降誕節第三主日
『聖なる神の顕現』
イザヤ書6章1−13節
2007/12/16 説教者 濱和弘
賛美 2、88、84
クリスマスはイエス・キリスト様のお誕生を記念し、それを感謝し祝う時でありますが、私はこのクリスマスを控え、それを待ち望む待降節の第二主日説教題「主なる神の顕現」とし、第三主日の今日の説教題を「聖なる神の顕現」と致しました。そして、実は、来週のクリスマス礼拝における説教題は「恵みの神の顕現」と決まっているのです。この三つの説教題に共通する言葉は「神の顕現」でありますが、そのように神がご自身を私達に顕して下さる「神の顕現」ということを主題に今年のクリスマスの時期の礼拝説教をまとめましたのは、クリスマスが、私達が本来目に見ることとのできない神様という存在が、具体的に目に見ることのできるイエス・キリスト様という人の像をとられた神としてこの地上にお生まれ下さった出来事だからです。まさにクリスマスとは神の顕現の出来事なのです。神が自らを顕すといいましても、神様には色々な側面があります。それは神が単なる宇宙の法則や真理といった無機的なものではなく、人格をもった生ける神だからです。私達もそうですが、人格を持った存在というのは、様々な性質、あるいは性格を持っています。ですから、神が人格を持った存在であるというならば、神様というお方も、決して一言では言い表せない様々な側面を持っておられます。
そういった神の様々な側面、神学的用語で言うならば「神の属性」を、例えば、「主なる神」であるとか、「義なる神」であるとか、あるいは「恵みの神」、「力ある神」「父なる神」「愛なる神」といった言葉で表現するのです。もちろん、そのような言葉で表現することが出来ると言うことは、神様が自らを「主なる神」として顕して下さった、あるいは「義なる神」または「恵みの神」として顕して下さったという歴史的出来事があったということです。そして、今日の聖書の箇所は、その神様が自らを「聖なる神」として顕して下さった箇所であると言うことが出来ます。神様が「聖なる神」であるという事は、これは、ある意味「主なる神」「義なる神」「愛なる神」「恵みの神」といった様々な神の属性の頂点にあるものだと言えます。と申しますのも、この「聖なる神」の「聖(holy)」と言う概念は、単に清らかであるというものではなく、義とか愛とか恵みとかそう言った神の属性の全て統合したものだからです。
もともと、この「聖」という概念は、超越していると言うことです。超越していると言うことは、私達人間の考えをはるかに超えているということであり、私達人間が到底到達することもできず、触れること見ることもできません。それほど私達の世界とはかけ離れているものが「聖」という概念なのです。ですから、旧約聖書では神の聖なる御性質に触れたならば人間は死んでしまうというのです。人間の世界には存在しない決して触れることのできないようなものに触れてしまう、あるいはそれを見てしまったのだから、人間は最早そのままではいられない、いや、生きていくことすらできない、それほどこの「聖(holy)」という概念は尊いものであるということを顕しているのです。この触れることも見ることも出来ない「聖なる神」と、イザヤという預言者が出会うという経験をしたというのが、このイザヤ書の中に記されています。それが、今司式の兄弟に呼んで頂いた6章なのです。イザヤはこの聖なる神を見たときに、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」とそう言います。5節、まさに聖なる神を見たイザヤは死を覚悟するのです。
そのイザヤは、「自分が汚れたくちびるのもので、汚れた民の中に住む者だ」と言っています。これは自分が罪人であると言うことを告白している言葉だと受け取っても良い言葉です。ところが、この6章において、自らを汚れたくちびるの者とそう告白しているイザヤが、このイザヤ書6章に至るまでにおいては、イスラエルの民に向って彼らの罪を弾劾し、そして神の裁きを語っているのです。たとえばイザヤ書1章2節から3節までをお読みしますと、そこにはこう書いてあります。「天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、主が次のように語られたから、『わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。牛はその飼い主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかしイスラエルは知らず、わが民は悟らない』この言葉は、神がイスラエルの民が、神を捨て神から離れている様を嘆いておられることをイザヤにお示しになったものです。その言葉を受けてイザヤは1章4節でこうイスラエルの人々を追求するのです。
