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羊飼い 『神に選ばれた人々』
申命記7章6−11節
2007/11/25 説教者 濱和弘
賛美  201、191、376

さて、今日の礼拝説教のタイトルは、「神に選ばれた人々」というタイトルですが、「神の選び」という考え方は、キリスト教の神学の中では非常に大きなテーマです。神の選びといいますと、私たちは、宗教改革者の一人であるカルヴァンが主張した予定論というものを思い浮かべます。予定論とは、神があらかじめ救われる人と滅びる人を選び定めているという考え方です。この予定論という考え方の是非については、当然のことながら神学の世界でも立場が別れますし、またこの予定論という考え方のために、教会がクリスチャンでない方からご批判を受けることも少なくありません。というのも、「神による選び」があるとするならば、その反面には、当然ながら「神によって選ばれない」ということがあるからです。神が救われて天国に行く人をあらかじめ選び定め、また滅びる人をあらかじめ選び定めているとするならば、選ばれ救われることに定められている人はいいのですが、あらかじめ滅びに定められている人はどうなるのか、それはあまりにもひどいのではないかと思われるからです。そして、救いに選ばれた人にとっては、神は恵みの神であり愛の神だといえるのですが、選ばれなかった者、滅びに選ばれた者にとっては、神は呪わしい存在であり、不公平で身勝手なお方でしかないのです。

そのような見方に立てば、予定論というものが批判受けるのも、ある意味、もっともなことのように思われます。そして、そのようなわけで、私たちホーリネス教団は、基本的には予定論の立場を取ってはいないのです。けれども、今お読み頂いた聖書の箇所には、はっきりと神の選びということが書かれていますし、新約聖書ヨハネによる福音書15章16節には、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」とイエス・キリスト様の選びの言葉があります。またコロサイ人への手紙3章12節には、「あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」とも書かれているのです。他にも「神がお選びになる」ということは聖書の至るところに見ることができます。旧約聖書エレミヤ書に至っては、預言者エレミヤに対して「わたしはあなたをまだ母の胎につくえらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生まれないさきに、あなたを聖別し、あなたを立て万国の預言者とした」。とさえ言われているのです。これは、まさにエレミヤが生まれる前から神がエレミヤを預言者としてお選びになっておられたということです。だとしたら、私たちは神の選びと言うことについてどのように考えなければならないのでしょうか。これは、ある意味、ウェスレアン・アルミニアン神学に立つホーリネス教会に集う私たちとっては、大きな課題の一つであると言っても良いだろう思います。

そこで、今日はこの旧約聖書申命記7章6節から11節の御言葉を通して、神の選びということについて考えたいと思っています。そして、神は決して呪わしい存在でもなければ不公平なお方ではないということを学びたいと思うのです。確かに聖書は神の選びを語る。しかし、その神の選びの背後には、すべての人を救いへと導く神の愛と恵みがあるのです。私たちは、そのことをしっかりと心に留めなければなりません。そして、神が私たちを救いに導いて下さっているということを知って、この神の導きに従って生きていく者となりたいと思うのです。そこで、今日の聖書の箇所に目を向けますと、そこにはイスラエルの民が神の民として選ばれたその理由が、神ご自身の言葉として記されています。神は、イエスラエルの民を神の選びの民として選び、その選びの故に、イスラエルの民が強大なエジプトの国で奴隷となって苦しんでいるところから救い出して下さったのですが、それは、イスラエルの民が、どの国民よりも数が少ないからだというのです。

この時代、国民の数が少ないというのは、力がないということです。イスラエルの民は力がない弱々しい民だからこそ、神はイスラエルの民を愛し、神の民として選ばれたというのです。私が子どもの頃には、「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉がありましたが、これは子どもの好きなものを総称して言ったものです。卵焼きは別として、巨人と大鵬は強い者の代名詞でした。巨人はプロ野球の巨人軍で、今でこそ、巨人も勝ったり負けたりですが、私の子どもの頃は巨人は圧倒的に強かった。それこそ、小学校に入る頃の私は、巨人が優勝すると言うことを疑うことなどできませんでした。また、大鵬は、昭和の大横綱で、これまた圧倒的に強い存在でした。そして、巨人も大鵬も、子どもたちに圧倒的に人気があった。子どもだけでなく、大人も含んで人気があったと言ってもいいあろうと思います。それは強いからです。けれども、神はイスラエルの民が、弱く力のない民だからこそ選ばれたというのです。

