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save9 記憶


2006年2月11日

講義が終わった後、俺は家路を急いだ。
草壁さんが来てくれるということもあったが、真崎の体調がすぐれないというメールがあってからというもの、
それが気になってしまって、ろくに講義に集中できなかったのだ。

アパート最寄りの薬局でとりあえず薬やら熱冷ましシートを買って、足早にアパートへの道を急ぐ。
俺がインフルエンザにかかった時も、真崎は慣れない看病を必死にやってくれた。
その恩返しというわけではないが、俺もあいつの為に出来ることはしてやりたかった。

すっかり暗くなった路地を早足で歩きながら、とりあえず俺は真崎に電話をしてみようかと思い立つ。
どのぐらい具合が悪いのかも分からないし、第一そんな状況で草壁さんが家に来ているかも謎だ。
現在の状況が全く把握できないので、とりあえず確認はしておくべきだろう。

そう思い、真崎の番号に電話をかけてみる。

しばらく待ってみたものを、繋がる気配はなかった。
草壁さんと話し込んでいるのだろうか。
それとも一人で寝込んでる・・?
見えない情景になんとなく僅かな不安がよぎった。

それと同時に感じる、自分への違和感。
・・考えられないのだ。今までの俺なら。
こんな風に人を心配したり、気遣ったり、思いやったりなど。

今まで生きてきて、それなりの友人はいたし、一人になったことなどなかった。
笑っていれば、適当に周りに合わせていれば人は自然と集まる。
だから相手のことを考える必要なんてなかったし、その場はそれでよかった。

――――真崎翔太。お前に会うまでは、俺はそんな考えを持った欠落人間だったんだよ。
今の俺はお前を失いたくないし、お前を「大切」だと思ってる。
何がここまで俺を変えさせたのかは分からない。そんな事はどうでも良かった。
ただ真崎と共に過ごす時間がありえないほどに心地よくて、俺はそれを失いたくない。
依存?エゴ?そうだな、そんな見方もあるかもしれない。
ただ、俺はそんな言葉とはもっと違う―――べつのものを真崎に見出している気がする。
はっきりとした答えはまだ出てない、でもこれはきっと――――――。






意識が途切れる音を、頭の奥で聞いた。

目の前が真っ白で、脳内がふわふわと浮いているみたいだった。
あれ、俺はどうしたんだっけ。
こんなに真っ白で、何もない世界。
そんな場所に俺は独りで立っていた。
ずっとこんな場所に独りでいたら、孤独で頭がどうにかなりそうだな。
こんな何もない所で孤独なんて、死んだ方が幾分マシかもしれない。

ああ――――――、俺。もしかして、死んだのか?
天国、地獄?どちらにしろ、まさかここまで殺風景とは思わなかった。
ブグローやブーシェが描いたような天使は、どうやら拝めそうにないな。
もし俺が本当に死んでいたのだとしたら、死とはえらく呆気ないものだ。

・・そして、とても残酷であると思った。
俺が過ごしてきた時の記憶が、残ったままなのだ。
幼稚園生の時にお弁当の時間がとても楽しみだったこと、小学生の時の遠足でグループの奴が迷子になって大変だったこと、
中学生の時の部活で死にものぐるいになって練習したこと、高校生の時に誕生日前に彼女に振られたこと。

―――――――そして、山瀬と過ごした日々のこと。
毎朝一緒に朝ごはんを食べて、ああ山瀬は少し朝起きるのが苦手だったけど、最近は慣れてきたよな。
大学の講義が違う時は帰宅時間もそれぞれで、俺の方が早い時はいつの間にかお前の帰りを待つようになってた。
俺の方が遅い時は、・・そうだな。どこにも寄り道せずに、はやく家に帰りたいと思った。
俺が帰ってくるとどこか嬉しそうに笑いながら迎えてくれるお前の顔が見たくて、そんな事を思うようになったのかもしれない。
なんだろうな。こんな気持ちは、まるで―――――いや、なんでもない。
こんな感覚は、生まれて初めてなんだ。
・・だからまだ分からないよ。俺がどうしたらいいのか。

