスト様の中に見出すことが出来なかったのです。ところが、同じように十字架に架けられていた内の一人は、そのようなみじめな姿のキリストだからこそ、この方が救い主だと信じたのです。いったい、この二人のどこが違っていたのでしょうか。
それを知るヒントは、キリストを救い主と信じた男の言葉にありますが、彼はこう言うのです。「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互いは自分のやったことの報いを受けているだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何の悪いことをしたのではない。」この強盗の言葉にはポイントは二つ。一つは「自分が十字架に架けられたのは、自分のやった事の報いで当然の事だ」と理解している点です。そこには自分の罪をきちんと認める認罪意識があります。もう一つは、キリストが「何もしていないのに十字架に架けられて苦しんでおられる」という事をちゃんと知っているという点です。彼は、罪がどれほど大きな報いとなって自分自身を苦しめるかを、自分使信の身をもって体験しているのです。そこで、自分の罪をきちんと認める認罪意識ということですが、彼は「お互いは自分のやったことの報いを受けている」と言うっています。もう一人の強盗は、十字架の苦しみと死の恐怖から助けられたいという願の中からイエス・キリスト様を見ています。しかし、何もそれは特別な事ではないだろうと思います。おそらくきっと、私たちだって同じ状況に置かれたら、その強盗と同じように考えるだろうと思うのです。
しかし、「お互いは自分のやったことの報いを受けている」とそういった強盗の方は、十字架の苦しみを自分の罪の報いだと受け止めているのです。もちろん、彼だって、出来ることならこの十字架の苦しみから逃れたいと思っただろうと思います。けれども、彼は、その今の苦しみから解放されることよりも、神の恵みを求めていたのです。だからこそ、彼は、イエス・キリスト様に、「あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出して下さい」と懇願しているのです。この男の願いは、今の自分のことではなく、「あなたが御国の権威をもっておいでになる時」という将来に関わることです。もっと厳密に言うならば、この世にあっての願いではなく、やがて来る神の国すなわち天国という終末的出来事に対する願いです。そのような、天国という終末的な出来事に対する望みをもってイエス・キリスト様の十字架の苦しみを見上げた人の目には、その十字架の苦しみの中で苦しみ抜くお姿の中に隠された恵みの神、私たちに恵みを与えて下さる神のそう方を見ることができたのです。
彼が、そのように十字架に苦しむイエス・キリスト様の中に、私たちを恵もうとしている恵みの神を発見できたのは、彼自身が自分自身の罪を認めていたということと同時に、同じルカによる福音書の23章32節の出来事が大きくかかっていただろうと思われます。このルカによる福音書23章34節は、イエス・キリスト様を十字架に架けた人たちのために、「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。と、そうとりなしの祈りをささげられている箇所です。この「父よ、彼らをおゆるし下さい」という彼らは、第一義的にはローマの兵隊を指しているだろうと思われます。しかし、そのローマ兵の背後には、イエス・キリスト様を陥れた祭司長や律法学者たち。 また、その祭司長たちや律法学者たちに扇動されて、イエス・キリスト様を十字架につけろと叫んだ群衆たちがいるのです。ですから、イエス・キリスト様が「父よ、彼らをおゆるし下さい」と祈るその祈りには、そういったローマ兵の背後にいる祭司長や律法学者たち、そして群衆の全てが含まれていると考えても良いだろうと思います。つまり、イエス・キリスト様は私たち全ての人の罪をとりなして下さったのです。
先ほども申しましたように、この男は、イエス・キリスト様が「何もしていないのに十字架に架けられて苦しんでおられる」という事をちゃんと知っていました。ですから、このお方は本当ならこんな苦しみなど受ける必要もないということもちゃんとわかっているのです。なのに、このお方は、黙ってその苦しみを引き受け、自分を十字架につけた者達を恨む事も呪う事もせず、むしろ神に執り成しの祈りを捧げているのです。その姿に、彼は救い主の気高さを感じ、恵みの神の姿を見出しているのです。本来なら、妬みや恨みで人を十字架という苦しい刑にかけて殺そうとする者こそが裁かれなければなりません。自分が犯した罪は、その当人が引きけるのが当然の事なのです。それなのにキリストは、何も言わず黙って十字架の苦しみを引き受け、本当なら自分を十字架につけた人々が受けるべき罪を引き受けておられる。その姿によって、イエス・キリスト様に対する深い信頼が生まれてくる。そして、その信頼に基づいてイエス・キリスト様に寄りすがる信仰が生まれたのです。
キリストに天国という終末的望みを求めた強盗は、この信仰によって、十字架の上で苦しむイエス・キリスト様のみじめな姿の中に、私達の罪を身に引き受けて十字架で死なれる「罪から救い主」であるキリストの本質である恵みの神の姿を見抜いたのです。だからこそ彼は、キリストに神の国での救いを求めたのだと言えます。今日(こんにち)、私たちは、聖書を通して、また教会の宣教を通して、イエス・キリストの十字架が私達の罪のためであったという事を、教会で聞くことができます。けれども、最も大切な事は、それが私達の罪のためではなく、私の罪のためであったと気付く事です。そのためには、まずは、私たち自身が罪人であるという認罪意識を持津必要があります。そして、その罪が永遠の死という、それが、恐ろしい報いを生み出すと言う事を知るという事です。なぜなら、この認罪意識があって、はじめて心から罪を悔い改めて神と向き合えるからです。
そして、そのような認罪意識をもって、聖書が語る言葉に耳を傾ける事です。聖書そのものを静まって読むと言うことも良いでしょう。また聖書の言葉が語られる教会での説教の言葉に耳を傾けると言うこと大切です。そうやって、聖書を通して語りかけるイエス・キリスト様の「父よ、この者をおゆるし下さい。この者は何をしているのかわからないでいるのです。」という、あなたに対するイエス・キリスト様の執り成しの祈りを聞くのです。そのイエス・キリスト様の執り成しを感じ取られ、その言葉にお答えしていくならば、きっと私たちの心に、このお方に対する信頼の心が、また信仰が興ってくます。そしてその信仰によって、あなたは、私たちを救い、恵みを与えて下さる恵みの神と出会うことが出来るのです。
お祈りしましょう。