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love3 名前



けっきょく一限の授業が終わっても、稜は戻ってこなかった。
朝のことで授業なんて受ける気分になれなかったのなら、それでいい。
あとでおどけて帰ってきた稜に、いつも通りのからかい交りのお咎めの言葉に、一限でとったノート添えて、渡してやればいい。
――でも、もし稜の身になにか遭ったら?
考えただけで、背筋が凍るようにゾッとした。
今朝の一件での感覚に、よく似ている。
つい一分前まで僕の前で笑っていた稜が、命の危険に晒される恐怖。
そんなことは、今日の朝まで感じたことはなかった。
今後だって、一切感じる予定なんかなかった。
・・・なのに、それはなんの前触れもなく、今朝起きた。
今朝起きたことが、今起きていないという保障はどこにもない。
だから僕は、そんな過保護な考えの自分を少し恥じながらも、こうやって休み時間の合間を縫って、稜を探しているのだ。

校内の思い当たる箇所は、大体探した。
あと残るのは、屋上か。
今頃、平然として教室に戻ってきてくれてればいいんだけど。
なんて微かな希望を抱きつつ、屋上に繋がる階段を駆け上がった。

古びた鉄製のドアを押し開いて、足を踏み入れる。
その途端に、生暖かい風が僕の頬を掠めた。
なんとなく鬱陶しく感じて、眉をしかめる。

「やっぱり、ここにもいないか・・」

屋上内を一通り見渡したものを、人影は見当たらなかった。
やはり教室に戻っているんだろうかと思い、引き返そうとドアの方を振り返った。

そこには、勿論誰もいなかったはずなのだ。
ドアを開く音も、聞いていない。
なのに、どうして・・・・。

「ヒャハハハ!驚いてやがんのォ〜!ナイスリアクションどぉも〜」

ドアの前には、ワザとらしく一礼をした――今朝の男がいた。
・・忘れもしない、あの金髪のゴーグル男。
あの時と変わらず、大きな口に張り付いたような笑みを浮かべている。

「・・・何なんですか、アンタ達は」

怒涛のように次々と溢れ出す怒りを心中に収め、絞り出すように言葉を吐いた。
今は、あの黒いスーツの男は居ないようだった。

「ワンコいねえーの?ワンワンワンコやーい」

まるで僕の言葉なんか聞こえていないかのように、目の前の男は・・おそらく、稜を探してた。
なんでそこまで稜に執着するのか、まったく見当がつかない。
ヒトメボレなんていう簡単な事情じゃないことくらいは、見て取れたけど。

「あの!聞いてるんですか・・、ッ!?」

再び問い詰めようと声を張り上げると、いつの間にか目の前に鋭い爪を突きつけられていた。
・・いつ、僕の目の前まできたんだ。

「うるせェんだよ。ちッと黙っててくんない?」

・・・・むらさきの、瞳。
この眼は、・・この男は危険だ。
そう瞬時に、脳が察知していた。
これ以上、近くに居てはいけない。
・・・・・・逃げなくては。

「・・ってえー、アレェ??もしかして、アンタが〜えっとぉー、名前わかんねえけど、ワンコの双子のオニイチャン?」

男の気が逸れたところで、僕は走って、屋上の扉の取っ手を後ろ手に掴んだ。
そのまま引いて、立ち去ればよかった。
・・でも、男の言った言葉が気になった。
―――この男。なんで、そこまで知ってる?
いや。まだ、僕が兄だと特定しているようではない。
ここでそれを肯定することは、なんとなく危険な気がした。

「ち、違うッ・・」

咄嗟に答えた。
一見、僕らは似ても似つかない顔立ちだ。
否定すれば、なんの疑いもなく納得するだろう。

「あ、そお?似てるかなア〜と思ったンだけどお〜」

心の中で、安堵のため息をつく。
・・・・しかし、何故この男は、稜に双子の兄がいることを知ってるんだろう。
まさかこいつらは、僕ら双子を対で探しているんだろうか。
あいにく、僕の名前は知れてないらしい。
とりあえず、この可能性の件は稜にも話しておくべきだろう。

