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羊飼い 召天者記念礼拝
『すべての聖徒に』
詩篇50篇1−15節
2007/11/4 説教者 濱和弘
賛美  20、215、468

今日は昇天者記念礼拝です。私たちの教会は、毎年11月の第1週に召天者記念礼拝を行っていますが、これは教会歴との関わり合いによるものです。教会歴とは、教会の一年間の歩みを、様々な教会の行事と結びあわせて一つの暦としてまとめたものです。その教会歴において、特にプロテスタントの教会の幾つかの教派は11月1日は全聖徒の日と定めています。この全聖徒の日というのは、もともとカトリック教会において11月1日に行われていた万聖節という祝日と深い関わりがあります。万聖節というのは、諸聖人の日ともいわれているものです。実は、カトリック教会の暦には、教会歴と平行して聖人歴という、一年の一日一日に、それぞれの聖人を関係づけ、その日をその聖人の記念日、祝日とする習慣があります。

たとえば、みなさんがよくご存知なのは、2月14日のバレンタイン・ディーというのは、269年にローマ帝国の迫害の中で殉教した聖ワァレンティヌスの日にちなんだものです。もっとも、1962年から65年に架けて行われた第2バチカン公会議というカトリック教会の重要な公会議で、歴史的に実在したかどうかと言うことの根拠が定かではない聖人たちは、この聖人歴からはずされてしまいました。ですから、バレンタイ・ディーの元となった聖ワァレンティヌスの日も、今日のカトリックの聖人歴からははずされてしまっています。しかし、第2バチカン公会議以前は、聖ワァレンティヌスの日も含めて、一年365日すべての日が、誰かしらの聖人たちと結び付けられ、記念日や祝日とされていたのです。この聖人の記念日、あるいは祝日は、一般に聖人たちの命日と結び付けられている場合が多いのですが、それは、もともとこのように聖人を記念するという習慣が、殉教した聖人を記念するということを目的として定められたということに由来しています。

しかし、聖人たちがだんだんと増えていくにつれて、一年365日にすべての聖人を割り振ることができなくなり、それまでにすでにあった諸聖人の日を、改めて、聖人歴に入れられなかった他の聖人を含んですべての聖人を記念する日と定めて、11月1日を万聖節として祝日にしたのです。このように、カトリック教会では、万聖説節はすべての聖人たちを記念する日ですが、しかし、すべてのクリスチャンが聖人とされるわけではありません。むしろ聖人となる人などほとんどいないわけで、圧倒的大多数の人は普通の信者なのです。ですから、カトリック教会では、万聖節の翌日の11月2日を死者の日と定めて、すべての亡くなられた方の魂のために祈る日と定めているのです。確かに、カトリック教会には聖人と普通の信者との区別があります。けれどの、私たちプロテスタント教会には、そのような区別はありません。例えばカトリック教会では、聖人と認められる要素の一つに殉教というものがあります。しかし、私たちホーリネス教団では、それこそ第2次世界大戦時に横浜の菅野鋭牧師や大阪の小出朋治牧師などが、弾圧により殉教致しましたが、私たちホーリネス教団では、それらの先生方に惜しみない尊敬の念は抱きますが、決して聖人として特別な扱いを致しません。

確かに、殉教ということは、信仰の大きな証の一つです。そして殉教するまでに神に忠実の従った信仰は、素晴らしいものだと言えます。けれども、私たちは、そのような輝かしい信仰の歩みをなされた諸先輩であっても、またごく普通の私たち、むしろ信仰の弱い私たちであっても神の前では同じ一人のキリスト者なのです。週報にもありますが、教会でも祈って入りましたT・K姉のお母様が、昨日天に召されました。その葬儀の司式を私がさせて頂くことになりましたので、その打ち合わせをさせて頂いたのですが、そのとき、ご親族の方から御位牌と戒名について質問をいただきました。もちろん、教会では御位牌も戒名もないわけですが、位牌というのは、その人が仏門においてどのような階位、つまり位にあるかということを記したものであり、戒名とはその階位を示す名前であります。ですから、私は、キリスト教では神様の前ではみんな平等であり、等しい立場ですので、戒名というものや位牌というものがないのですとお答えしました。

