霊の7つの力について 


 霊には7つの力、光線があります。

 赤(軍事・政治・経済・スポーツ)
 銀(科学・法則)
 黄(法)
 緑(無為自然・芸術)
 白(愛)
 青(知識・哲学・理性)
 紫(礼節・秩序)


 最近は江原さんなども活躍してますし、オーラが7種あるという話を聞かれた方も多いでしょう。

 この霊の光線はちょうど可視光線がプリズムにかけると7色に分かれるように、厳密に言えば神から流れる一つの光線、エネルギー、霊光線を高級神霊がプリズムにかけて7つに分けているそうです。

 現在その役割をになっているのが、マイトレーヤー如来と言われる9次元霊だそうで、この名前は何万年か前にアトランティスに生まれたときの名前だそううです。
 マイトーレヤーの霊界名は、オルゴンです。

 本当は7色だけでなく、いくつにでも分けられるのだそうですが、解りやすく、あるいは魂の学習にとって解りやすくでしょうか?そのために7色に分けているようです。

(補注:可視光線における虹の7色と、霊の7色は同じと言うわけではありません。
 色にしても翻訳すればそういう色、ということなので人によって違うかもしれません。

 ただ、この宇宙に置いて全事象がこの7つによっておさまるだろうという予想はできます。)


 7という数は霊界に置いて一つの完成を表す数字だそうです。

 7大天使というものもあります。

 悪魔を現す数字は6ですが、これは完成に足りないという意味でそのように使っているようです。

 例えば666といえばユハネ黙示録に出てくる破滅をもたらす何からしいのですが、大体は悪魔の勢力の事かと思います。

 あるいはルシファーが7大天使から堕天したというような意味もあるかも知れません。

 キリスト教における12を完全な数字として13を忌み嫌うのと同じような理屈でしょう。


 例えばこの全宇宙に置いて、全ての世界が7色の霊光線で運用されているのか私は知りません。

 しかしながら束ねた時の一つの光線としては同じであると予想できますから、何色であろうと宇宙全体としては皆やってることは一緒だろうと予想します。


 霊の力、魂の力、人間の個人としての力、才能というのは、この光線のどの光線をどれだけ持っているかによります。

 沢山力を持っているということは、その魂が高エネルギーであるということでもあり、見た目には光の量が多いということでもあります。

 光の量が多いと、見た目にはそれは後光として放射される形になります。

 5次元、天国人で高等部から数センチ
 6次元で頭を一回りする位、これはキリスト教宗教画でよく見る丸い金色のあれです。
 7次元菩薩界の人で肩から円を描くくらい、よく仏教画で肩から丸い円が描かれているでしょう、そんな感じです。
 8次元如来の人になると、全身から光を放っています。
 特に如来界の人というのは、やはりそれまでの人とはケタが違うような感じがします。
 何キロか離れていても、その光が(霊的に)届いていたりするようです。
 要するに一種の磁場になっているような感じです。
 それほど違うように私は思います。
 (如来のソース(情報元、経験元)は大川降法総裁先生)

神様という呼び名には多義性があり、一部の神様より菩薩如来のほうが格上だったりする

 注:天使というのは「人助けをする人の事」だと言えば分かりやすいだろうか。




 それでは以下に各光線の特徴を見てみましょう。



赤光線


 政治・軍事・経済・スポーツ・芸能界。

 戦いの光線です。

 霊的に言えば物質化の光線でもあります。
 人間的に言えばリーダーシップの光線でもあります。人をどう使うか、動かすか、ということです。

 人にあって物質化の働きをするときは「情熱」として現れます。

 赤光線は物資化、すなわち「実現」をするまで一歩も引かないという「強情さ」としても現れます。

 この赤光線というのは非常に「物質」ということと関連性が深いものであり、それだけにとても「この世的」な役割を担う光線でもあります。


 政治・軍事というものは、いかにその国を「現らしめるか」ということでもありますし、やってることは結局「物質化」なのです。

 この力が弱いと、この世からは簡単に排除されるか、この世的に形として現れるのは難しいと言えるでしょう。

 例えば仏教のお坊さんを見てみましょうか。
 仏教では争いは非常に嫌うものですが、政治力は結構あります。
 またあらゆる武術の原点とも言われる少林寺なども、もともと達磨大師の始めたものですし、とにかくも「この世にある」ということは、何らかの赤光線の力を持っていると言ってよいでしょう。