「じ、じゃあ、僕は行くんで」

男の反応も見ないまま、そのまま思いっきり取っ手を引いて、その場を後にした。

階段を駆け下りている間中、心臓がバクバク鳴りっ放しでうるさかった。
・・一端、教室に戻ろう。
これ以上、闇雲に稜を探していても見つからない気がしていた。
―――突き当たった壁を左に曲がり、僕は自分の教室へと向かった。





榛名センパイと別れ、俺はひとまず教室に戻った。
そこに兄者の姿はなく、そのことに俺は少しほっとしていた。
あんなことがあった後に、正直兄者とまともな顔をして話せる気がしない。
そんな器用でもなかった。

「・・・・はあ」

自分の席につくなり、思いっきり机に突っぷす。
・・まだ、身体が熱い。
脳裏には、さっきまでの痴態がありありと鮮明に蘇ってくる。
自分のものじゃないような甘ったるい声、痺れるような快感に震える身体、・・鏡越しに見た――上気した自分の顔。
たしかに、全部自分自身であって、実際に起こったことだ。
・・でも、あの男に為すがままにされていた自分が許せなくて、認めたくなかった。
あんな俺、・・・知らない。

『――ぅ、りょ――ぅ、稜!』

遠くから、聞こえる。
俺を、・・・呼んでる?
――この声は、兄者だ。

「もう、起きてよ!こんな時に寝てるなんて、信じらんないっ」

怒ったようなその声に、はっと跳ね起きる。
べつに寝ていたわけじゃないのに、いまいち意識がぼうっとしていた。

「わ、悪ィ・・。てか、兄者。いつ戻ってきて――ッ・・!?」

また、いつだったかのように口元を押さえられた。
トイレでの榛名センパイの時といい、逆デジャヴ?的なことがこうも引っ切り無しに続くと、正直なんか微妙だ。
さすがに俺も、さっきみたいな反応はしなかったけど。

「稜。理由は後で話すから、よく聞いて」

俺の口を封じていた手は、意外にもすぐに離れた。
真剣な兄者の口調に、自然と俺の背筋も伸びる。


「僕のこと、名前で呼んで」

決死の覚悟で聞いた兄者の言葉は、あまりにインパクト大に俺の意表をついた。

「・・あのー、あにじ」
「名前で呼んでってば!」

俺にとって、それは冗談としか取れないような言葉なのに、目の前にいる兄者はいたって真剣な顔で俺を見ている。

「ンなこと、いきなり言われても・・」

この"兄者"という呼び方も、もとはといえば兄者とこういう関係になる前の俺が「名前で呼んだら欲情しちゃいそうだから」なんていうフザケた理由から呼び始めたワケだけど。
だから、もう兄者のことを名前で呼んだっていいワケだけど。
――いまさら、名前で呼ぶなんて・・・なんか照れる。

「まさか、僕の名前忘れちゃったわけじゃないでしょ?」

渋る俺を見て、なおも兄者は引き下がろうとはしなかった。
夜とかそういう雰囲気のときに「名前で呼んで(はぁと)」なんて言われたら、ムードに流されて呼んじゃうんだろうけど・・・今、学校で、なんで・・いきなりこんな展開?

「忘れるワケねーじゃん!一文字しか変わんねーし・・」

よくわからない補足を付け加えて、俺は必死に弁解する。
だいたい、兄者ってこんなことに拘るタイプだったか?
そんなことも、同時に頭をよぎる。
今日は、朝から変なことばっかりだ。

「じゃあ、今後はしばらくそれで。べつに、名前じゃなくてもいいけど」

自分の席に戻ろうとする兄者の腕を、あわてて引っ張った。
――名前じゃなくてもいい?
それは、今更あまあまなカップルみたいになりたいとかいう願望じゃないってことか?
兄者の意図とすべきところが、まるでナゾだった。

「ちょい待て!名前じゃなくてもいいってなんだよ?」

俺の疑問に、振り返った兄者が明らかにめんどくさそうな顔で答えた。

「だから、いつも以外の呼び方だったらなんでもいいって」
「意味わかんねえって!なんで変えなきゃなんねーんだよ?」

チャイムが鳴る。
兄者が、怪訝そうな顔をして一言こぼした。

「お屋敷」

俺の手を振り払って、兄者は自分の席に戻っていった。
あの一言により、ようやく俺は、兄者の言いたいことがなんとなく分かってきたのだった。










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