献堂記念礼拝
『旅する教会』
ヨハネの黙示録2章1−7節
2007/11/18 説教者 濱和弘
賛美 18、145、457
さて、今日は献堂記念礼拝です。それは現在の会堂が献堂されたこと記念する日ですが、しかし、単に建物としての会堂建設がなされ、それが献堂されたということを覚え記念するだけでなく、この三鷹の地に、私たちの教会が設立されたということを含んで、それを覚え感謝する時でもあります。ですから、創立記念礼拝という意味もそこに含まれていると、私は考えています。その献堂記念礼拝の説教に、私はヨハネの黙示録にある7つの教会への手紙の箇所を選びました。7つの教会への手紙といいますのは、ヨハネの黙示録の1章9節からはじまり3章22節までに至までの一連の記述のことで、そこにはアジアにある7つの教会に宛てた手紙が記されています。その中で、1章9節から20節までは、手紙を書くようになったいきさつが書かれており、2章1節から3章22節までに具体的にその7つの手紙の内容が記されています。
先ほどは、司式者にその中の2章の1節から7節にありますエペソの教会への手紙をお読み頂きましたが、それは今日の礼拝において、単にエペソの教会への手紙だけを取上げるのではなく、その背後にある他の6つの教会、それはスミルナの教会、ペルガモの教会、テアテラの教会、サルデスの教会、ヒラデルキアの教会、ラデオキアの教会でありますが、それらの教会への手紙をも含んで、それら全体を代表するものとして、エペソの教会への手紙を取上げているとお考え頂きたいと思います。と申しますのも、これらの教会への手紙は、教会のあるべき姿というものを教訓的に教えていると考えられるからです。この黙示録にあげられた7つ教会への手紙を見ますと、そこには、教会に対する賞賛、つまりお誉めの言葉と、叱責、つまりお叱りの言葉が見られます。もっとも、ラデオキアの教会のように賞賛する言葉はなく叱責する言葉だけの手紙もありますし、スミルナの教会やヒラデルキアに教会のように賞賛の言葉だけが述べられている教会もあります。しかし、そのスミルナの教会やヒラデルキアの教会にも、苦難や困難、あるいは試練というものがあることはしるされているのです。
つまり、この世にある教会というものは、決して完全な教会なのではなく、それぞれの教会が、素晴らしい特質を持っていたとしても、様々な問題や苦難や困難、試練というものを持っているのです。っして、そのような中で、教会はすべからく、あるべき姿に向って歩んでいなければならないのです。この教会のあるべき姿は、私たちが目指すべきものですから、それは私たちの前にある将来の出来事だといえます。もともと、黙示録というのは教会の将来の姿を指し示すものであるといわれます。新約聖書は、イエス・キリスト様がこの地上にお生まれになった出来事を起点として、教会は度のようにして建てられたのかという教会の過去を、四福音書と使徒行伝を通して書かれており、その教会が現在どのようにして生きていルカと言うことを示す書簡(手紙)であらわし、その教会が将来どうなるかという教会の未来が黙示録に記されているといわれます。
この教会の未来、それはやがて来る神の裁き、神の最後の審判の時ですが、そういった意味では黙示録のなかにある7つの教会に対する手紙は、この神の裁きに向って歩んでいる私たちの歴史の中で教会はどうあるべきかということを示している言うことができます。そして、私たちの教会もまた、この神の裁きである最後に審判と言うときに向って、この2007年と言う時を歩んでいる教会なのです。私は、今朝の礼拝説教のタイトルを「旅する教会」と名づけましたが、それは、私たちの教会が、イエス・キリスト様の御降誕から引き続いてきたキリスト教2000年の歴史のもっとも先端の部分で、やがて来る神の裁きの時に向って歩んでいる、いわば「旅する教会」であるという意味からです。
神の裁きに向って「旅する教会」というと何だか暗い感じがしますが、神の裁きの時は罪あるものにとっては、まさしく永遠の死にいたる神の裁きのおそろしい時ですが、神を信じ、神に罪赦された者の集まりである教会にとっては、それは教会の完成の時であり、喜びの時です。ですから、神の裁きに向って「旅する教会」というのは、教会の完成に向い、それを目指して「旅する教会」ということでもあるのです。そして、私たちもその教会の完成を目指して日々歩んでいる。その私たちが目指している完成された教会の姿というものは、いわば教会のあるべき姿と言うことです。その教会のあるべき姿というものを、私は一言で言うならば、今日の聖書箇所の中にある2章4節から5節にある「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。そこで、あなたはどこから落ちたのかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行ないなさい」ということだろうと思うのです。
