2021年7月11日(日) |
目的因について・nunc stans について |
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目的因について
原因というものは通常、時間観念とあわせて考えられる。ある事態(event)がまずあって、それが何らかの影響ないし作用を及ぼすことによって、次の事態が生じると考えるのである。そのさい影響ないし作用が起こる側を時間的に過去とし、及ぼされる側を未来とするのである。これはいわゆる交互作用においても同じである。二つの球が衝突する場合において典型的であるが、一方の球の属する条件と、他方の球の属する条件とは最低でも場所において異なっており、異なる条件における状態(situation)どうしを、どちららかを時間的に先と考えることができるわけである。あるいは衝突の状態を先と考えて、衝突後の状態を後とする、時間的因果関係が成立するわけである。
目的因の考えはこれとは逆である。作用ないし影響は未来の側にあって、それが現在ある事態ないし状態を引き寄せて、新たな事態ないし状態を次の今において生みだすと考えるのである。これは過去および今の条件においては、何の作用も影響も起こらないとすることであり、いわば過去および今は、全くの<慣性Traegheit>状態にある。Werdenを惹き起こすものは、未来にあるのである。今は過去から生まれるのではなく、未来から生まれる。これが目的因の時間的本質である(*)。
(*)通常の考えでは、目的とは現在におけるなんらかの可能的な未来の観念であり、それが動機(insentive)となって行為を引き起こすことにより、実現へといたる時間的プロセスの一環とされる。このように考えられた目的因は単なる作用因に過ぎず、因果律の範囲に属するのである。形相因(設計図)についても同じことが言えよう。形相因は、宝探しの地図が目的の宝を見いだすための動機となるように、事物の構成へと向かう動機に過ぎないのである。ただ目的や形相はそれ自体で作用するのではなく、別の作用因(欲望や願望などの動因)を必要とする単なる観念なのである。
それでは目的因から見た過去とは何であるか。それは今に対しても未来に対しても、全く何の影響も及ぼさない完全なる<無>である。それゆえに、目的因からとらえた時間は、今と未来以外にはないことになる。過去を考えたところで、それが今に、ましてや未来に何一つもたらすわけではなく、そもそも考えること自体が生じないであろう。人間が目的を持って行動するときに、実はこのことが起こっているのである。今を変えるのは未来から行為に作用する目的だけであるから、過去のことは一切忘れてよいのである。目的的に生きる人間には、過去はないのである。時間そのものが変えるべき今と、それに作用し影響する未来の観念からなっているからである。
このように考えられた時間は、一体どのような時間なのであるか。そもそもそれが時間と言えるのであろうか。このことを考えるために、アリストテレスにさかのぼってみる。アリストテレスはまさに、Werdenすなわち生成消滅を目的因的に考えているのである。個々の事物の中には質料因である物質(Materie)とそれに作用し影響するものとしての形相因(Eidos)とが含まれている。質料自体は単なる可能態(dynamis)であり、それ自体でなんらかの現実的存在として発現することはない。そこに形相因が設計図として働きかけることにより、物質はある具体的な形を持った現実態(energeia)として存在するようになるのである。この世界が現実化するのは、telosとしての形相が存在する限りにおいてである(entelekeia)。目的因はこの形相因と本質において同じであると考えてよかろう。どちらも現実化の方向である、未来からの影響ないし作用であるからである。これに対して作用因(causa
efficiens)なるものは、単なる道具または手段としての役割に過ぎないであろう。質量因、作用因(動因)、目的因、形相因の全過程を支配し、唯一の影響を及ぼしているのが形相因すなわち目的因なのである。
物質(質料)が形相の働きによって現実化する全過程は、こう見ると通常の時間観念においてではない。これを単に無時間的な論理的過程と考えることもできよう。物質が現実化するまで、じつは世界はまだ現実態としては存在しておらず、現実態でないかぎりは、そこにはまだ時間は無いと考えてもよいからである。形相が働きかけ、物質が現実化し、世界が現実化することによって、そこにはじめて通常の時間観念も生まれてくるであろう。そもそも世界のもと(質料)である物質とは何なのであるか。古代ギリシャでは、この世界が生まれる前には渾沌(Chaos)があったとされる。このカオスなるものは、じつは物質ですらないのである。いわば物質以前の無なのである。ミレトス派の哲学者が世界の根源物質(arche)を探究した時に、物質以前の物質ではなく、水や空気といった具体的な質料をもって始めたのは、そもそも渾沌を無限定者(Das Unbegrenzte ト・アペイロン)と見なしたからである。無限定なものでは世界を作れないので、それを空気や水などとしたのである。アリストテレスの質料もこの具体化しうる物質であろう。と同時にそれは、形相によって限定された物質なのである。無限定者ではないのである。物質と形相との複合が、彼にとってのarcheであったのだろう。
そのように考えるならば、アリストテレスにとっての根源物質である質量と形相の複合体は、無時間的(zeitlos,timeless)であってよいわけである。これはアリストテレスの解釈であるというよりは、彼の考えを借りて、そのような考察が可能になるということである。それではこの無時間的な複合体における世界は、どのような構造を持っているのであろうか。その構成もしくは構造は、すべて形相すなわち世界の設計図によって決定されていることであろう。すべての鍵はイデア界にあるのである。たとえアリストテレスにとって、形相(エイドス、イデア)は、質料と形相の複合においてしか存在しないと考えられているとしてもである。このイデアを探究することが、経験すなわち現実化した物質の探究からしかなしえないとしてもである。探究されたイデアは無時間的である。無時間的な存在は、この経験界からは端的に超越しているといってよかろう。物質との複合ではなく、イデアそのものの探究が課題として成立するのである。
アリストテレスの形而上学において、目的因・形相因が無時間的に世界を構成すると考えてよいならば、目的因というものの時間性についても、同じことが言えないであろうか。未来における目的が今に働きかけるということは、両者をセットにして考えてよいということである。いまだ無いものが現に有るものに影響する。これはすでにあったものが、この今を作り出すという、さらにこの今が未来を作り出すという、いわゆる因果律とは根本において異なっていよう。因果律においては有が有を生みだすのであるが、目的因においては無が有を生みだすことになるのである。これはWerdenに関する根本の原理(ex nihilo nihil)と背馳する。このことが成立するためには、時間についての考えを根本的に改めるか(**)、あるいは端的に目的因においては時間は存在しないと考えるほかはないであろう。目的因とは基本的にイデアであって、イデア自体は無時間的である。無時間的なものに向かう意志は、それ自体無時間的であってよいであろう。人は目的に向かうときは、無時間的に生きるのである。なぜならば目的に向かっての行為は、無にとどまることはできず、ひたすらこの今に集中するからである。今自体は、実のところ無時間的なのであり、そこには時間の流れはないのである。この今における無時間性と、目的因における無時間性とは、基本において一致する。目的因はいわばnunc
stansへと向かうある種の働きなのである。しかしこのことは次の考察とする。