「ああ、罪深い国びと、不義を負う民、悪をなす者のすえ、堕落せる子らよ。彼らは主を捨て、イスラエルの聖者をあなどり、これをうとんじた。」このように、イスラエルの民の罪を追求し糾弾するイザヤの言葉は、あくまでもイスラエルの民に向って語られた者であって自分に向けられたものではありません。ここは、罪人はあくまでもイスラエルの民であって、イザヤは預言者としてその罪を糾弾する側に立っています。ですから、その罪人であるイスラエルの民の中に自分自身は含まれていないのです。このような、イスラエルの民の外側から、イスラエルの民の罪を糾弾する口調はイザヤ書1章から5章まで続きます。ところが、このイザヤ書6章に参りますと、そのイザヤがその自分も「けがれた民の中に住む者だ」とそう言うのです。これまでは、自分の周りにいるイスラエルの民の罪が目に入り、あなたがたは罪を犯しているだから神の裁きを受けると言っていたイザヤでした。けれども、いったん聖なる神の前に立たされたならば、「イスラエルの民の罪を糾弾してきた私も、実はそのイスラエルの民の一人であり、私もまた罪人の一人にすぎないなのだ」と気付きたのです。
それは、罪という者の性格を良く表わしています。罪という言葉はギリシャ語では的はずれ(αμαλυτια)という意味であるといわれますが、要は有るべき姿、規準となるものから離れて逸脱してしまった状態を指します。しかし、この規準という者がくせ者です。最近、我が家の息子は成長期に入ったようで、急に背が伸び始めました。今では姉たちや母親を抜いて、私に継いで2番目の大きさになりました。教会のみなさんも「大きくなったね」と言って下さいます。そして確かに大きくなったのですが、しかし、同じ中学1年生の男子と比べれば決して大きくはないのです。我が家の中では大きい方ですが、学校では小さい方。これは比べるときの規準が違うからです。同じように罪の自覚も、誰と比べるか、何と比べるかによってその自覚は違ってきます。比べる人によって自分は善人にもなれば罪人にもなるのです。例えば、先日も長崎で銃の乱射事件があり何名かの方がなくなりましたが、人を殺してしまうような犯罪を犯した人と比べれば自分は決して悪い事をしていない、そういった意味では罪人ではないように思われます。
しかし、日本国民として服さなければならない方の前では、一切悪いことなどしたことがないと言いきることはできません。日本の法律のもとにある限り、スピード違反であっても、信号無視であっても違反は違反で、絶対的な規準の前では、法を犯すという悪いことをしていると言うことになるのです。もちろん、生活をしていく上で些細なことなど、いちいち取り締まっていると社会が成り立たなくなり、人間関係がぎくしゃくするところもありますので、そう言った法律を絶対的規準として適応しないので私達人間社会は何とかなり立っている所があります。けれども、「絶対」と言う規準の前では、私達全ての者が罪を問われなければならなくなるのです。たとえば、かつてオウム真理教事件が世間を騒がせたとき、警察がオウム真理教の信者を逮捕したとき、逮捕の理由が、家宅侵入罪という罪でした。しかし、彼らがしたことは、ビラやチラシを配るために玄関を通って庭先に入ったとか、会社の寮の敷地内に入ったという事で、普通は逮捕されるような内容では有りませんでした。
もちろん、このときには地下鉄サリン事件やその他の様々な凶悪犯罪が背後にありましたので、別件逮捕という警察のやり方であったのですが、しかし、法を、それこそ「絶対的」意味で用いれば、ビラやチラシを配るために敷地内に勝手に入れば、家宅侵入罪で逮捕することも可能なのです。まさに「聖なる神」の「聖」とはそのような絶対的正しさの前では、どんな小さな罪でも、それは罪としてさばかれるという厳格さが有ります。イザヤは、イスラエルの民の中に住んでいるとき、イスラエルの民を規準として見るならば、自分は罪人であると言うことを自覚することが出来ませんでした。むしろ、イスラエルの民の言動を見る限り、自分は正しい人間だとそう思えたのです。
