「てっちゃん、ホントに記憶なくなっちゃったのん?」
美亜子がずいっと哲に詰め寄ってきた。
「みたいだね。なんかモヤモヤして嫌なんだけど」
哲が困ったように眉を八の字にして情けない顔をして、そう答えた。
「じゃさ、この葉くんと野球勝負したことも?」
「なんで俺、そんなことしてんの?」
「じゃさ、今日試合して勝ったことは?」
「それは、何となく覚えてる」
「じゃさ、その後ヒカルくんと一緒にロムレットでお茶したことは?」
「そのへんからは、さっぱり覚えてない」
お手上げといった感じで哲がそう言う。
「じゃあ、あたしが珈琲代立て替えてあげたことも?」
・・・何だか雲行きが怪しくなってきたぞ。
「そうなのか?」
すると得心がいかないらしく、英にそのコトを確認する哲。でも美亜子はかまわずどん
どん続けていった。
「夏休みの宿題やってくれるって言ったこととか、ハニーレモンパイ1ホール食べさせて
くれるって言ったことは☆?」
「あのさ、ミャーコちゃん。俺、キミになんか弱味でも握られたの?」
哲の冷めた目線を浴びても、美亜子はそれを軽〜く受け流して、チッチッチと指を振っ
た。
「てっちゃんが失ってしまった記憶の中には、いろいろミステリアスなことがあったのよ
〜ん☆」
さらに得心がいかずに、う〜〜んと唸る哲。
「にゃは♪ てっちゃんがぁ〜、はにぃれもんぱい〜を〜♪ ミャ〜コちゃんにぃ♪」
美亜子は妙な節ををつけて、もうすでに彼女の中で確約になってしまったことを歌って
いる。
「・・・俺、この半日たらずの間に、いったい何あったんだ?」
哲が隣で相変わらずの仏頂面でお茶をすすっている英に、訊くとはなしに訊いてみる。
だが英は首を軽くすくめるだけで、何も言わない。だた長々と説明するのが面倒くさい
だけかもしれない。
「それに葉、あいかわらずの大男だけど、なんでお前がここにいるの?」
哲は今度は、幼なじみの葉に質問の矛先をむける。
「大男はよけいだ。でも、俺も話の展開についていけてないんだな、これが!」
と、葉は困ったようにわっはっはと笑って頭を掻いているだけだ。
はぁ、とため息をついて、姉の法子に視線を向けるが、彼女は哲が記憶喪失になったよ
うだと聞かされてから、ものの見事に狼狽し、薬箱をゴソゴソとあさっては、
「えっと、セーロ丸って記憶喪失にも効くのかな?」
と言い出してる有様だった。
で、哲の視線は最後にさっきまで居たはずの心を探すのだが、いつの間にか居なくなっ
ていた。
で、哲はノー天気に歌う娘一名、無言でお茶を飲む男一名、豪快に笑う男一名、慌てふ
ためく人妻一名のいる部屋の中で、ため息と共に呟くのだった。
「駄目だ、こりゃ」
KISS? KISS!? KISS!!
第十話 『突然の告白』
そして一時間後、部屋の中にいるのは哲と英だけになっていた。
葉は明日、埼玉県内での予選大会があるとかで慌てて帰り、それをきっかけに美亜子も
帰途につき、法子も部屋を出て、後に残ったのが相変わらず無表情でお茶をすすり続ける
英だという訳だ。
「なんでお前帰らないんだ?」
何も喋らないでただズズズッとお茶をすすり、なくなってはポットから急須にお湯を足
して勝手に自分でお代わりを続ける英に、さすがに哲が問いかけると・・・
「なんでだ?」
と逆に問い返された。しかし主語が抜けているので、哲には何について訊かれているの
かがさっぱりわからないでいる。
「何が?」
すると英が横目でジロッと睨むように哲を見て、言ったのだった。
「下手な芝居について、だ」
・・・・・・・・・
沈黙がしばし、その中で哲は困ったように頭を掻いている。
「ばれてたのか」
さすがにばつが悪そうな哲の言葉から察するに・・・
どうやら前回を締めくくった『記憶喪失騒動』は哲の狂言によるものだったらしい。人
騒がせなと言いたいところだが、さて理由は・・・
「いやな、目を覚ましかけた所で、法ねーちゃんが二人に迫られてアワアワしてるのが、
わかってな。あの場であの件を追及されると、話こじれると思って咄嗟に一芝居うったん
だけど。しかし、あっさりばれてたかぁ〜」
と、哲も自分の芝居がばれていたのがショックだったのか、う〜んと唸って腕組みをし
て俯いてしまった。
「あの件とは・・・?」
続けて英にそう問われると、哲は一瞬ピタッと動きを止めた後、さらに唸って頭をブン
ブン振り始めた。彼なりに深刻な悩みの表現みたいだ。
「・・・今日な、ロムレットでお前らと別れてからな」
英に答えるというより、自身に起きたことを確認するかのように、淡々と今日の出来事
を語り始めた。
「・・・・・・」
哲の独白を聞いた後、無表情の英にしては珍しく困惑をその面に浮かべていた。どう答
えればいいか、さすがの彼にも浮かばないらしい。
「あのさ、英。妙なコト訊いていいか?」
すると哲が、今までに見たことないほど、神妙な顔で英にこう訊いたのだった。
「お前、誰かを好きになったことってあるか?」
その頃、悩める少女はと言うと・・・
「うわぁぁぁぁぁぁぁ〜〜」
相変わらずだった。
「明日から、どんな顔してぇ〜〜!!」
そこでまわりの状況に少しの異変が起きた。
トゥルルルルルーー!