それと同様に、聖人と普通の信者との区別などないのですから、諸聖人の日と死者の日と分ける必要もありません。むしろ今日の聖書の箇所である詩篇50篇5節に「いけにえをもって私と契約を結んだわが聖徒をわたしのもとに集めよ」とありますが、イエス・キリスト様が、私たちの罪や咎のためのいけにえとなってご自身を神の前に捧げて下さったということを信じた者は、すべての者が、神様の前にあっては等しく聖徒なのです。それは、イエス・キリスト様は、十字架の上でご自身を犠牲として捧げられたことによって、私たちと神様との間に、新しい約束、新しい契約を結んで下さったからです。この、キリストが結んで下さった新しい契約によって召し集められた者は、すべからく神の聖徒なのです。ですから、今日、こうして、ここにお写真が飾られているお一人お一人や私たち一人一人も、みんなが神様から召し集められた聖徒の一人一人であるといえます。そして、そのように私たち一人一人が神様から聖徒として呼び集められたのは、イエス・キリスト様がご自身をいけにえとしてささげることによって成し遂げられた救いに与るためです。

この救いということを、私たちは、通常は罪が赦されることであるといいます。確かに、それは、層なのでありますが、その実体は、神の裁きである永遠の滅びから救われるということであり、それは、つまりは、永遠の命を与えられると言うことです。実際、今日の聖書の箇所、例えば2節から4節を見ましても、「神は麗しさのきわみであるシオンから光を放たれる。我らの神は来て、もだされない。み前には焼きつくす火があり、そのまわりには、はげしい暴風がある。神はその民をさばくために、上なる天および地に呼ばわれる。」と記されています。「我らの神は来て、もだされない。み前には焼きつくす火があり、そのまわりには、はげしい暴風がある。」という表現は、神様の厳しい裁きを思わせる表現です。火はすべてを焼きつくすものであり、激しい暴風はすべてを吹き飛ばしてしまうからです。まさに神の前に罪あるもの、心に汚れ有る者は、そのような厳しい裁きの前に立たされるのです。それは、神様が公明正大な裁き主だからだといえます。公明正大な裁き主だからこそ、神様は一点の汚れも罪も不正も見逃すことなく、裁きを下されるのです。

しかし、イエス・キリスト様が自らの命を投げ出してまで、神様と私たちの間に結んで下さった新しい契約の元に召し集められたものは、神の聖徒として、その神の裁きから救われ、天国において生きる永遠の命が与えられるのです。この救い、永遠の命は、私たちが神に何かをしたから与えられるというものではありません。それは、プロテスタントの教会に通うものであるならば誰でも知っていることです。というのも、プロテスタントの教会が一致している信条は信仰義認というところにあるからです。今日の聖書の箇所詩篇50編8節から13節には次のように記されています。「わたしがあなたを責めるのは、あなたのいけにえのゆえではない。あなたの燔祭はいつも私の前にある。わたしはあなたの家から雄牛を取らない。またあなたのおりから雄やぎをとらない。林のすべてはわたしのもの、丘の上の千々の家畜も私のものである。わたしは空の鳥をことごとく知っている。野に動くすべてのものはわたしのものである。たといわたしは飢えても、あなたにお告げない、世界とその中にみちるものとは、わたしのものだからである。わたしは雄牛の肉を食べ、雄やぎの地を飲むだろうか。」

ここには、神が人を責め裁かれるのは、人々が捧げる動物のいけにえの犠牲に問題があるというのではないということです。さきほど、私は、5節の「いけにえをもって私と契約を結んだわが聖徒をわたしのもとに集めよ」という言葉を、イエス・キリスト様の十字架の死と関係づけながらお話しを致しました。それは、新約聖書の光をもってこの聖書箇所を見、理解されるところのことであります。しかし、旧約聖書の時代、この詩篇が書かれたそのときにはまだ、イエス・キリスト様はこの地上に来られておられませんから、まさにこの詩篇が書かれた時代の人がこの箇所を読むならば、神殿に捧げられた動物の犠牲を思い起こすだろうと思います。そうすると、神殿に捧げる神へのいえにえとしての動物の犠牲が十分ではない、問題があるとするならば、「いけにえをもって私と契約を結んだわが聖徒をわたしのもとに集めよ」といわれる、聖徒は最早聖徒ではなくなります。契約の基となるいけにえに問題があるからです。当然のことですが、契約の内容に不履行があるとするならば、その契約は無効になります。

ですから、「神が、あなたがたが捧げるいけにえの動物に問題があるから私はあなたがたを責めるのではない。」といわれるとするならば、「神がいけにえをもって私とむんだ契約」とは、旧約聖書の時代の人々にとっても、もはやそれは動物の犠牲を捧げるということではなくなってきます。では、いったい何なのか。それについて、聖書は14節でこのようにいっています。「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果たせ。」ここでは、ささげものは動物の犠牲ではなく、感謝の心だというのです。そして、その感謝の心があるからこそ、高き者、すなわち神に誓いを果たせというのです。この誓いを果たすということが、旧約聖書の世界では犠牲のいけにえを捧げることということであった。つまり、本当のささげものは神に対する感謝の心であって、その感謝のこころを具体的に表現するものとして、動物の犠牲があるのです。

