霊障の治しかた その2
3、霊障治療には丹田が重要、内観法と腹式呼吸
実は宗教修行で霊障になったり、ノイローゼ(というのは邪教でも無ければあまり聞いたことが無いけど)になったりというのは、気が下半身ではなく、上半身、とくに頭だと思うのですが、そこに集中してしまうのが原因のようです。
たぶん「さとり、さとられ」のようなものも、頭のほうにオーラ(気)が集まるのが原因ではないかとも推測します。
他に、例えば芸術家とか学者とか、頭ばかり使う、いわいる座業のようなものも、そういう状態になる可能性があると思います。
PC関係のネットとかゲームなんかも、足腰を使わず、頭に気が集まる類のものだと思います。
それで霊障になりやすくなるんだと思います。
要するに頭から気が漏れていれば、そこに悪霊が多く憑依できるようになる、という事もあるんだと思いますね。
集中力を書いた本に「白隠禅師の内観方」について書いてあったので説明する。
白隠禅師は江戸時代の禅の中興の人。
26才で無理な修行で禅病、ノイローゼのようなものになり、結核にもおかされてダウンし、医者にも見放された。
「頭は火のごとく、腰から下は冷えて水のごとく、両眼常に涙をおび、両耳にはこもごも怪声を聞き、明るいところではひとりでに怖れを生じ、暗いところでは自然に憂い悲しみ、ものごとを考える力もなく、毎夜悪夢にうなされ、眠れば漏精がしきりで、眠りから覚めては頭はボーッとして、食欲もなく、衣服を何枚着てもあたたかさを感じなかった」
半死半生の状態で治療法を求めて諸国を渡り歩き、ついに京都の近くの白可の山奥に済むという白幽という仙人に「内観法」という秘法を伝授された。
白隠禅師はこの内観方を実践する事により、さしもの大病を治すことに成功し、以来輝かしい業績を上げるとともに、多くの人々を善導したのである。
内観法を間単に説明する。
まず一眠りしたりして、体の疲れをとってから、仰向けに横になる。
両手両足を適当に開いて、全身の力を抜けるだけ抜く。
両足を長く伸ばし、強く踏みそろえて力を腰から下に入れる。
息をゆっくりと吸い込む。
息を少し止め、次に下腹に力が満たされるように、下腹の中に息を吹き込むつもりでゆっくりと息を吐く。
下腹に溜まった力を保つようにしながら、鼻から静かに深く吸い、またちょっと止めてから下腹の中へ吐きこんで行く。
このように下腹に少しづつ力を満たしていきながら呼吸法を続けていくと、だんだん全身の力が下腹に集まったような感じとなって、元気が下半身にみなぎってくる。
これを原典では「一身の元気をおして、月斎(←一文字)輪、気海、丹田、要脚、足心の間に満たしむ」と表現しているが、要するにこの秘法はエネルギーを丹田に集中する事にあるようである。
原典は白隠著の『夜船閑話』と言うらしい。
たぶん「内観法」でググればいくつも出てくるかもしれない。
呼吸の時に呪文を念じるようです。
丹田に気が充実し、まさにこれ浄土、まさにこれ弥陀、というようなものですが、イメージをそのように持つのでしょう。
言葉が古くめんどくさいので、割愛します。
白幽仙人いわく(以下、文を多少省略してます)
「生を養うのは、ちょうど国を治めるようなものである。
名君は常に心を下情に専念し、撫育につとめるが、暗君は下々のことを考えずに、わがままばかりをやる。
暗君の元では、百官も民を虐げ、民は飢えに苦しみ顔色悪く、賢者は野に隠れ、国は滅ぶ。
下々の事を考える名君の元では、百官も民の事を考え、賢者も集まり、国民は活気に溢れ、国も発展する。
人の体もまたこれと同じである。
優れた人は常に心気を下のほうに充実させようとする。
心気が下のほうに満ちていると、十情の狂いもなく、病気にもかからない。
凡人はこれと反対に、心気を上においたままにしているので、心臓や肺臓やその他の器官も萎縮し、神経も疲れ切って、参ってしまう」
つまり電波塔である人間の体のアンテナの部分、頭に気を集中すると、感度が強くなって霊障になる、という事です。
ただし、それだけが理由なのかどうかは、私には分かりかねます。
例えば心の曇りとか、依存症で気が外に漏れてるとか、正法者には悪霊の攻撃があるようですし(一般のやられ方とどう考えても違う)、私は元々発信系のテレパシーが強い(よく考える人に多いらしい)ようですし、色々とあるようではあります。
他に肉体が疲れてきても、やられます。
ということは病気してもやられやすくなります。
別のアメリカのエンパシーという考え方を出している霊能者の方の話でも「グランディング」と言って、地球の中心にアース線を伸ばすイメージで、余分なエネルギーを下だか大地のほうに流す訓練がいる、と言ってます。
