天国と地獄について
1、魂の集まる場所
しばらくいくと人の集まるところにでるそうです。
死んだ魂を集めて、その後どこへいくか采配するセンターのようなものですね。
昔なら瓦ぶきのお城に閻魔様がいて、という情景なのでしょうが、現代の人が行けばコンクリート作りの役所のような所かも知れません。
あるいは霊界らしく光輝く塔のようなものかもしれませんね。
これはその人の境涯とか意識によるでしょう。
2、一生の行いを見せられる
さて、そこで何をするかというと、要するにその魂がその後行くところを決定する訳です。
その基準はもちろん、生前の思いと行いが善であったか、悪であったかです。
まず何をするかと言うと、閻魔さまとか先に死んだ知人とかの見ている前で、生きていたときの行動とか思いのすべてを見せられるわけです。
昔は『浄玻璃鏡』と言って大きな一枚鏡に映し出されたそうですが、現代では映画館のようにスクリーンに映し出されると言いますし、それこそ昔々なら湖にでも映したことでしょう。
この映像には、その人の行動があまざず映し出されることはもちろんですが、その人の考えていることも全てだされます。
つまり、この世ではうそやごまかしもできますが、あの世では一切のごまかしが通用しません。
たとえば、表面何も言わなかったとしても、心の中で悪し様に言えば、そのことも評価の対象になります。
キリストは、行いだけでなく思いによっても裁かれると言ったかもしれませんが、これは実際にその通りです。
また「人が見てないからいいや」とよく言いいますし、その言葉の対として「その人の行いはお天道様が見ている」という言い回しもよくしますが、後者はこれは実際にその通りな訳です。
この映像の元は、その人の守護霊が記録(記憶?)しているものだと言いますが、この場合の守護霊というのは霊界に置いてきた魂の部分(この世的には潜在意識とも言う)のことを言うので実質的には自分自身の記憶と言っていいでしょう。
あるいは霊の『想念体』という記憶領域をつかさどるテープのような部分があり、それかも知れません。
こうして、その人の生まれてから死ぬまでをずっと見せられるわけです。
この時に見ている人に観客があるわけです。
これは先にも言いましたが、閻魔様(の役の人)とか、知人とか関心のある人、それから関連のある人ですね。
たとえば、その人が多くの人に迷惑をかけたような人なら、その迷惑をかけた人がやってきて、そこで詰め寄られるわけですね「あの時はよくもこんなことをしてくれたな」とか。
あるいは観客のブーイーングとか、不陰気とかがものすごく悪くなるわけです。
こういうのは恐ろしいでしょうね、この世では隠しとおせたと思って舌を出していたような事まで詰め寄られるわけです。
逆に生前の行いがよかった人なら、賞賛とか感謝ということがあるでしょう。
こうして考えてみると、その人がどこで何をしていたかということはほとんど関係なくて、ただ人に迷惑をかけた存在か、人の役に立ったのか、というだけの事になってきます。
3、魂の価値
魂の価値には縦(たて)と横(よこ)、それから高さ(たかさ)を加えた立体的な評価があるようです。
縦はどれだけ勉強したか、何を学んだか、研鑽をつんだか、時間を無駄にしなかったか、と言う事ですね、才能とか言われる領域のものです。
横はどれだけ人を愛したか、神を愛したか、その他動物とか植物とか、要するに他者を愛したか、と言うものですね、器とか言われる事が多いと思います。
いずれにしても「与えたか」「奪ったか」というベクトル(方向性)になります。
人間とか社会とか世界というものは一つのエネルギーの塊(かたまり)だと考えられます。
その存在にエネルギーをプラスするか、マイナスするかという作用があります。
この与えるか奪うか、という作用は自分に対してと他者に対してが考えられます。
厳密には違うのかもしれませんが簡単に言ってしまえば、高エネルギー状態を幸福だと感じ、低エネルギー状態を不幸だと感じると言う事です。
または高エネルギー状態を天国、低エネルギー状態を地獄と表現しているわけです。
自分に対してエネルギーをプラス(与える)するかマイナス(奪う)するかというのがあります。