 政治や軍事に縁が無い場合は経済、つまり商人としての強さを持っていることが多いと思います。


 それからこの光線は義の光線、これは正義の義ですけども、善悪を分かち悪を許さない、という働きとしても現れます。

 簡単に言うと警察です。
 ミカエルなどは軍神なのですが、この善悪の戦いを主にしています。

 警察官などは霊的に言えば、お不動様にあたるそうです。
 霊界的にそういう官職があるのです。
 悪を許さず、悪と戦い、悪を遠ざけるという役割の神様です。

 軍隊と言うものもともすれば忌み嫌うものですが、アフリカなどの内戦などを見ていると、ある程度正しい立場の人を守る警察力として、秩序維持に必要なものでもあると思います。
 国として「現る」ための物質化(赤光線)エネルギーというか。


 この光線は、ヒーローという概念も持っていると思います。
 例えば解りやすいのはウルトラマンですが、確かに赤いですね(笑)

 ヒーローとして描かれるのは、ほとんど戦いに強いという主人公です。
 現実的に言えばこれはナポレオンとかシーザーとか劉備玄徳とか言うことになるのでしょう。




銀光線


 科学の光線です。

 おそらくこの3次元宇宙における物質等の振る舞いを規定する、法則群の事だと思われます。

 たとえばコンピュターの世界にもう一つ世界を作るとして、様々な計算式を作ってコンピューター内の動きをシュミレートするわけですが、たぶんこの3次元宇宙における同じような働きのものでしょう。


 もう一つは何かを作る作用のもの、つまり発明という事に関係があると思います。
 神様もこの宇宙を作った、つまり発明したんだろうと思いますし、何かそういう作用のものだと思います。

 間単に言うと「工作」ですか(笑)
 建造でも製造でも、何か「作る」という事に関係があるのではないでしょうか。


 まあ大体、法則=科学という事ではないかと私は予想します。



 科学というのは証明されなければ、確定できないものです。
 霊と言うものを有るとも無いとも証明できないので、そもそも科学には霊や神があるかどうかを問う資格は無いそうです。

 科学者が証明しているのは偽者として確定された事だけで、本物だったとしても現象としてよくわからないものは棚上げしています。

 ですので科学者の発表だけを持って霊や神を否定する事は早計だと言えるでしょう。

 生粋の科学者は確認できる事実以外に興味がなく、霊や神についてどちらでもない、無関心という事のようです。

 要するに科学的な手法で言うと、唯物論は証明できない事なので、実際は唯物論も信仰の一種になるようです。

 その他にも、科学には信じる事によってしか成立しないものも、実際には沢山あると思います。


 唯物論を吹聴しているのは、科学者ではなくて、哲学者のようです。

 ただ、いずれにしてもその人が何を信じているかの責任は、いずれ問われることになるでしょう。




 この宇宙の実際の科学法則についてですが、我々は肉体というものを「あらゆるものの物差し」として考えがちですけれども、生命体だか精神体だか言うものも、宇宙を創るくらい巨大な知識と大きさを持った生命体がいて、この宇宙を創った、という可能性は別にそれほど、無いと考えなければいけない理由は何もありません。

 なぜかと言えば、例えば細菌にとっては、細菌より大きい生物がいると考えるのは難しいのかも知れませんが、その細菌にとっての宇宙は、一人の人間の人体だったりするからです。

 うる星やつらというマンガにコスモボックスという話がありましたけど、この宇宙がそのような宇宙の一つである可能性もあるわけです。

 つまり科学法則と言っても、それを越える巨人からは、この宇宙の科学法則はこうしようという、計算式、数式、定式のようなものを当てはめるようなものが科学かも知れないのです。