おそらくは気を下半身に集めるための方法か、あるいは頭の方に霊エネルギーが集中しすぎないようにするための方法なんだと思います。
その人も、上半身にエネルギーが集中しすぎて、大変だったと言ってますし、仕事をして気を発散し、気が体に溜まりすぎるのを防ぐべきだとも言ってます。
おそらく宗教や宗教修行は、神の霊エネルギーを受ける事になり、霊エネルギーが溜まりやすい事になるので、それで霊障になりやすいのではないかと思います。
つまり仕事をしているのなら、そのエネルギーが丁度仕事に変化して+(プラス)になるんだろうとは思います。
ただ私も全然仕事をしなかった訳ではありませんので、ただ仕事をしてさえいればかわせるようになるものだとも、体験上思えません。
それは霊感の感度によるかもしれませんし、性格や心構えにもよるのかもしれませんが、とにかく一般的にはその程度で治るのではないかと思います。
やり方はともかく、丹田腹式呼吸で息を深呼吸のように大きく吸ったり吐いたりして、下腹に気を集めるようにすれば、体験上かなり霊障も遠ざかる事も事実です。
もう一度言いますが、ですからこの事は一般に仕事している人は、常にやっている事だと思います。
そういう訳で他に、走ったり運動するのも良いんだとは思います。
たぶん極端に、例えばスポーツマンとか軍人さんとかいう体を使う類の人に、だから霊障の人はいないんじゃないかと思いますけどね。
たぶん、そういう方法もあるのではないでしょうか。
別の言葉で言えば、例えば「形而上」の事ばかりでなく「形而下」の事も重視しましょう、と言う事ですね。
「地に足がつかなくなる」とも例えられます。
幸福の科学では「世間解」という事もよく言うのですが、要するにこの世の事とあの世の事のバランスをとりなさいと、よく言ってるようです。
4、無念無想
「無念無想」は瞑想修行に入る前に、まずできなくてはならない修行者の基礎でもあり、ある意味八正道の完成した姿でもあり、ですから阿羅漢の条件でもあるようです。
(書籍『瞑想の極意』)
まず基本的にマイナスの思い、悲観とか、過去の失敗のクヨクヨとか、未来の不安とか、欝とか、死にたいとか、誰かへの不満とか、愚痴とか、そういう思いが心から出る時は、そこに悪霊が憑いていて、思わされているか増幅されている事が多いです。
悪霊が離れた時に、今の悲観的な感情は自分の思いではなくて、憑いていた悪霊が投げ込んでいた感情だったのか、と思う事がよくあます。
悪霊が離れると、ケロッと思わなくなる事があるんですね。
前に「喧嘩している時は大抵悪霊が入っている」と言ったのも同じです。
感情とか不満を増幅して煽っている存在があるのです。
無念無想というのは、こういった憑いてるものが投げ込んでくる、湧き上がってくる負の感情に抵抗して、心の状態をその都度「無(0)」にリセットする作業になる場合があります。
しばらく抵抗して負の感情を無視し続けていると、憑いている悪霊のエネエルギーが切れるのか、ゴソッと悪霊が抜けていく時があります。
憑いてる悪霊との波長の位相がずれて、分離するような感じもします。
これは対象が生き霊のようなもので、喧嘩してるか攻撃されている時でも同じです。
無視して心のレベルで取り合わないようにしていると、そのうち離れていきます。
または現実に生きた対象者でも基本は同じです。
逆に無視できなくなって、とりあって悪態をついたり、言葉を投げ返したりすると、憑依の度が増して喧嘩も激しくなり、悪霊か悪霊波動に負けた事になります。
実は、なぜ悪口を言われて怒こったり悪口を返すようではまだ修行がなってない、と言われるかといえば、実は悪口を言われるような攻撃波動を弾く事ができるか、という方法論を言ってるんですね。
感情論では無くて、方法論か一つの技術な訳です。
これは悪い波動をどれだけ弾く事ができるか、と言った心の状態や霊エネルギーの状態の修行進度の目安となります。
例えば心がザラザラしていると、いくら無視し続けていても悪霊は離れていかないことが多いです。
無念無想で剥がす前提になるのは、どれだけ心が綺麗になっているかですので、前提として反省が必要になります。
それから霊エネルギーが沢山ある状態ですと、やはりそれほど悪い波動に引っかからなくなります。
それには精舎などでエネルギーを補充するのもそうなのですが、基本的に高級霊界と同通して天上界から霊エネルギーを引いてこれるようにならないと難しいという事です。
これは阿羅漢の状態になっている事を意味しますので、前提になるとは言えないかもしれませんけどね。