それは、まったく不思議なことです。なぜなら、弱く力がないということは、いうなれば役に立たない、何の助けにもならないということです。神が何かことをなそうとしても、力のない民、弱い国民は何もすることができません。そのようなものを選ぶと言うことは、実に不条理なことです。私が子どもの頃、休みになると小学校のグランドで野球ばかりしていました。それこそ、あちらこちらから子どもが集まって野球をするのですが、その際チーム分けする方法は、誰か二人をリーダーに選び、その二人がじゃんけんをして、勝った方から交互に、あの子が欲しいといって選んでいくのです。当然、そのときには野球のウマイ子から選んでいく。あまり上手でない子は最後まで選ばれません。へあまり役に立たないからです。それは会社の就職するときだって同じです。企業は会社に役立ちそうな人から採用していくのです。なのに神は、神はイスラエルの民を弱く、力がない、役に立ちそうにもないものだから選んだというのです。これは神が、私たちを使って自分が何かの利益を得ようとか、私たちを自分のために役立たせよう、働かせよういった損得勘定で選ばれたのではないということを意味しています。

むしろ、神が私たちを選ばれたのは、損得勘定ではなく、愛するからだというのです。ここでいう愛とは、相手を思いやり慈しむ感情であり、そこには損得勘定などありません。損得勘定などないからこそ、相手に真実を尽くすことができるのです。そのような、神の愛が、弱くて頼りない、力のないイスラエルの民を見たときに、そのイスラエルの民を慈しみ、思いやりの限りを尽くす愛がかき起されてイスラエルの民を選ばざるを得なかったのです。逆を言うならば、強いも、自分の力で問題を切り開いていくことが出来るようなものを神はお選びにならないということです。なぜなら、自分の力で問題を切り開いていくことができるような力のあるもの、強いものは神を必要としていないからです。結局、神は、神を必要としている人に自らをお与えになるのです。神の選びとはそう言うことなのです。神は神を人葉としていない人には自らをお与えになることはできません。いえ、神が自らを与えたいと願っているのですが、相手がそれを求めないのです。ですから、神の手は、弱く力のないものに差し伸べられるのです。

自分自身の力が無いがゆえに誰かに寄りすがらなければならないようなものだからこそ、差し出された手にしがみついてくるようなものに神の手は差し出されるのです。この差し出された神の手、それこそが神の選びだと言えます。そして、神が差し出され立てにしがみついくるものに神は真実を尽くされるのです。ですから、どんなに神の手が差し出されていたとしても、それを必要としなければそれは何の意味ももちません。その人にとって、差し出された神の手は神の選びでも何でもないのです。つまり、神の選びとは神を必要とするものにとっては、本当にその人を救う神の恵みであり、慈しみなのです。実は、先ほどの宗教改革者のカルヴァンが彼の神学の中で予定論ということを言ったのは、単に人が救いと滅びというものに、選別によってある人は選ばれ、ある人は選ばれないということを言おうとしたのではなかったのです。むしろ彼が言わんとしたことは、この神の差し出す手にしがみつく時に、神の指し出した手が、真実を尽くして私たちを罪から引き上げ、救い出してくれるということなのです。