 おそらく哲学的な予想を言えば、仮想世界の中で仮想世界を劣化コピーしていっているようなマンデルブロート集合のような構造世界に、この世界はなっているのではないかと私は思います。



 さて、この光線の特徴は「技術」や「発明」、あるいは「進歩」ですね。

 科学技術の恩恵による進歩や利便性ということです。

 まあ物質的に進歩しても、霊性あるいは人間的に進歩するわけでは必ずしもありません。
 そういうことを間違えると20世紀の帝国主義や共産主義のように、人間のあつかいが唯物的に(機械やロボットのように)なります。


 例えば、サルが石器を持ったとします、それは人間性の進化では無いと思います。

 いや、発明や道具を使い世界の法則について考える事を人間性(あるいは神性)と言うなら、それはそうでしょう。

 しかし石器そのもは狩の効率を高め、生存率や人口の増加に貢献するだけのものでしょう。
 むしろそれによって戦争を起こし、虐殺を始めるなら人間性としては退化だと思います。

 例えば石器だけを考えるなら鳥類でも卵を割ったりする時に石は使います。

 まあ要するに道具は動機ではありません。


 科学というものも結局この世界の言ってみれば7分の1の要素にしか過ぎないと言うことですね、それが実態だと思います。

 科学で解る事も、科学では解らないものも、この世界には存在します。

 この証明は簡単ですね、芸術や哲学、政治といったものも、数式にしてあらわす事はできません。

 人の心理や感情もそうですね、できると思い込んでいる人はいますけど、いまだかつてそれをできた人は実際にはいません。




黄光線


 黄金光線(法の光線)というのは本当に把握が難しいといつも思います。

 黄色光線自体は7色の全ての要素を持っています。

 しかし各光線を実際に束ねると、無色透明の光線になるのか、白色光になるのか、黄金色の光線になるのか、よく解りません。

 実際には黄色い光と黄金色の光を別々に見るので、その違いもよく解りませんが、より根本仏として現れる時は黄金色のような気がします。



 さて、法とは何でしょうか?

 哲学的に予想を言わせていただければ「神がこの宇宙はこういうものである」と念っている、念いそのものではないだろうか、と私は思います。

 あるいはこの宇宙はこういうものである、と規定した設計図とか、法則群とか全体像とか、そういうものであると予想します。


 それで法と言うのは、宇宙の全体像、全てを知っている、教える、という要素になります。



 この宇宙の事象には大きく3つのものが始原としてあると考えられます。

 それは空間(物質)と時間、そして精神です。

 それで、どうしても宇宙の全体像を示す時に「空間論」「時間論」「精神論」という事になるのです。


 総裁先生は「神はこの宇宙を創るのにあたり、3つのものを発明された」とおっしゃられています。

 一つ目は念いによって物質化すること。
 二つ目は時間。
 三つ目は幸福という概念です。


 つまり一つ目は「形」というものをあらわす「粘土のようなツール(材料)」を発明されたんだろうと思います。
 間単に言えば「物質」というものをこの時発明したのです。
 おそらくイデア(理念)的には「形」という概念のほうが先ではないかと私は思います。
 それは2次元(平面)にも形という概念はあるからです。
 まあ、あるいは立体的な形の派生系が平面の形になったのかも知れませんが、どうなんでしょうね。

 そんなわけで、物質を創った時点で「空間」というものが付随的に生まれたんだろうと思います。


 二つ目は、それだけだと動かない彫像のような箱庭の世界である、という事だそうです。

 前にも書いたと思いますが、時間(動き)と言うものは、全て大きなもの(極)と小さなもの(極)の高低差で生まれます。
 例えば水が高い所から低い所へ流れるのも同じです。

