『喜びの根幹』
マルコによる福音書15章33−41節
2007/10/21 説教者 濱和弘
賛美 3、201、355
さて、ただ今司式の兄弟にお読みただいた聖書の箇所は、先週に引き続いてイエスキリスト様が十字架に架けられた場面が記されている箇所です。そして、今週は、まさにその十字架の上でイエス・キリスト様が命を落とされるその場面が描き出されています。イエス・キリスト様が十字架にはり付けられたのは、朝の9時頃でした。それがお昼の12時頃になると全地は暗くなり、それが午後3時頃にまで及んだと聖書は述べます。この全地が暗くなったと言う出来事は、単に空が雲に覆われて暗くなったというようなことではなかったようです。と申しますのも、ルカによる福音書23章44節には、太陽は光を失ったと記されているからです。太陽が光を失う、それは、あたかも日食を思わせるような記述です。そして、そのように太陽が光を失ってしまいますと、それこそその暗さは全くの暗闇なのです。
もちろん、現代では天文学の研究が進んでいますので、紀元30年前後に、エルサレムの地で日食が観測されたかどうかと言うことは、調べれてみればわかることだろうと思います。残念ながら、私は専門家ではありませんので、紀元30年頃に実際にエルサレムで日食があったかどうかということをここで述べることが出来ません。しかし、仮にそれが日食という自然現象であったとしても、まさに神の独り子であられるイエス・キリスト様が、十字架の上で死なれようとするその時にそれが起こったということは、単なる偶然と言うことではなく、まさに奇跡的と呼べるようなタイミングです。そしてそれは、それこそ神の御子の十字架の死というものが、天地宇宙を巻込んだ神の計画の中にある奇跡的な出来事であったと言うことを私達に示しているように思われるのです。
けれども、私達は、このイエス・キリスト様がまさに死に行こうとしているというそのときに、全知が暗くなったと言う出来事の奇跡性を問題にするよりも、そのときに全地が暗闇に覆われていたと言うことそれ自体に目を向けたいと思います。現代の東京に住んでいますと、太陽が光を失ってしまった暗闇がどんなものか経験しにくいものです。それは、仮に夜になっても沢山の灯りがともされ、本当の意味での暗闇というものを経験しにくいからです。私は田舎で育ちましたので、子供の頃、夜に外出するときは懐中電灯を持たされたものです。けれども、今の東京で懐中電灯を持って歩いている人などは見かけません。それこそ、ちょっと暗くて見にくいなと言う感じはしても、それでも周りの灯りで見えるからです。
しかし、2000年前のイスラエルだとそうはいきません。電気もなければガスもないのです。ですから夜になれば、それこそ真っ暗闇なのです。しかも、その暗闇が昼の12時頃に突然やって来たのですから、おそらくは灯りの準備などなされていなかったでしょう。ですから、まさに、ちょっと先も見えないような暗闇が、このイエス・キリスト様がはり付けられている刑場であるゴルゴダの丘を覆っていたと考えられます。当然、弟子たちを含むイエス・キリスト様の処刑を見ていた多くの群衆は、イエス・キリスト様のはり付けられた十字架のすぐ側には近づけなかっただろうと思いますから、彼らは真っ暗闇の中でほとんど何も見えなかっただろうと思います。その真っ暗な闇の中から、イエス・キリスト様が「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」と叫ぶ声が聞こえてくるのです。
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」というのはアラム語で、聖書に書かれているとおり「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という意味ですが、もともと新約聖書はギリシャ語で書かれているのです。なのに、この部分では、わざわざイエス・キリスト様の叫び声をアラム語そのままで伝え、その上でその意味を記しているのです。このような書き方は、わずかではありますがマルコによる福音書の箇所にも見ることができます。例えば、会堂司のヤイロの娘が死んでしまったとき、イエス・キリスト様は、その娘に「タリタ・クミ」とそう呼びかけて蘇らせたという記事などです。この「タリタ・クミ」という言葉は、「少女よ、起きなさい」という意味ですが、しかし、ギリシャ語であろうと日本語であろうと、このように突然、アラム語が登場することによって、その言葉は、圧倒的印象を持って私達の心の中に残ります。
