16.「捕らえるために放つ」の計
『味方にしたい者は追い詰めすぎるな』
味方に加えたい者、手に入れたいものがあった時、本来は逆効果と思われる「引き離す」という行為によって、結果的にそれを手に入れる、という計略です。「押してだめなら引いてみろ」という言葉があるように正攻法でかなわぬ時には、奇策としてこのような、逆の行動も必要なのではないでしょうか?
孔明と孟獲
孔明の蜀の国は、南方を異民族に脅かされていた。異民族はすぐに反乱をおこし、討伐してもまたすぐに叛くという始末で、歴代の統治者も始末に負えなかった。そこで孔明は異民族の首領
孟獲を味方に加えることで、この異民族を心服させようとしたのである。だが孟獲は首領のプライドがあるので、孔明に捕らえられても心服しようとはしなかった。孔明は異民族統治のためには孟獲という人材が必要と感じていたので、彼をなんとしても味方にしたかったのである。彼に味方になるという意思がない以上、捕らえていても仕方がないので、孟獲を放ち、再度戦いを挑ませたのである。
孔明はいつも戦いに勝ったが、常に孟獲を追い詰めすぎず、逃げ道を作ってあげていた。これはこの戦いの意味が、敵の殲滅ではなく、孟獲の心服にあったからである。捕らえては放ち、放ちては捕らえること実に七回にもおよび、遂には孟獲が孔明の器の大きさに心服。孟獲は孔明の味方となり、以後反乱はおきることはなかったのである。
この逸話は、有名な「七度捕らえて七度放つ」であります。孔明は孟獲を放つことで、結果的に味方にしたのです。「かわいい子には旅をさせろ」という言葉も、側におきたい我が子をあえてつき放つことで、逆に親と子の信頼度が増すという結果を生むと考えれば、この計略に近いものがあります。冷めた夫婦やカップルが一時的に離れることにより、お互いの存在の重要性に気付き、失いかけた絆を取り戻してまた一緒になる。というのも、この計略の心理が関わっているといえましょう。ただ孔明と孟獲の場合は、やりすぎではありますが・・・