プラスのほうは、日々研鑽を積んで時間を無駄にしない事です。
マイナスのほうは、怠けて自堕落な生き方をするという事です。
つまり人間は生き方によって、自分を天国的な状態にすることも地獄的な状態にする事もできると言う事です。
要するに一人でも、どんな境涯でも、何らかの研鑽をつむ生き方をしていれば、それなりにハッピー(天国的)になれると言う事です。
普通はまず研鑽をつんで自分を幸せにしてから、他人に幸せを分けるというやり方が、王道らしいです。
逆に自分ばかり愛していても幸せになれない、という法則もあります。
いずれにしても自分が幸せであるか不幸であるか、天国的であるか地獄的であるかは、環境による「言い訳はあまり通用しない」ようです。
つまり自分の幸せには自分で責任を持ちなさいと、原則は言われるような感じがしますね。
他人に対してエネルギーをプラス(与える)するかマイナス(奪う)するかというのがあります。
プラスのほうは生産的な事、働いたり、子供を養ったり、信仰心を持って生きたり、他者に施しを与えたり、他者を愛したり、道徳を守って社会の規範を守ったり、新しいものを発明して発展させたり、哲学や文化に貢献したり、その他社会や他人に「よかれ」と思われる所のものです。
マイナスのほうはまあ犯罪ですね、殺人強盗詐欺、後は怠けや堕落何かもそうでしょう、それから無神論も悪霊のほうです、社会や個人を破壊していく作用のものです。
これら各人それぞれの社会に与える影響のものと、奪う影響のもののエネルギーの集積のトータルが、その社会の住みやすさや文化のレベルになると言う事です。
つまりどんなに言おうと、世界でも日本が安全で豊かで文化レベルも高いのは、日本人がそれだけプラスの方向で努力してきたからだと言えます。
エネルギーの集積度が高く、高エネルギーの磁場(国)だと言う事です。
(*以下難しいので解る人だけ
物と言うものは無いんです。
時間と空間と価値(認識や感じ)がセットで一つのエネルギー磁場になっているのが、本当の姿です。
難しいかも知れませんが、例えば本と言うものが、一冊の手に取れる一つの完結した世界になっているのと同じです。
例えばDVDには映像(空間)、時間、感情(ドラマ)が一つの手にとれる世界になっていますが、中身は0と1の集まりです。
実はこの世界(宇宙)も、もっとマクロの存在(高次元存在)からは一つの手に取れる本かDVDの世界のようなものである可能性があります。
神様から見れば、この世界の何時の時間でも取り出して見れるものです。
時間と言うものは流れさって行くものではなく、連続体として、エネルギーとして、言わば記録として、存在するものです。
黄色いのは宇宙であり時間です。
そう、エネルギーから見た「時空」ですね。
この例は時間の流れが渦巻いてエンドレスになっているような場所もある、という例です。
SFにはよく書かれましたけどね、例えばアニメのガルフォースなんかもそんな話でした。
UFOのように空間をこえることができるようになると、割とすぐ時間もこえられるようになるので、そういう場所は実際にこの宇宙にあるそうです。
要するに時間と言うものは神様からは一望できるので、たとえばこんな風に見る事ができるという話です。
(これは例えであって、実際にこんな見え方なのかどうかは解らない)
例えばアメリカ大陸にアメリカと言う国を創ろうと神様が思ったとします。
そうすると例えばですけど、宇宙空間からアメリカ大陸に神様の念いとして、エネルギーとして光の柱が立つ訳です。
光の柱と言うのは宇宙から地上へのエネルギーの流れです。
そうすると次第にそこにビルがたったりして国ができてくる訳です。
そこには時間とか建造物とか人々のドラマとかあるのでしょうけど、実態はひとつのエネルギーの塊(磁場)だととらえる事ができると言う事です。)
そんな訳でこの宇宙では、エネルギーを吐き出すほう、つまり生産的な事をしている魂を「神様」と呼び、消費や消滅をしているほうの魂を「悪魔」とか悪霊と呼んでいるのです。
物理学的に言えば神様のほうはホワイトホール、悪魔のほうはブラックホールとなります。