おそらく、この福音書を書き記した人の心にも、その言葉が決して忘れることのできない圧倒的な印象をもって残っていたのだろうと思うのです。だからこそ、ギリシャ語でなく、イエス・キリスト様が語られたそのままの言葉であるアラム語で書かれたのだろうと思います。それほど、その言葉は印象的であり、また、どうしても伝えたい、心に留めておいて欲しい意味ある言葉なのです。確かに、真っ暗闇の中から、悲痛な叫びが聞こえてくるその様子を想像してみますと、へたに翻訳するよりも「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」というイエス・キリスト様が発した言葉そのもので想像した方が、その場面がより現実感をもって伝わってきます。辺り一面真っ暗闇に覆われたただ中で、イエス・キリスト様は、闇の中で苦しんでおられる。そしてその苦しみの中かから叫び声を挙げておられるのです。そして、その叫びは神の独り子が神に見捨てられたという現実に対する悲痛な叫びなのです。私を見た者は父を見たのですとまで言われるほどに、父なる神とひとつに結ばれていたお方が、暗闇の中で、その父なる神から捨てられ、切り離されてしまう。そのことを、闇の中から響く「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」という叫び声は、私達に伝えているのです。
ところが、マルコ15章33節34節を見ますと、全地が暗闇の中にあったのは昼の12時頃から3時まであったと告げています。そして、イエス・キリスト様が、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と大声で叫ばれたのもまた3時であったと言うのです。イエス・キリスト様は暗闇の中で、苦しまれ、神に見捨てられ、そして大声で悲痛な叫びをあげられました。けれども、その悲痛な叫びを境目として、あたかもその叫び声が闇を切り裂くように暗闇が払われ、光が取り戻され、暗闇の中にいた人々を再び光の中に置くのです。同時に、キリストが息を引き取られたときに神殿の幕が上から下に真っ二つに裂けた。と聖書は告げています。この神殿の幕屋というのは、おそらく神殿の中を聖所と至聖所に分けていた幕のことをさしているであろうと思われます。
イスラエルの民にとって神殿というのは、神の臨在がある場所です。つまり、神殿には神がいて下さるのですが、その神が折られる場所が至聖所と呼ばれるところで、そこには、誰でもが簡単に入っていける場所ではありません。年に一度だけ、大祭司が一人だけ犠牲の血をもってそこにはいることが出来るだけなのです。ですから、至聖所と聖所を分けている隔ての幕によって、人々と神との間だが分かたれているのです。それは、神が聖なる存在だからです。神の聖は、私達人間の触れることのできない聖です。ですから、旧約聖書をみますと、誰も神を見ることはできない。神を見た者は死ぬとまで書かれている。そのような人間の存在を超越した絶対的な聖なる存在だからこそ、神がそこにいて下さるという神の臨在がある場所は、特別な場所として人のいる場所と隔て分けているのです。
実は、先週の礼拝の後、私が大阪に行った時のご報告をさせて頂きましたが、そのときに、ロシア正教会の司祭の方とお話しをする機会が与えられたと言う報告をさせて頂いたと思います。そのときに、ロシア正教会の教会堂も拝見させて頂いたのですが、ロシア正教の会堂には、正面にイコノスタシスという、キリストや天使、マリヤを描いた聖像がかかげてある仕切があります。そして、その中央には門があるのですが、そしてその門の向こう側が、いわゆる至聖所になるのです。そこには宝座と呼ばれる神がおられる場があり、そこに神の臨在があります。そして、その至聖所は司祭以外のかたははいることが出来ず、司祭の方はそこで、私たちが言うところの聖餐をするのです。そのように、神の臨在する場と至聖所と聖所を隔てていた神殿の幕が真っ二つに裂けたというのです。至聖所と聖所を隔てていた幕が裂けますと、自由に行き来することが出来ます。旧約聖書の時代においては、大祭司が年に一度だけ、犠牲の血をもってのみ入ることが許されていた場所が、解放されたのです。それは、つまり神と私たちを隔てていたものが取り除かれ自由に交わりが出来るように成ったと言うことです。
