田中栄二のママチャリ日記 第七弾
「疾走」
目覚めるとN氏は買い出しに出かけたようで姿は無かったので、とりあえず近所を散策してみることに。
昨夜は暗くて確認出来なかったのだが、N邸を出て徒歩一分でいきなりの海岸線。
噂には聞いていたが、これほどのロケーションだと正直思ってはいなかった。
季節外れの潮風を全身に浴び、俄然やる気は高まる。
よし、これは行ける。
どうやら、いい誕生日になりそうだ。
N邸へ戻ると、N氏が私の為に朝食の準備をしている最中であった。
昨夜「この辺はマグロが安くて旨いんだよ」という話を聞いていて、朝食はマグロにしようという話であったのだ。
そして、ほどなく朝食登場。
マグロの様々な部位が様々な調理法で次々と食卓を埋めていく。
そして、最終的にはご飯の周りをマグロオンリーで調理されたおかずが並ぶことに。
食してみると、確かに美味い。
さすがは海の街。
だがしかし、おかずが全部マグロというのはいくら美味いとは言え正直ちょっと飽きてくる。
それでも、せっかく良くしてくれたN氏に対し「他におかずは無いんですか?」とリクエスト出来るはずも無く、とりあえずこの旅に出て初めて食したまともな料理である事は確かなので、無理矢理『まんざらでもない』と言い聞かせ、今日の長丁場を考えてスタミナをつけるべく箸を進める。
どうらや今日は休みらしいN氏がビールを飲み始め、「一杯どお?」という誘いを謝絶し、程なく「そろそろ行きます」と支度を開始する。
今日の夜はもっと美味い酒が飲めるはずなのだから。
そして、午後12時30分、N氏の「頑張ってね〜」というエールを背中で聞きながら、私は颯爽とチャリにまたがり勢い良くペダルを押し下げる。
2日目 N邸(三崎口)〜湘南〜小田原〜熱海
まず、昨日待ち合わせ寄ったコンビニに寄り、今後の道中に必要となるであろう、飲み物、カロリーメイト的な軽食、インスタントカメラ等を購入し、昨日来た道を少し戻る格好で進む。
昨日の夜、私を恐怖せしめた道は、一転2月とは思えぬほどの強烈な日差しを受け、むしろ暖かく背中を押してくる。
これだ。この感覚を待っていたのだ。
暗がりであれば単純に「先が見えない」という恐怖感から必然的にスピードを上げられないのだが、もはや視界は自分の視力の限界まで開けている訳で、ペースも自由に操作出来る。
地図上の熱海は、それほどの距離は無いはずなのだが、あまり暗くなると運転に支障をきたす事は昨日の経験で十分にわかっていたので、私は多少速めの速度で走る事に。
それでも、時折海岸に降りて海をバックにチャリの写真を撮ったり、海を眺めつつちょっと一服したりというせっかく海岸線なんだから海を目一杯楽しむという配慮を随所で行う事は欠かさない。
そんな写真をとっている最中、私はある事に気がついた。
昨日の段階であれば、都内や横浜やを抜けるときなどは「自分がどのように見られているか」という事を少なからず気にしていたのだが、いざ海を目の前にするとそんな事はまるで気にしなくなっていたのだ。
なにせ、あたりの人々と言えば、多少観光目的っぽい団体がいるにはいるのだが、殆どが地元の人間で、例えば漁師だったり、定食屋のおばちゃんだったり、サーファーだったり。
しかも、漁師は見るからに漁師の格好で、おばちゃんはエプロン姿で店を開けているし、サーファーにいたってはウェットスーツのまま闊歩している。
やはり、海は人を自由に、そして大きくさせる物だと実感。
心配していた疲労も、多少足腰にはきていたが海沿いはアップダウンがさほど無く、ほとんど気にならない。
海の偉大さを感じつつ走り、程なく、葉山という御所やら歴史的な建造物が建ち並ぶ街に入り、小一時間で鎌倉に突入。
鎌倉、湘南辺りは道に詳しいギタリストM氏とよく来た事がある。
年に一回、湘南の地でライブイベントをしていたり、とても美味いカレー屋があったりと、なにげに所縁のある街なのである。
まさかママチャリで来るとは想像もしていなかったが、いざ自分の足で来てみると、まるで違う街に感じる。
新鮮な空気、新鮮な時間が私とチャリを包み込む。
あ〜、いい。実に、いい。
場所柄なのか、時折流木に腰をかけたり、海岸沿いを手をつないで歩いたりしているカップルがいたりしたのだが、昨日の山下公園ではこいつらチャリで体当たりしてやるくらい思っていたのだが、今日この段階ではむしろ微笑ましく、素敵にさえ映る。
湘南の優しさに包まれ、程なく江ノ島到着。
何度も訪れている土地ではあるのだが、江ノ島本土に上陸した事がなかったので、これを機に上陸してみる事に。
観光客に混ざり(まあ私もそうなのだが)、何となく名所っぽいスポットを回る。
特段、なにか飛び抜けて素晴らしいものというのは存在していないのだが、『これが江ノ島かあ』という気持ちだけでとりあえず満足する。
そう言えば、現在持ち金が1万2千円しか無い事を思い出し、江ノ島にあったATMに立ち寄る事に。
当面はなんとかなりそうなのだが、宿泊先として考えていた熱海在住ドラマーN氏はこの際全く期待出来ないので、おそらく今日の宿は飛び込みでどこか押さえる事になるなるであろうと思われ、もう少し余裕をもっておこうと。
しかし、残高はほとんどないはずで、おそらくは無意味であろうとの予想はあったのだが、ひょとしたら不意なギャラの振込とかがあるかもしれないと。
で、残高照会。
そして、そんなに都合良くお金は発生しない事を確認し、とりあえずせっかくだから江ノ島で海の物でも食おうと思ったのだが、サザエのつぼ焼きの匂いオンリーで我慢する事に。
結局30分ほど江ノ島本土をぶらぶらした後、本来のルートへ。
とりあえず、目指すは小田原。
江ノ島を超えてすぐ、海岸線沿いにサイクリングロードが設けられているのを地図上で発見し、当然の選択としてそこを通る事に。
このサイクリングロード、まさに現在の私の為に作られたとしか思えない作りである。
自転車の為に作られている道路なのでダウンアップも無く、人の往来もそれほど多くなくなにより車道から離れている為空気もいいし危険も無い。
そして眼前にはちょうどいい色合いの西日、優しく頬をかすめる潮風。
来て良かった。
この旅で一番そう感じた瞬間だった。
間違いなく、今日は生涯で一番素敵な誕生日だ。
そして、この段階をピークに私の旅はただただ過酷なものになって行くのである。
|