降誕節第二主日
『主なる神の顕現』
出エジプト記3章2−9節
2007/12/9 説教者 濱和弘
賛美 19、67、247
さて、今日の礼拝説教のタイトルは「主なる神の顕現」でありますが、これは、今日の聖書箇所である今日の聖書箇所出エジプト記2章1節の「神はモーセに言われた。『わたしは、主である。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに全能の神としてあらわれたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。』」という言葉からつけたものです。この「『わたしは、主である。』」言う主という言葉は、旧約聖書の本来の原語であるヘブル語で主という意味を表わすアドナイという言葉ではありません。例えば、文語訳聖書に於いては「我はエホバなり」となっておりますように、ただ単に主人と僕という意味での主ということだけではなく、そこには神様が、自らが何者であるかを顕した神の名が記されているのです。その神の名を、文語訳聖書は「我はエホバなり」というように、エホバとして記しているわけです。
ところが、実際にはこのエホバという呼び方は明らかに間違っています。と申しますのも、もともとこのエホバと訳されている箇所には、神の名を顕す4文字、アルファベットの表記では、YHWHという文字が書かれているのですが、実際には、何と読むかはわからないからです。なぜわからないかというと、出エジプト記20章1節以降にある有名なモーセの十戒に、「神の名をみだりに唱えてはならない」という戒めがあり、後のイスラエル人がこの戒めを忠実に守ったためでした。そのために、聖書にこの神の名が記されていても、それをそのまま読む、あるいは唱えると言うことをしないで、変わりに主という意味の言葉アドナイと読み替えて読んでいたのです。ただ、イスラエルの民の長い歴史の中で、この神の名の読み方については、ただ大祭司のみに密かに伝えられてきました。しかし、一般の人は、もともとはそれをどう読んでいたのかはわからなくなってしまい、ただそれを主と呼ぶことが慣習となっているのです。
それに加えて、更に、イスラエルの民が世界中にちりぢりになり、その国すら存在しなくなってしまうような自体が起ってきました。第2次世界大戦以後、イスラエルの民の国は現在のイスラエルとして復興しましたが、それ以前は、イスラエルの民の国は失われ、神殿も失われ、彼らは外国で寄留の民となっていたのです。そうしますと、ヘブル語自体が失われてしまうような自体が起ってきます。というのも、ヘブル語は子音だけの表記で母音の表記がないからです。ヘブル語を自分の母国語として自由に使えていた時代は、ユダヤの民は、ヘブル語の文書を子音表記だけでも十分によみこなせました。しかし、国を失い、ヘブル語が母国語でなくなってしまいますと、それこそ、神の名前だけでなく、ヘブル語の旧約聖書の読み方自体がわからなくなってしまうような自体になってきたのです。そこで8世紀以後にマソラ学者といわれるユダヤ人の聖書学者たちが、イスラエルの人々が旧約聖書の読めなくならないようにと、旧約聖書に母音記号をつけて、読み方がわからなくならないようにしたのですが、それでも神の名前だけは、どう母音記号をわかりませんでした。先ほど申しましたように、神の名前をどう読むかは秘められた奥義だったからです。
そこで、マソラ学者たちは、すでにイスラエルの人たちが、慣例として神の名をアドナイと読み替えていた習慣に従って、アドナイという言葉の母音記号を神の名に振り当てたのです。これを単純に読みますとエホバというふうになりますが、実際の読み方は、主という意味であるアドナイと読まなければならないのです。そのことを知らないで、15世紀頃からエホバというような読み方がなされるようになってきたわけですが、近年では、言語学的な研究や古代文書の発見により、この神の名はヤハウェ、あるいはヤウェーとは読むのがほぼ間違いない読み方だろうというのが学術上の定説となっています。そして、このヤハウェという言葉の意味は、出エジプト記3章13節から14節で、モーセが神様に、「あなたの名前は何ですか」と尋ねたときに、神様がモーセに答えられた「私は有って有る者」という名前に深く関連していると考えられています。この「私は有る」と言う言葉は、ヘブル語ではエイエーです。このエイエーは「私は有る」という言葉なのですが、「私は有る」という言い方は、神様が自らを指して言う場合「私は有る」の言い方です。