ところが、絶対的な正しさを持つ聖なる神の前に立ったとき、イザヤはとても自分は「正しい者だ」と胸を張れない現実に気付くのです。むしろ、愚かにも、それまで自分は清く正しいとおごり、口でイスラエルの民に向い、お前たちは罪人であると裁いていたその姿こそが最も罪深いと気付くのです。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」というイザヤの言葉には、そのようなイザヤの気持ちが本当に良く表れているように思うのです。聖なる神の前に立つならば、私達は罪人であると言うことを自覚せずにはおられない。それまでは、自分が正しいと思っていた正しさも、それは人と比べて正しいと言うことであって、人の前に示すことの出来る正しさをもって、自分は正しく人は間違っていると思う事自体が、神の前では罪なのだということをイザヤは、思い知らされたのです。だから、その罪人である自分が、罪人が絶対に触れることも見ることも出来ない聖なる神を見たのだから「滅ぶしかない」とイザヤはそう言うのです。
ところが、この「絶対的正しさ」「絶対的義」である神は、同時に「絶対的愛」の神であり、「絶対的赦し」の神でもあります。「義」「正しさ」と言うことに置いても、私達をはるかに超えた「聖」であられる神は、「愛」や「赦し」と言うことにおいても私達の理解を超えた「聖」なるお方なのです。聖なる神の前に立ったイザヤは、神の義という絶対的正しさの前に、自分が罪人である事に気づき、自分は罪人であると告白し、滅ぶしかない者であることを自覚します。そのようなイザヤに対して、イザヤの前に現われた聖なる神は、御使いであるセラピムのひとりを使わし、祭壇からとった燃える炭をイザヤの口に触れさせ「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」と、そう言われるのです。「くちびるに触れた」とありますが、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者」とイザヤが言っているように、「くちびる」はイザヤが自分の罪を自覚した場所です。そのくちびるに触れ、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」と言われるのです。
ここにおいて、イザヤは裁かれるしかない者が赦され、死ぬしかない者が生かされると言うことを経験するのです。それは単に生き延びたと言うことはありません。人生そのものが変わるという経験だと言えます。かつては、自分はイスラエルの民の中にあっては正しい者であるとして、イスラエルの民を裁いていたそのようなかつてのイザヤではなく、自分も罪人の一人でしかないと言う自覚の中で神に赦して頂いたと言う経験にたって生きる、かつてとは違う、見違えるイザヤがそこにいるのです。そういった意味では、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」と告白したときに、かつてのイザヤは本当に滅びてしまったのです。そして、セラピムが燃える祭壇の炭でくちびるに触れ「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」という赦しの宣言を聞いたときから、新しいイザヤが生まれたと言えるだろうと思います。まさに、「古いものは過ぎ去った。見よ、すべては新しくなったのである。」というコリント人への第2の手紙5章17節で言われている経験が、このイザヤ書6章において、イザヤの見に起こったのです。
その時、イザヤの目に映った聖なる神は「絶対的」な神の義によって罪人を裁く「聖なる神」ではなく、「絶対的」な神の愛で罪人を赦すところの「聖なる神」であったと言うことができるだろうと思います。そのような「聖なる神」のお姿を見たイザヤは、神が「わたしはだれがつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか。」という声を聞いて、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」とそう申し出ます。一般に、イザヤ書6章の記事はイザヤの召命経験であると言われますが、確かイザヤは、この6章において神のために働く献身の決断を表わしています。もっとも、この6章の召命経験に至るまでに、イザヤはすでに預言者として活動していました。ですから、このイザヤ書6章のイザヤの召命経験は、再び神の使命にたつイザヤの再召命の経験であり、再献身の経験であろうと思われます。しかし、確かにそれは再召命の経験であったとしても、最初の召命の経験とは全く違ったものでした。というのも、最初の召命経験は、イザヤはイスラエルの民の外側に立って、イスラエルの罪を糾弾し、裁きを語りました。その時は、罪を裁く神の義の前に預言者として立つ召命経験です。