そんな訳ですので、八正道(反省)が完成すると、悪霊波動に引っかからなくなって「無念無想が完成する」という事になっているようです。
八正道とか六波蜜多は、無念無想状態(つまりは涅槃とか定の前提と思われる)に入るための準備方法である、とも言えるのかもしれません。
それから仏教や八正道による幸福論というのは次のようになるのだろうと思います。
つまり、まず基本的に「不幸感覚」というものは憑依している悪霊の感情である事が多いので、悪霊を剥がせれば不幸感覚自体を感じなくなる事が多々あります。
先にも言いましたが、欝や死にたいとかいう感情、それから持ち越し苦労(過去)や取り越し苦労(未来)も、憑いてる悪霊がエンドレスに増幅して投げ込んでるだけの場合がよくあります。
憑依が剥がれると「何をそんなに考えていたんだろう?」という事がよくあります。
そんな風に、不幸というのはそれほど実態があるものでも無い場合があるんですね。
体験的に「不幸感覚」とはそういうものです。
ただし責任論的には自分が罪を犯してそれだけのものを引き寄せてますので、責任は自分にある事はいずれにせよ確かです。
それから例えば、現実に解決しなければいけない問題もあるでしょうから、その時は現実を無視しても仕方の無い事です。
そういう時はまず現実的な解決を図らないといけないとも、総裁先生もよく言ってます。
以下、具体的に私が悪霊を剥がす方法での無念無想を説明します。
基本的に私は寝ている時に無念無想を維持し、体の疲れが取れる波動をプラスして剥がしています。
眠る方法としては、無念無想を使って眠る方法と、反省しながら眠る方法が、私の場合はよく眠れます。
反省しながら眠る方法は、場合によっては感度が増して、逆に眠れなくなる事もあるので、大体は無念無想のほうを使ってます。
基本的に眠る方法は「いかにリラックスするか」であり、ですからクヨクヨと心が波立っていると眠れないので、無念無想でカット(無視)します。
いずれにしても集中していると、いつの間にか眠っている感じです。
もう一度言いますが、前提条件として反省して心がつるつるになっていないと剥がしづらいです。
ですから寝る前に大体反省をしてから眠ってます。
無念無想は宮本武蔵が何か言っていたようですが「空という念」というか、何も無い透明な念を額(ひたい)だか頭に張り出して、そういう念シールドのようなもので、投げ込まれてくる(か湧き上がってくる)雑念を「思考をブロックして止める」ようなイメージです。
前頭葉も使っているのだとは思いますが、主に額のあたりに集中する感じで私はしてます。
後はアルファア波にする感じもします。
悪霊になにか囁きかけられているような時(攻撃されている時)は意識して押し返す(無視する)ような努力がいります。
聞こえるというのでは無くても、何か対象の人か、対象の事件か、悩みとかクヨクヨとかグルグルとエンドレスにフラッシュバックするような時、特に疲れている時にそのように悪い雑念が湧き上がってきます。
そういうものを絶対に取り合わずに、無念無想状態を続けます。
眠ってる時も、意識の中に色々と投げ込んできて戦いになるので、無視し続けます。
成功して波動の位相がずらせれば、憑いてるものがその内ゴソッと抜けていきます。
つまりアルファア波と言いましたが、こちらは綿密な波動でブロックを心がけるような感じとも言えます。
生き霊の場合は、そのうちいなくなります。
いなくならない場合もありますが、いずれにせよ無視するしかないようです。
剥がせない時、無視できない時は、負けると取り合って「このやろう」とか言ったりして、一晩中喧嘩になって、翌日睡眠不足になってフラフラになったりします。
そうするとその夜もコンディションが悪いので、負の連鎖になる事もあります。
いずれにせよ、心がどれだけ綺麗になってるかで違います。
不思議な話ですが、働いていると例えば工場のような所で一日働いて夜寝ると、ずっとガタンガタンというような音の疲労念がついている事があって、眠っている時疲れが取れると、何かがゴウッと抜けて体が軽くなる事があります。
ですからたぶん元々は「疲れ」は「憑かれ」だったのだろうと思います。
例えば交通誘導警備で疲れて帰って寝ていた時に、やたらと車の警笛音や人の話し声が聞こえるので、一生懸命無視して受け流すようにしていたら、最後に何か2つ3つ悪霊が抜けて静かになりました。
ああ、あれは全部悪霊が「色々なものに化けて攻撃」していたんだな、というのが分ったりします。