この3次元の世界に別次元から、霊エネルギーを出したり引き上げたりしているという事です。
さて、もう一つ高さのベクトルと言うものが考えられます。
縦(自分に対する善悪)横(他者に対する善悪)に高さ(神様から見た善悪)によって、人間の評価は立体的にされるようです。
これは神理知識と言うようなもので、要するに人間として何をして良いのか悪いのか、といった善悪の判断の事です。
つまり先ほどの縦と横の才能は沢山あったにしても、行き先が間違っていれば地獄をより促進する事になります。
例えば才能なら善にも悪にも使う事ができます。
作家なら天国的なものを書いて世の中を良くする事も、地獄的なものを書いて世の中を悪くする事もできます。
政治家ならリンカーンのように奴隷を解放する事も、悪い独裁者のように恐怖政治をしく事もできます。
才能は縦のベクトルですが、その使い方をどうするか、到着地点をどうするか、天使の方か悪魔の方かどの方向へ向かうか、と言った選択肢があるわけです。
横の愛のベクトルにしても、悪を働くものを積極的に擁護する事は問題があります。
しかし世の中には、慈善の名において社会を悪くする働きのものがいくらでもあります。
個人的なもので言えば、例えば子供が悪さをしたのに褒めたら、その子供はどんどん悪くなるでしょう。
過保護にすれば弱くて生きていけなくなります。
例えば社会的な問題で言えば、原発廃止、沖縄の米軍基地撤廃、憲法9条を守って他国に侵略される、等、一見愛に基ずく行動のようですが、確実に世の中を破滅へと向かわせるものです。
これはなぜかと言うと、智慧が無いからです。
善悪の判断がきちんとできないからです。
いくら頑張っても結論が間違っていれば全てがひっくり返ります。
例えば抑圧されていた人々を救おうと思ったマルクス、才能や愛において優れていても、唯物論という結論が間違っていたために、現在共産圏では自由主義国よりはるかに苛烈な搾取が、逆に行われています。
これは結論が間違っている(善悪の判断がつかない、この場合唯物論は悪、唯物論を選択すると普通弱肉強食の世界、独裁や恐怖政治の世界にしかならない)からです。
そういう取り違えは、例えば現在の日本の有名な政治家、学者、作家(マンガアニメも)、宗教(邪教)の中にもいくらであります。
ですから間違えやすいのは、この世で大を成しているからと言って、必ずしも天国に行くとは限らない、と言う事です。
総理大臣や作家、哲学者、宗教家、なんでもそうですが、この世的に有名で地獄に言っている人は沢山います。
例えばマンガで天国に入れるようなものを描いている人は半分無いと思います。
これは結論が地獄的だからです、結果的には人心を荒廃し、社会を破壊していくものだからです。
そうした大雑把に3つほどのベクトル(価値基準)において魂ははかられると考えられます。
これら最後の審判とも言える個人裁判は、要するに最終的に結局「プラス作用とマイナス作用の貸借対象(たいしゃくたいしょう)がどうか」という事です。
天秤にかけられるのは、そういう事です。
大雑把に言えば、それを教えとして善悪と呼んでいる訳です。
閻魔様というのは、現代では地上で裁判官をしたような人がやっていることが多いそうです。
その人の人生を総括して、どこへ行くかを相談して決めている役割の人と言ってよいでしょう。
ちなみに地上の世界とは違って、真実がわからないと言うこともなく、誤審ということもありません。
悪いことを、どんなにごまかそうとしても逃れることはできないし、善い行いをとりこぼすこともありません。
なぜなら、真実は全てその人の心の中に書いてあるからです。
また、地獄に行く天国に行くといっても、実のところしょせん自分で決めているのにすぎません。
とここまで言っておいてなんですが、エネルギー物理的に言うと、比重の重い魂が底に沈み、軽い魂が昇るということに過ぎません。
それらの物理現象を、人霊の意識としては、こんな感じで受け取る、ということでしょう。
もう少し科学的に突っ込んでみましょう。
物質的な欲望や執着が多い人が重くて地獄へ沈みます。
これは霊質より物質の方が「重い(質量がある)」ので当たり前と言えば当たり前です。