けれども、「聖なる神」の前に立ち、かつての自分に滅び、新しいイザヤとして再び神の召命に立ったとき、彼は「絶対的な神の義」においての「聖なる神」から預言者と使わされる召命ではなく、「絶対的な神の愛」においても「聖なる神」においての「聖なる神」から使わされる召命に立つのです。そして、その「絶対的な神の愛」において「聖なる神」の「聖」「聖さ」を見、それに触れたイザヤは、最早イスラエルの民の外側に立って、そこからイスラエルの民にむかって「あなたがたは罪人だ、だから神はあなたがたを裁かれる。それゆえにあなたがたは神に立ち返らなければならない」と語るのではなく、民のただ中に住み「私たちは罪人だ、しかし神は私達を赦される。だから、私たちは神に立ち帰ろう」と語る者になったのです。ですから、イザヤの再召命の経験を通して、自らをイスラエルの民の外側に置き、預言者として神の裁きを語るのではなく、イスラエル民と共に住み、神とイスラエルの民を取りなす仲保者として神の赦しを語るものとなったと言えます。
そのように、イザヤは神の赦しを語るものとして、罪人のただ中に共に住み、罪人のただ中で共に生きようとしたのです。そして、そのことを通して「絶対的な神の愛」のゆえに、本来は絶対に罪人と交わり触れることのできない神の「聖」が、罪人の世界に触れて下さることを示したと言えます。例えば、イザヤ書全体を一貫してつらぬく言葉、思想はイスラエルの聖者という言葉だといわれます。先ほどお読みしたイザヤ書1章5節にも、「ああ、罪深い国びと、不義を負う民、悪をなす者のすえ、堕落せる子らよ。彼らは主を捨て、イスラエルの聖者をあなどり、これをうとんじた。」と、このイスラエルの聖者という言葉が出てきますが、これは、私たちが決して触れることの出来ない神が、私たちと共にいて下さるお方であると言うことを表わす言葉なのです。私たちは、今日の礼拝の最初に招きの言葉はイザヤ書57章15節の御言葉によって礼拝に招き入れられました。それは、「いと高く、上なるものとこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる。私は高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心を生かす」と言う言葉でしたが、これこそがまさに、決して触れることのできない聖なるお方が、罪人であり、その罪を自覚し、心砕けて悔いる者と共に住んで下さると言うことを述べています。そして、これこそが、イスラエルの聖者の姿なのです。
そういった意味では、このイザヤ書6章のイザヤの召命経験でイザヤは、本当の意味でイスラエルの聖者に出会い、イスラエルの聖者の本質を経験した出来事なのです。私は、そのようなイザヤの再召命の出来事を思うとき、イエス・キリスト様のことを思わずにはいられません。いうまでもなく、イエス・キリスト様は「聖なる神」で有られるお方であったのですが、そのお方が、人となってこの世で共に住み、この世で私たちと共に生きて下さいました。そうやって、私たちを愛し、罪を赦そうとする「聖なる神」を私たちに顕して下さったのです。ですから、私たちはイエス・キリスト様というお方の生き方と十字架の上での死に様を通して「絶対的な神の愛」という「聖なる神」を見、「聖なる神」触れることができるのです。そして、この「聖なる神」を見、「聖なる神」に触れるならば、私たちもまた「古きは過ぎ去った。見よ、全てが新しくなったのだ」という新しく生まれるという経験しているのです。ですから、私たちは新しく生まれたものとして、かつての自分とは違ったものとなっていかなければなりません。
もちろん、「絶対的な神の愛」における「聖」は「絶対的神の義」においても「聖」なのですから、罪から離れると言う意味での清さと言うことも忘れてはならないことです。ですから、倫理的な意味においては、私たちは「絶対的な神の義」と言うことにおける神の「聖」を見つめなければなりません。けれども、そのような神の「聖」の中にあっても、神はいつも、イエス・キリスト様にあって、私たちの罪深さを赦し、愛して下さっているのです。ですから、私たちも、このイエス・キリスト様にあって人の罪を糾弾し、人を裁くものとして生きるのではなく、罪を赦し、人を愛するものとして生きていかなければならないと思うのです。クリスマスは、私たちの罪を赦し、渡した死を愛する「聖なる神」が具体的に人の姿を採って顕現なさった日です。そのことを覚えながら、私たちもまた、イザヤのように、この聖なる神を伝えるものとして、神に「ここに私がおります。わたしをおつかわしください」と言うものでありたいと思います。
お祈りしましょう。