クリスマス記念礼拝
『恵みの神の顕現』
ヨハネによる福音書1章1−18節
2007/12/23 説教者 濱和弘
賛美 68、86、84
クリスマスはイエス・キリスト様の御降誕、すなわちこの世に誕生して下さったことを祝し、これを感謝し祝う日であります。もちろん、イエス・キリスト様に限らず、子供が生まれると言うことは、家族にとって喜びであり、感謝な出来事であります。ですから、私たちも、家族としてその喜びと感謝を誕生日として記念し、お祝いをします。しかし、このように盛大にイエス・キリスト様の御降誕を祝うようになったのは、単にイエス・キリスト様がこの世にお生まれ下さったというだけの理由ではありません。先週もお話し致しましたように、初代の教会では、イエス・キリスト様が生まれたということにほとんど関心を持っていませんでした。そして、これまた先週もお話し致しましたように、彼らが関心を向けていたのは、イエス・キリスト様の十字架と復活の出来事でした。神のひとり子である救い主イエス・キリスト様が十字架について死に復活なさることで私たちの救いがもたらされる。この救いの事実が初代教会にとってもっとも、大きなテーマだったのです。同時に、初代教会が抱えた解決しなければならない最大の問題点、あるいは課題といってもよいものはイエス・キリスト様は何者なのかという問題です。
みなさんもご存知のように、イエス・キリスト様ご自身は、ご自分を一度も神と自称なさったことはありません。もちろん、イエス・キリスト様の弟子たちは、イエス・キリスト様を神として受け止め、告白していました。その、もっとも顕著な例が、ヨハネによる福音書20章24節から29節にある使徒トマスが復活のイエス・キリスト様に対していった「わが主、わが神」という言葉であろう思われます。また、そのトマスの言葉を書き残した使徒ヨハネ自身、そのヨハネによる福音書の1章1節において、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と言っています。このヨハネのいう言とは、イエス・キリスト様のことであり、その言が神であったというのは、イエス・キリスト様は神であったという証言であります。だからこそ、ヨハネは、同じヨハネによる福音書1章18節で、「神を見たものはまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神を顕したのである。」とそう断言するのです。そのようなわけで、イエス・キリスト様の直弟子である使徒たちはイエス・キリスト様は神であると証言し、それが聖書にも書き留められているのですが、だんだんと時を経てきますと、このイエス・キリスト様が神であるかどうかというかということに疑問を持つ人たちが現われてきました。
もちろん、当初はで使徒たちの証言する神としてのキリストという理解は、ちゃんと受け継がれていました。例えば1世紀後半のアンティオケの司教であったイグナティオという初代教会の指導者の独りは、彼が残した7通の手紙の中の幾つかに置いてイエス・キリスト様を私たちの神と告白しています。同時に、イエス・キリスト様は父なる神と明確に区別がつけられ、そのため神の子とも呼ばれています。それは、先ほどご紹介したヨハネによる福音書1章18節で「神を見たものはまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神を顕したのである。」と言われている通りです。この父なる神、子なる神という明確な区別とともに、神は唯一であるという表現が、時間の経過と共に父なる神、子なる神との関係がどのようなものであるかという論争に繋がっていったのです。その論争の中で、今日いうところの三位一体の神という考え方や言葉が、2世紀後半から3世紀初頭にかけて、アテナゴラスやアンティオケの司教テオフィロス、あるいは、テリトリアヌスと言った人によって確立されてきました。