「あいつにぃ〜〜!」
トゥルルルルルーー! トゥルルルルルーー!
「会えばいいぃんだぁ〜〜って、うん?」
そこでようやく、鳴り続ける電話の音に気がついた冴子だった。
階下に備え付けられている電話がこれだけ鳴り続けるということは、祖母はまた留守に
しているようだ。きっと、飲みにでも行ってしまったのだろう。
鳴りやむ気配も感じられないので、パニックを辞め電話に出るために少し急ぎ足で部屋
をでる。そして階段を三段とばしで降りて電話に出ると・・・
『ニャハ、ミャーコちゃんだよん♪』
と受話器を取った途端に聞こえたのは、親友の脳天気丸出しの声。思わず受話器をその
ままガチャンと叩きつけてしまう。
間髪入れずに再び電話が鳴り始めた。仕方なくため息と共にまた受話器を取った。
『なんでいきなり切っちゃうのよ、サエ!』
さすがに電話の先の親友がプンスカと怒っているようだ。
「悪いな、ちょっと電話を切りたい気分になってな・・・」
理由になっていないかもしれない理由をとりあえず冴子が言うと、美亜子はそれで納得
してくれたようだ。
『それじゃあ仕方ないわねん。まぁそれは置いといて、サエ、大変なことになっちゃったよ!』
「大変って・・・」
ふとその台詞で浮かんだのは、先ほどの哲との・・・
また電話をガチャンと切って、部屋の中に駆け込みたい衝動に駆られたが、そうする間
もなく美亜子の次の言葉が新たなパニックを引き込んだのだった。
『てっちゃん、サエの鉄拳くらって、記憶喪失になっちゃったのよん! どうするのサエ
ぇ!』
「お前、誰かを好きになったことってあるか?」
突然の哲からのわけのわからない質問に、英が珍しく目を丸くして驚いている。
そんな英に構わず、哲は独り言でも言うように、語り始めた。
「俺ってさ、自信持ってそう言えないんだ、実は・・・ 生まれて物心ついた時にはさ、
近所の双子がずっと側にいたから、その子達にしか目がいかなかったんだよなぁ・・・」
そう言うとベットから抜け出して、机の上に置かれた二つの写真立ての片方を手に取る。
「で、そいつらとさっきの葉とずっと一緒にいたものだから、女の子を好きになるって感
情がさ、いまいちよくわかってないんだよ、自分でさ。ったく、こんなことで悩むことに
なるなんてさぁ、俺としたことが・・・」
苦笑しながら、もう一方の机に置かれたままの写真立てに目をやる哲。
「理由とかないんだなぁ、そういうのってさ・・・」
ここまで聞いてようやく英に、哲が何が言いたいのか何となくでわかって来た。
「理由なんていらないさ」
英の短い一言。それだけで哲には英の言いたいことが理解できたようだ。
「だよな、きっと」
哲の中で、何かに対して答えが出たのかもしれない。
その時だった。
ドタドタドタドタ!!