 この宇宙では、エネルギーの大きな塊と小さな塊を造って、これが言ってみれば平均化する時にできるエネルギーの流れが、この宇宙における時間の正体なんだそうです。


 三つ目は幸福であるという概念です。

 幸福を感じるという事は、この時に人間(あるいはその役割を負う精神体)は不幸を味わう宿命になったと考えられます。

 この幸福論における法というのは「こうしたら人間は不幸になる」「こうしたら人間は幸せになる」といった法則の取り決めの事です。

 これは客観的には、魂の光やオーラの量とか、輝き方、曇り方、そういうものとして現れていると思います。


 つまりこの世の存在は、空間軸と時間軸と幸福軸(精神軸)とで成り立っていると、そのように考えられるのです。

 先にこの宇宙の始原的な3つの要素、と言いました。
 つまりこの世界のどのような事象や存在も、この3つで表せられると考えられます。

 例えばマンガやアニメの中のキャラクターも空間と時間と精神(感情とか)で表されます。

 哲学的に言えば「演繹、帰納のピラミッド」が空間論、「正(テーゼ)反(アンチテーゼ)合(ベネーゼ)の弁証法的手法」が時間論、精神論は・・・、そうですね、結局人間にとって何が最善か?何を選び取るべきか?が哲学の最終的なテーマでしょうから、その辺の精神的価値論が精神的要素なんでしょうね。

 つまりこの宇宙に精神軸が無ければ、別に善も悪も幸も不幸も無いんだろうと思います。


 「この宇宙における要素」つまりこの3次元物質宇宙は3つだけかも知れませんが、それ以上のファクター(要素)だって存在するのかも知れません。
 例えば「創造」とか。

 構造論的に言えば物質は3次元要素、時間は4次元要素、精神は5次元要素、創造は6次元要素だと予想はします。

 ということは、厳密には4次元移行は物質界では無いので、そもそもこの世界は3次元宇宙だけで構成されている宇宙では無いとも考えられはします。

 私が予想をまとめるとすれば「各次元がオーバーラップした多層構造体の世界」だと実際は思われます。



 よくは解りませんが、おそらく基礎的な法則群は宇宙の始めに完成されていると思います。

 宇宙に放射されている光線の中に、空間、時間、精神に関する全ての法則が織り込まれています。
 つまり物質と時間とオーラの増減法則が、エネルギーとして一つのものになってます。

 トンボの複眼にそれぞれ全てが映っているようなものです。
 それが黄金光線かと思われます。

 全知全能とは「全ての法則を知っているので、すべてのリアクションを取れる」という事です。




緑光線


 無為自然、芸術の光線です。

 絵などは若草色、小説は緑、音楽などは深緑なようです。

 癒しの色でもありますね、もちろん植物の緑も何か関係があるのでしょう。


 この緑の光線って何を担当しているのかと考えてみると、宇宙のあらゆる「デザイン」なのね。

 それは例えば芸術の神様でもあるゼウスが、ずっと昔人体のデザインにもたずさわった、と言っているところもあります。

 人体にしろ、動物にしろ、植物にしろ、宇宙のモデルにしても、何らかのものの形、デザインということがあるわけです。

 あるいは人間の感情、喜怒哀楽などもデザインの範疇のような気がします。
 芸術で書くドラマと言っても、感情の変化でしょう。

 そうしたあらゆるものの「デザイン」それを担当しているのが緑光線であると、私は考えます。

 例えば芸術ということで言えば、絵描きなどは世界の全てを描けなければいけなくなるでしょう?
 もともとそういう役割なんだと思います。


 さて、この光線が思想的に行くと「老荘思想」になります。

 これは、まあ宇宙と言っても、どこでも法の枠内でやってることは同じだし、同じ種子の魂たちがあるときは栄え、あるときは滅び、栄枯盛衰を順番に繰り返しているだけだし、宇宙といっても限りのあるものだし、9次元霊にもなれば、宇宙でも近所同士だし、どこへ行っても何やってもちっぽけな人間の営みなんてたいしてかわりゃあしないよ、といったような(笑)一種のあきらめの哲学というか、悟りの哲学というか(笑)