(**)時間が目的因としての未来と現在との間のなんらかの関係であるとするならば、時間を実現させるものは未来にあるなんらかの表象であることになる。その実現の過程を未来から来るものとも、あるいは未来へ引き寄せられていくものとも、考えてよいであろう。実現が未来から来るならば、今へ向かって流れ、未来へ引き寄せられるなら、相対的に未来へ流れることになる。すなわち目的因における時間は可逆的なのであり、あるいは両方向に流れるといってよいだろう。この時間は今において合流するであろう。今あるということは、未来が実現されていることであり、今とは絶えざる未来であるということになる。いわば流れる時間は流れないのである。すなわち可能的なものと現実的なものとの融合が今なのである。これが<純粋持続>の姿なのであろう。実在とは未来と今とが目的因によって融合した姿なのである。そこには<過去>はない。すでに実現したものは、過ぎ去らないからである。過去とは今が未来を生み出し、いわば今自身をくらいつくしたのちにカスとして排出する、一方的に流れる時間、すなわち因果律の産物であるからだ。
nunc stans について
時間性における意識は、すでにあって今はない過去方面と、今はなく、かつ未だない未来方面とに、常に気をくばっている。しかし意識そのものは、そのどちらにも属していない。意識の存在場所は徹頭徹尾、この今なのであり、意識はそこに現在しているのである。時間意識はこの今において発生するのである。今において発生した時間は、現在しない過去と、現在しない未来とに囲まれて、いわば水増しされた時間と言ってよいだろう。時間は現在の意識を過去・未来の両方向にわたって拡張し、希薄化することによって成立する。今もまた、そのようにして成立した時間における、相対的・関係的な今に過ぎなくなるのである。
もし意識を、このように現在しないものに対して拡張し、希薄化することを行なわなければ、そこにどのような意識が現われるであろうか。そこには意識自体が現存するはずである。この現存する意識自体とはなんであるか。意識は基本的に感性直観において現われる。感性(Sinnlichkeit)とは、客観的な感覚器官や感覚を捨象すれば、意識に対して直接的に与えられたものles
donnees immediates)であり、あるいはその条件である。それは触覚であれ、視覚であれ、どのような感覚内容であってもよい。その感覚内容を、それ自体として意識するならば、そこに同時に意識そのものも現われるであろう。すなわち純粋感性において現われる意識を、意識自体としてよいであろう。
この純粋感性における意識は、もしその状態が可能であるならば、純粋な無時間性として現われるであろう。このことを実体験するには、睡眠と覚醒の間の状態に身をおくのがよいであろう。その時、意識にはいかなる過去の観念もなく、いかなる未来への配慮もない。ひたすら現在する意識に没頭し、あるいは現在する感性そのものになりきるであろう。その時、時間はどこにあるのか。それが今であるという意識すらないであろう。意識は過現未すべてを包んで、無時間的に存在しているのである。それはある種の心地よさでもある。生命は時として時間を越える、この無時間性をよく心得ているのである。動物は活動していない時は、よく眠る。自らの眠りだけでなく、動物のそうした眠りを見るだけで、たいていの人は<いやし>を覚えるであろう。そこにはもはや生命体を苦しめる時間は存在しないからである。この時間の無い状態を意識にもたらすならば、そこにnunc
stans(とどまる今) が発現するであろう。
このnunc stansを実現するには、単に意識から、過去の観念と未来への配慮を消し去ればよい。ひたすら今現在するものに意識を集中するならば、自ずと心の平静が生れ、時間を超越できるのである。人間の心は圧倒的に過去への思いと、未来への配慮によって占められている。それらを意識から排除することは、言うほどに易しくはないが、それを修行者のように意図的であれ、あるいは生命の恩寵として睡眠と覚醒の間に実現するにせよ、たまゆらの解脱を可能にするであろう。<今>はその究極・根本において無時間的世界につらなるのである。それ故に神秘家はそこに<永遠>を見たのである。<今>を知る者は時間を超えて永遠なのである。であるならば、人間にとっても、あらゆる生命体にとっても、今何をなしているかが、最も重要なことなのであり、今がもたらすことや、今をもたらすものについて煩うことは、迷いであり、無明であるといえよう。
無時間性における意識のあり方は、純粋な感性直観におけるそれであると述べた。感性直観における意識は、基本的に光の意識であり、光は感性がイデアによって最初に既定を受けた姿であることも、前に述べた。その限りにおいて、nunc
stansにおいて現われる意識は、いまだ感性界にとらわれており、関係的・相対的にとどまる。本来、純粋な無時間性においては、意識は存立しえないであろう。感性的なnunc
stansが、ある種の心地よさを伴うことが、すでに意識が感性界に捕縛されていることの証しである。いわば感性界におけるnunc
stansは、意識を超越した純粋自我へいたる前段階をなしているに過ぎない。単なる心の平静(アタラクシア)は、それ自体における自我の絶対性を実現するものではないのである。心自体を超えたところに、真の無時間性、永遠があるのである。それにしても、感性的なnunc
stansを実現できるだけでも、凡愚の身としては願ってもない至福というべきであろうが。
* * *
目的因が無時間的働きであるということは、その働きが無時間的今においてなされるということである。その意味で質料因も、作用因も、今の中で統一的に働いていることになろう。これは時間的因果関係とはまったく別である。目的に向かって行為することは、その意味で無時間的現在に生きることである。目的は今の中に現在しており、決して遠く未来から働きかけているのではない。現在の行為が同時に目的の実現なのであり、目的と今との間に時間はないのである。たとえそれが通常の時間観念によって、遠い未来に投影されたとしても、目的に向かって行為する限り、そこには常に実現があるのである。目的に向かって行為すれば、そこには常に無時間的達成があり、ある種の至福を生みだすのである。それが何のために、何の用をなすかなどの思慮は二次的なのである。目的自体はためにするのではなく、おのずと個体の意志とは無関係に、目的そのものであることによって、行為を生み出し、行為を導くのである。それが目的因の究極の意味であり、あり方である。 |
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2021年6月19日(土) |
光の誕生 |
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<われわれの現存在の上をおおっている暗闇は、われわれがなんらかの根源的な光から切り離されているとか、われわれの視界がなんらかの外部の障害によって制限されているとか、あるいはわれわれの精神の力が対象の偉大さに及ばないとかいったことから、説明が求められてはならない。それらの説明によっては、かの暗闇のすべては単に相対的にすぎず、われわれとわれわれの認識に対してのみ暗闇であるにすぎなかろう。そうではなく、暗闇は絶対的であり、根源的なのである。それは世界の内的にして根源的な本質が<認識>ではなく、もっぱら<意志>であり、認識の無い存在であることから説明がゆく。認識一般は二次的な根源から発しており、偶有的で外的なものである。それ故にかの暗闇は、光の領域内における偶然に影となった個所ではなく、かえって認識の方が、果てしない根源的な闇の内部のひとつの明りであり、その中で消滅していくのである。>
――ショーペンハウアー「哲学講義」W、Kap.9.272f.
