田中栄二のママチャリ日記 第六弾
「異郷」
横須賀を抜けるまでは多少のアップダウンがあったものの、衣笠までは比較的穏やかなルートである。 この分だと約束の時間より早く着けそうだ。
しかし、ここで肉体疲労とは別の身体異常が私を襲って来た。
めちゃくちゃ腹減った。
考えてみれば、新横浜でラーメンを食って以来、水物だけで食事を取っていない。 横須賀で何か食おうとも思ったのだが、なかなか適当な店が見つからなかったのだ。 ファーストフード的な店はいくつかあったのだが、せっかく横須賀まで来て吉牛や松屋では味気ないと思い、衣笠まで道中で何かいい店があるだろうとひとまずパスしたのであるが、これが大誤算であった。
よさげな店は何軒かあったのだが、見事に全部閉店。 確かにこの段階で夜12時近かった訳だから、田舎の店は閉まってしまうのであろう。
しかし、状況はかなり深刻で、もうファーストフードでもなんでもいいやという精神状態まで追い込まれたのだが、それこそ全く見当たらない。 そういえば、N氏との会話で待ち合わせ場所をファミレスに決める際に「この界隈はファミレスはここしかないから迷わないよ」と言っていたのを思い出す。
どうやら、この道中で食い物屋を見つける事は奇跡に等しい事を覚悟し、空腹を押しとりあえず前に進む。
空腹の為かいささかペースが上がったのか、予想より遥かに早く衣笠インターを射程に捕らえる。
衣笠インターの手前でやや栄えた通りにぶつかり、気の効いた食い物屋がありそうな気配はあったのだが、ぎりぎりやっているのがことごとくラーメン屋で、さすがに旅に来て連続ラーメンは無いだろうとぐっとこらえる。N氏邸まで辿り着けば何か海の物でも出してくれるんじゃ無いかと言う期待あったのだ。
そして、多少道に迷いはしたが、電話でN氏にナビをしてもらいつつ、なんとか深夜0時、約束の衣笠インターチェンジ麓のファミレスに到着。
今日行うべき行程をほぼ終え、なんとも言えない安堵感が私を支配する。 よし。今日やるべき事はやった。 良く頑張ったぞ。
ひとまずチャリを置き、ファミレスの中でN氏の到着を待つ事に。約束の時間まではまだ時間がある。
疎らにしか客がいない店内に入り、従業員の誘導に従い席につく。
店員は当然のようにメニューを差し出す。
N氏邸まで行けば、きっと海の物にありつけると信じていたので、なにか軽いものでも注文しようと思いメニューをめくる。
うっ。
ううっ。
いや、ま、負けてなるものか。
旅人にとって現地の食事は大切な行事なのだ。
そして。
「お決まりですか?」
「豚カツ御前。大至急。」
我、敗北せり。
しかし、空腹度合いは私の想像以上に深刻だったようで、豚カツ御前が目前に現れた途端、私は一心不乱に豚カツに襲い掛かる。
ある意味、格闘とも言える食事をこなしている最中、不意に聞き覚えのある笑い声が店内に響いた。
まぎれもなくN氏の笑い声である。
食事の手を止め、声のする方に顔を向けると、N氏が私を指差し壊れんばかりの笑い声をあげている。
N氏は、笑いながら私に近づく。
N氏とは久々の対面である。「あ、どうも久しぶりです」と軽く手をあげ挨拶しようとしたが、N氏はとにかく壊れんばかりに笑い続けている。
「あは、ははは、あっ、あのさ、あの、ははは、あの入り口にあった、はは、あの、チャリって、あれが、はは、え、栄二君の?はは」
「あ、多分そうですよ」
「ぐあはははははっははははははっはは、あはははっは、ははははっは」
「・・・・・・」
「ほ、ほんとに、あはは、ほんとにあれで来たの?」
「そうですよ」
「だって、あれ、あはは、あれ、思いっきり普通のママチャリじゃん」
「いや、そりゃそうですよ」
「あはは、はは、だってさ、はは、うち遠いからさ、はは、まだ車でも誰も遊びに来た事ないんだよ。はははは、初めてのお客さんがさ、ママチャリで来るとは思わなかったからさ、はは、はは」
あんた、笑い過ぎだよ。
しかし、思えば、見知らぬ土地をママチャリで走り回り、心のどこかに幽かな不安を常に抱いていた私にとって、N氏という知己に会えた事は、私になんとも言えない安堵感をもたらしていた。
というか、こんな土地で万が一にもN氏が現れない事態が起ころうものなら目も当てられない。
N氏は落ち着きを取り戻すように注文したコーヒーを啜り、何時間掛かったのか、どのルートで来たのかを私に尋ね、改めて私に感嘆の言葉を漏らす。
ママチャリに股がっている間は、実はそれ程大した事をしていると言う自覚はなく、ただ闇雲に走っていたのであるが、こうして人に話すとひょっとしたら結構大変な事をしているんじゃないかという気になりなかなかまんざらでもない気分になる。
結局、ファミレスでの食事代はN氏が「せっかくわざわざここまで来たんだし」と全て支払い、店を出る。
謝意を述べつつ、ここからN氏宅までの道のりを訪ねる。ファミレスとN氏宅までの距離はそれ程ないと踏んでいて、ルートを決めていなかったのである。
複雑なようなら、N氏の車に付いて行けば良いと考えていたのだ。