もちろん、如何に自由に交われることが出来るようになったからと言っても、神が聖であると言うことに変わりはありません。ですから、その私たち人間の存在を越した神の絶対的な聖のゆえに、例えばロシア正教会の会堂のように、生別した場所を設け、神を畏れ敬うと言うことも大切なことです。私たちの教会だって、子どもたちは自由に会堂を走り、会堂の中で遊びますが、それでも、この講壇の上で遊ぶならば怒られますし、掃除や止む得ない場合以外は、講壇の上には上がらないように指導されます。それは、神の言葉が語られる場所は聖なる場所であるとして聖別しているからです。けれども、そのように神は、私たちが神を礼拝すると言うことにおいて、聖別した場所を設けなければならないほどに、絶対に触れることのできない聖なるお方であると同時に、私たちと共にいて下さり、私たちの祈りを聞き、私たちを慰め、癒し、支えて下さるお方でもあります。それは、神と私たちの間に、交わりを隔てるものが取り払われているからです。そして、交わりがある限り、私たちは神に見捨てられることはないのです。
だからこそ、私たちは祈りを持って大胆に神の御前に出ていくことができますし、いつでも、どこででも、神の名を呼び求めることが出来るのです。そして、いつでも、どこでも神は私たちの側にいて下さるのです。そして、この神殿の幕屋が真っ二つに裂けたと言う出来事が、そのことを私たちに教えてくれています。私たちは、いつでも、どこにおいても、神に祈り、神を呼び求めることができる。そのように神と交わり、神と共に歩むことが出来る者とされているのだと教えてくれているのです。この神との交わりは、イエス・キリスト様の暗闇の中の叫びから始まっています。神と一つに結ばれ、神と共に歩まれたイエス・キリスト様が、神から見放され、切り離されることによって、私たちは神と結びあわされ、神から決して見捨てられることのない存在になったのです。
マルティン・ルターという宗教改革者は、喜びの交換ということを言いました。ルターは、この喜びの交換という言葉を用いて、イエス・キリスト様が神の御子として持っておられた神の義、神の命、あるいはその他のもろもろのものを私たちに与えて下さり、変わりに私たちの持っていた罪だとか不義といったものを、すべてご自分のみに負って下さったのだと言うのです。つまり、イエス・キリスト様を信じた者に対して、イエス・キリスト様はご自身の中にある神の義や命、喜びといったものを、私たちの内にある様々な悪や汚れと言った見にくいものと交換して下さったというわけです。この喜びの交換について、ルターは、このような譬えを用いています。
「実にキリストご自身も、ヨハネによる福音書〔11章25〕に『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる』と言われている。また再びヨハネによる福音書〔14章5〕に『私が道であり、命である』とある。したがって、この義は洗礼において与えられ、また、真実に悔い改める者にはいつでも与えられる。だから、人は自信を持って、キリストにおいて誇りを持ち、『キリストが生き、行動し、語り、受難し、死にたもうたことは私のものである。あたかも、私が、主のごとく生き、行動し、語り、受難し、新だのと同じように、私のものである』と言うことができる。花婿は花嫁のものをみな所有し、花嫁は花婿のものをみな所有する。〔なぜなら、二人は一つの体であり、すべては二人の共有物だからである。創世2章24〕。それと同じように、キリストと教会はとはひとつの霊である。
そのように考えますと、イエス・キリスト様が、真っ暗闇の中で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれながら、闇の中で神に見捨てられていくその叫びが、闇を切り裂いて光をもたらしたということは実に象徴的です。本来は、暗闇の中で苦しみ、神に見捨てられなければならないような私たちであったとしても、イエス・キリスト様が、その私たちが受けけるべきである、暗闇の中の苦しみや神に見捨てられてしまう苦しみを共有して下さったたからです。そして、暗闇の中で、苦しみ、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫びの声をあげて下さった。あの苦しみの叫び声は、苦しみの中で叫ぶ私たちの声でもあったのです。そして、その声が闇を切り裂いてもたらした光は、本来はイエス・キリスト様を照らす光だったのです。けれども、その光は、イエス・キリスト様を照らすことなく、弟子たちを、そして群衆を、そして私たちを照らしました