* * *
世界の根源が暗黒の存在であるという洞察は、ある不気味さを覚えさせずにはいない。それは死以上に心を締めつけて、希望も救済の願いも失わせる究極のペシミズムである。しかも真実である可能性が高いのであるから、それを否定する根拠もそう簡単には見つかるまい。ここでは少しでも暗黒に対抗するために、光の誕生について考察してみたい。
光は何故に発生するのであるか。世界の根源の本質が闇であるならば、その闇から光が生じるということは、闇が闇であるかぎりは、そこに異なった原理の介入がなければならないであろう。認識の無い存在である世界意志は、認識のないままに闇雲に世界を創造したのではないであろう。単に<無意識>であるに過ぎないのである。無意識であるとは、認識のあらゆる形式を持たずに、すなわち時間も空間も因果性も無いところで、世界を創造したということである。そこには構造だけがあって、その構造を認識する眼も、反省する意識もない。その根源の宇宙構造を<アルケー>と名づけておいた。まさに暗黒の宇宙である。無意識で認識を持たない世界意志が、いかにしてこのような暗黒の宇宙を創造できたのであるか、構造自体は世界意志が創りだすことのできないものであり、その構造の由来する原理はほかになければならないだろう。その原理を伝統哲学に従って<イデア>とした。アルケーは世界意志とイデアとが合体した姿なのである。しかしイデア自体は光ではない。世界意志とイデアだけでは光は生まれないのであり、そこにいま一つの原理、すなわち光の元である認識と意識の根底をなすものが必要なのである。言うまでもなく、個体にやどった<自我>である。
自我からどのようにして光が生まれるか。まず自我が発生するためには、世界の構造に個別化の原理がなければならない。アルケーの世界においては、個物は存在せず、すべてが相互依存の構造の中に安らっており、それ故に認識は不可能であり、不必要なのである。その相互依存の構造の中から、生命原理が生まれ、この<生への意志>が時間・空間を個別化の原理として、自我への道を歩み始めたのである。生命は個体および種の保存を本質とする。相互依存の構造を保持しつつも、時間・空間・因果律の形式においてそれを展開させ、<表象としての世界>を形成していったのである。この過程で、<光>が生まれ、すなわち認識と意識が誕生したのである。
光はまず感覚として発生したであろう。もっとも原始的な感覚である触覚、もしくは体感は、光としてはごくおぼろではあるが、意識のありどころを漠として示すことができよう。睡眠中に身体が厖大なものとして感じられる、あの夢とも現実ともつかない感覚が、そもそもの原初の感覚であり、原初の光すなわち意識なのであろう。この茫漠とした感覚と視覚において完成された光との間には、遠くの銀河団と天の川の輝きのような、大きな度の違いがあるが、どちらも本質においては同じなのである。いま視覚をモデルにして考察を続ける。カントやショーペンハウアーが感覚の所与を論じるに当たって、その内容を<雑多>と称している。すなわち感覚が生じただけでは、いまだ認識には到達しないのである。しかしいかに雑多であるにせよ、それが意識できるためには、すでになんらかの認識がなければならないだろう。感覚的所与は、それが意識に上ったときには、すでになんらかの<対象Gegenstand>なのである。しかし意識に上るとはどういうことであろうか。
意識の初発の状態で、なにごとかが意識されるということは、すでにそこになんらかの認識の先天的形式が働いている。私がなんらかの茫漠とした所与を意識するとき、私はそれを対象として認めると同時に、それを対象として認めている私自身を意識している。この形式は、言うまでもなく伝統哲学でいう主観と客観の関係である。すなわち私は対象の認識と同時に、私自身をも認識しているのである。とはいえこの主客の関係における認識は、いまだ対象の客体化が十分に進んでいない、茫漠とした自己対所与との渾然とした印象にすぎない。しかしそこにはすでに空間認識がある。主客の関係の認識が可能であるためには、少なくとも二次元の空間が成立していなければならない。視覚について言えば、視覚はもともと触覚から発達したものであるから、基本は二次元の平面的感覚である。暗夜において、遠近感が失われるとき、遠くの光や色彩が突如として目に張りついて光の膜となってしまうのは、視覚が基本にかえったからである。同時にそれが感覚的所与の基本的あり方であるといえよう。意識が最初に現われるのは、この二次元の平面においてなのである。これが感覚的所与の<雑多>の正体である。
感性界の雑多な内容を<認識>にまで高めるには、さらに時間と因果律の形式が必要であるとされる。この両者の認識の先天的形式が感性界で働き出すことによって、対象の主観からはなれた客観化が進められる。私は意識において私を認識するよりも、客体そのものを対象として三次元の空間に投影し、因果性の判断によって私の<身体>を発見するのである。この私の身体化が認識の完成なのである。とりわけ因果性の認識が身体形成の最も重要なプロセスであることは、ショーペンハウアーの力説するところである。感覚器と感覚との関係を因果的にとらえることによって、外界と内界との区別が生じ、身体を含めた客観的世界が成立するのである。カントが考えたように、感性直観に図式をとおして純粋悟性概念が働きかけるのではなく、感性直観そのものがすでに悟性的原理によって形成されているのである。
このようにして、原初の主客の茫漠とした意識の状態から、認識が客観化を進めて、最終的に視覚における圧倒的な光の世界が発現するまでの過程は、自我とその認識機能の展開にほかならないのである。それにしても、認識や意識は自我から発生するとしても、認識そのもの、意識そのものは、その根底における発生原理は、生への意志の現象すなわち生命界における個体および種の保存の必要に求められるものであり、すなわち生への意志の単なる<道具>に過ぎないのである。生命体は生存競争に有利であるためには、より多くの<光>すなわち認識を必要としたのである。光は自我をとおして生まれてくるものではあるが、光そのものは自我の産物ではないのである。自我は光において目覚めるものではあるが、その光はどこから来るのであるか。それは感覚の所与がどこから来るのかという問いと同じであろう。この世界の根源がアルケーであるならば、生への意志がそのアルケーの現象化であるならば、感覚の所与とその認識である意識の光もまた、アルケーを根源とすると考えてよいのであろう。アルケーは世界意志とイデアの合体した姿であるから、それが意識において目に見えるものとなるならば、感覚的所与とはイデアによって規定された世界意志の可視化した姿、すなわち世界意志のObjektitaet(客観態)であるといえるだろう。いいかえればアルケーの現象化したものが感覚的所与であり、認識における光なのである。
このように考えるならば、光はアルケーから発し、自我において発現する、この世界の現象の根本なのであるといえよう。光すなわち意識は決して偶然に生じたものではないのである。光すなわち意識の中には、質料としての世界意志と、それを規定するイデアとが発現しているのである。それゆえに光は美であり、意識は絶対的、超越的本質を反映しているのである。認識や意識は生への意志の付随的現象であるとしても、その光をもたらすのは世界の本質である。世界意志はいわば暗黒であることを欲していないのである。究極において自己自身を照らす光、自己認識を求めているのである。その代理人が個として発現する自我にほかならない。無慮無数の星雲や星々が光を発するように、自我もまたおのれ自身を宇宙の中心として、認識の光を放つのである。物理的光はすでに意識の光を前提とした二次的光にすぎないが、意識の光は宇宙の根源から放たれる自己認識の光なのである。その使命を終えた時には、自我は光の発して来た世界の根源へと帰還することであろう。
最後に光の対極である暗黒について考察する。光と闇とを対照的にとらえることからも示唆されるように、はたして闇とは絶対なのであるか。光は明暗において度を有する。最大の明るさとは、たぶん夢の中で体験する光輝であろう。現実界では余りの明るさは知覚を無効にする。感覚が物理的に破壊されるのである。光を弱めていけば、自然と闇が生まれる。しかしそれが闇であることが分かるのは、やはりある明るさの印象が視覚の内部にあるからである。知覚における闇とは、どこまでも相対的なのである。知覚は絶対の闇というものを知ることができない。意識があるかぎりは、そこにつねになんらかの光があるからである。無意識や、認識の無いところに闇があるというのは、単なる比喩に過ぎないであろう。そこにはじつは光と共に、闇すらないのである。世界意志やアルケーの世界は、われわれの認識が知るかぎりの闇でも、暗黒でもないのである。それは単なる<不可知>としか言いようのない世界であるから。仏教用語の<空>がそれに相応しいであろう。意識や認識を失うときに、それが絶対の暗黒に思われるのは、自我自体が同時に消滅すると考えるからである。自我の本体が永遠であることが洞察できれば、もはや暗黒も無もないのである。宇宙の本体が絶対の暗黒ではないように、<わたし>もまたその本質において暗黒に帰することはないのである。 |
