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羊飼い 降誕節第一主日
『人間回復の道としてのクリスマス』
創世記3章1−13節
2007/12/2 説教者 濱和弘
賛美  2、341、88

さて、今日から教会はキリストの誕生を記念するクリスマスを待ち望む降誕節にはいります。もっとも、町中は教会よりも早くクリスマスの雰囲気に浸っていますが、そう言った面を見てもクリスマスは、もはや教会の行事と言うだけではなく、日本中に浸透した季節の行事、12月の風物詩となった感じしないでもありません。そんなわけで、ちょっと気になりましたのでインターネット調べてみたのですが、調べてみるとやっぱりクリスマスは俳句の冬の季語にもなっているんですね。それほど、クリスマスというものが浸透している。そんなわけでしょうか、先日ちょっとおもしろいことに気付きました。それは先週もお話ししたように何名かの方と、都内カトリック教会やロシア正教の教会を見て回ったときのことです。ロシア正教会というのは、東方教会の伝統にならって、クリスマスを12月25日にお祝い致しません。これは、歴史的にはイエス・キリスト様が12月25日に生まれたという根拠はなく、もともとの初代教会はイエス・キリスト様が生まれた日がいつかということ知らなかったからです。

というのも、2000年前の初期の教会においては、イエス・キリスト様の誕生ということ以上に、イエス・キリスト様がどうして十字架に架かって死ななければならなかったのかと言うことに関心が向けられていたからです。けれども、イエス・キリスト様が十字架に架かって死なれたということは、神が人となって十字架で死なれたと言うことですから、当然そこには、「なぜ神が人とならなければならなかったのか」という問いが生まれてきます。こうして、初代教会はだんだんと、キリストが十字架について死んだということ同時に、神が人となって生まれた、これを教会では受肉といいますが、キリストの誕生が重要なこととして捉えられるようになってきたのです。そこで、初代の教会は、どうやら1月の6日もしくは10日にキリストの誕生を祝っていたようです。どうしてその日なのかというと、1月の6日もしくは10日がイエス・キリスト様が洗礼を受け、神の子として公に自らを顕し、宣教の業を始められたからであり、自らを公に顕す、つまり世に顕されると言うことと生まれるという誕生の出来事を関連づけて考えたからです。

そんなわけで、ロシア正教を含む東方の正教会の伝統では、1月6日にクリスマスを祝うのが習慣となっています。そのロシア正教会の教会であるニコライ堂の入り口のところに12月25日にクリスマスの礼拝が行われるという旨のポスターが貼ってあったのです。聞きますと、1月6日にも特別な礼拝を持つらしいのですが、しかし、ロシア正教会の伝統ではない12月25日にもクリスマスをお祝いするのです。ロシア正教会というのは伝統を非常に重んじる教会です。その伝統を重んじる教会が、自分たちの伝統に逆らって12月25日にクリスマスの礼拝をするというのですから、これは大変なことだと言えます。その大変なことをしなければならないほど、12月25日にクリスマスを祝うと言うことが、日本の文化の中にとけ込んでいるのです。しかし、12月25日にクリスマスを祝うということは浸透しているかもしれませんが、そのクリスマスが何であるか、何で祝いの日なのかというクリスマスの意味が浸透しているかというと、必ずしもそうとはいえません。

考えてみますと、クリスマスがいつであるかということは、教会にとってはあまりというか、全く重要なことではありません。イエス・キリストの生まれた日がいつであったとしても、それは教会にとっては、堂でもいい話なのです。問題は、なぜ神の御子であられたイエス・キリスト様が、人となってこの地上にお生まれになったのかというその意味です。神の御子であり神であられたお方が人となって私たちの間に住んでくださったということが、私たちにどんな意味があるのか。それこそがクリスマスを祝うと言うことの中心に無ければならない最も大切な中心にあるのです。ですから、どんなにクリスマスが世の中に浸透し、季節の行事として受け入れられていったとしても、このクリスマスの意味と言うことを教会は示し続けなければなりません。そこで、私は、今日のクリスマスを待ち望むアドベント(降誕節)の第一週の礼拝の説教題を「人間回復への道」と名づけました。それは、クリスマスこそが、私たち人間が、人間として本来あるべき姿に帰っていくための第一歩であるからです。人間は、本来人間のあるべき姿から逸脱してしまった。そのように逸脱してしまった姿を聖書は堕落というのですが、その堕落した姿からあるべき本来の姿に帰っていくために、神のひとり子であるイエス・キリスト様は、神であられるのに、人となって下さったのです。