「悔い改めてはじめのわざを行いなさい。」ということは、やがて完成する教会の姿、教会のあるべき姿は、実は教会の過去の中にあるということです。悔い改めるという言葉は、教会用語においては、神を見ながら生きると言うことですが、その本来の意味は、向きを180度変えるということです。つまり、私たちが、私たちの教会の将来あるべき姿を見ようとするならば、私たちは、私たちの向きを将来からぐるっと180度過去にむき直して見なければならないのです。しかも、「初め愛からはなれている」というのですから、その教会の過去は、単なる過去ではなく「教会の初め」であります。その教会の初めにあった愛にあるべき姿を見出し、それを行わなければならないというのです。一体この教会の初めにあった愛とは何か。第一に考えられるのはキリストの私たちに対する愛ということだろうと思います。キリストは、私たちのために十字架に架かって死んでくださいましたが、それは、私たちの罪に対してくださる神の裁きから救うためであり、死すべき運命にある私たちに、天国で生きる永遠の命を与えるためでした。そして、キリストがそのような、救いのわざをして下さったのは、ひとえに私たちを愛するが故だったのです。そのキリストの愛に、私たちは立ち返らなければならないというのです。
平たく言うなれば、私たちは、どこから救われたのかと言うことを思い起こすということです。今朝の、礼拝の招きの言葉はイザヤ書51章1節の「義を追い求め、主を尋ね求めるものよ、私に聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。」というものでした。まさに、私たちがどこから救われたのか、どこから切り出され、どこから掘り出されたのか。それを思い起こして、神に感謝する気持ちを忘れないのです。そのような救いの出来事を喜び、神に対する感謝にあふれている教会が、教会のあるべき姿だといえます。なぜなら、教会とは、神によって罪赦され、救われた者たちによって形づくられる神の民の群れだからです。ですから、私たちは、神によって愛され、罪赦され、救われた神の民の群れとして。今こうして、ここに呼び集められているのです。そのような、神の愛に包まれているのだからこそ、私たちはいつも自分が救われたのだという出来事を心に留め、喜びと感謝の心を持ち続けなければなりません。
そしてこの私たちの罪を赦し、私たちに救いの恵みをもたらす神の愛に感謝していなければならないのです。でないと、私たちは立ち返るべき「教会にあった初めの愛」の第二の局面である「神を愛する愛」ということに進んでいくことができません。というのも、私たちは、私たちを愛してくださった神の愛に感謝しているからこそ、その神の愛に対する応答として、神を愛するものとなることができるからです。この「神を愛する愛」は、私たちが神を愛する愛です。愛という者は、心の情動、パッションですが、それは行為になって現われます。キリストが、私たちを愛する愛は、十字架の死という行動になって現われました。そもそも愛というものは、心の感情、情動ですが、必ず行為となることを求めます。自分の愛する子どもに親がかいがいしく世話をするように、何かしらの行為になって現われます。同じように、私たちが神を愛する愛というものも、具体的な行為になって現われるものです。
教会が、教会に集う私たちを救う神の愛に包まれているとするならば、教会もまた神を愛する愛を具体的な行動によって著わしていかなければなりません。この教会において表わされる神を愛する愛は、具体的には、神に聞き従い、神に仕え、神に自らを捧げるという行為であるといっても良いだろうと思います。たとえば、マルティン・ルターという人は、教会というものを定義して、「私たちが神を愛するならば、具体的に、いついつどこどこ集まって神の言葉に耳を傾け、神を礼拝するということが起るだろう。そこに教会がある」といいました。これは、まさに私たちの神を愛する愛が、神を礼拝するという行為になって表わされていると言うことです。ですから、私たちが、私たちを愛して下さる神の愛に応答して神を愛する時、それは神を礼拝するという行為になって現われるのです。