 あせらない、という考え方でもあります。
 あせらないためにはどうするか、というと、あきらめれば言い訳です。

 できるか出来ないかは結局運しだいだし、自分に才能があるか無いかだし、現実に無理言っても不幸が増えるだけ、明らめよう。

 この明らめるというのは、現実を客観的に明らかにする、ということです。

 なのでまあ、明らめつつ、努力はしていくわけですが、無理はしないし、時間的に現実を見る、ということです。


 特に人間の不幸というのは、努力以上に求めすぎるか、時間的に短時間に要求しすぎる場合に起こるものなので、運も実力もそれほど無い自分であるのならば、一定の線で足ることを知って、あとは欲張らない、という考え方ですね、非常に重要な考え方でもあると私は思います。




白光線


 愛の光線です。白銀光線とも呼ばれたりします。

 キリストや医療系団の光線です。

 日本だと浄土真宗などはこの系統です。
 仏教は普通、黄色光線なのですが、浄土真宗などは霊界的にキリスト教系の人が指導したりしていました。


 さて、愛とはなんでしょうか?

 そう言われるとこれまた私にもよく解らない(笑)ものの一つですが、一つには霊エネルギーの供給そのもの、つまり車でいうところのガソリンですね、そいうもののように思います。

 なんというか、例えばコンピューターの中に一つの宇宙一つの世界を創るとしたら、科学はプログラムによる計算式やアルゴリズム、法はコンピューターそのもの、愛はそれを流れる電気というか(笑)


 このエネルギーの供給の大本が太陽です。

 何度も書いていますが、時間を吐き出すホワイトホールのようなものです。

 時間=時空=エネルギーであり、エネルギーを供給するということは、事実上世界の全てを現しているということでもあります。

 よく神は愛である、と言うことが言われますが、そうした構造上その言葉はその通りであるわけです。


 しかし愛というとエネルギーの供給という事の他に、引き付けあうとか、仲間とか、友愛とかそういうものがあります。

 これは何なのか、と考えてみると、おそらくこの世界ににまだ宇宙すらなかった時に、科学法則や世界の設計図を決めた後、じゃあいよいよ動物や人間や植物を出してみるか、という感じでエネルギーを流し始めて宇宙を展開したときの気持ち、その時の神様の気持ちですね、惑星も人間も動物も植物もみなかわいいなという気持ち、みな我が子である、みなこの同じ宇宙の仲間である、そういう気持ちが愛の中に流れているのかも知れないと考えたりします。


 まあ、簡単なようで以外と解らないものですね、愛については。


 もう一つ、地獄界と愛の世界について書いておきましょう。

 地獄にいるということは、エネルギーの波動が荒い=霊エネルギーが少ないということです。

 愛というのはエネルギーの供給ですから、人々が互いに愛し合えば地獄は無くなります。

 考えてみたって地獄界にいるような人は、子供の頃から愛されなかったような人が多いはずです。

 愛は世界を救うというのは真実ですし、そういう意味では最終的には愛しか人を救いえないことも確かでしょう。




青光線


 哲学や思考、理性の光線です。

 最近の私の考えでは、知識は水色、思考は青色として実際に目にしますが、それを突き抜けて悟った状態は黄色光線かも知れないと考えています。

 答えを知っている状態、悟性の状態、悟りを得た状態、これが宗教智として黄金光線系なのかな、という気はします。

 最終的にもっと深い群青色(理性)なのか、黄色光線(悟性)なのか、今解らなくなっている所です。



 知識ばかり集めて物知りな人は、そのオーラは水色っぽいです。
 頭の中でよく考える人ほど、濃い青になるようです。

 理性、あるいは悟性とも言えましょうか?それくらいになるともっと深い青になるかと私は思います。


 武村健一がよく言っていた言葉に「学びて思わざれば暗し、思いて学ばざれば危うし」という中国の孔子でしたっけ?の言葉があります。

 学ぶというのは知識を集めるということですね、そして知識を集めるばかりで考えない人は真理を何もつかめない、つかんでいないということです。

 それから考えるばかりで、知識を集めない人は妄想ばかり先行して、現実の世界とかけ離れるということでしょう。

 哲学者は沢山の情報を集め、その情報を元に考える・・・・・まあ考えるのは重要ですが普通は情報量が多ければその分だけ何か閃くものではあります。
 とにかく知識を集めて考え、答えや真理、真実を導き出すのが哲学者です。

