『最後の勇気』
マルコによる福音書15章42−47節
2007/12/30 説教者 濱和弘
賛美 171、358、434
さて、今年のクリスマスも終り、きょうからまたマルコによる福音書の連続説教に戻りますが、今日の箇所は、十字架に磔られたイエス・キリスト様が、十字架から降ろされ墓に治められるまでのいきさつが記されているところです。このイエス・キリスト様が十字架から降ろされるとい場面は、画家のルーベンスが、「キリスト降架」と言うタイトルで描いています。このルーベンスの「キリスト降架」は、フランダースの犬」という小説で、主人公ネロが、物語の最後に、アントワープの聖母マリヤ大聖堂で、その絵を見ながら死んでいく場面に出てきますので、みなさん良くご存知だろうと思います。その、「フランダースの犬」について、先日インターネットのオンラインニュースに、こんな記事が出ていました。それは『「フランダースの犬」日本人だけ共感』というタイトルの記事でしたが、要は、「フランダースの犬」という小説で、15歳の少年ネロが、放火犯として疑われ、住むところも失い、希望も失う中で、アントワープの聖母マリヤ大聖堂で、ルーベンスの絵を見ながら死んでいくという悲しい結末を受け入れ、それを共感するのは日本人だけだというのです。
それによると、他のヨーロッパ諸国の人々は、共感するどころか、その主人公ネロの死は「負け犬の死」として映らず、またアメリカでは、悲劇的な物語の最後に救いがないとハッピーエンドに書き換えられているのが現状だそうです。そして、日本人が、このようなネロの悲劇的な死を受け入れ共感するのは、「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけています。私は、この記事を読みながら、私達の国「日本」は、世界の中で最も宣教がむつかしい国なのですが、しかし、逆にもっともキリスト教に共感できる国なのではないかと、そう思いました。なぜなら、イエス・キリスト様の十字架の死そのものが、まさに、私達を愛するために「敗北や挫折を受け入れること」であり、そこにもっとも崇高な生き方があるからです。
それは、ヨハネによる福音書15章13節に「人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」とある通りであろうと思います。そういった意味では、福音書のストーリーは、「フランダースの犬」のストーリーに重なり合うようにさえ思えるものだといえるかもしれません。そう考えますと、「フランダースの犬」の主人公であるネロが、ヨーロッパの人には「負け犬の死」と映る最後の場面で、ルーベンスの「キリスト降架」の絵見ながら、天に召されて言ったというのは、何とも意味深い感じがします。その「フランダースの犬」の最後の場面に深く共感を寄せる私達日本人の感性は、最もキリスト教の完成に近いところにあるように思うのです。なのに、その日本において、キリスト教の伝道が極めて困難で、世界でも類を見ないキリスト教の宣教がむつかしいのは一体なぜなのか。実に不思議な感じがします。しかし、それにはそれで、それなりの理由があるようにも思うのです。
というのは、私達日本人の持っているもう一つの感性が「恥」というものだからです。「恥」とは何かというのは、実にむつかしい問題で、何を「恥」と感じるかは時代時代によって違いますし、時と場合によって同じ行為でも恥と感じたり感じなかったりします。しかし、一般的に私達が恥ずかしいと感じるのは、周囲の人からどのような目で見られるかということによって決定されます。たとえば、お酒の席で多生乱れたとしても、それはお酒の席ですからあまり「恥ずかしいこと」だとは思われませんが、普段の日常生活で同じ事をすれば、それは「恥ずかしいこと」になっていしまします。これは、同じ行為であっても周りの見る目が状況によって違うからです。つまり、「恥」という概念や「恥ずかしい」という感覚は、たえず周りの人の目を意識してのことなのです。そういった意味では、私達日本人は、たえず周りの人との関係や、周りの雰囲気にしながら生きていると言っても良いのかもしれません。たとえば、「空気が読めない」という言葉などは、そのことを象徴的に現している言葉なのかもしれませんね。