物質面の「念エネルギー」を霊体に沢山くっつけているんだと思います。
人の恨みを買うと、その念波が飛んできてまとわりつき、それが重いので地獄に沈みます。
嘘をついたりとか、善悪に関しては、神仏の念いと反対の事をすると不完全燃焼がおこるらしく、要するにススですね、悪想念とも呼ばれますが、それで比重が重くなるようです。
この神仏の念いに逆らう、と言うのは、川の流れに逆らうと抵抗が大きくなるような現象かも知れません。
感謝の念というものを沢山もらうと、それだけエネルギー状態が高くなり、上に昇ります。
嘘をついたりの逆で、神様からのおほめ、と言うものが霊エネルギーにプラスされるようです。
要するに、善く生きるものは回りから是とされる訳です、当たり前の事ですね。
天国地獄と言っても、エネルギーの位相が高いか低いかといったエネルギーの状態にすぎません。
もう一つ、与える側はホワイトホールであり執着を放す作用のものです、奪う側はブラックホールで執着を引き寄せるほうです、ですから重くなるのです。
ところで、現代の社会では半分近くが地獄に行ってるらしく、人口の増加と相まって閻魔様役の人も忙しくて、流れてくる魂をつまんでは選り分けつまんでは選り分けしているところもあると聞きました。
4、善悪を量る天秤
西洋では天秤と言うものが、霊界での裁きの道具としてよく出てきます。
天秤で量るものは人の魂と言うことですが、実際量っているものは先ほど出てきました、その人の善と悪です。
みなさんも良く知っていると思いますが、天秤と言うものは右か左どちらかが少しでも重ければ、必ずそちらへ傾くものです。
魂の裁きも似たようなものがあって、一生の思いと行い、そのトータルによってどちらへ傾くか、ということがあるわけです。
もちろん人間と言うのは、一つの悪をおかさず生きることもできませんし、一つの善行をなさずしてあの世へ帰ることもありません。
その人のトータルとしてのものが、その人を量る指標となるのでしょう。
善行と悪行の『一生の貸借対照表』という言い方もあります。
まあ、実際には普通の人(平均的な?)ですと、200年色情地獄に行って、その後100年修羅界に行って、残り200年を天界ですごして、だいたい500年位でまた生まれ変るとか、そんなのが多いそうです。
何が悪で、何が善かと言うことは、先にも述べたとおり、他者から奪ったか、他者に与えたか、他者を傷つけたか、他者を愛したか、あるいは世界や社会を破壊するほうにしたか、世界や社会を建設するほうにしたか、そんなところです。
心に手を当てて素直になれば、始めからみんな分かってる事ではありますけどね。
もう一度言いますが、これらを物理エネルギー的に言うと、ブラックホールとホワイトホールの関係になります。
ですから人間と言うのは一つの霊的な(エネルギー的な)スポットであると考えられます。
霊的な電池でもあり、どちらかへ方向づける価値決定の装置のようなものでもあります。
(つまり、この世界における一種のマックスウェルの悪魔のような存在であり、物理的には不可逆な世界であるこの世界における可逆的な存在であると考えられます。
この可逆的な部分が創造性と思われます。
つまり物理だけの世界ならエントロピーは拡散するだけですが、人間とか神様と言うのは元々エントロピーを集約させる事のできる霊的な存在だという事です。
エントロピー : でたらめさ、混ざり具合。
物質は放って置けば、粉々になって最後は熱だけが平均的に存在するだけになる、均一的に拡散していくことをエントロピーの増大とか拡散とか呼ぶ。
説明はおおざっぱなのであしからず。)
ある時は高次元のエネルギーを受け取って放出するパイプのようなものでもあり、ある時は余分なエネルギーを別次元へと移送するアースのようなもの(ブラックホール)だと思います。
要するに破壊も創造もできる存在、と言えるでしょうか。
こうして、人はその後天国と地獄を基として、いろいろな世界に振り分けられる訳です。
次章ではそれら世界の様相を書いてみましょう。
霊界の諸相・地獄編
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