それでは、人間のあるべき本来の姿というのはどのようなものであったのか。聖書は、人間のあるべき本来の姿は、神が人間をお造りになったときの最初の姿であるといいます。今日、始めて教会の礼拝にご出席下さった方もいらっしゃると思いますし、キリスト教にあまり馴染みのないという方もおられると思いますが、聖書は、この世界を神様がお造りになったとそう述べています。さきほど、司式の兄弟にお読み頂いた旧約聖書創世記の3章は、神が天地をお造りになったという、神の創造の出来事が記されている箇所の一部分です。聖書は創世記の1章から3章をかけて、全世界が度のようにして神がお造りになったかということを記しているのです。もちろん、その中には私たち人間も含まれています、そのように、天も地も、またすべての動物・植物も人間も、すべてが神の御業によって造られたものだと聖書は言うのです。このような聖書の主張は、創造論という言い方をされますが、私たちが学校で習う進化論とは随分と違った考え方のように思われます。そして、なにやら神話やおとぎ話のような感じがします。

それこそ、進化論に基づきますと人間は、ホモ・ハビリスといったところに行き着くのだろうかと思いますが、ここでいう人間のあるべき本来の姿というのは、そのようなホモ・ハビリスといった猿人とも原人ともつかないような化石の中にあるというのではありません。そうではなくて、私たち人間という存在は、そして私という存在は、神様から意味と目的、そして役割が与えられてこの世に送り出されているのだと言うことです。生物としての人間がどのように発生したかという自然科学的な見方からすれば、それこそ進化論的なもの見方をする人いるでしょうし、聖書の書いてあるとおりの創造論を受け入れる人もあるあるだろうと思います。そういった意味では、教会の中にも様々な考え方の人がいますし、様々な見方がある。また、いて当然だとも思う。けれども、どのような見方に立とうとも、大切なのは、私たちは決して偶然に今ここに存在しているのでもなく、意味なく存在しているのでもない。神様が、私たちに存在する意味と目的をちゃんと与えて、私たちをこの世に送り出してくださっているということなのです。もちろん、それは悪いことのためではなく、良いことのためなのです。

創世記の1章31節には、「神が造ったすべての物を見られたところ。それははなはだ良かった。」と記されています。つまり、人間という存在は、もともと素晴らしい存在として造られているのだというのです。そして、それは神様の目から見てもはなはだ良かったといわれるものでした。神の目から見てもはなはだ良いことをなし、神に喜ばれる存在として神は私たち人間をお造りになった。その人間たる私もまた、そして、ここに集っているお一人お一人、つまりあなたもまた、神の目に良いことをする、素晴らしいことをすることのために造られているのです。神の目からみて素晴らしい、はなはだ良いと思われることは、当然のことながら、人の目にも素晴らしいことです。そのような、素晴らしい存在として、神の目にも人の目に素晴らしいことするために私たちは生まれてきているのに、実際の人間のありのままの姿は素晴らしい、神と人の前にはなはだ良いと言えるのか。私たちは問われているように思うのです。

現代の心理学は、「あなたは価値ある尊い存在だ、あなたは唯一無二の素晴らしい存在だ」といいます。確かに、神様が人間をお造りになったとき、神様は「あなたは価値ある尊い存在だ、あなたは唯一無二の素晴らしい存在」としてお造りになった。聖書はそう言っている「はなはだ良かった」と。けれども、はたして、現実の私たちの姿を見るときに、それほど単純に、楽観的に私たちは「あなたは、いえ私は価値ある尊い存在だ、唯一無二の素晴らしい存在だ」と言いきって良いものかどうか、じっくりと考えてみなければなりません。

先日、私の娘の一人が、アメリカの大統領選の候補者のヒラリーさんのことがテレビで取上げられている時に「この人は、戦争を支持しているかいないか」と聞いてきました。「戦争を支持しているかいないか」が、大統領としての資質として重要な問題だというのです。もちろん、戦争ということの背景には様々な問題がありますから、あまり簡単に図式化して善し悪しを問えない面もありますが、しかし、本来的には戦争などあって良いわけではありません。戦争を支持する以前に、如何に戦争をしないか、あるいは戦争・紛争解決するかの方が大切な問題のはずです。けれども、その戦争という事態が、どれほど長く、そして頻繁に私たちの歴史の中に、そして今もくり返されているのか。本当に愚かなことです。その愚かなことを私たち人間はくり返している。その人間の中のひとりに私もいるのです。