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2021年6月18日(金) |
死について |
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死は生命的・物質的現象がすべて失われることである。身体のすべてが、心身にわたって瓦解し、分解され、個としての生命体の全構造が消滅することである。個体を形成していた生命的・物質的な構造は何一つ残らないのであるから、肉体・精神において無に帰するといってよい。この限りにおいて死は勝利者であり、個体生命はなんらなすすべもなく無に圧倒され、限りない落胆と無力感におちいるほかはない。死の前にはもはやなにをしても無駄なのである。死の準備などというものも、もし明日死ぬとすれば何ができよう。すべてを残して、この生命界から消えさるほかはないのである。生への執着、この世界へ残していくものへの配慮、果たせずに終わった願望、未練などは、とてつもない重荷になって、死を前にした者にのしかかってくる。無力感と絶望以外にはないのである。
人間にとって死がこれほどに恐るべきものであるのは、人間が蓄積する存在であるからだ。単に物を蓄積するばかりでなく、記憶という経験の貯蔵庫によって、過現未にわたる厖大な観念を保持しているからである。物の蓄積は単に物であるならば捨てればよい。しかし単に物であることはめったになく、記憶による執着がそこに結びついているのである。物を失うのではなく、物に対する思いを失うことを人は恐れるのである。人に対する思いであるならば、なおさらその執着は深いであろう。それはポジティヴでもネガティヴでもありうる。残していく者への愛着や、敵対者への無念などが、さまざまに死にゆくものの絶望をかきたてるのである。生命の最後の抵抗、身もだえである。
人間にとって生命としてのあり方以外にないならば、死は絶対であり、それに対しては何の抵抗も克服も不可能である。ただただ死にひれ伏すほかはないのである。それを世間では大往生と称している。<往生際>をよくすることが、せいぜい死に対する善処であり、いわばマナーなのである。死をおのれのものでなく、社会的事象とすることによって、一種の儀式化によって、死の恐れを克服するのである。死にゆく者は生者に囲まれることによって、死の恐れから眼をそらすことが出来るのである。死そのものを類的生の中に取りこむことによって、死を相対化しているのである。人類はこのようにして死の恐れを類的に克服してきたのである。生命は個としては滅びても、類としては存続するからである。
このような類による死の相対化は、死の本質から眼をそむけさせることになる。なるほど死の恐れは緩和される。しかしそれによって個の人生の価値も相対化され、真の意味の死の克服が不可能になる。個の人生の価値は、死までに蓄積されてきたもののすべてである。死を目前にして、それらの蓄積が私の人生のすべてであったことがわかるのである。死においてそれらのすべてが失われるならば、人生の価値はそれだけのものであったということになる。死を目前にしてなおも残る願望や欲望は、人生の最大の価値はいまだ完成されていないということであり、そこに絶望や虚無感が生じるすきがあるのである。人生においてほぼなすべきことはなしたという、ある程度の充足感がないかぎりは、死に対して新たな対策をとる心のゆとりが生まれないのである。急遽、諦念におもむくほかはない。
すべてを諦めるということは、そう簡単にできることではないが、少なくとも心残りをなくすように、いちばんの気がかりから処分しておくことで甘んじるべきである。欲望や願望や虚栄心は、<永遠の相>のもとに鎮めることができよう。人の一生も、人類の存続も、この宇宙の存在も、永遠の見地からは一瞬に等しいものであろう。死は永遠であり、永遠の中ではすべては無に等しいのである。何を恐れ、なにを気づかう必要があろうか。死は私を無化するばかりでなく、この宇宙のすべてを無化するのである。しかし死の破壊力は、私の本質やこの宇宙の本質にまで及ぶのであろうか。死もまたある種の<現象>にすぎないのではないか。
もし生命や物質以外に、私という存在のなんらかの本質があるならば、私は死によってその私の本質に帰るだろう。私は死によって、まずこの物質および生命を現出させる表象界あるいは現象界を失う。表象あるいは現象の根底にある<物自体>にいたるであろう。そこにおいて見いだされるのは、世界の根源のエネルギーである<意志>とイデアと純粋自我との三者の合体した純粋相互性の世界である。この<アルケー>の世界は不生不滅であり、ここに死者も眠っている。死者としての私もここに保存されるであろう。しかしそれは純粋自我としての私ではないのだ。私はさらに<三一体>を離れて、私自身の純粋な故郷である<自我自体>へと帰還するであろう。私はこの宇宙との共役者であることを解消し、絶対者である私自身へと帰還するのである。それによってこの宇宙そのものも解消されるであろう。それが究極の救済としての<ニルヴァーナ>である。 |
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2021年6月14日(月) |
美のイデア(つづき) |
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美のイデアが感性直観において感覚の質を質料として発現するものであるならば、ひろく質的に知覚されるものには、すべて何らかの意味でのイデアの美がともなってもよいはずである。とりわけ対象に対してなんらかの情念が働くときには、それが憧憬や希望や郷愁のようなポジティヴなものである限りにおいて、そこに美の意識が生じているはずである。もちろん対象に向かう意欲は、意志そのものであり、利害の関係を離れてはいないのであるが、その対象がすぐさま到達できないものであったり、到達不可能であったり、あるいは過去の追憶のように、過ぎ去った物事のはかなさがともなう場合には、そこにある種の美の幻影が発現するといってよいであろう。意志の挫折が情念を諦観へともたらし、それが純粋自我を発動させるよすがとなるのである。これが美のHinfaelligkeit(はかなさ)として現われるものであり、イデアそのものではないが、イデアの希求において、イデアそのものを垣間見させるのである。それはイデアに包まれた美の情念そのものなのである。
しかしそれらの情念は情念である限りにおいて、純粋な自我そのものではない。とはいえ美によって動かされる情念である限り、その美と合体を遂げたいというエロスがそこに働くのである。美のイデアの発現は、単に純粋主観が意志のあらゆる働きを離れて、もっぱら客体の中にイデアを観照するケースばかりではないであろう。そもそも世界意志が何故にイデアと結びつきうるかを考えるならば、意志自体が何らかの意味でイデアを希求してもよいわけである。世界意志もまたイデアの美に惹かれるのである。すくなくとも世界意志の最も善い部分は、美のイデアへと向かうのである。それがこの地獄の世界での救いとなるからである。
イデアを希求する情念もまた、イデアとなりうるということを述べた。それならば時間・空間や、運動といった表象についてはどうであろうか。何故に心は広々とした景観に、心の安らぎを覚えるのであるか。空間自体は認識の形式であると同時に、意識の質的広がりでもある。意識の質は<光>そのものであると述べた。空間は光であることによって、意識を解放するのである。光はすでにイデアによって規定を受けている。そこにイデアの美が現われて当然なのである。時間についてはどうであろうか。時間は空間化されることによって、空間と同じ美の規定を受けるであろう。はるかな過去や、はるかな未来に、郷愁や憧憬を覚えるのはそのためである。しかしすでに述べたように、過去はすでになく、未来はいまだないのであるから、そこには<美のはかなさ>がともなうのである。これはeternal entityとしてのイデアの本質とは別物であり、生命であることにともなうイデア認識の制約なのである。
運動についてはどうであろうか。運動は対象の時間的変化の知覚であるが、じつは対象そのものにあるのではなく、対象を見る主観の側にあるのである。水車の動きを見ているとき、視線をふと藁葺き屋根に移すと、それが水車とは反対の方向にわずかずつ回転してゆくのである。もちろん屋根は回転してはいないのだが、頭の中で発生した運動の観念が、静止している表象に対して働きかけ、あたかも反対方向に遠ざかっていくように知覚されるのである。つまり運動自体は対象における観念ではなく、対象につけ加わった主体の側の観念なのである。運動は対象においてイデアとしては発現していないのである。動くもの自体には、イデアは存在しないのである。運動を静止としてとらえるときに、そこに空間としてのイデアが発現するであろう。独楽が急速に回転するとき、知覚はその運動をとらえることができないから、そこに現れた模様だけをとらえる。運動が知覚されると共に、模様も消え去るのである。