しかし、イエス・キリスト様は神の子であって、神のような存在ではあるが神では無いという主張はかなり根深くあり、最終的には313年にニケヤ公会議で、最終的にイエス・キリスト様は神であるというのが、聖書以来の教会の教えであり信仰であると言うことが確認されるまで、この問題は最終決着がつかなかったのです。このような議論の背景には、神は唯一であるのに、父なる神、子なる神、更には聖霊なる神という、三つの存在があるというのは、数理的におかしい、理解できないという人間の理性と信仰の事実との間だの差といいますか、乖離があります。自分たちの頭で理解できないこと、非合理なことを私たち人間はなかなか受け入れにくいものです。この、理解できない非合理的なことをどう受け止めていくかと言うところに神学というものが生まれてくるのですが、反面、私たち人間の頭で理解できない非合理的なことは、間違っているか嘘か、あるいは神話のようなおとぎ話として受け止める傾向もあります。そして、その神話、あるいはおとぎ話に隠された本来的意味や事の本質を汲み取り、私たちに理解できるように再解釈しようとします。
このような、人間の理性によってその本質をくみ取り再解釈する働きを哲学というのですが、このような哲学と信仰、あるいは宗教と言った問題は今日に至るまで、ずっと続いているのです。ですから、今日でも、神は三位一体の神であるというと、そんなバカなことはあり得ないと言う人もいますし、「イエス・キリスト様は、道徳的には再考の模範であり、見習うべき尊い存在ではあるが神ではない」と言う主張も、確かにあるのです。しかし、信仰は信仰であって、哲学ではありません。信仰には、人間では理解できない神秘的な、ミステリアな側面があり、そんなに優れた理性であっても、その神秘性の前では頭をたれて、その神秘的な事実を受け止めていかなければなりません。そのようなわけで、歴史の中の公会議と呼ばれる教会会議においては、議論が分れたときには、基本的には神秘的な理解の方を受け入れると言った原則がありました。それは、神が私たち人間の理性を越えた方であったとしても、私たちの理性に従属する方ではないからです。
いずれにしても、イエス・キリスト様は神のひとり子であり、神であるということが信仰の事実であり正統なことである受け止められたわけです。このように、イエス・キリスト様が神のひとり子なる神であるとするならば、そのひとり子なる神が、人となって生まれ私たちの間に住んで下さったと言うことは、ただならぬ出来事です。ましてや、そのイエス・キリスト様は私たちの救い主として十字架に架かって死なれるために生まれて下さったのです。だからこそ、教会は、改めてその絶大な空前絶後の出来事を受け止め、クリスマスというイエス・キリスト様の御降誕を心から感謝し、その恵みをだんだんと盛大に祝うようになってきたのだろうと思うのです。今朝の礼拝では、この説教の後にM・K姉とH・N姉が洗礼式を行います。二人ともクリスチャンホームに産まれ、それこそ産まれてから今日まで両親の祈り、教会の祈りの中で育まれてきました。この二人が産まれてきたと言うことは両親にとっても、教会にとっても喜びの出来事だったのです。そして、二人が神を信じ、洗礼の恵みに与って欲しいと心から願っていました。
それは、この世の中にあるどんな者よりも素晴らしい永遠の命という真の命が与えられるという約束です。二人が生まれてきたときに、命の誕生がもたらす喜びを私達は経験致しました。そして今日、私達は、この二人の霊の命の誕生を洗礼という出来事を通して確認するのです。この永遠の命という霊の命は、本当に大きな産みの苦しみを経て与えられるものですが、その産みの苦しみの始まりが、このイエス・キリスト様の誕生というクリスマスの出来事だと言えます。先ほども、申しましたように、2000年前の教会を揺るがした最大の問題は、イエス・キリスト様は神であるかないかと言う問題でした。先週礼拝説教の際、聖(holy)と言うことをお話ししましたが、神は聖なるお方であるとするならば、神は人間という存在を超越した存在です。「聖」という概念は、人間の世界をはるかに超えたものを現すからです。ですから、神が「聖」であるということは、神と人とは全く異質な存在であると言うことでもあるのです。つまり神は人ではないし、人はかみではないのです。言い換えれば、神が人となるということも、また人が神であると言うことも、本来なら起こりうることのない不可能なことなのです。しかし、この聖なる神は全能の神でもあります。全能と言うことは、何もできないことはないと言うことであり、不可能を可能にするお方であると言うことです。