誰かがもの凄い勢いで階段を駆け上がっているようだ。そしてその勢いが続いたように
哲の部屋のドアがバタンと開かれそこに姿を現したのは・・・
「あれ、サエちゃんかよ・・・」
そう、そこには息を切らせ、汗だくになった冴子が、立ちつくしていた。
彼女は、美亜子から『哲が記憶喪失云々』の情報を仕入れてから、この家までダッシュ
してきたようだった。
「ハァハァハァ・・・ 哲・・・」
荒い息と妙に迫力に満ちた目で、冴子は哲に向き直る。
その迫力に思わずビシッと気をつけをして直立不動になってしまう哲だった。
「はい、なんでしょうか?」
「哲・・・」
「はい」
「てつ・・・」
「あの、冴子さん・・・?」
いつの間にか、冴子は俯いていた。その肩が震えている。
「どうしたんだよ、いった・・・」
ドガシィ!!!!
怪訝に思った哲が、冴子に近寄ろうとした途端、冴子の方からなんと哲に抱きついてき
た。いや、効果音からすると『跳んで組み付いた』と言ったほうが正解かもしれないが。
不意のコトで勢いを殺せなかった哲は、冴子のタックルが如き強烈な抱擁を受け、その
まま力の方向にあったベットに押し倒される格好になった。
「はげごきが・・・」
また意味不明の呻きをあげ、哲は冴子の力強い抱擁に落ちる寸前だ。端から見ると冴子
が哲をベットに押し倒したようにしか見えない構図がしばし続く。
バタン。
哲の視界の端に、英が湯飲みとかのったお盆をもって部屋を出ていく姿が映った。気を
利かせたつもりかもしれないが、哲としてはまず冴子をほどいてから出ていってほしいと
ころだった。
「・・・めんよ」
そのまま締め付けられることしばし、今にも消えていきそうな哲の意識に、冴子の消え
入りそうな呟きが届いた。そして自分の肩口を何かが濡らしている。そこで初めて哲は、
冴子が泣いていることに気がついた。
「ごめんよ・・・ あたいったら、本当に・・・」
冴子は泣きながら、小さな声で哲に詫び続けていた。
きっと美亜子から記憶喪失について大袈裟な報告を受けて、自分でもわからないで、た
だ謝るために来てくれたのだろう。
その気持ちが嬉しくもあり、ちょっと罪悪感もある哲は、冴子にされるがままにするこ
とにした。
このまま気を失っても、この勝ち気な少女が介抱してくれれば、それでいいか。
哲は、そう腹をくくった。彼らしい気遣いである。
そして、二人だけの部屋には、しばらくの間、滅多に泣かない少女の、すすり泣きだけ
がずっと聞こえていたのだった。
「くすん・・・ ごめんよ、本当に・・・ あたいったら、がさつで、ドジで・・・」
しばらく泣き続けていたら、随分落ち着いたようである。
万力のような締め付けも緩み、哲にも冴子の頭を優しく撫でるくらいの余裕が出てきた。
「落ちついたかい?」
「・・・うん」
そうしているうちに、冴子にはだんだんと自分の今の状況が認識できるようになってき
たようだ。
男にしがみついている。そして部屋には二人っきり。おあつらえ向きにベットの上だ。
カァーっと瞬時に真っ赤になり、慌てて哲から離れる。いや、飛び退いたと言ったほう
が適切かもしれない。
「あ、あのな、あたいな! ミャーコの奴から、お前があたいのせいで脳挫傷で記憶ソー
シツになってパッパラパーになったって聞いて、慌てて家を出たんだけどな・・・」
・・・随分と哲の仮病は美亜子の中で膨らんで誇張され冴子に伝えられたらしい。
哲はため息と苦笑をまじえて、首を横に振った。
「そんなことあるわけないだろうに。出来たのは目の周りの痣くらいだよ」
そうやって、哲がおどけて痣を指すと、馬鹿なことを言った自分がさらに恥ずかしくな
ってますます赤みがかる冴子。
「たくぅ、ミャーコの奴、人をからかいやがってって、え・・・?」
ブツブツと顔をそらして、不平を言ってごまかしていた冴子だが、そこに突然、哲が両
手をバンッ!と肩に置いた。
「実は冴子に言いたいことがあったんだ」
初めてちゃんと名前で呼ばれ、頭が真っ白になる冴子、瞳はこれまた初めてみるほど真
摯な哲の顔に引きつけられて外せないでいる。
哲の唇がゆっくりと動いた。
「俺、冴子のこと、好きだ」
−続く−
第九話へ戻る/第十一話へ
頂き物の間へ戻る
表門へ戻る