ところで、山瀬。今、何してる?
俺はこんな訳の分からない所で呆けてるよ。
もしお前がいつもみたいに笑って迎えてくれるなら、そっちに帰りたいな。

・・・・・悪い、今の嘘だ。
俺はまだ死にたくない。
やり残した事がまだ山程あるんだ。

絵だってまだ描きたい。
山瀬が更生する手伝いをしたい。
あいつの作る、少し焦げた厚焼き玉子も食べたい。
もっと、一緒にいたい。

――――この不確かな感情の意味を、確かめたい。



真崎、真崎、真崎、

そうだ、こうやってお前の声で俺の名前をもっと呼んでほしい。


真崎、真崎、真崎、真崎――――――――、

はは、お前呼び過ぎ。
でも、叶うならもっと近くで聞きたいな。



真崎、真崎、真崎、真崎、真崎――――――!


ああ、脳にガンと響いたよ。
ありがとう、山瀬。

俺、帰ってもいいかな。
お前の所――――――――――、







頬に冷たい雫が落ちてきた。
重い瞼をゆっくりと開けると、ぼんやりと霞んだ山瀬の顔が映った。


「――――真崎!」

ギュッと抱きしめられて、まだよく働いてくれない脳内で「くるしい」と思った。

「真崎、ほんと――死んだかと、」

身体を掻き抱いてくる肩に頭を預けながら、俺は実感した。
山瀬の体温、山瀬の匂い。

――俺、帰ってきたんだ。お前の所に。


「やま、せ。」

喉を開けたら、思っていた以上に掠れていた自分の声。

「無理して喋らなくていい、」

俺の声を聞いてホッとしたのか、少し抱きしめる力が弱まった。

だんだんと頭の中がはっきりしてきて、俺はすべてを思い出した。
草壁さんとの事も、自分がそのせいで気を失ってしまっていた事も。

「草、壁さんは・・?」

まだ身体の熱っぽさは当然とれていなかったし、絞められた喉も痛いし、頭も重かった。
これ程にないコンディションの悪さをなんとか振り払って、俺は言葉を紡いでいった。

「・・・・・ごめん、」

躊躇いながら発した山瀬の言葉は、何故か謝罪だった。

「帰ってきたら、真崎が草壁さんに首絞められてて・・俺わけ分かんなくて。
気づいたら殴ってた・・草壁さんの事、」

それを聞いた俺は力なく山瀬から離れて、山瀬の顔を見た。
子どものように泣き腫らした目元が痛々しくて、俺まで泣きそうになった。
こんなに俺の事を心配してくれたのだと思うと、無性に先程までの自分の無力さが悔やまれる。

「・・今は気失ってる、から。」

俺の手をとって、山瀬が立ち上がった。

「山瀬‥‥?」

俺は床に座り込んだまま、訳も分からず山瀬を見上げた。

「今のうちに出よう、」

それはつまり、逃げるという事を意味していた。
たしかに目を覚ました草壁さんが、また俺達を襲ってこないとは限らない。
最善の判断だった。

「立てるか、」

俺は山瀬に支えられながら、なんとか立ち上がった。
心なしか、気を失う前よりは僅かながらも身体が楽なように感じた。

山瀬の肩を借りて、ゆっくりと歩き出す。
ふと、視界の横にうつ伏せになって倒れている草壁さんが映った。

たしかに今回の事は草壁さんが悪いかもしれない。
それでも俺は、この人が優しい人である事をまだ疑ってはいなかった。
彼の心の弱い部分に触れてしまった他人の言葉に、翻弄されてしまっただけなのだと―――俺はそう思ってる。

だから、今はまだ無理でもまた貴方と俺達三人で笑う日が来る事・・俺は待ってる。










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