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羊飼い 幼児祝福式礼拝
『最も頼りになる助け主』
ローマ人への手紙8章26−39節
2007/11/11 説教者 濱和弘
賛美  1、482、474,486

今日は、幼児祝福礼拝です。ですから、教会学校ではなく、大人と子供が一緒に礼拝を守ります。大人の礼拝お話しは、子どもたちにはちょっとむつかしいかもしれませんが、今日は、最初に子供のみんなのためにお話しをして、それから大人の人たちの話をしますから、子供の話をしているときは、しっかり聞きましょう。そして、大人の人のお話をしている間は、できるだけ静かにお話しを聞くようにしましょう。さて、いつも大人の人と一緒に礼拝をしているときはまこと君のお話をしていますが、今日はまことくんお友達の、しんや君のお話です。しんやくんは小学校2年生です。そして、しんやくんには妹がいました名前を、マナちゃんっていいます。マナちゃんは幼稚園の年長組です。

ある日、しんやくんとマナちゃんが、公園で遊んでいました。めぐみちゃんはスコップで砂を集めてきて、砂の山をつくって、トンネルを掘ったりして遊んでいて、しんや君はその側でサッカーボールを蹴って遊んでいました。すると、突然、マナちゃんが「キャー冷たい」って大声をあげました。ビックリしてしんや君がマナちゃんの方をみると、6年生の男の子達が、砂場のすぐ側にあった水飲み場の水道の蛇口の栓を一杯にあけて、水をジャージャだして、その水を周り一面にまき散らかしていたんです。その水が、マナちゃんにかかって、それでマナちゃんがびっくりして大きな声を出したんです。もちろん、6年生の男の子達は、わざとマナちゃんに水がかかるように水をまき散らしていました。意地悪をしていたんだね。みんな、意地悪をしてはいけないとか、いじめをしては生けないってことはちゃんとわかっているよね。人を叩いたり、人の嫌がることをしたりすることは、意地悪やいじめになります。だから、みんなは人の嫌がることをして意地悪をしたり、人を叩いたりするようなことをしては絶対にいけません。

ときに、自分より弱い人や、小さい人がいじめられたり、意地悪されていたら、守ってあげる人にならなければなりません。だからね、このときもしんや君は小さいマナちゃんが、いじめられていたので守ってあげなきゃいけないと思って、マナちゃんの所まで走ってきて、6年生の男の子達に、「やめてよ。小さい子をいじめちゃいけないんだよ」って言いました。ところが、6年生の男の子たちはしんや君の言うことを聞いてくれません。ぎゃくに「うるせえなー」といってしんや君にも水をかけてきました。しんや君は6年生の男の子たちを「なんとかやめさせたい」と思いましたが、しんや君は2年生です。6年生のお兄ちゃん達はとっても大きくて、とてもかないそうもありません。それで、しんや君は困ったな、どうしようかなって思っていました。ところが、しんや君が急にダァーと走って公園の外に出ていったのです。どうしたんだろう?しんや君はマナちゃんをおいて、一人だけ逃げ出したのかな?

そうじゃなかったんです。実は、しんや君は、たまたま公園の近くを歩いていたお父さんを見つけて、お父さんに助けてって言いに行ったんです。「お父さん、6年生の子がマナちゃんに水をかけていじめているからすぐに助けに来て。」それを聞いたお父さんは、「それは大変だ。すぐに行こう」といってしんや君と一緒に、公園に来てくれました。マナちゃんをいじめていた6年生の子は、逃げ出したと思っていたしんや君が、大人の人と走ってくるのをみて、まずい。誰か大人の人を連れてきたと思い逃げ出しました。いくらいじめっ子でも、大人に人にはかないません。だから、必死になって逃げ出したのです。お父さんは、マナちゃんのところにくると「マナちゃん、大丈夫かい。お父さんが来たからもう大丈夫だよ。」といいました。しんや君はまだ2年生だから、体の大きな6年生にはかないません。だからいじめっ子の6年生の男の子をしんや君一人では追い払えませんでしたが、お父さんという力強い味方を見つけて、そのお父さんと一緒に連れてくることで、あのいじめっ子の6年生を追い払うことができたのです。

このしんや君と同じような経験をした人が聖書の中にいます。ダビデさんって人です。ダビデさんの住んでいたイスラエルの国は、すぐ近くのペリシテという国と戦争をしていました。そのペリシテという国には、ゴリアテさんという、とっても背が高くて体の大きな強よそうな人がいました。あまりのも、ゴリアテさんが大きくて強そうなので、イスラエルの国の人は誰もゴリアテさんには勝てそうもないとおもって、しょぼんとしていました。でもね、ダビデさんは、「イスラエルみなさん。どうしてしょんぼりしているのですか。神様が私たちいっしょに行ってくれるならば、あのゴリアテさんだって恐くはないですよ。」といって、一人でゴリアテさんに向っていったんです。もちろん、神様は目に見ることができません。だから、イスラエルの人にも、ゴリアテさんにもダビデさんと一緒にいる神様を見ることができませんでした。けれども、ダビデさんには神様がダビデさんと一緒にいて味方になってくださるということがちゃんとわかっていました。そして、神様は、必ずダビデさんを守り助けて下さると信じていたのです。だから、みんなが、絶対に勝てないと思っていたゴリアテさんにも向って行くことができたのです。