そうであるならば、運動自体には美は存在しないということになろう。静止した水車は美でありえても、それが動き出せば美とは別のものになるのである。それならば人はなぜ動くものに、はなはだしく惹かれるのであろうか。それは意志を刺激して動かすからである。心地よさや、不安や、不快や、爽快感が、運動によってもたらされるのである。生命は基本的に動くものにしか興味をもたない。がま蛙はたとえ獲物であっても、静止したものは見ることができないそうである。人間の知覚も、静止したものよりも、動くものにいっそう惹かれるであろう。それが生命体の知覚の特質であるから。動くものは美である必要はない。動くものに対しては、動くことで対処するであろうから。運動の知覚は美の純粋観照とは対極にあるのである。それゆえにイデアはそこに発現しないのである。運動がいかに<美技>であっても、それは単に生を興奮させるだけのものであり、それを美と称するのは、単に心情の満足にすぎない。
ここでは美全般についてではなく、イデアの美もしくは美のイデアに限って、美の本質を考究したので、美学で説かれるような美の考えとは別のものである。美が救済の原理である限りにおいて、その超越的本質を感性界とのかかわりにおいて探究したのである。 |
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2021年6月3日(木) |
イデアと感性直観 |
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感覚によって与えられる対象の中には、概念化しえないものがある。空間や時間の関係において表象されるものは、原則的に概念化が可能である。形、大きさ、重さ、固さなどは計量でき、その概念を与えられれば、ほぼ正確に再現できる。例えば三辺が五センチからなる三角形といえば、だれもが同じように作図できるのである。ところが同じ三角形でも、赤い色のそれと指定されるならば、無数のグラデーションがあり、たとえコンピューターなどで数値化して色を指定したとしても、実際に生れる色が各人にとって同じものであるかは、どこにも判定の基準となるものがないのである。感覚と刺激の関係はさまざまに数値化できても、感覚の質そのものは、そのような概念化とは別のものである。それゆえに科学は、感覚を数値的に解き明かしても、感覚の質そのものについて語ることはできないのである。
このことは範型としての概念の学であるイデア論についても当てはまる。イデア論が最も鮮やかに論証されうるのは、幾何学のような数理的学問である。三角形の純粋な概念があるとすれば、経験における、すなわち感性界におけるそのさまざまな例は、その範型を反映(分有)していても、イデアそのものではない。イデアは理想型なのである。その理想型を頭において、だれもが三角形を描くのである。同じことが感覚の質、たとえば赤の色彩についても言えるであろうか。赤い色を思い浮かべるとき、そのイメージはあれこれの経験的に知られた赤にすぎない。どこにも理想型としての赤などはないのである。これはイデア論のある種の弱点であって、プラントン以後のアカデメイアにおいても、イデア論をもっぱら数理的に解釈する傾向が生じたのである。
色彩を数値化すれば、ある種の概念としての理想型ではないかとも考えられよう。しかしイデア論におけるイデアは直観されうるものである。三角形の概念は、感性界において具体的な形として直観の対象となりうるのである。単なる数値や数式が、感性界においてそのまま具体的な形を取るわけではない。イデアはこの世界に<影>として具体的に現われるのである。もし赤のイデア、すなわちその理想型があるとすれば、それは赤そのもの、赤の本質でなければならない。しかし経験界においても、赤という質的表象はそのままでは概念化が不可能である。概念とはなりえないものの本質とは何なのであるか。確かに赤にも様々な赤があり、それらを経験的に区別することができる。朱、エンジ、緋色、紅などという言葉によって、それらを区別する。区別が可能であるからには、そこにはなんらかの概念の関係があるはずである。それはどのような概念か。それは赤の本質そのものではなく、赤の色彩に加わった明暗のような別の概念による認識なのである。しかし明暗もまたある種の感覚の質であり、それ自体は概念ではない。ここでは質と質とを比較することによって、ある種の概念化が行われているのである。そもそも明暗自体が、コントラストという概念によって把握されるものであり、結局、感覚の質的なものを区別するには、概念をほかから持ってこなければならないのである。このほかから持ってこられた概念が、本来のイデアなのであるといえよう。
感覚の質ということがイデア論にとって無視できないのは、イデアの美、あるいは美のイデアの問題があるからである。古代のイデア論者にとって、イデアの観照はそのまま美の体験なのである。美の要素が単に抽象的な概念の構成物に過ぎないならば、それは哲学者や科学者にとって以外の価値をもたないであろう。現代の自然科学者も、物理的法則は美しくなければいけないと言う。余人には理解できない数式が、宇宙で最も美しい数式であったりするわけである。しかしソクラテスやプラトンやプロチノスにとってのイデアの美は、単なる概念の美ではなかったようである。そこでは感性の質が大いに寄与していたようである。色彩や明暗のない世界に美を感じられるほど、彼らは冷徹ではなかったであろう。そのような世界にエロスを感じることができるであろうか。哲学もまたエロスの営みなのであるから。
美のイデアは、イデアが感性界の質をともなって現われるときに、はじめてエクスタシーをもたらすのであろう。イデアが美となるのは、範型としてのイデアが感覚の最も良い質によって彩られるからである。その最高の質が<光>(*)としての質である。美のイデアはまず光でなければならない。光はイデアが感性界に最初にコンタクトした姿である。意識もまたこのイデアの光によって生じてくるのである。イデアを見ることは、この光そのものを見ることである。その強烈な光輝は意識を圧倒し、意識を隅々まで満たすことによって、いわばこの表象世界の下地を準備するのである。感覚の質である光はイデアそのものではないが、この世界が表象として出現するための、いわばイデアの質料(Materie)をなしているのである(**)。それゆえに明暗はすでにイデアによって規定された感覚の質の本質であるといえよう。同じように、赤の色彩においても、赤の質そのものはさまざまなグラデーションにおいて現われうるが、その本質においてイデアによる規定を受けているのである。それゆえに美でありうるのである。
(*)ここで言う<光>は物理的な光ではないことを特に注意しておく。いわば意識の質そのものとしての光である。
(**)感覚の質がイデアの質料であるということは、その質料の起源を物質として目に見えるものとなる世界意志に帰してよいであろう。感覚の質そのものもまた世界意志の発現なのである。
古代の哲学者は、善のイデアや美のイデアは、この感性界を超越したものであると考えたが、それでは感性界そのものの美を説明できないであろう。少なくとも美のイデアはこの感性界をとおして観照しうるものである。ショーペンハウアーの美の純粋直観はそのようなものである。あらゆる利害関心を離れて、対象そのものの本質を直観すれば、そこに自ずとイデアが発現してくるのである。そのためには主体もまた純粋な主体でなければならない。純粋自我であってこそ、純粋な概念であるイデアによって規定された感性の美も発現するのである。そこではもはや主体と客体の区別はないのである。純粋自我はイデアとの合体を遂げるのである。それがプロチノスの言うイデアの観照におけるEkstaseすなわち自己の超越なのであろう。
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2021年5月15日(土) |
宇宙の発生と消滅 |
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宇宙は現象的に見てある時点で発生し、またある時点で消滅するかに思われる。実際自然科学はそのように教える。ここで発生といい、消滅ということが成立するためには、三つの要素が関係してくる。ひとつは物事が生じる場所または位置であり、ひとつは物事が生じるなんらかの時点であり、さらに今ひとつは、生じかつ消滅するというからには、変化の認識がなければならない。この三者が、現象の認識の基本形式である空間・時間・因果律であることは言うまでもない。さらにここには、なんらかの生じる<もの>がなければならないだろう。これを質料もしくは物質とよんでいるが、これはこれら三者とはややおもむきをことにする。空間や時間や因果律は現象の認識であると同時に、その形式でもあるが、物質はそれらの形式によって現われるものだからである。しかしその現われ方は、徹頭徹尾これら三者の形式によって決定されている。少なくとも現象界においては、物質はこの三者によって記述されるほかはないのである。