最近、テレビのニュースの中心にあったのは、香川県で、幼い女の子二人とそのお婆ちゃんが殺害されて埋められていた事件です。その背後には、お金の貸し借り関係とそれに伴う恨みといったことがあったようです。それにしても、幼い子どもまで殺してしまうというのは何ともひどい話だと思います。そして、その犯人は何か特別に残忍で冷酷な人間のように思うのです。しかし、その犯人に殺人をおかさせたその動機が恨みからだとしたら、同じ恨みという根は私たちの心の中にもあるのです。犯罪の多くが、妬みや恨み、あるいは自分の欲望を満足させようとするような思いから出ているとしたら、そういった犯罪の一つ一つと私たちとは、全く無関係とはいえません。神様は、私たち人間を「はなはだ良い」ものとして造って下さった。私たち一人一人のあるべき本来の姿は「価値ある尊い存在、かけがいのない唯一無二の素晴らしい存在」なのです。なのに、現実の私たちの姿は、恨みを持ち、妬み嫉み、そして相争っている。あるべき本来の姿からかけ離れてしまっているのです。

どうして、そうなってしまったのか。聖書はその原因を先ほどお読みした創世記3章に示しています。3章1節から7節には次のように記されています。「さて、神が造られた野の生き物のうちで蛇が最も狡猾であった。へびは女に言った、『園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうにかみがいわれたのですか』。女はへびに言った、『わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これをとって食べるな、これに触れるな、死んではいけないから、と、神は言われました』へびは女に言った『あなたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです』。女が、その木を見ると、それは食べるには良く、目には美しく、賢くなるのには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にもあたえたので、彼はそれを食べた。するとふたりの目が開け、自分たちも裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いた。」

ここに記されていることは、最初の人アダムとエバが、神の命じられたことに聞き従わないで、善悪を知る木を食べたと言うことです。神の命じられたことに聞き従わず、善悪を知る木を食べたのは、それが、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたからだと記されていますが、要は、ヘビの「それを食べると神のように善悪を知るものとなる」と言う言葉に誘惑されたからです。そのような誘惑荷従ったと言うことは、確かに「ヘビの言う通りだと思った」いうことだとえます。そして、そのは以後には神のようになりたいという気持ちがあったのです。神のようになって、何でも自分で判断してやれる。自分はいつでも正しいことをすることができるようになりたい。そのような思いから、彼らは善悪を知る木を食べたのです。その結果が、本来、神が「はなはだ良いもの」として造られた人間、「価値ある尊い存在、かけがいのない唯一無二の素晴らしい存在」の中に、恨みや、妬みや、怒りや争いを生み出していくことになったと聖書は言うのです。

いったいどうしてそのようなことになるのか。私は何だか不思議なような木がした。善悪を知ることは本来は良いことだと思われるのに、それが、私たちの世界に様々な問題を引き起こす原因、聖書はそれを罪と呼ぶのですが、罪の基となったのか。とても不思議な感じがして考えてみたのです。そして、あることに気が付いたのです。善悪を知るという理性的なこと、知性的なことと人間の感情や心とは別のものだと言うことです。善悪を知るとは、要はことの善し悪しに白黒をつけることであり、白黒の判断をするということです。しかし、白黒の判断をつける知性的能力があったとしても、それで人間が謙虚になるとは限りません。むしろ、知性的にすぐれた者となるが故に、傲慢になってしまい人を蔑んだり、過ちを赦せずに正義を振りかざして他者を断罪することがあります。自分が正しいと信ずるが故に、人の言うことに耳を貸すことが出来ず、帰って自分の言葉が聞きいれられないときに、聞きいれない相手を憎んだりすることだってあります。結局、自分は善悪を知っていると思っているものは、自分が正しいと自分自身を絶対化してしまっていると言うことですが、そこに、愛だとか寛容だとか、憐れみといった豊かな感情、心が伴っていなければ、それは冷酷な自己絶対化にしかならないのです。