近所に悪い人がいて、霊的な思いで何か言ってくる事があるんですけど、まあ例えば「バカ」と言ってきたりしたとします。
これも不思議なんですけど、取り合わずに受け流し、その事について反省して無念無想でしばらく押し返して無視していると、ゴウッとはがす事ができたりします。
不思議ですが、言葉と言うより意思と一体になった黒い攻撃念になってるようです。
要するに言葉とか、そういうものも心が磨けていると、取り合わなくて済むようになるようです。
その後の日にその人は「こいつには通用しないからなあ」というような事を思って言ってきました。
そこまでいくと、本人なのか悪霊なのかよく分かりませんけどね。
それでその日以降はそれほど攻撃してこなくなったり、という事があります。
この辺はたぶんいじめの原理も一緒なんだと思いますね。
つまり取り合うからエスカレートする、という面も確かにあるんだと思います。
実は、大川降法総裁先生の一日中定に入っている状態、というのはこの辺の無念無想の原理が基礎になっているようです。
つまり一日中心が波立たないで天上界と同通し続けているその方法というか、八正道は何のためにあるのか、というその理由というか。
無念無想というのは、定に入るための基礎であるようで、色々な瞑想法といってもまずはこの無念無想が出来ないといけないらしいです。
要するに一日中定に入っている状態というのは、日常何か心に投げ込まれても、無念無想で(?)弾ける、という事のようです。
霊言(霊媒)のようなものも無念無想が基礎のようです。
総裁先生はバリヤー(結界)のようなもので、霊の声や見えるものをカットできたりするのじゃ無いかと思ってたんですけど、それだけでは無くて実は「他の誰よりもよく聞こえている」んじゃないかとも思います。
違うのは、そういった無視して取り合わない技術の所でかわしているのではないかと推測します。
総裁先生の言葉では「何か言われたり事件が起こった瞬間に、定に入れるか」なんだそうで、この定というのは八正道の事らしいのですけど、自分に落ち度があったら心の中で詫び、相手に落ち度があったら「許す」んだそうです。
許す、というのは、許すという念を生じれば、霊的にはそれで心の穴が塞がれて防衛になるようです。(書籍『瞑想の極意』より)
ただ経験上、まずは無視できるようになる事が先のようではあります。
結界論という別の話ですが、総裁先生がおっしゃるには、結界論と言うのは、起きている時はブロックできるけど、寝ていたり、講演会などでトランス状態になっている時は意識的にブロックできないので、日頃の行いで結界(神様の光で護っている)を張っておかなければいけない、と言ってました。
つまり総裁先生的には、トランス状態に入る時は、常日頃の思いと行いで、エネルギーが張ってる状態にしておかないといけない、と言っていたように思います。
例えば霊能者の江原さん(オーラの泉の)は、滝業で霊感のONOFFが出来るようになって、運を開いたようです。
ですから全く霊感をコントロールできないようなものでもないのかも知れませんが、あるいはもしかしたら、全然聞かなくて済むようになるのは難しいのかも知れません。
あるいは表側と裏側でやり方が違うのでしょうか?よくは分かりませんけどね。
つまる所、不幸とか憑依とか霊障とか、阿羅漢とか無念無想と言っても「黒い負の霊エネルギーをどれだけ弾けるか」といった霊エネルギーのやり取り技術論だったりする訳です。
まあおそらく、少なくとも弾けるレベルが高ければ高いほど、心の状態も良く、神様と言われるものに近い事にはなっていくんだとは思われます。
それは霊的な事ではなくて、実声でも現実の事件でも同じ事なんでしょう。
その時に心の中に何か悪霊のようなものを生じさせないか、打ち込まれた悪想念のようなものを弾いていけるか、という事のようです。
そのような訳で「悩みといっても実態が無い」というのは、むしろ逆にその「悩み念」自体の方が実態であり、それを弾いてしまえば、実際には特に考えなければいけない事も、取り繕わなければいけない事も、現実にはそんなに無いのだ、と言えそうです。
別の言い方をすれば、悩んでいるという事は、悪霊の「悩み攻撃という攻撃法」に負けているという事であり、その時点で悪霊に負けているか、自分自身が悪霊になっているかだとは言えるのかもしれません。
まあ、そんな辺が、仏教的な悩みの克服方法の一つであり、無念無想から定に入るための、一つの条件だか方法論になってるんだと思われます。
霊障の治しかた その3
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