物質が何であるかは、この世界の発生・消滅に深く関係している。物質が発現しなければこの世界は無いのであり、なんらかの仕方で物質が現象することにより、この世界は時空の形式において認識可能となるのである。物質はもっとも抽象的な定義においては<作用そのものWirken an sich>といえよう。この宇宙の物質の95%をしめるダークマターとダークエネルギーが、ただ単に銀河を引きとめたり、宇宙を加速膨張させる<作用>においてのみ知られているように、物質はショーペンハウアーが言うように、因果律そのものの具象化なのである。
ここまでは自然科学と認識論の教えるところである。この宇宙は138億年前の、どこということのない一点における莫大なエネルギーから出立し、時間・空間において膨張発展を遂げ、最終的にはなんらかの終末にいたるものとされる。この自然科学の宇宙観においては、物質はもとより、時間・空間も宇宙と共に発生したものとされる。空間がなければ膨張はなく、時間がなければそもそも物質の発生もないであろう。宇宙に時空がそなわっているからこそ、物質の生成・変化・発展も起こるのであると。しかし本当に宇宙そのものに時空はそなわっているのであろうか。時空というものを考えずに、宇宙を記述することは不可能であるか。
この現象的宇宙には、それに先立つProto-universe(原宇宙)が存在している可能性について以前に述べた。それを大乗仏教にならって<純粋相互性>と名づけておいた。相互性の世界には時空は存在せず、したがって因果律もない。万物が相互連関において結びつけられており、そこには構造だけがあり、生成も消滅もなく、宇宙はすでにあらゆる面において完成して存在しているのである。時空も因果律もないのであるから、宇宙はそれ自体において生じることも消滅することもない。いわば有るということもなく、無いということもないのである。そのような宇宙は生成を考えることができない。すなわち永遠に存在するのである。何故にとも、如何にとも問うことはできない。一言でいえば、<不可知>である。宇宙はその根源において不可知なのである。不可知ではあるが、この現象界とは違った意味で存在しているであろう。ホワイトヘッドの用語を借りれば、ある種のeternal entityである。この世界のように生成変化することがない。すでに完成している故に、それ以上でも、それ以下でもないのである。
人間の認識は上に述べたように、時間・空間・因果律によって支配されており、それらの形式を外れた世界を認識することも、本来考えることもできないであろう。相互性の世界は、大乗仏教が言うように、まさに<空>の世界なのである。人間がその認識形式に従って、宇宙を時間・空間的にとらえるのであり、生命体とりわけ人間のような知的生命体は、記憶によって過去を保持し、未来に対して配慮し、あたかも宇宙そのものが<歴史>を持つかのように思いなしている。宇宙は本来記憶も歴史も未来も持たないのである。すべてが結晶のように完成して、空空漠々とした沈黙の中にあるのである。それを知的生命体が時空・因果の形式によって解きほぐすことによって、生命体特有の現象界が発生するのである。
相互性の世界はその片鱗をこの現象界にあらわすことがあっても、すなわち時空・因果律の<破れ>が時として生じることがあるとしても、その構造の全貌は不可知である。しかし、それがなんらかの構造である以上、その構造の発生について問うことは可能であろう。それが形而上学的にのみ考えられうる、本来の宇宙の発生である。すなわち不可知なものの、さらに不可知な根拠を問うことであるが、それを以前にProto-creationと名づけておいた。それが究極の不可知者としての世界意志による宇宙創造である。世界意志の永遠性・無限性を現わす世界が相互性の世界であり、生への意志のはかなさ、有限性を現わすものが、この現象界であるといってよかろう。この現象界は消滅しても、相互性の世界は永遠であり、記憶も、意識も、過去も未来もなく存在しつづけるであろう。もしこの宇宙が滅びることがあるならば、それはこの宇宙そのものが世界意志に回帰することによってのみであろう。しかしそれは時空を超えた世界の事情であり、この現象界からは何一つ知りえないであろう。
この現象界から知りうることは、とりわけ生命体にとって肝要なことは、生命は特別に重要なことではなく、その時空認識にとらわれた認識がもたらすさまざまな妄想が、この宇宙では保障されていないということである。永遠の世界は存在する。しかしその世界は人間が考えるような時空・因果性の世界ではなく、人間のあらゆる意識、希望、悔恨、罪を超えた、<空>の世界であるということだ。そのことがかえって人間に解放をもたらすであろう。もはや過去を悔やむことも、未来を恐れることもなく、あるがままに、定められたままに生きればよいのであるから。宇宙の根本はそのようにできているのであるから。 |
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2021年4月29日(木) |
ショーペンハウアーの洞窟 |
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プラトンの洞窟の比喩は、よく知られた現象界と理念的世界との二世界論のたとえであり、これについては今更解説するのもおこがましく思われるが、一つ疑問点のようなものを挙げておく。洞窟の中の人間はイデア界からの光に背を向けて、壁に映った影ばかりを見つめている。このかぎりでは、人間にとって影の世界がすべてであり、影以外には何一つ認識することができないことになろう。プラトンであろうと誰であろうと、影以外には知ることができないはずである。ところが何故にプラトンはイデア界の存在に気づくことが出来るのであろうか。ここには認識の二重構造があるはずである。影とは近代の認識論で言えば、観念もしくは表象のことであり、イギリス経験論が明らかにしたように、人間の認識は決して観念を出でることはないのである。
プラトンの洞窟では、壁に映った影、すなわち観念もしくは表象が人間の認識対象のすべてであるはずで、その根源であるとされるイデアの光は、いかなる観念であってもならないはずである。観念ではないものをどのようにしてプラトンは認識できるのであるか。実のところ、プラトンにとってイデアとは<純粋>な観念にすぎないのであり、あるいは一般者(universal)としての観念のことなのであり、それならば結局、観念界もしくは表象界を一歩も出ていないことになるであろう(*)。洞窟の比喩そのものが、いわば観念界という釈迦の手のひらの中でのたとえなのである。
(*)範型としてのイデアは<生得的>であって、特別な一般観念であると反論されよう。しかし観念であることに違いはなく、さもなければ影との間に類似の関係を認識することは出来ないであろう。概念は経験界もしくは現象界と無関係ではなく、たとえ生得的であっても、カントが批判したように、もっぱら経験界にのみ適用が可能なのである。あるいはプラトンの場合のように、少なくとも経験界(感性界)に反映されてこそ意味を持つのである。内容の無い概念は空虚であり、イデアもまたその原則をのがれえないばかりか、むしろ経験界によってその存在が知られるのである。
プラトンの洞窟との比較で、Volker Spierling(**)は、ショーペンハウアーの洞窟ということを指摘している。そもそも彼の表象論がプラトンの洞窟の比喩からの示唆であるというのである。プラトンがイデアと称したものの位置にあるのが、物自体としての<意志>である。さすがに近代の認識論を背景にしているだけあって、表象界に対立するこの世界意志なるものは、それ自体において概念ではないのである。しかしそれ故に困難な問題に逢着する。人間が表象界という洞窟に閉じ込められているとしても、そのことをどうやって認識できるのであるか。もはやそれはプラトンのような概念図であってはならないはずである。概念としての洞窟を表象するならば、そのこと自体が表象界にとどまった認識であることになろう。究極において、人間の認識自体がなんらかの洞窟に閉じ込められているかどうかは、人間の概念的認識によっては決定できないのではないかという疑いである。このことをショーペンハウアーはどのように解決したのであろうか。
(**)Volker Spierling:Arthur Schopenhauer zur Einfuehrung 2002 Junius Verlag