そして、カルヴァンにとって、そして私たちにとって、この神の差し出された手こそが、イエス・キリスト様の十字架なのです。自分の力では自分の罪深さから自分を救うことができない、自分の心の汚れや醜さを払いきることができない、だから、イエス・キリスト様の十字架を信じ、これに寄りすがっていく時に、始めて神が自分に手を差し伸べて下さっているという神の選びを感じ取ることができるのです。もし、私たちが自分の手で自分を罪とその裁きである死から救い出すことができるならば、その人は神により頼み、神にすがる必要はありません。差し出された手は自分に差し出されたものではないのです。いえ、実際は、自分に差し出されているのですが、それに気付かないと言った方が正確なのだろうと思います、なぜなら、本当に自分自身を罪深さや、心の汚れや醜さから救い出すことなどできないからです。私たちは、私たちの人生に一点のしみやよごれも残さずに生き抜くことなどできないのです。なのに、自分には神の助けなど必要ないと思っているところに、大きな問題があると言っても良いだろうと思います。それは、すこし厳しい言い方かもしれませんが、神の前に思い上がっていると言っても良いのかもしれません。

人間は神の前に、全く正しい人などいないのです。人と人とを比べれば、それは素晴らしい立派な人だと思われる人もいるだろうと思います。例えば、私が尊敬するマザー・テレサなどは、本当にこんな素晴らしい人はいないとそう思う。けれども、そのマザー・テレサに、仮に私が「あなたは神の前に全く正しい人です」と言ったとしても、彼女は決して、それに同意して下さらないだろうと思います。むしろ、「いいえ、私は神の前に欠けの多い、罪深い女です。」とそうお答えになるだろうと思うのです。決して謙遜でも何でもなく、心からの思いでそう答えられるだろうと思うのです。まさに、あのマザー・テレサであっても、神の憐れみと恵みであるキリストの十字架の救いなしには、自分自身を救うことはできないのです。そのことを思うとき、神の手はすべての人に差し出されていると言わざるをえません。まさに神の選びの恵みであるキリストの十字架は、私たちすべての者の前に差し出されているのです。問題は、私たちがそれを必要としているかどうかです。そして、差し出された手に信頼して、それにより頼み、そして寄りすがっているかどうかなのです。

先日、教会の何名かの方と都内にある幾つかの教会を見学して回るツアーを行いました。目白にあるカトリック教会の東京カセドラルと、飯田橋にあるフランシスコ・ザビエル教会、そしてお茶の水にあるロシア正教会のニコライ堂を見て回ったのですが、その中の東京カセドラルでは、ちょうど結婚式を行っておりましたので、カトリックの結婚式を見る良い機会なので、結婚式の様子も見学させて頂きました。その中で司祭様が結婚にあたっての式辞を述べられたのですが、それが感心するほど良い話でした。そこで述べられたことは、結婚するにあたって大事なことは二つあるということで、一つは愛し合うことであり、一つは感謝することだという話でした。愛し合うと言うことは、相手を受け入れると言うことであって、結婚し愛し合うと言うことは、相手をありのまま受け入れるということなのだというのです。そして生活の中で相手をありのまま受け入れることが大切なのだとそう言われるのでが、正直、これはよく言われることであり、まぁ、そう言うことだなという感じで聞いていました。

しかし、感心したのは二つ目の感謝すると言うことです。結婚生活で相手に感謝することが大切だということも、それだけではありふれた言葉だといえます。私も結婚準備会で結婚生活で大切なことは、「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えることだというようなことを言ったりします。おそらく、私が結婚式の司式をした方々には、結婚準備会の時に、そのようなことを言ったと思うのですが、覚えていらっしゃいますでしょうか。ひょとしたら忘れてしまったかもしれませんが、確かにそのようなお話しをしただろうと思うのです。しかし、その司祭様が言った感謝すると言うことは、そのようなことではなかったのです。彼が言った感謝すると言うことは、「選んでくれてありがとうと言う感謝の気持ちを忘れないで大切にして欲しい。」ということでした。

「わたしがあなたを選ぶということは誰にでもできることだ。わたしがあなたを好きだから選ぶと言うことは、誰でも自由にできる。けれども、私があなたに選ばれるということは、決して誰にもできないことだ。どんなに選ばれたいと思っても、相手が選んでくれなければ『選ばれる』と言うことはできない。『選ぶ』ということは自分ですることができるが『選ばれる』ということは、まったく相手に任せなければならないことである。『選ばれる』ためには、『相手が自分を選んでくれる』ということを信じて、相手に自分の身を任せなければならないことだ。その『選んでくれる』ということをしてくれた相手に『ありがとう』といって下さい」というのです。そして、1年後、3年後10年後と結婚記念日を迎える事に、自分を選んでくれた愛を信頼して「選んでくれてありがとう」言い続けて欲しいというのです。