そして、神様は、ダビデさんが信じていたように、ダビデさんを守り助けて下さっていました。だから、ダビデさんは、誰も勝つことができないと思っていたゴリアテさんに勝つことができたんですね。みんなも、神様が味方になって下さるならば、何も怖がることはありません。もちろん、今はダビデさんの時のように戦争や喧嘩をするときに神様が守ってくださるということではありません。でも、正しいことをちゃんとするときに、神様は、神様を信じて正しいことをする人をちゃんと守ってくださり、助けてくださるんです。だから、みんなも神様を信じて、正しいことをする人になりましょうね。もちろん、お父さんお母さん、おじいちゃんお婆ちゃんもみんなを助けてくれる大切な人です。だから、お父さんお母さんを尊敬して、お父さんお母さんを頼らなければなりません。けれども、私たちにとって最も頼りとなる力強よいと助け主は神様なのです。だから、みんなも、神様を頼って、神様に守られながらいきていきましょうね。神様は、神様を信じて生きる人たちにとって、何よりも強い味方であり、助け主なのです。

さて、これからは大人の人のためのお話しです。私は、今日の幼児祝福礼拝でどこから聖書の話をしたらよいだろうかと思いあぐねているときに、一つの聖書の言葉が、心の中に響いてきました。それは今日の聖書箇所ローマ人への手紙8章26節から39節の中の言葉、そのなかでも特に、「もし、神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵し得ようか。」という言葉です。文語訳聖書ならば、「神、もし我らの味方なれば、誰が我らに敵せんや。」となっていますが。本当にこの、「神、もし我らの味方なれば、誰が我らに敵せんや。」という言葉の響きと歯切れはいいですね。このように「神、もし我らの味方なれば、誰が我らに敵せんや。」と歯切れよく、また確信的に言われると、本当に神を信じているならば、 私たちは何も恐れることはないと、まさにそういう気持ちになってくる。そんなわけで、子どもたちに、これからの人生にはいろんな困難や苦しいことなどが色々とやってくるけれども、そのようなときに神様に寄りすがっていくならば、必ず神様が助けの手を伸ばしてくださり、そのような試練を乗り越えられるという思いから、よし、この御言葉から、今日の礼拝の説教をしようと思ったのです。

そして、この「神、もし我らの味方なれば、誰が我らに敵せんや。」という言葉を通して、子どもたちに、神様こそが私たちにとって強い味方であり、私たちを助け支えてくださるお方であるということを伝えたかったのですその子どもたちにお話しをしたそのお話しの最後の部分は旧約聖書のサムエル記17章にある、有名なダビデとゴリアテの話でした。子どもたちにもお話ししたように、ゴリアテという人は、人並みはずれた大男で、勇猛な戦死でした。聖書では、ゴリアテの身長は6キュビット半と記されていますが、1キュビットは45cmから60cmぐらいですので、少なくみても3mから4m強の大男だった事になります。もちろん、人の目からみての多少の誇張があり、実際よりも過大に記されたということがあったとしても、いずれにしても、人並みはずれた大男であったことは違いありません。古代の戦争においては、近代の戦争とは違い、兵士の体力や力と言ったものがもつウェートははるかに大きいものです。ですから、ゴリアテのような巨人であり、力がある男が出てきたら、誰しも勝てないと思うのは極めて当たり前のことです。

ですから、イスラエルの兵士は誰もゴリアテと戦おうとはしなかった。誰もがゴリアテを恐れていたのです。そして、それはきわめて常識的な反応だったのです。ところが、ただ一人、このゴリアテを恐れなかった者がいる。それが、まだ少年であったダビデなのです。ダビデは、まだ子どもであり、イスラエルの兵士でも何でもない、ただの羊飼いの少年にしか過ぎませんでした。たまたま、戦場に兵士として赴いた兄の所に、父から託されたパンといる麦を届けに来ただけなのです。けれども、そこで、イスラエルの人々がゴリアテを恐れて、ゴリアテと戦うことを裂けている姿を見て、神が共に戦ってくださるとすれば、それは神の戦いなのだから、恐れることはない」といって誰もが恐れるゴリアテに戦いを挑み勝利をするのです。このゴリアテを倒した少年ダビデの心にあったものは、「神が共にいてくれるならば、恐れることは何もない」という純粋な信仰であり、「神を信じるものを神は守ってくださる」という神を頼る大胆な信仰だったと言えます。