そうやって、私たちを光によって照らすことで神に恵みの中に、憐れみの中に、導いておらえる。そして、イエス・キリスト様と一つに結ばれたものは、イエス・キリスト様の内にある、その神の義やいのち、そして喜びと言ったものを共有させていただくことができるのです。それは、イエス・キリスト様と一つに結ばれたものは花婿と花嫁の関係にあるものと同じなのだとルターは言うのです。教会とキリストは一つに結ばれているとルターは言いますが、それは聖書の言うところでもあります。エペソ人への手紙5章には妻に対する教えと夫に対する教えが記されていますが、次のように書かれています。22節から25節です。
「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、体なる教会の救い主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻も教会に仕えるべきである。夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。」ここでは、夫婦の関係が教会とイエス・キリスト様の関係に例えられています。そして、夫婦の関係とは、ふたりの者が一人の人であるかのように密接に結びあわされた一心同体の者なのです。そのような夫婦を密接な関係に結びあわせる絆は、愛です。「キリストが教会を愛してそのためにいのちをささげられた」とあるように、イエス・キリスト様は教会を愛しておられます。教会とは誰のことでしょう。教会とは神を信じる者の群れであり、私たちのことではありませんか。ですから、イエス・キリスト様は私たちを愛して下さっているのです。愛して下さっているからこそ、ご自身をささげられ、それゆえに、暗闇の中で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫んで下さっているのです。
だからこそ、みなさん、私たちはこのお方を信じ、このお方と一つに結ばれていなければなりません。だってね、みなさん。私たちの人生には、暗闇と思われるような事はたくさんあるじゃないですか。本当に真っ暗で、この先どうなるかわからないというときが、いっぱいある。今週も、25日には椙浦姉のお姉さんの窪寺さんが手術を受けられますが、手術を受けると言うことに不安を感じておられると聞いています。そういった不安や恐れが一杯ありますし、悲しいことや苦しいこともたくさんある。みなさんにだって、きっとそう言うことがあっただろうと思うのです。そして、これからもそういうことは有りだろうと思う。いや必ずやってくる。だからこそ、私たちは、イエス・キリスト様にしっかりと繋がっていなければなりません。
私たちがイエス・キリスト様に繋がっているならば、イエス・キリスト様は、その不安や恐れ、悲しみや苦しみを共有して下さるからです。私たちの人生に、それがくり返しくり返し起ってくるならば、イエス・キリスト様もくり返しくり返しそれを負って下さいます。そのたび事に、何度でも私たちの不安や恐れ、悲しみや苦しみと、イエス・キリスト様が神と共におられるが故に、持っておられた喜びや平安といったものを交換して下さるのです。だからこそ、私たちは、苦しいときや悲しいとき、不安で心が押しつぶされそうなときには、大胆に神の前に出て祈ることが出来ます。なぜなら、私たちの祈りは、イエス・キリストの御名による祈りだからです。暗闇の中で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ぶ声を挙げて、神に見捨てられることで、神と私たちの交わりを回復して下さったお方の名前で祈るからこそ、神は、叫びを求める私たちの側にいて下さるのです。そして、神が共にいて下さることによる慰めや平安が私たちのものになる。
いうなれば、私たちが苦しみや悲しみや不安の中で、イエス・キリスト様の名によって祈るたびごとに、イエス・キリスト様は、暗闇の中で叫び声をあげてくださるのです。そして、そうやって、私たちを神の前に執り成し、その叫び声を持って私たちが身を置いている暗闇を消し去り、神が共にあるところの喜びを与えて下さるのです。愛する兄弟姉妹のみなさん。それほどまでに、イエス・キリスト様は私たちを愛していて下さっています。ですから、私たちは、イエス・キリスト様を信じ、このお方からけっして離れてはなりません。このお方を信じ、いつでも、どこでもこのお方と固く結ばれている者でありたいと願います。
お祈りしましょう。