08.「暗渡陳倉」の計


『スキに乗じて進軍しろ』
 A地点に行きたいが、難関が存在し、行くことができない。と、いう問題に突き当たった時、活用するのがこの計略です。敵の油断、あるいは弱体化を見計らい、そのスキに乗じて目的の地点に到達することを計略の目標としています。「声東撃西」と似ていますが、この計略は「声東撃西」よりも地点移動を主体とした計略であるといえましょう。

ケ艾の蜀攻め
 三国末期。魏を滅ぼした晋王朝は、蜀を攻略せんと戦いにあけくれたが、蜀軍の手強い抵抗にあい、なかなか蜀の都へ進むことができなかった。司馬昭は鐘会とケ艾という二人の将軍に蜀攻略をまかせたが、どちらも蜀の姜維の抵抗にあい、苦戦する。そこでケ艾は一計を思いつく。鐘会が長い間A地点で戦っていれば、晋軍は常にそこへ兵を送りこむと蜀軍は思うだろう、実際 長年そこからしか蜀攻めは行われていなかった。その心理を利用し、ケ艾は誰も予想しない裏道から蜀の都を目指そうと考えたのである。

 別働隊で行動し、蜀の誰もが防衛体制を整えていない場所に、突如ケ艾は現れ、奇襲したのである。その結果、蜀は姜維がA地点で鐘会とにらみあっているうちにケ艾の遠隔奇襲攻撃により都を落とされ、降伏。姜維はなすすべもなく、降参するしかなかったのである。ケ艾の作戦勝ちであった。



 この計略はよく使われています。有名なノルマンディー上陸作戦などは、まさにこの計略のセオリーで成功した例であるといえましょう。敵のスキのできるのを待ち、その一瞬のスキをついて海を渡ったオーバーロード作戦は、まさに現代版 ケ艾将軍です。計略の起源となったのは、漢楚興亡期の時代の大戦術家 韓信の陳倉攻撃の際の戦術です。韓信は堅固な要塞 陳倉を、兵士の心理的スキをついて夜に奇襲。この計略により、韓信の主 劉邦は、漢中の山奥から中央に出ることができたのです。幕末の時代、長岡戦争で名将 河井継之助が長岡城を奪還した戦い方も、この計略の応用であるということができます。