どんなに、善悪を知るという知性に置いて神のようになれたとしても、神のような完全な愛や慈しみがない限り、それは冷酷な知性になりますし、なまじっか正しいと思う気持ちがあるからこそ、そこには、憎しみや恨み、妬みや怒りや争いが生まれてくるのです。実際、聖書を見ますと、善悪を知った人間が、そのことを神に咎められると、男は「わたしと一緒のしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです。」といい、女は「へびがわたしをだましたのです。」と言い訳をする。そして、その言い訳は確かに事実ではありました。たしかにへびはだまし、女はだまされた。男は女に木の実を与えられ、女は男に木の実を与えた。女は確かにだまされた被害者で加害者はヘビです。そして男にとっては、女は加害者で自分は被害者だと言えます。だから、彼らが「わたしと一緒のしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです。」といい、「へびがわたしをだましたのです。」という言葉は正しいことかもしれません。同時にその自分の正しさを主張する言葉は、だました相手を責め、恨み、憤りがあるのです。

そこからは、愛だとか赦しだとか、寛容といった心は生まれてきません。善悪を知る、知性だけを追求するだけでは、人間の心の中に、麗しさを与える豊かな情緒は生まれてこないのです。私たち人類は、高度に知性を発展させてきました。特に科学の分野においてそれは顕著に表れています。けれどの、そのように鋭いまでに知性を発展させ、法を整備し、文明を高度化させていったとしても、相変わらず戦争は終わらず、差別は止まず、憎しみや恨み、妬みは深まるばかりです。それは大人だけではなく、子どもまでも巻込んでいじめや幼児虐待やネグレクトといった問題まで生み出してきています。

では、一体どうしたらいいのか。その鍵もまた聖書にあります。善悪を知る木の実を食べた二人の人アダムとエバは、神の命じた命令に聞き従うことをしなかったために過ちを犯しました。逆に言うならば、神の命じることに耳を傾けている限り、彼らは過ちを犯すことなど無かったのです。誤った道を歩んできたならば、誤った時点まで戻らなければなりません。道に迷ったならば、出発点に変えればいいのです。それは本来あるべき人間の姿に変えることです。神の言葉に耳を傾け、神の言葉に聞き従って生きるということです。問題が子どもの世界まで巻込んできてしまっているというのであるならば、子どもの高度な教育を与えると言うだけではなく、同時に神の言葉に聞き従って生きると言うことを教えなければなりません。ただ、人間の知性だけでは、愛や寛容や、赦しといった心の問題までは解決がつかないのです。ただ神の言葉に聞き従うときに、私たちは神が、創造の初めに、「はなはだ良かった」と言って下さった、本来あるべき「かけがえのない、価値ある唯一無二の存在」としての人間の素晴らしさに回復されていくのです。

イエス・キリスト様は、人となりこの世界で生きられる事によってそのことをお示しになられました。イエス・キリスト様は、父なる神のお心にそって人となり、この地上にお生まれになり、十字架の上で死なれるまで、神の言葉に従順に従われました。その誕生から死に至るまでの生涯において、このお方は、人々を愛し、悲しんで者を慰め、病んでいる人を癒し、弱っている者を励ましてこられました。そして、十字架の上で死なれたことによって、神にそむき本来あるべき姿から逸脱し、堕落した私たちを赦し受け入れようとする神の赦しの愛を示されたのです。このように神の言葉に従い抜いた人の生き方は、人を思いやり、徹底的に人を愛す愛に貫かれた生き方でした。そして、それこそが、本来の人間のあるべき姿でもあるのです。政治や、人間関係においても、自分の利益ばかりを追求し相手のことを思い奴と言うことが乏しくなった今こそ、神のひとり子が人となって、私たちがあるべき本来の姿を、その生き方を通して示して下さっていることを心に留めなくてはなりません。

そして、私たちもまたイエス・キリスト様に倣って生きる者とならなければなりません。それは、神の言葉を聞き、神の言葉に聞き従いながら生きていく生き方です。そのために、教会は、聖書という神の言葉を伝え続け、語り続けなければなりません。そうやって、イエス・キリスト様を信じ、この方を受け入れ、私たちがイエス・キリスト様に倣って生きていくときに、私たちは、神様が「はなはだ良かった」といわれたあの、本来あるべき人間の姿に回復さていくのです。そして、そのとき本当に私たちは「かけがえのない価値ある存在。唯一無二の素晴らしい存在」となって行くことができるのです。

お祈りしましょう。