考えてみますと、礼拝には、賛美があり、祈りがあり、聖書が読まれ、説教があり、献金があります。賛美というのは、神を褒め讃えることですし、祈りは、私たちと神との交わりです。交わりがあるからこそ、私たちは私たちの心の内を神に祈ることができるのです。また、聖書が読まれ、その聖書の言葉が説教を通して解き明される中で、私たちは神の言葉に耳を傾けます。さらに、自らを生きた聖なる供え物として神の前に差し出す行為として献金を捧げるのです。そして、このような一連の行為の最後に、派遣の祈りである祝祷によって、私たちはキリストの証人として、私たちたちの住む社会の中に派遣されることによって神に仕えてていくのです。このように、礼拝には、私たちが神に聞き従い、神に仕え、神に自らを捧げるという行為がすべて表わされていると言えます。だからこそ、私たちが心から神に礼拝を捧げると言うことは神を愛するということでもあるのです。ですから、私たちは、決して礼拝を軽んじては生けません。
私たち日本ホーリネス教団は、礼拝厳守ということを標語の一つにかかげてきましたが、この礼拝厳守とは、礼拝を何よりも重んじて大切にすると言うことです。それは、礼拝を大切にすると言うことこそ、神を愛すると言うことを具体的に表わすエッセンスがそこに詰まっているからです。もちろん、この礼拝厳守というものも、単に戒律的に「礼拝を厳守せねばならない」となってしまいますと、それは律法主義的教会形成であって、聖書的教会形成にはなりません。本当の意味で、礼拝を重んじて大切にするということは、神が私たちを愛して下さった愛にたち、その神の愛に感謝して、それに応答するところから生まれるものです。そして、そのような礼拝厳守に生きている教会は「初めの愛」に立ち返っているのです。そういった意味では、私たち日本ホーリネス教団が、礼拝厳守をかかげていると言うことは、非常に重要であると思います。そして、その中にあっても、私たちの教会は、特にそのことに重きを置いてきた教会ではないかと思うのです。
それは、この教会の創立者の加藤亨牧師が、何よりも礼拝に重きを置き、礼拝を大切にしていたからです。そうやって、礼拝を大切にすることで、神を愛する愛に満ちている教会のあるべき姿を求め続けてきたのです。もちろん、現代社会は多様化し、地域の状況や、会社の状況、あるいは学校の状況のため、日曜日の礼拝に出られないという事情も多くなってきました。そのような状況の中で、礼拝を守れないと言うことはある意味仕方がない状況だと言えます。礼拝を重んじ、大切にする心がそこなわれていないならば、それは、守りたくても、どうしても守ることができない止むを得ない状況だからです。しかし、もし、私たちが安易に礼拝を守ることを怠ると行ったことがあるとするならば、私たちは即座に、私たちの心に問いかけなければなりません。「自分が救われたという出来事を喜び感謝しているか。」を心に問わなければならないのです。
そして、もし、救いの喜びと感謝が薄れているとするならば、即座に私たちは「自分は、自分を切り出し、掘り出して下さった神の愛を心にしっかりと思い起こさなければなりません。そうしないと、私たちの神を愛する愛は枯渇するからです。そして、私たちの神を愛する愛が枯渇するならば、私たちの信仰は命を失ってしまうのです。ですから、神を信じる信仰に生きるクリスチャンが呼び集められている教会は、神を愛する愛に満たされていない限り、この世の中にあって生きては生けません。だからこそ、神を愛する愛に満ちあふれている教会は教会にあるべき姿なのです。そして、神に愛され、神を愛する教会は、教会に集う兄弟姉妹を愛し、また人を愛する教会満たされる教会でなければなりません。「教会にあった初めの愛」の第3の局面は、兄弟姉妹を愛し、人を愛するということなのです。
聖書の初代教会の姿が使徒行伝にありますが、その使徒行伝の4章32節から37節には、クリスチャンたちは、みんなが自分の財産を持ち寄って、それを共有して支え合いながら共同生活をしていた様子が描かれています。そこには、このように書かれています。「信じた者の群れは、心をひとつにし、思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張するものがなく、一切の物を共有していた。<中略しまして34節です>彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人は、それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足下に置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでもわけあたえられた。」