ですから、私達が神様を指して言う場合は、「私は有る」という言い方ではなく、「あの方は自らを有らしめるお方である」という言い方になります。このような「あの方は自らを有らしめるお方である」という言い方をしますと、どうやらヤハウェという言い方になるようなのです。つまり、神様が自ら自称するときには「エイエー」なのですが、私たちが、神様をお呼びするときには「ヤハウェ」となるというわけです。ですから、この出エジプト記6章2節において、神様がモーセに「わたしは、主である。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに全能の神としてあらわれたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。」と言われるとき、神様は私たちに、自らを「私は有って有る者である」と言う存在だと、私たちにご自身をお示しになられたと言うことです。この「私は、有って有る者」という言葉の意味は、存在とその本質が一致している偉大な存在であるということを意味しています。同時に、この世界に存在するすべての存在の本質は、もともとは神にあるのだと言うことも意味しています。つまり、すべての物はこの「有って有る者」といわれる神から生み出され神によって存在していると言うことです。それは、全ての存在は神に寄りかかって存在しているということです。
このように、この世界の存在するものすべてのものが、神に寄りかかっています。しかし、神ご自身は神様は誰かに頼ることもなく依存することもなく、また必要とすることなく、ただ自身のみで存在し続けることのできるお方なのです。このように、神様は誰にも頼ることなく、ご自身だけですべてのことを満たすことのできる存在であることを神学では神の自存性というのですが、神様は唯一無二の永遠に独立自存性なお方なのです。このような、「神様は唯一無二の永遠の独立自存なお方」であるとして、「私は有ってある者」だと、モーセに自らをお知らせになりました。しかし、それはただ単に、知識としてそのことを告知したということではありません。というのも、2節に、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに全能の神としてあらわれたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。」とある「知らせる」と言う言葉は、単に知識を伝達するために告知すると言う意味だけではなく、深い人格的な関係で結ばれるという意味を含んだ言葉だからです。
つまり、この出エジプト記6章2節で、神様がモーセに「わたしは、主である。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに全能の神としてあらわれたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。」と言われるとき、それは、アブラハム、イサク、ヤコブには、全能の神として自分自身を顕したが、モーセ、あなたには、「有ってある者」として「心を分かち合うような深い付き合いをしよう。」と御宣言なさっていると言うことなのです。神様は、永遠に独立自存である存在ですから、誰の助けも必要としません。それこそ友達や仲間などいなくても困りません。なのに、その神様御自身が、どうしてこのように、モーセと、またモーセを初めとするユダヤの民とこの心を分かち合うような深い関係を持とうとなされたのか。その理由は4節以降にあります。そこに記されていることは、イスラエルの民が苦しんでいるから、その苦しみから救い出し、神様が遠い昔にイスラエルの民の祖先であるアブラハムやその子イサク、また孫ヤコブに与えると約束したカナンの地を与えるためであるというのです。
神は、全能の神としアブラハム、イサク、ヤコブと交わりを持ち、その人生に関わり導いて下さいました。その神が、アブラハム、イサク、ヤコブと結んだ約束のゆえに、今度はその子孫であるユダヤの民に対して救いの神として、深い人格的な交わり、結び付きを持とうとしておられるというのです。永遠に独立自存の神様がイスラエルの民に救いの神として深い人格的な交わりを持とうとされるとき、ユダヤの民の側に、神から救って頂く理由など必要有りません。神様は「有って有るお方」ですから、ユダヤの民を救う理由はイスラエルの民の側にあるのではなく、神の側にあるのです。その神の側にある理由というのが、神がアブラハム、イサク、ヤコブと約束をしたからだというのです。この約束は、創世記12章1節から4節に記されているものですが、そこにはこう書かれています。「時に主はアブラムに言われた『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、私が示す地に生きなさい。私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしはのろう。地のすべてのやからはあなたによって祝福される。』