ですから、いかにキリスト教に、いえイエス・キリスト様の生き方に共感することができたとしても、周囲の目、周囲の環境がキリスト教を信じる事ができる空気でなければ、なかなか教会に行くとか、キリスト教の信仰を告白すると言う所には至らないのだろうと思います。たとえば、私達の教団のある田舎の地域で開拓伝道を始めた牧師が次のような趣旨のことを言っていました。それは、「開拓伝道を始めて、キリスト教に興味を持った人が教会にやってくるようになったが、しかし、隠れるようにして教会にやってくる。それは小さな田舎町で、誰が教会に行っているかいないかが、すぐにわかってしまい、普段の生活に何らかの影響があるからだ」といったようなことです。まさに、周囲の目、周囲との関係の中で、それらを気にしながら生きていかなければならない状況がそこにあるのです。そのような状況の中では、誰かがその空気を打ち破っていかなければなりません。もちろん、それは大変なことですが、誰かがそれをやっていかなければならないのです。
そういった意味では、今日の聖書箇所に出てくるアリマタヤのヨセフという人は、そのような人であったと言えるだろうと思います。聖書は、このアリマタヤのヨセフ地位の高い議員であったと告げていますが、この地位の高い議員というのは、当時のイスラエルにおけるサンヘドリンと呼ばれる議会であったと考えられます。このサンヘドリンは、70人ほどの議員によって構成されるのですが、人々にとっては宗教的にも政治的にも、また法的にも最高の決定機関だったのです。もちろん、イエス・キリスト様の時代においては、イスラエルの人々はローマ帝国の支配下に置かれていましたので、ローマ帝国の支配の下でという条件は付きますが、その制約の下で、イスラエルの様々な問題や法的なことを取り扱っていたのが、サンヘドリンという議会だったのです。このサンヘドリンの70人程いる議員は、ほとんどが祭司たちであり、律法学者たちであり、パリサイ派の人々でした。ですから、マルコによる福音書15章1節にあるように、イエス・キリスト様を十字架につけようとして、イエス・キリスト様をピラトに引渡す決定をしたのも、このサンヘドリンの議会だったのです。いわば、サンヘドリンという議会は、イエス・キリスト様を憎み、イエス・キリスト様を殺そうとするアンチ・イエスの巣窟のような場所だったと言えます。
そのただ中に、このアリマタヤのヨセフという人はいたのです。ほかにも、ヨハネによる福音書に出てくるニコデモのようにイエス・キリスト様に好意的で信じ受け入れるサンヘドリンの議員もいたにはいたのですが、しかし、圧倒的多数は、アンチ・イエスで固まっていました。そのよう中にあって、アリマタヤのヨセフは十字架に架けられたイエス・キリストの遺体を引取り、葬らせて欲しいとローマの総督ピラトに願い出るのです。ピラトは、アリマタヤのヨセフの願いでを受けて、イエス・キリスト様の死を確認してから、その遺体を引渡します。イエス・キリスト様の遺体を引き取ったヨセフは、イエス・キリスト様のために亜麻布を買い、それに包んで、岩を掘って造ったお墓に納めました。この岩を掘った墓というのは当時のイスラエルのお墓ではよくある普通のお墓だったようですが、当時一般的には、刑死した罪人の遺体は野外に放置されるか、囚人用の墓に納められたようです。ですから、イエス・キリスト様が、ごく普通のお墓に真新しい亜麻布にくるまれて埋葬されたと言うことは、罪人としてではなく、丁寧に葬られたと考えても良さそうです。つまり、アリマタヤのヨセフは、そのように、イエス・キリスト様の遺体を丁寧に扱っているのです。
しかし、彼がイエス・キリスト様のこのように丁重に扱うと言うことは、相当に勇気のいることであったと思われます。と申しますのも、先ほど申し上げましたように、サンヘドリンの議会は圧倒的にアンチ・イエスの人々で占められており、その雰囲気は「イエス・キリスト様憎し」の雰囲気で支配されているのです。その雰囲気の中で、イエス・キリスト様のご遺体を罪人としてではなく、丁重に葬るということは、それこそ周囲のみんなを敵に回してしまうかもしれないような事なのです。それを、アリマタヤのヨセフはするのです。いったい、何がアリマタヤのヨセフにこのような勇気を奮い立たせたのか。聖書には、それについては何も触れていません。ただ、彼自身神の国を待ち望んでいる人であったと記しているだけです。もちろん、この「彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった」という言葉から、アリマタヤのヨセフの信仰を読みとることはできるかもしれません。