私は、昔、高校生の頃、ちょっとした共産主義かぶれだったのですが、聖書には、その共産主義の最も原初的な姿が描かれているのです。もっともこれは、世の終りがもう近いという終末の時のリアリティがあったので、この世の財産を持っていても仕方がないというような状況のもとでのことですので、初代教会がそうだったからといって、今日に同じようなことができるというわけでないでしょう。けれどの、この使徒行伝の4章にある原初的共産主義的な共同社会は、そのようなこの世の終りが来るという危機感だけで支えられていたのではなく、もっと根底的なところで、互いに愛し合い支え合うと行った兄弟愛によって支えられていたのです。このように、初代教会は、兄弟愛にあふれた教会だったのです。私たちの教会の今年の御言葉は、週報おも手扉にありますように、ヨハネの第一の手紙4章7節の「愛する者たちよ、わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は神から出た者なのである。すべて神を愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。」です。
この「愛する者たちよ、わたしたちは互いに愛し合おうではないか」というその愛は、まさに、使徒行伝4章32節以降に具体的な行為となって表わされた「初めの教会が持っていた愛」であって、私たちは、この「初めの愛」に立ち返らなければならないのです。そのような中で、先日、私はある出来事に触れて、神様は私たちを、この使徒行伝的な「初めの愛に立ち返る」ということに導いて下さっているなと感じさせられました。それはY・K姉のお宅を訪問させて頂いた時のことです。Y・K姉はご病気のため、ご自分で筆を執ることができませんので、50周年記念誌に寄せて下さる文章をご主人がY・K姉が語られる言葉を筆記してまとめて下さいました。その中に、教会が設立されたばかりの頃、それこそ、明星幼稚園で間借りをして礼拝を守っていた頃の教会の様子が書かれてありました。その様子とは、礼拝の牧師の話があった後、二人、三人づつのグループに分れて祈りの集いを持っていた様子です。そして、その祈りの中から、独立した教会堂を持ちたいという思いが越され、それが結集して、現在のこの教会堂の前身となったという証でした。
もちろん、その祈りのグループでは、教会のためにも祈られたでしょうが、お互いのためにも祈られたことでしょう。教会とは、そこに集う一人一人が教会ですから、教会のために祈ると言うことは、一人一人のためにも祈ると言うことです。そして、一人一人のために祈るときには、その人個人の問題や悩みのためにも祈ると言うことです。私たちの教会の出発点、まさに三鷹キリスト教会の「初め」は互いのために祈り合い、教会という兄弟姉妹のために祈り合う集会から始まったのです。それが会堂という形を伴った教会建設に繋がってたといえます。そして、今日、創立から50年たった昨年から、説教の後ではありませんが、礼拝が終わった後に、二人、あるいは三人ずつがグループになって、互いのため、教会のため、あるいはその家族や社会のために祈り合う時が、復活したのです。私たちは50年前の事実を知りませんでした。しかし、その知らないことが、復活されていたのです。
そのことを知ったとき、私は「神様がこの三鷹教会を、創立当時の原点に立ち返るように導いておられるのだな」とそう思いました。まさに、神から愛され、神を愛し、兄弟姉妹を愛する「初めの愛」に教会を立ち返らせて下さっている。もちろん、今までの教会に愛がなかったわけでありません。私は、この三鷹教会は他のどの教会と比べても、神を愛することに置いても、兄弟愛に置いても優ることはあっても劣ることはないと自負しています。そして、その自負は決して思い上がりや高慢などではありません。けれども、神様は、もっと、もっとより完成された教会に私たちを導いて下さっておられるのです。ですから、私たちは今まで以上に、神の救いの恵みに与り、罪赦されて永遠の命を与えられていることを喜び感謝する教会になりましょう。そしてもっともっと主日の礼拝を大切にし、より重要なものとして尊び励みましょう。そうやって、神に従い、神に仕える民となるのです。そっして、互いにために祈りあい、支え合う愛し合う群れを築きましょう。そうすることで、私たちは、また私たちの三鷹キリスト教会は、「旅する教会」としてあるべくの教会に一歩一歩近づいていくことができるのです。
お祈りしましょう。