このアブラハムに対する約束は、17章1節から8節においても、次のようにくり返されます。「アブラム99歳の時、主はアブラムに現われて言われた『私は全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫をますであろう。』アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた。『わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。わたしはあなたに多くの子孫を得させ。国々の民をあなたから起そう。また王たちもあなたからでるであろう。わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう。わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるであろう。』」この神様の契約は、アブラハムが神に対して何かをしたから与えられた約束ではありません。神様の側から一歩的にアブラハムに対して、あなたと契約を結ぼうといって結ばれた約束であり、アブラハムは、ただその神の申し出に答えただけなのです。
このように、神様とアブラハムとの間に結ばれた契約もアブラハムの側に神様が契約を結ばなければならない理由があったわけではなく、神様の側の理由によって、神様がアブラハムと契約を結ぼうとしたものでした。そして、その約束はアブラハムにとっては神様の祝福と恵みが一方的に与えられるという者であり、その意味では神様の慈しみと慈愛に満ちたものでした。まさに、神様の側にあったアブラハムと契約を結ばなければならない理由とは、この神様の慈しみと慈愛であったと言えます。神様の内にある慈しみと慈愛がアブラハムと祝福の契約を結ばせたのです。それと同じ神様の慈しみと慈愛が心が、約束の地カナンから遠く離れたエジプトの地から遠くはなれたエジプトの地で、エジプトびとのもとで奴隷となり苦しんでいるイスラエルの民のうめきを聞いて、激しく揺り起されたのです。そして、救いの神として、モーセを通して、「救いの神としてあなたがたの主となり、あなたがたと深く関わり、あなたがたと深く結びつき、そしてあなたがたを苦しみから救い出そう」とそう言っておられるのです。
まさに、神は救いの神として、御自身をイスラエルの民に顕して下さったのです。そういった意味ではヤハウェなる神ということは、救いの神であると言うことだと言えます。ただ、愛するが故に、ただ慈しみの心ゆえに神は、イスラエルの民を憐れまれ救おうとなされる。つまりは、神が愛する愛は、私たちの側に愛されるだけの理由を求めるのではない、理由もない、分けもないただ愛するが故に愛する愛だと言うことなのです。私が牧師になってから、もうじき15年になろうとしていますが、この15年間の間に、多くの結婚式の司式をして参りました。それこそクリスチャンの方、クリスチャンでない方の結婚式をあわせても何十組にもなるだろうと思います。この三鷹教会に赴任してきてからの8年間の間でも、R・T兄弟・K姉妹、R・S兄弟・Y姉妹、T・S兄弟、K姉妹やS・U姉妹の結婚式を行ってきました。そして、どの結婚式の前にも、4、5回の結婚準備会を持たせて頂いています。その結婚準備会でいつも言うことがあるのですが、それは聖書のヘブル語における愛するという概念ついてです。ヘブル語には、愛という概念が二つあって、一つは理由はないけれど愛するという、不条理な愛であり、もう一つは理由にもとづいて愛することを約束する約束の愛があると言う話です。
なぜこの人を愛するのかときかれると、これこれこういう理由だからという明確な理由が挙げられるとするならば、それは筋道が通った道理にかなった愛です。一昔前には3高と言う言葉がありました。これは、結婚相手に臨むものとしての、高学歴、高収入、高身長の三つをとって3高といったのですが、これなどは愛する相手として選んだというのに、明確な選ぶ基準、理由です。しかし、愛するというのは、そのような理性的に割り切れるような理由がなくても、何だかうまく説明できないけれども、この人が好きだといったなんとも釈然としない実に不条理な感情があるではないかというのです。理由を挙げろといわれると困るけれども、とにかくこの人に引かれる、この人が愛おしいと言う感情。それが不条理な愛です。そして、この不条理な愛は、相手に愛されるだけの理由をもとめません。ただ相手愛おしいというこちら側の感情、情熱だけが愛する理由なのです。神が私たちをお救いになりたいという気持ち、私たちを救おうとする情熱もまた、この不条理な愛によって引き起こされるものであると言えます。神は、苦しんでいるもの、悲しんでいる者、悩んでいる者を救わずにはいられないお方なのです。