しかし、信仰があっても必ずしも勇気が奮い立たされるとは限りません。実際、このマルコによる福音書においては、イエス・キリスト様の直弟子である12使徒たちは、このイエス・キリスト様が十字架に貼り付けられる場面にも、またキリスト降架から埋葬の場面のどこにも姿を現さないのです。出てくるのは、マグダラのマリヤや小ヤコブとヨセの母マリヤ、またサロメといった女性たちです。ヨハネによる福音書には、わずかにヨハネ自身もその十字架の場面に居合わせたことが記されていますが、ほとんどの弟子たちは、身を隠しているのです。もちろん、彼らもまた、イエス・キリスト様に従っていった人たちですから、信仰がなかったわけではありません。しかし、勇気はなかったのです。だからこそ、このマルコによる福音書の記者は、15章43節で逃げ出してしまった弟子たちとは対称的に、このアリマタヤのヨセフは「大胆にもピラトの所へ行き、イエスの体の引取り方を願った」と記しているのだろうと思うのです。
この「勇気の根源はいったい何か?」。少し聖書の読み込みすぎになるかもしれませんが、私は、その背後にイエス・キリスト様の死の中に見られる崇高さがあったのではないかと思います。というのも、このイエス・キリスト様の遺体の引取り方を申し出るアリマタヤのヨセフの記事に先行する、イエス・キリスト様の死の出来事において、マルコによる福音書の著者は次のような記事を記しているからです。それは、15章37節から39節の記述ですが、そこにはこう書かれています。「イエスは声高く叫んで、ついに息を引き取られた。そのとき、神殿の幕屋が上から下まで真二つに裂けた。イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息を引き取られたのを見て言った、『まことに、この人は神の子であった』」。異邦人であるローマ兵の百卒長が、イエス・キリスト様の死に様を見て「まことに、この人は神の子であった」とそう言ったというのです。
イエス・キリスト様の死に様は、十字架刑ですから、それは無惨な、みじめな死に方です。けれども、そのような無惨な死に方の中に、「この人は神の子だ」といわせるようなキラリと光るものがあったのです。それが何であったか。 考えられるものは二つあります。一つは神殿の幕屋が真二つに裂けたと言う出来事、もう一つは、イエス・キリスト様が声高く叫んで息を引き取られたという出来事です。しかし、この神殿の幕屋が真二つに裂けたとき、百卒長は、神殿ではなく、ゴルゴダノ丘にいたわけですから、そのことは知るよしもありません。そうすると、百卒長に「この人は神の子だ」と言わせる大きな要因となったものは、イエス・キリスト様が十字架の上で叫ばれた言葉だと言うことになります。そのイエス・キリスト様が、十字架の上で語られた言葉は七つほど福音書の中に残されています。それは、
十字架の苦しみの中で「私は渇く」と言われた言葉、また、ご自分の死後、残される母マリヤを気遣って、愛弟子ヨハネに母マリヤを託す「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です。」「ごらんなさい。これはあなたの母です。」と言う言葉、更には、自分を十字架につけて殺そうとしている者たちに対して、「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのかわからないでいるのです」と執り成しする言葉、そして、イエス、キリスト様に救いを求める罪人に「あなたは、今日わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」という救いと希望を与える言葉、そして、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」あるいは「父よ、私の霊をあなたに委ねます」「全て終わった」という、救い主としての使命を全うするための言葉、この七つの言葉の言葉は、すべて、人を思いやり、愛し、それゆえに神の救いがもたらされるようにと生きた救い主であるイエス・キリスト様の思いと生き方とが集約された言葉だと言えます。