 哲学のプロセスを因果の理法的に見ると、インプット(知識の入力)、処理(考える)、アウトプット(結論を出す)という風にも考えられます。
 この3つがそれぞれ先の光線のグラーデーションに対応するものだと考えます。

 最後の結論を出す、ということは、その魂は考えなくてももうその結論を知っているということです。悟性です。

 なんでも黄金光線と緑光線の中間色が青光線になるそうです。

 哲学には知性的、論理的な哲学と、神学的仏教的な宗教的哲学があります。
 おそらく宗教哲学(悟性)的なものほど、黄金光線に近くなっていると思われます。


 ゼウスは黄金光線も持っている神霊ですので、全知全能でもあり、芸術の神でもあり、哲学の神でも有るというのはそういうことによるのでしょう。


 この宇宙における青光線の役割は、「認識」ということではないかと、私は考えます。

 カントの「我思う故に我あり」の我ですね、認識する自分です。

 ということは青光線がなかったら事実上我々もいないに等しいのかも知れませんね。

 神様の箱庭としては鑑賞にたえるのでしょうけど。


 それから、「価値」とか「意味」ですね、そういうものを決定しているもののようにも思えます。




紫光線


 礼節秩序の光線だと言われます。
 日本神道系や、孔子がこの光線です。


 秩序というのは文字通り秩序です。


 この礼節秩序というのは何だろうか?と私もよく考えるのですけれども

 例えば、「鶏をほふるのに牛刀を使う必要は無い」という言葉がありますが、鶏を殺すのには、大きすぎず小さすぎずちょうど良い大きさの包丁を使えば良い、という考え方です。

 例えば知人に挨拶をするのに「よう」だと馴れ馴れしく、「ごきげんいかがですか」だと仰々しいかも知れません。
 そこは無難に「こんにちわ」が適切かもしれませんね。

 あるいは王様の前にでたら「ごきげんいかがですか」が適当、適切になるわけです。

 例えば子供を叱るときに、犯した罪以上の叱り方をすれば、子供はただ恐れ萎縮するだけかもしれませんし、甘すぎれば叱って次の悪を止めることになりません。
 適切に叱らなければ、混乱するだけです。

 この「適切」とか「節度」とか言うものが、どうも礼節であり、世界を秩序たらしめるものでもあるようです。


 孔子の言葉に「政治家は政治家らしく、役人は役人らしく、親は親らしく、子は子らしく本分をつくせば、国は治まる」と言うのがあります。

 この「らしく」、というのが宇宙に置いて適切なありかたであり、本来そのもに求められるあり方であり、秩序あるあり方であるということです。

 例えば現代のように「女らしくない男のような女」「男らしくない女のような男」というものが増えると、社会は混乱して乱れてくるわけです。

 つまり礼節秩序に置いては、そこに世界の「理想像」が書かれているものと思われます。


 もう一つこの光線の働きとして、光線を絞る、という働きがあるようです。

 光の強い高次元霊が、そのままそれより下位の霊に合うとまぶしくて見れないそうです。
 そうした時に光を絞って光量を落とすのが、この光線の働きのようです。

 これは現実の世界ですと、例えば小学生に国語を教えるのに、いきなり夏目漱石を読ませたはしません、まずは、あいうの書き方から教えます。
 そんな風に相手に合わせてレベルを落として対応する、というのもこの光線の働きのようなのです。

 そういえば「教育する」という要素も、この紫光線だったような気がします。


 この光線が強いと社会では、挨拶や適切な人間関係がとれる「如才ない」人、いわいる常識人になれるようです。
 まあ、この光線が強い日本人は、お辞儀とか礼儀正しいとか、そんな風に言われますね。
 コモンセンス(常識)というのも、この光線の要素です。

 孔子は「君子は怪力乱心を語らず」と言っていますが、これはオカルトとか霊のこととか、常識に外れるもののことです。



 以上です。



 次回は一応最終章として、幸福の科学についてを書きます。

 御視読ありがとうございました。


 幸福の科学について

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