じつはここでSpierlingが強調しているのは、視点の自在な転回(Wendung)ということである。ショーペンハウアーは純粋に認識論的な立場と、いわば唯物論的な立場を併用しているのである。つまり人間の認識は脳の中で行なわれており、あらゆる観念・概念は物質的に見て脳内の出来事なのである。脳という一個の客観物が、この世界の<中>に存在していることは疑いない。脳そのものが洞窟なのである。しかしこの物質として現われる世界そのものは表象としての世界である。人間の脳の認識する世界は、表象の中の表象に過ぎないことになろう。これもまた一個の洞窟である。しかしさらに視点を物質界に戻せば、表象界そのものも、すべて脳内の出来事であり、その出来事の外に何があるかは、決して知ることができないことになろう(***)。このようにして表象の背後にあるとされる物自体としての〈意志〉は<不可知>であることが帰結されるのである。すなわちショーペンハウアーの洞窟とは不可知の洞窟なのであり、ある種のパラドックスなのである。
(***)目がレンズからなる一種のカメラであることはだれもが知っている。これを図解するとき、例えば外部にある樹木などを目の外に描き、その倒立像を目の底の網膜に描くのがふつうである。この図全体はさらに目の中に映った像としてとらえることが出来る。つまりどこまでいっても、表象としての像を出でないのである。実際は、目の外に樹木の像などは存在しないのであり、それは?ないしXとしての、なんらかの表象以外の存在であり、科学はそれを光の波長などの概念としてとらえているが、概念であるかぎりはやはり表象としての世界に属している。はたして目の外にあるとされるXなるものが、表象の<原因>であるかどうかも疑いうるのである。実際バークレイは疑っている。人間の目の属する脳がカメラの機能の本体であるが、表象は目すなわち脳の中にあると見なされうる。しかしそのように表象が脳の中にあり、脳の外の本体をとらえることができないと考えるとき、そのように考えている主体は、脳の外に出ている。この脳の外に出た主体もまた、脳の機能と考えれば、ふたたびそれを考えることによって、主体は脳の外に出て、さらにまた・・・。こうして無限にこの不可知者なるXは幻のままで、とらえられることがないのである。
そもそも世界の本質自体を〈意志〉としてとらえることが、プラトンやそのほかの観念論哲学とは根本的に異なっている。身体の中で力動的にうごめくものを、概念によっては適確にとらえることなどはおぼつかない。しかもそれを世界全体に及ぼすならば、この意志なるものは圧倒的に無意識なのである。無意識の意志の対極にあるのがデカルト的な明晰・判明な思考すなわち概念である。プラトンの洞窟の概念図は、その意味でショーペンハウアーの不可知の洞窟の対極にあると言えるであろう。じっさいショーペンハウアーは<プラトンのイデア>を彼独自の解釈で用いているのであるから。 |
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2021年4月26日(月) |
社交欲について(社会本能又はホメオパシーについて) |
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孤独者にとってのやっかいな欲望の一つに、人と親しく交わりたいという、心情的欲求がある。仲間との交友を欲するという、この度しがたい快の希求は、生命体の根本から来ているようである。人間をはじめとする哺乳動物は、親に栄養を頼らねばならないため、きわめて強い依存心を誕生の当初から本能的に植えこまれている。他者への強い希求は、食欲と結びついた自己保存の基本条件なのである。その対象が実の親に限らないのは、家畜ややペットの飼育で、だれもが知っている。
人間は最初は親に、次いで兄弟姉妹や周囲の仲間に、その依存心の対象を向けていく。そうすることによって個体保存を図るほかはないのである。この徹底した依存心を社会学では<社会本能>と呼んでいる。この動物界共通の本能は、単なる無機的反応ではなく、生命体の基本原理である<快>の追求として現われるのである。本能に従えば、そこに快が生まれるのが、生命体の原理である。本能が阻まれれば、そこに<苦>が生まれるのである。社交欲が社会本能から生まれる以上、それは快の追及なのであり、それをみずから阻み、あるいは境遇によって阻まれることになれば、そこに心情的苦が生まれるのである。
社交の快は基本的に依存心から生まれるといってよい。心身の状態や、経済的条件がいかに充実していても、この習性となった依存心の満足の欲求が、他者との交わりを求めさせるのである。自己自身において充足するということが、生命体にとって根本的に困難なことであり、たえず他者からの刺激や援助や評価や承認を求めさせるのである。しかもそれらが欠けるならば、直接的害ではなくても、心情的苦となって、心の平静を妨げるのである。しかし依存心すなわち社会本能によって構成されている人類社会において、その中で育ち形成されてきた個人は、純粋に自己自身に頼ることになれば、ほとんど無能無力の存在と化してしまうのである。インドで言う林住期や遊行期の老人たちがそれであろう。社会本能を克服するには、社会から抜け出すほかはないのであるが、そうすることによって社会からのあらゆる恩恵をも棄てさることになる。
そこまでの隠遁者ではないにしても、依存心を断ち切り、おのれにのみ自足して生きようとするとき、さまざまな困難が現われてくる。社交欲に苦しむこともその一つであるが、そもそもおのれの心身一つに快を限ってしまったとき、本来依存心にもとづいている快が有効に働かなくなるのである。場合によっては快自体が倒錯していく。あくまでも快において自己自身の充足を求めるならば、快自体がそれに反撥するのである。自己自身に充足することと、心身における快とは、根本において相容れないのである。それゆえに隠遁者は、快を惧れ、快から遠ざからねばならない。少なくとも快を抑制しなければならない。
快を抑制することは欲を抑えることであるが、おのれにのみ自足することは、それ自体欲であってはならないであろう。おのれに自足するためには<無欲>でなければならないのであるが、それでは心身の個体保存という生命体の基本原則に反するのである。個体保存そのものは生命体の欲であり、快の追及である。無欲でありつつ個体保存することを、老子は無為自然と称したが、そのような矛盾した存在のあり方が可能であろうか。老子は太源としての自然を背景にしているので、そのようなことが言えたのであろう。そこには個体保存すらないのであろう。老子はさておき、現代社会で隠遁者として生きるには、社会の用意するあらゆる快と闘わねばならないのである。快適に生きる隠遁者とは言葉の矛盾である。日本には楽隠居という言葉があるが、まったく社会の恩恵にどっぷりと浸った、似非隠者なのである。
隠遁者は個体保存の範囲を限らねばならない。最小限の生存条件を準備し、則を越えないようにすることである。その条件のもとで徐々に心身の快楽から遠ざかる修行をすることである。それをおのれ一人ですることは困難を極めるが、社交の快ですら拒否するいにしへの隠遁者に習うべきであろう。おのれの心身をおのれのものと認識しつつ、それを抑制し、統御し、最終的にはそれをおのれから切りはなさねばならない。おのれをいつくしみつつ、おのれをさげすみつつ、おのれをおさえつつ、おのれの根源を唯一の頼りとして、この世界の生死を超える道を探るのである。これができてこそ形而上学も意味をなすのである。
* * *
社交欲は依存心の現われであるとしたが、この点をさらに心理的見地から考察する。依存心が成り立つためには、依存する者と依存される者との間に、なんらかの共通点がなければならない。依存する者は、単なる寄生関係でないかぎりは、依存される者との間になんらかの暗黙の了解を期待しているのである。すなわちどちらも社会本能の持主でなければならない。社交は一方的なのではなく、相互的関係から成り立っている。どのような社会であれ、すべて成員間の互恵関係からなりたっている。この互恵関係が成り立つ根拠を、相互的依存心に求めてよいであろう。それでは依存心とはどのような心の状態なのか。
民間の治療法に、ホメオパシー(homeopathy)というものがある。ある病気と類似した症状をもたらすなんらかの化学物質を、当の病気の治療に用いようとする、ややいかがわしい療法である。この語の語源的意味をそのままに転用して、依存心の基本をホメオパシーに求めることができよう。すなわち同一の感情ないし共感が、依存心を成立させるのである。生命体の間には、つねにこのホメオパシーが働いており、弱肉強食の生存競争とは対抗する原理となっている。これは同じ種の個体間ばかりでなく、種や類を超えた共生関係としても現われる。場合によっては動物と植物の間にも、この共感は及ぶのである。例えばハチドリと、もっぱらハチドリに適合した花の間には、相互的なホメオパシーが働いていると言えよう。たんなるDNAの偶然な変異によっては、このような相互の適合は起こらないであろう。自然選択の前に、この生命間のアプリオリなホメオパシーの働きがあると考えるべきであろう。