私は、この少年ダビデの姿に、このローマ人への手紙「神、もし我らの味方なれば、誰が我らに敵せんや。」と言う言葉が重なり合うように思えて仕方がないのです。そして、この聖書の言葉通りに生きたところに、ダビデの勝利があったと思えるのです。だとしたら、どうして他のイスラエルの兵士たちは、ダビデのように純粋に神を信頼し、神を頼る大胆な信仰の心が起ってこなかったのか。単純に考えるならば、彼らは現実をちゃんと見ていた。そしてちゃんとそろばんをはじいていたのです。人並みはずれた大男で、力もありそうだ。それに対して自分の力や能力を顧みるならば到底勝てそうもない。それは、だれもが考えそうな事ですし、だれもが判断しそうなことです。しかし、そのような考えかたや判断が、神に信頼すること、神に大胆に頼ると言うことを疎外しまった一例が、このダビデとゴリアテの物語の中にあるように思うのです。

そのような中にあって、聖書は少年ダビデを通して、私たちに「神、もし我らの味方なれば、誰が我らに敵せんや。」とそう語っておられるように思うのです。もちろん、それは非常識な考え方になれと言うのではない。誇大妄想的に神に依り頼めば何でもできるというのでもありません。ダビデは、ゴリアテと戦うにあたって、このように言っています。サムエル記上17章45節から47節ですが次のように述べているのです。「おまえは(このおまえとはゴリアテのことですが)、つるぎとやりと、投げやりをもって私に向ってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわちお前がいどんだイスラエルの神の何によって、おまえに立ち向かう。きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテひとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全知に知らせよう。またこの全会衆も、主は救いの施すのに、つるぎとやりとを用いられないことをしるであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである。」

この言葉は、「神、もし我らの味方なれば、誰が我らに敵せんや。」と言いきることができるのは、\私たちの目の前にある問題が、まさに「おの戦いは主の戦いである」と言えるような戦いの時であると言うことができます。自分自身のための戦い、自分自身の欲望を満たすための困難がおとずれたときに、「神、もし我らの味方なれば、誰が我らに敵せんや。」といって、無謀と思われるような挑戦をしたとするならば、それは正しいこととは言えません。まさに「これは神の戦いである」と言えるような出来事の前に立って、はじめて私たちは「神、もし我らの味方なれば、誰が我らに敵せんや。」と言いきることができるのです。そして、今日の中心成句である「神、もし我らの味方なれば、誰が我らに敵せんや。」という言葉がおかれている文脈、ローマ人への手紙8章26節から39節もそのような構造になっています。

このローマ人への手紙の8章26節以降は、18節から続く、「救い」ということに関して語られていることであって、その「救い」は、私たちに対する神のみ旨であると言うことです。この神のみ旨である救いを得るために神は私たちを助けてくださり、支えてくださるのだから、誰も私たちに敵するものはいないということです。そして、誰も私たちに敵する者がいない以上、誰も私たちを神から、イエス・キリスト様から切り離すことができないというのが、この文脈が言わんとしている事の大意です。救いということは、私たちが神の前に義とされるということです。義とは正しいという言葉に置き換えてもいいでしょう。私たちは神の前に正しい者とされる、それが義とされるということです。この義の反対側にあるものは罪、あるいは悪と言うことができます。ですから、義とされるということは罪に対して勝利すると言うことです。まさにイエス・キリスト様の十字架の死は、罪、あるいは悪と立ち向かう戦いにおける勝利なのです。そしてその勝利の輝かしい証として、死を克服して、天国という神の祝福と永遠の命という恵みをもたらされるのです。

その救いが私たちに与えられている。だからこそ、神を信じて生きる者は、イエス・キリスト様と共に生きる者となり、イエス・キリスト様が罪や悪との戦いに勝利なさったように、私たちもそれらに対して勝利していかなければなりません。つまりそれは、神の前に、神が喜ばれる正しい生き方をしていくということです。もちろん、さまざまな誘惑もあるでしょう。けれども、神は、その誘惑に勝利をし、神の前に正しい生き方ができるように支えてくださることにおいても、「神、もし我らの味方なれば、誰が我らに敵せんや。」なのです。しかし、それだけではありません。私たちは本当に弱い存在ですから、神の前に何が正しいことであるかわからなかったり、判断ができなかったりすることもあるでしょう。また、ひょっとしたら、罪の誘惑に負け、悪に負けてしまうようなことがあるかもしれません。しかし、たとえそのような事があったとしても、私たちが神を信じる信仰にたち続けるならば、神は私たちを守り、支えて下るのです。そして、私たちは、その神の守りと支えに助けられて、必ず、イエス・キリスト様の十字架の勝利にたち帰ることができます。

それほどまでに、イエス・キリスト様の十字架の勝利は圧倒的な完全な勝利なのです。ですから、私たちがどんなに弱くても、私たちが、イエス・キリスト様を信頼し、このお方により頼まなければなりません。イエス・キリスト様を信頼し、頼む者に対して、神はいつでも味方となってくださるのです。そして、どのような罪や悪に対して、またそのさばきに対して、「神、もし我らの味方なれば、誰が我らに敵せんや。」なのです。ですから、私たちは、父なる神様を信じ、イエス・キリスト様により頼みながら、聖霊なる神様の導きの中で生きていく者となっていきましょう。

お祈りしましょう。