その言葉に触れて、百卒長は、「まことに、この人は神の子であった」と言わざるを得なかったのでしょう。そして、その言葉はおそらくは、この言葉の中どれか一つというのはなく、これらの言葉の一つ一つ、それこそ、十字架の上で語られたイエス・キリスト様の言葉全てが、この百卒長の心を揺り動かしたのだろうと思います。十字架に架かるような罪を見出すことができないお方が、ただ妬みと嫉妬から、一見敗北とも思われるようなみじめで無惨な十字架の死という苦しみを味わされたのです。なにの、このお方は決して誰も恨むことなく、ただ人の救いのために、自分の命をも神に委ねて、十字架の死というみじめな死に方を受け入れて死んでいかれた。そのイエス・キリスト様の死の気高さが、あの百卒長をして「まことに、この人は神の子であった」と言せたのです。そして、それと同じように、その気高い死が、その死に触れたアリマタヤのヨセフに、「イエス憎し」の雰囲気が支配するサンヘドリンの議員たちの中にあって、その周囲を支配する雰囲気を打ち破り、イエス・キリスト様のご遺体を引取り、丁重に葬ろうと言う思いにさせたにちがいない。私はそう感じるのです。
それはつまり、イエス・キリスト様の十字架の死が、最初に申し上げたように、私達日本人が共感する「信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす日本人の価値観を体現するもの」に通じるものだと言うことなのだと言うことです。そのような崇高な死に触れたものは、周囲を支配する雰囲気を打ち破っていく者になるのです。そのお手本が、このアリマタヤのヨセフであろうと思います。そして、それはアリマタヤのヨセフだけではない、後には逃げ出した弟子たちもまた、パリサイ派や律法学者達に支配されたユダヤ教の中で、その周囲の目を打ち破ってイエス・キリスト様の皆を語り継げる者となっていったのです。今日、こうしてここに集っている私達は、アリマタヤのヨセフと同じように、そのイエス・キリスト様の十字架の死に触れた一人一人です。イエス・キリスト様の十字架の死が、その生き方に決定的な影響を与えられた一人一人です。その私達によって教会は打ち立てられているのです。だからこそ、私達は勇気を奮い立たせなければなりません。日本という、キリスト教徒は異文化であり、クリスチャンは日本という国においては異邦人的な存在であったとしても、その中で、福音を語り、キリストの愛に生きていかなければなりません。
そして、それは私達日本人にとって決して共感しがたいものではないのです。「信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さ」を感じる私達日本人とって、イエス・キリスト様がもたらした福音は、決して受け入れがたい者ではないのです。だからこそ、必要なのは、周囲の目という無言の圧力を打ち破る勇気であり、打ち破る存在です。私達ひとりひとりは、その壁を突破する一人一人として、教会として呼び集められているのです。それでは、そのために私達は具体的に何をすればよいのでしょうか。決して難しい事ではありません。神を信じ、神を畏れ、礼拝を守り、祈り、聖書を読み、家族を愛し、罪から離れて、誠実に生きる、そして真実に生きることです。私達が、クリスチャンとして神を信じ、神を畏れて生きるならば、それは私達の生き方が証となって福音を語り継げているのです。そして、たとえ時間がかかろうとも、そうやって私達が真実に生きていくならば、必ず私達の生き方が突破口となって福音が、家族の中に、地域の中に、また学校や職場の中に福音は広がっていくだろうと思います。そのことを信じて、私達は神の前で生きていく者でありたいと願います。
お祈りしましょう。