もちろん、お互いに「選んでくれてありがとう」ということで、どちらかが一方が「選んでくれてありがとう」で、もう一方が、「おう、選んでやったぞ」ということではないだろうと思うのですが、ともかく、私は、その話を聞きながら、本当にいい話だなと思いながら聞いていました。それは単にいい話というのではなく、本当にキリスト教の結婚式の式辞として話される話としてふさわしい、聖書的な結婚式の式辞だなと感じたのです。ともうしますのも、教会にとって結婚はイエス・キリスト様と教会との関係、つまりキリストと私たちの関係を表わすからです。男と女が愛し合い結ばれる結婚は、神と人とが一つに結ばれることを表わす秘儀でもあります。その結婚という関係を築き上げるための結婚式で、「相手が選んでくれたことに感謝しよう」と勧める司祭様の言葉は、取りも直さず「イエス・キリスト様が私を選んで下さったことに感謝しよう」という言葉でもあるからです。私たちが、どんなに救われたい、神に選ばれたい、イエス・キリスト様に選ばれたいと願っても、選んで頂かなければどうしようもありません。しかし、私たちがと願うならばイエス・キリスト様は必ず私たちを選んで下さるのです。だから、私たちはイエス・キリスト様の愛を信頼して、イエス・キリスト様に身を委ねて、「選んで下さってありがとうございます」と感謝を捧げていればよいです。

それは、まさにキリストの救いの真髄を射抜いています。私たちは、イエス・キリスト様に選んで頂きために何かができるという者ではありません。ただイエス・キリスト様が選んでくださるということを信頼し、イエス・キリスト様にすべてをお任せして、自分のすべてを委ねていくしかないのです。しかし、そのように、私たちがすべてを委ねていく時に、イエス・キリスト様は私たちを選んで下さいます。そして、花婿と花嫁が結婚に置いて結ばれていくように、イエス・キリスト様と私たちが一つに結ばれて一身同体となっていくのです。そうやって、イエス・キリスト様と私たちが一つに結ばれることによって、イエス・キリスト様の内にある聖さや正しさが私たちのものとなり、私たちは罪赦され、神の裁きから救われ死からも解放されて永遠の命という神の命をいただくことができるのです。もっとも数の少ない小さな民は、神のために何かできるような存在ではありません。ただ神が選んで下さるということに身を任せなければなりません。同じように、神の前に不完全で罪深いただの人間に過ぎない私たちは、私たちを選んで下さるというイエス・キリスト様を信じ、このお方に身を委ねていかなければならないのです。

私たちが信仰というとき、それはこのイエス・キリスト様にすべてを委ねると言うことです。そして、イエス・キリスト様にすべてを委ねるならば、必ずそこには救いの出来事があります。私たちの霊を慰め癒し励ます心の平安があります。どんなに肉体が疲れていても、心が疲れていても、置かれている状況が苦しいものであっても、私たちの霊には慰めが与えられ平安が与えられます。そして、その疲れた肉体と心にも、また置かれている苦しい状況にも、神の慰めと平安が訪れてきます。ですから、私たちはイエス・キリスト様に「選んで下さって、ありがとうございます」と感謝しながら行きましょう。イエス・キリスト様は「選んで下さって、ありがとうございます」と感謝と感謝して生きる者と共に生きてくださいます。そして、イエス・キリスト様に「選んで下さって、ありがとうございます」と感謝して生きる者を神も受け入れて下さいます。その私たちを受け入れて下さる神は、真実なお方です。ですから、真実の限りを尽くして私たちを愛し、約束を守り、恵みを施して下さるのです。そのことを心に覚え、神に感謝しながら生きる者となりましょう。

お祈りしましょう。