save8 草壁
2006年2月11日 真崎翔太
しばらくすると草壁さんの声がやみ、部屋の中が静まり返った。
野菜を切る音だけが、空しく響く。
声をかけようか迷ったが、なんとなく言葉が喉につまってしまって、思う通りにいかなった。
こんな静かな時間が、どのくらいたったのだろう。
時間にしたらほんの数分なんだろうけど、俺にはやけに長いものに感じられた。
なんていえばいいのかわからないが、なんとなく重たい空気が流れていて―――。
それに気づかないふりをして、料理をすることに集中した。
山瀬は、あとどれくらいしたら帰ってくるんだろう。
具合もさっきより悪化しているようで、頭がぼうっとしていた。
でも、まだ料理できるくらいはまともだし、草壁さんに手間をとらせるほどのことでもない。
そう思って、手元の包丁の柄をぎゅっと握った。
「・・翔太くん、」
冷めたい空気の中に、ぽつりと草壁さんの声がおちてきた。
俺はびくっと肩を強張らせて、動きを止める。
「僕って、頑張ってると思う?」
パタン、パタンとスリッパの音が、一歩一歩と静かに近づいてくる。
その足音に合わせて、俺の心臓も音をあげていた。
どうして、こんなにも嫌な違和感を感じるんだろう。
ただ、なんとなくいつもの草壁さんが纏っている柔らかな空気とは違う気がして、それが俺をこんなにも緊張させていたのだと思う。
「俺は・・頑張ってると思います。薬ときちんと向き合ってる草壁さんは、俺も山瀬もすごい尊敬してるし・・。」
これは、一ミリの偽りもない心からの言葉だった。
草壁さんは一人で何年も薬と向き合っている。
もし、俺だったらとても真似できることじゃない。
それは山瀬も言っていた。
そんな俺の言葉を、ハハと力なく笑う声。
そして、草壁さんはやがて歩みを止めた。
「それでもね。"上"の人は頭が堅くて、何も分かってないんだ。」
包丁をまな板の上において、振り返る。
そこには、思ったより近い距離で顔を俯かせた草壁さんがいた。
俺は何を言ったらいいのか分からないながらも、何かに促されるように口を開いた。
「上の人って・・、」
「上司の人たち。彼らにとっては僕の頑張ってる部分は当たり前で、僕の失敗は大きな過失なんだよ。」
まだ学生である自分には会社の事情というものは詳しくは分からないが、社員一人一人に与えられた"責任"というものは、
俺たち学生よりもはるかに重いものだと思う。
日々、そのプレッシャーの中で薬とも戦っている草壁さんは、どれだけ大変なことだろう。
自分と置き換えて考えただけでも、俺は心にずっしりとした重量感を感じてしまった。
「毎日仕事して、毎日のように文句を言われて。社会人だからといったら、そうなのかもしれない。
でもね、僕にだって心がある。ただでさえ他の人よりも心の弱い僕が、あんな風に文句を言われたらいつかは爆発しちゃうって、なんでわかんないのかなあ・・。」
ふっと顔をあげた草壁さんの眼は虚ろで、光が微塵も灯っていないように感じた。
それにぞっとした俺は、思わず一歩後ずさってしまった。
それでも、もう背中はシンクにぴったりとくっついていて。
―――逃げ場がない。
そのことに、なんとなく見えない不安を感じていた。
「ねえ、翔太くん。君ならわかってくれるよね・・?」
すっと伸ばされた手が、俺の肩に触れる。
拒んではいけないと思いながらも、明らかにいつもと様子が違う彼に恐怖心を抱かないわけはなかった。
「っ、」
とっさに肩を反らして、事実上草壁さんの手から逃げた形をとる。
こんなこと、する気はなかったのに・・身体が勝手に動いてた。
目の前にいる彼が怖くて、逃げてしまった。
「君まで・・・・、」
低く、曇った声が震えていた。
俺はいつの間にか自分の恐怖値が限界に達していて、気づいた時には駆け出していた。
「君まで、僕を馬鹿にするのか!」
腕をすごい力でつかまれる。
その反動に滑った俺の背中は、思いっきり床に打ちつけられた。
頭がくらくらする。草壁さんの腕を振りほどくことすらできない。
「皆、そうやって馬鹿にする。君も心の中では笑っているんだろう」
床に組み敷かれた状態で、胸ぐらをつかまれた。
もちろん、今の俺には抵抗できるほどの体力は残っていない。
馬鹿にするなんてこと、あるわけないのに・・・・。
そう言いたいのに、声が喉から先に出て行こうとしない。
身体があつい。頭が重い。――――つらい。
「俺、は――――」
「そんな目をするなよ、翔太くん」
その時、一体俺はどんな顔をしていたんだろうか。
視界はとうにぼやけていて、今では草壁さんの表情を読み取ることすら難しい。
ただ、脳裏に浮かんだのはなぜか・・知らない女と連れ添って歩くあいつの後ろ姿だった。
「もうね、こうなると全てが駄目になってしまう気がするんだ。」
掴まれていた胸元から、喉もとへとその手が移動する。
草壁さんの冷たい指先が、ゆっくりとそこを締め上げた。
「っぐ、ぁ・・」
息が詰まって、くぐもった声が苦し紛れに喉の奥から漏れ出す。
「苦しいかい、翔太くん。」
遠い、声。
「僕も苦しいんだ。いつもこうやって誰かに首を絞められてるように苦しくて、痛くて、・・辛い。」
熱と同時に迫りくる喉元の締め付けに、俺は意識を手放しかけていた。
そんな中、ふと首元に冷たい雫が一つ落ちて来たような気がした。
草壁さん、泣いてるのか――――?
つらい、ツライ、辛い・・・・。
傷つききった草壁さんの心には、きっともう俺の声は・・届かない。
「すごく、綺麗だ。」
口端から、唾液が漏れ伝ったのが分かった。
そんな苦しみに悶える俺には、到底不釣り合いな言葉が捧げられる。
しかし、草壁さんの声には不思議と悦に入るような穏やかさが含まれていた。
「く、さか・・べ、さ・・」
お願いだ、正気を取り戻してくれ。
いつもの優しくて朗らかな貴方にもどってくれ。
その思いを、絞り出した声に必死に注いだ。
「ごめんね。もしかしたら、・・これが本来の僕の姿なのかもしれない。」
苦笑したような声とともに、草壁さんは汗ではりついた俺の前髪を優しく払う。
生理的に流れ出した涙が、そのまま頬の脇を流れていった。