神の内側には苦悩にある者に手を差し伸べ、神の救いを与えずにはいられない動機と情熱が有りて有り、そしてあふれているのが主なる神なのです。だからこそ、神はイスラエルの民がエジプトで苦役に苦しみうめいている声を聞いて主なる神としての自らを顕さずにはいられなかったのです。もちろん、この主なる神はイスラエルの民だけではなく、私たちが苦難の中にあるときに、私たちにも救いの手を差し伸べたいと願い、自らを救い主なる神として顕して下さるお方です。ですから、私たちが、この私たちを救おうとして自らを顕すお方を心から受け入れるならば、神の救いの出来事は必ず私たちの中に起ってきます。この救い主なる神として自らを顕し給うお方を心に信じ受け入れればいいのです。ここに、私たちキリスト教会の宣教の言葉があります。神は私たちを罪から救い出し、死の苦悩から救い出して下さる方である。私たちは、この私達を愛し慈しむ思いが、その心の中に満ちあふれて有られる主なる神を信じ受け入れればいい。それは私たちキリスト教会に与えられた宣教の言葉であり福音なのです。
しかし、どんなに言葉でそれを伝えようとしても、言葉だけではうまく伝えられないことがあると言うのも現実です。あのモーセが、「『わたしは、主である。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに全能の神としてあらわれたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。』」という神の言葉を伝えたときでさえ、イスラエルの人々は「心の痛み、厳しい奴隷の務めのゆえに、モーセに聞き従わなかった」というのです。そのように、苦しみや苦難の中にあるときには、ただただその苦しみから逃れたいという思いの中にあるときには、苦しむものを憐れみ慈しむ床との救い主として顕す神の言葉を伝えられたとしても、その言葉に聞き従うことはできないのです。それは、聞くと言うことが、救い主なる神を耳で告知されているに過ぎないからです。だからこそ、聞き知らされるというのではなく、神との人格的に深い交わりを通し、神と結び付けられることによって神を知らなければなりません。ですから、イスラエルの人々は、モーセを通してなされた10の災いの奇跡を通してなされた神の救いのみ業を体験させることによって始めて救い主なる神であることを知らせるのです。
そして彼らは、モーセを通して具体的に起った神の奇跡のみ業を体験していく中で、心が解けるようにして神を礼拝し、モーセの言葉に耳を傾け、そしてその言葉に聞き従うようになっていったのです。そのように、具体的な出来事を通して救い主なる神の存在を経験していくのです。しかし今日の私たちは、モーセがイスラエルの民の前で行ったような10の災いの奇跡を求める必要はありません。なぜなら、モーセが示した奇跡に優る奇跡を私たちは知っているからです。それは救い主なる神であるイエス・キリスト様の誕生であり、その十字架と復活に至る御生涯であって歴史の中に起った出来事です。神が人となるという人間の理性では考えられない、まさに奇跡を私たちはクリスマスを通して経験するのです。そのイエス・キリスト様の御降誕を祝うクリスマスが、こうして世界中でお祝いされる今、世界中の誰もがクリスマスという時を、クリスマスとして過ごそうとするならば、人となった神イエス・キリスト様のことを考えざるを得ません。
日本の至るところの教会で、クリスマス・イブの夜に礼拝をおこなっている教会は、普段はあまり人が集まっていない教会であっても多くの人が集まるのだと言うことを耳にします。つまり、誰もがクリスマスをクリスマスとしてすごそうとするならば、教会を越え、イエス・キリスト様をはずしてクリスマスを迎えることなど出来ないと言うことを知っているということです。当然、教会のクリスマス礼拝に集うならば、そこで、私たちの救い主なる神がお生まれになったと言う奇跡が語られないわけがありません。そして、クリスマスの礼拝の静かな敬虔さは、そこに真の神を伝える聖なる空間と時間を生み出すと私は信じています。その聖なる時間と聖なる空間に身を置く人は、何らかの形で救い主なる神の存在に触れるのだと信じて止まないのです。そして、私たちの側に愛されるにふさわしい理由を求めることもなく、私たちを救うだけの価値を見出すことができなくなくても、ただ愛さずにはいられないと言う、神の内に自存する愛の故に私たちを愛する神の存在に触れることができます。イエス・キリスト様の御降誕という歴史的事実は、その愛に置いても「有りて有る者」である主なる神が私たちの前に顕現なさった出来事だからです。
ですから、私たちは心からクリスマスを喜び祝わなければなりません。それは単なる喜びの時としてではなく、救い主なる神が、具体的に人となって歴史の中で生きて下さり、今も私たちと共に生きて下さっているということを喜ぶ聖なる祝いの時を過ごすのです。そのような思いで、クリスマスの時を待ち望みたいと思います。
お祈りしましょう。