「で、大体どれくらい掛かるんですかねえ」
「う〜ん。車で15分ってとこかな」
あら、結構遠いですね。
どうやら車に付いて行く事は不可能であるので、とりあえずN氏宅の近くのコンビニで待ち合わせる事に。
聞くところによると、道のりはさ程複雑ではなく、30分くらい走れば着く計算である。
しかし、その計算は路面状況で大きく変化する。
「あの、坂って結構あります?」
「えっ?坂?どうだろう・・・そんなにないと思うよ」
どうやらN氏は普段は車でしか移動しないので、坂の存在と言うものをあまり正確には把握していないらしい。 確かにアクセルを踏み込めばすいすい登って行く訳だから、いちいち坂道の事など考えはしないのであろう。
私はN氏の言葉に偽りがない事を祈りつつ、腹を決めてママチャリに股がり、駐車場へ向うN氏の背中に「じゃあ先に出てます」と言い勢い良く漕ぎ出す。
本日最後の走りである。
よし、行こう。
昼間であればおそらく大自然が左右を覆っているのであろうが、深夜であるし、街灯も少なく大変暗い。
この旅を始めて以来、タイヤに擦れて発光するというママチャリ特有のライトは、異常に重くなってしまうので一度も点灯していなかったのであるが、さすがに本気で恐くなってライトを付ける。
『じ〜〜〜』という独特のノイズ音ともに2メートル程視界が広がる。かなり運転はしやすくなったが、やはり重い。
そんな私の横を、あっという間にN車が追い抜いて行く。
しばらく、私にペースをあわせるかのように徐行していたN氏であるが、やがて後続車の邪魔となり、クラクションを鳴らしペースをあげ去って行った。
果たしてN氏は気が付いたであろうか。
今、自分の車が上り坂を登っていると言う事を。
私は去り行くN氏の車に向い心の中で叫ぶ。
Nさんわかる?今自分の車が傾いているの、わかる?これがチャリ界では上り坂って言うんだよ。車では大して登ってないように感じるかもしれないけど、これ、チャリだとちょっときついんだよ。
とにかく、もう先へ行くしかない。
最後の力を使い切るように、がむしゃらに進む。
N氏の言葉とは裏腹に、思ったよりアップダウンがあったものの、やがて下り坂が多くなり、ライトの点灯も苦では無くなって来た。
そして、ファミレスを出発して40分余りで、約束のコンビニを発見。
とりあえず今日はこれで終わる。
達成感。
私はやや下っている道を立ち漕ぎでスパートをかける。
「ぐあははははははっはあははははははっはっははは」
私がコンビニに到着すると、N氏がまたも笑い転げている。
「えっ?ど、どうしたんですか」
「はははっは、だ、だって、さ、お、遅いんだもん。はは」
「あ、すいません、待たせちゃいました?」
「あ、いや、はっはははは、そ、そうじゃなくて、さ、はは、栄二君が一生懸命漕いでるのがさ、は、はは、わかったんだけどさ、はははは、一生懸命の割にはさ、全然近づいて来ないんだもんはははは」
どうやら、N氏は随分遠くから私を確認していたようで、立ち漕ぎのせいで微妙に左右にライトが揺れているのに全然近づいて来ない私の姿が異常に面白かったようだ。
私は今まで、自分がママチャリで疾走している姿を想像し「結構イケてるんじゃないか」とさえ考えていたのだが、どうやら大きな間違いであったらしい。
何はともあれ、もうここまで来れば本日のゴールと言っても過言ではない。
ビールやつまみはN氏がすでにコンビニで購入済みであったので、明日の朝食でも買っておこうとコンビニ内へ入ろうとすると、N氏が「朝食は作ってあげるよ」との事だったので、甘える事にする。
N氏は車に乗り込み、私は後を追う恰好でN氏宅へと向う。
表通りから路地に入ると、完全に街灯の類いは無くなり、N車のテールランプの灯りを頼りに追いすがる。
都会ではテールランプの灯りなどただの点にすぎないのだが、こうも暗ければ立派な道しるべとなりえる。
すると、N氏が茶目っ気を出してライトをoff。
Nさん、それ全然シャレになりません。
ほんの少しのサービス精神が人を恐怖のどん底に落とし入れる事もあり得るのだと言う事をよく考えて下さい。
そして、29歳になって1時間と30分。
N邸到着。
終わった。
とりあえず今日はもう走らなくてもいいんだ。
今まで味わった事のない安堵感が私を包み込む。
早速N氏宅へお邪魔し、シャワーを浴びビールをあおる。
旨すぎる。
あっという間に酔いが回る。
それからしばらくN氏とたわいもない話をし、N氏も最大限私に気を配ってくれて、お互い早めに眠る事に。
体は確実に疲労している。
しかし、中々寝つけなかった。
この時は、今日の安堵感よりも、明日の不安の方が大きかったのかもしれない。
なにせ、この身体状態で今日と同じ、いや、それ以上の距離を走らねばならないのだ。
安堵と不安を抱え、私はいつの間にか眠りに落ちる。
そして、翌朝。
又しても快晴。
29歳の誕生日。
目的は達成できるであろうか。
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