考えてみれば、そのようなことは私たちの身近な生活の中で、良くわかるような感じがします。私には一人の友人がいますが、彼は税理士として活躍しています。その彼が、毎年確定申告の時期になりますと、私の確定申告をしてくれるのです。税理士ですから、その時期は本当に忙しいだろうと思うのですが、私のためにそれをしてくれる。本当に私はありがたいと思います。本当にありがたいと思うから、本当に心からのものを彼に送りたいといつも思う。彼は、そんなことしなくていいのにというのですが、私はしたくてたまらない。しなければ心が収まらないのです。この詩篇50篇13節は、まさにそのようなことをいっているのだろうと思います。神様が私たちのために、素晴らしいことをして下さった。そのことを本当に素晴らしいことだと受け解けているならば、そこには当然感謝な心が起ってくる。それが動物の犠牲を捧げるという行為になってあらわれてこそ、、その動物を犠牲のささげものとして捧げるという行為が、本当に神と私たちを結ぶ契約となり、sこにおいて、はじめて人は真の意味で「わが聖徒」と呼ばれるにふさわしい者になるのだということなのだろと思うのです。

ですから、そこから立ち返って、もう一度新約聖書の光に立ち返って見ますならば、神は私たちが、神様が私たちに与えて下さる永遠の命という賜物を心から感謝して受け取り、だからこそ、イエス・キリスト様を信じ受け入れるならば、私たちは聖徒と呼ばれるにふさわしい者となるという事になろうかと思います。いえ、事実そうなのです。神のみ業に感謝する。心から感謝する。だからこそ、イエス・キリスト様の十字架を信じ受け入れてクリスと者として神に従い、またイエス・きリスト様に倣って歩んでいくのです。そのとき、私たちは、神様から「聖徒」と呼んでいただくにふさわしい者になるのです。ですから、key wordは「感謝」です。神に心から感謝することが大切なのです。

先ほど、T・K姉のお母様が召されたことをお話し致しましたが、召される4日前に、私は病院にお見舞いに行ってきました。そのときは4日後に召されなどとは想像もつかないほど、しっかりとした口調でお話しして下さいました。私も病気の内容なども聞いておりましたので、あまり長居をしてはいけないと思っておりましたが、それでも30分ちょっと二人きりでお話しすることができました。そのとき、T・Kのお母様は、病気になって子どもたちに迷惑をかけてもし分けないと思うとおっしゃっておられました。そこで、私は「そんなことないですよ。病気は決して喜ばしいことではないけれどの、それを通して子どもたちに親孝行させてあげているのですから、良いことをしているんじゃないですか」と申し上げました。

そうすると、お母様は「そうですよね。じつは、病気になって、3人の娘さんが一つになって支えてくれること、あのこと、このことみんな感謝なんです。本当に嬉しい。神様って素晴らしいと思うんです。」とそうおっしゃられるのです。そこで、私は、「そうですね。その素晴らしい神様を信じて頑張りましょうね」といいますと、本当に素直に「ハイ、私も信じて頑張ります」とそう答えて下さいました。それは、本当に神様に感謝の差ささげものをしている者の姿であったと私は思うのです。ですから私は「ハイ、私も信じて頑張ります」といわれたその言葉と、心からの感謝を捧げていたその姿から、今回の葬儀の司式に臨むにあたって、T・K姉のお母様もまた、ここにお写真が飾られている方々と共に、「聖徒」の群れに加えられていると確信をもって臨むことができるのです。それほどに、私たちの心に神への感謝の気持ちがあるのかということは、キリスト教の信仰にとって重要なことなのです。ですから、もし仮に、私たちが奉仕を捧げる事において、また祈ることにおいて、感謝なき持ちが失われているとしたならば、それは要注意しなければならないことかもしれません。

そして、もしそうだとしたならば、私たちは、もう一度、神様が私に何をして下さったのか、私に何を与えて下さったのかということを心に思い起こす必要があります。そして、それらのすべての頂点に、神が人となられ、イエス・キリスト様として生まれ、十字架の上で死んでくださったことを思い起さなければならないのです。それは、その十字架の死によって、焼きつくす火によって、すべてを吹き飛ばすはげしい暴風によって滅びなければならなかった私たちが救われ、永遠の命を与えられ、天国に生きる者となったからです。そして。私たちは、そのことを、思い感謝しながら生きる「聖徒」となるのです。

最後に、もう一箇所だけ聖書をお開きしたいとおもいます。それは有名なヨハネによる福音書3章16節です。そこにはこうあります。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛された。それは御子信じる者がひとりも滅びないで 永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によってこの世が救われるためである。」私たちに永遠の命が与えられているという事を覚え、心から感謝のささげものをする者になりたいとと思います。

お祈りしましょう。