今、私は、来年度のホーリネス教団の教会学校の手引きである「聖書の光」という雑誌にのせる教案を書いています。私達の教会も、この「聖書の光」を教会学校の教案として使っていますが、一冊に3ヶ月分の教会学校のお話しの手引きが書かれています。ちょうど今月は、来年の3月に発行される4月から6月分の教案の原稿を書いているのですが、その中で、旧約聖書創世記17章のアブラムに神がイサクという子供が与えられるとお告げになる箇所から話すCSメッセージの教案を書きました。アブラムにイサクという子供が与えられ、その子供がアブラムの財産や土地を受け継ぐ跡取りになるのですが、神がアブラムにそのイサクがあなたとあなたの妻サライに産まれると宣言なさったのは、アブラム99歳、サライ90歳の時でした。このアブラム99歳、サライ90歳という年齢は、生物学的には二人の間に子供が生まれると言うことは不可能だと言えます。しかし、神はその不可能なことを可能になさるのです。そして、この不可能なことを可能なこととして実現に至らせることが出来る全能の神だからこそ、神は、私を信じる「信仰」において全き者であれと言われるのです。
アブラムとサライの99歳と90歳の夫婦に子供が生まれると言う事と同じように、神が人となり、人が神であると言うことは、本来あり得ないことです。けれども、そのあり得ないことを、神はイエス・キリスト様という存在を通して可能にして下さったのです。もちろん、私達の頭では理解できないことを、私達の前に行うと言うことは、容易なことではありません。それを全能なる神はして下さったのです。それは、神が人となり、全人類を代表して、十字架の上で私達の罪を贖うために死ぬためでした。しかし、神は永遠の存在ですから、神に終りの時はありません。ですから、本来は神が死ぬ事などありません。神は死ぬことは出来ないのです。その出来ないことを、神は人となられることで成し遂げて下さったのです。出来ないことをする。そこには当然、無理が生じます。その無理を押してでもそれを成し遂げるのは、どうしてもそれをなさなければならない事情があります。本来、目に見ることの出来ない神が、人となった神として、人の前にその姿を現し、本来死ぬことの出来ない神が、人となって十字架の上で死なれたのは、神が私達を愛して下さっているからです。
私達のことを愛し、私達のことを思っていてくださるからこそ、神は無理に無理を重ねて、人となってこの世に産まれて下さり、十字架の上で死んでくださったのです。そして、そうやって、私達に永遠の命という神の命を与えてくださいました。神が人となると言う、決してあり得ない不可能な事をなされた神は、人に神の命を与え、永遠の命を与えてくださるという、これまた決してあり得ない不可能な出来事を私達に起してくださったのです。今日、この不可能な出来事が起ったということを私達は、M・K姉とH・N姉の洗礼の出来事の中に見なければなりません。二人は、今日、血筋にもよらず、肉にもよらず、また人の欲にもよらず、ただ神のよって生まれたのです。「ただ神によって」ということは、「ただ神の愛と恵みによって」ということです。神の愛と恵みのみが、M・K姉とH・N姉が神の子として生まれた理由なのです。ですから、洗礼の出来事には、愛と恵みの神がそこに顕されているのです。私達は、今日、この二人の洗礼式を通して、愛と恵みの神に出会うのです。
もちろん、この神の愛と恵みは、洗礼を受ける二人だけに注がれている者ではありません。その洗礼式に臨む私達ひとりひとりにも注がれているのです。いや、それだけではありません。「全ての人を照らすまことの光があって、世に来た」というように、私達を愛し、恵を与える恵みの神でありイエス・キリスト様がこの世に来てくださったことを記念するクリスマスを祝うひとりびとりに神の愛と恵みは注がれているのです。ですから、私達はこの恵みの神に感謝してクリスマスの時を過ごさなければなりません。そしてクリスマスの出来事を心に思い、イエス・キリスト様というお方を通して、父なる神のことを思い、神の愛と恵みを受け取らなければなりません。その、神の愛と恵みが、私達にクリスマスのプレゼントとして送り届けられています。そして、そのクリスマスの最大の贈り物は、永遠の命という、本来ならば私達が決して手に入れることが出来ない神の命なのです。
お祈りしましょう。