社会本能の本体もじつはこのホメオパシーなのである。この共感はあらゆる社会関係の根底に存在しており、知情意にわたって人間の行為を支配している。しかも知性や意識に先立つ無意識の働きであるから、普段はそれと気づかれずに、場合によっては衝動的に人間の行為をあやつっているのである。それが意識に現われるときは、共感や同情や、その他の感情移入や、ここでのテーマである依存心と呼ばれるものとなる。依存心はそれが意識に現われる時は、すでに共感や同情を前提としているのである。情意だけでなく人間の知的行為も、このホメオパシーによってあやつられている。そもそも言語はこのホメオパシーの産物だからである。だれかがhi!と叫べば、その音声は感情を伝えるばかりでなく、その者の意識の中にある概念的表象にまで及ぶのである。いわば言語はたんに受け取る者の頭の中で解釈されるのではなく、ホメオパシーを媒体として表象を直接伝達するのであり、本質においてテレパシーと違いはないのである(*)。
(*)表象がまずあって、それがホメオパシーによって共通の認識となり、その無意識の認識を感覚的音声によって確認するのが言語であるといえよう。つまり通常考える感覚から概念へという言語の発生過程とは逆になる。外国語のように単なる音声だけでは表象は生じないのはそのためである。
人間が思索するとき、その半分は無意識に行われるといってよかろう。私が考えるとき、私は無意識において人類と共に思索しているのである。これが思索もまた社交心の産物であることの、根本的原因である。私は思索しながら、誰であれ他者と語っているのである。他者と共通の言語に依存し、他者の思索に依存し、そもそも知的生命体としての思索の条件に依存して、物事を考える他はないのである。これが知性の根底にあるホメオパシーである。
生命界全般にわたるこのホメオパシーの支配に対して、当然ながら知情意のレベルではとても対抗することはできないであろう。ショーペンハウアーは同情(Mitleid)を道徳の基本としたが、それはホメオパシーそのものである。それがどのようにして、この生死界すなわち生への意志からの解脱につながるのであるか。上に述べたように、ホメオパシーは弱肉強食の生存競争に対立する原理である。この世界を地獄にさせている食物連鎖に対して、生命は少なくとも部分的に対抗策を供しているのである。獅子と羊とが共生することは不可能であっても、共感や同情によって、この世の苦を相互に和らげ、解脱への契機とすることは可能なのである。それゆえにブッダは単なる超越者ではなく、慈悲の存在でもあったのだ。慈悲とは世界の苦に共感することである。あえて他者の苦をおのれの身に引き受けることである。ホメオパシーそのものは生命界のメカニズムであるが、<共苦>によって、この世界からの救済への一つの手がかりともなりうるのだ。
社会本能で生きることが人生のすべてではない。孤独者・隠遁者にとっては社会本能は苦の源でもある。人類の大半は、あえて苦を選ぶことの意味やメリットを感じないであろう。楽ではなく苦によって、この世界の本質が見えてくるのである。それが苦行の意味である。社会本能に逆らうことが何故に苦であるか、苦よりもなぜ楽を求めるのか、そこに生命の本質があり、楽を求めるゆえに苦があることの根本の理由がある。快苦を超え、生命界を超越するには、快ではなく苦によって自覚するほかはないのである。これは中道を説いた釈迦も同じなのである。快があるから苦があり、苦があるから快を求める、この生命の根本原理を超えなければ解脱はないのである。 |
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2021年4月24日(土) |
快楽の彼方 |
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快楽に対抗する原理としては、カントの道徳律や、良心といったものを挙げておいたが、カントはさておき、良心についてさらに考察してみる。良心とは、他人に<知られる>のを惧れることであると定義した。一般に快楽は現実と衝突する。個人の快楽のあらゆる階梯において、それらを充足させるためには、それらが自己自身の範囲にとどまるのでない限りは、必ず他者の、あるいは一般に社会の承認を必要とするのである。すなわち他者からの監視が、快楽の社会的充足の範囲を決めるのである。その規範を、一般に<モラル>といってよいであろう。すなわちモラルとは一般化された良心であり、つねに監視の機能を果たしているのである。
この機能は社会によっては非常によく働いている。例えば封建社会においては、相互の監視が個々人のあらゆる快楽的行為を規制しており、一定の<道徳>に反する快楽的行為は、ある種の効果的な反撥を行為者自身の中に生みだすのである。その効果は<恥>や<羞恥>の感情となって現われ、さらに<プライド>や<自尊心>となって、特定の快楽を超越させるのである。行為者はつねに<社会の眼>を、おのれの中に意識しているのであり、それによって承認される行為のみが、安心してその快にふけることが出来るのである。もし社会の目がおのれの快楽的行為を咎めるならば、そこに恥や羞恥として現われる<良心>がはたらき、それが抑制のメカニズムとなるのである。その<不道徳>な行為を抑制することに、行為者のプライドと自尊心もかかっているのである。こうした社会では、プライドと自尊心を守るためには、容易に肉体やその他の快をすてて、心情の自己満足である自殺にはしりうるのである。すなわち汚名を雪ぐわけである。
このモラルの社会的機能は、現代の自由な社会においては、ほぼ消滅したといってよかろう(もちろん世界にはこのモラルに縛られた窮屈な社会はいくらもあるのであるが)。他者の眼でもって自己自身の行為を規制することは、その社会的根拠を失っているのである。すなわちあらゆる快楽は<自己責任>なのである。たとえおのれの快楽的行為によって、軽蔑されたり、場合によっては罰せられたりする可能性があろうとも、要は<知られなければよい>のである。これが現代の快楽主義である。快楽を抑制する社会的規範が失われた以上、あらゆる快楽的行為が可能となり、犯罪ですら、それを快楽とする者には、それが法的懲罰の苦をもたらさないかぎりは、あえてその刺激によって至上の快楽となるであろう。
このような時代に、どうやって自律的な快楽抑制の方法を見つけ出すことができるであろうか。もっぱら自己自身に頼りつつ、自己自身の快楽を抑制するという、一見不可能な離れわざが必要なのである。宗教者は神や仏といった、絶対の他者の眼を信じることによって、社会的モラルに代えることができる。この世で罰せられなくとも、<あの世>で罰せられるのである。しかしそうした素朴な信仰は過去のものである。神や仏のいない(天国も地獄もない)現代において、自己自身の眼を唯一頼りにして、どのような規範を立てることができるであろうか。快楽の階梯において、もっとも強力なのは食欲や性欲といった、生命の根源にある肉欲の快であるが、それらに対しては、心情も知性も、ほとんど無力であり、抵抗と言うほどの抵抗もできない。おまけに知性も心情も、身体という共通の領域において、肉欲と連鎖しているのである。頭脳も心臓も胃袋も性殖器も、みな<私の体>なのである。快楽においては極端な階梯をなしていても、私はそれらをすべて私のものであると認めることができるのである。それらはそれぞれにおいて、それぞれの機能を制御しており、どこにもそれらを統一的に制御するものは見つからないのである。もし<人格>がそれであるというならば、人格は社会的構成物であることをすでに明らかにした以上、ここでは問題にならない。孔子やソクラテスのような<人格者>は今日では到達不能な<理想>でしかなく、いかに敬意を覚えようとも、そうした社会機能の権化のような人物には、とうてい自我に目覚めた人間には近づき難く、模倣不可能なのである。
たぶん人間よりも自然界に眼を向けることが必要なのであろう。人間が動物と同じように自然人であった頃には、快楽は自然が自ずと制御してくれていたのであろう。過酷な自然環境においては、余分な快楽に耽っている暇などはなかったはずである。すなわち文明の産物である<ひま>と<退屈>が、人間を快楽の怪物に仕立てあげたのである。逆に言えば、快楽を抑制するには、ひまと退屈をなくせばよいことになる。どのようにしてであるか。奴隷のような過酷な労働に身をおくわけにはいくまい。強制すれば、快楽においても倒錯していく。肉体的労働は、確かに余剰なエネルギーを消費してくれるであろう。知性は、一般にはたいした快を与えないが、少なくとも探究心によってエネルギーを消費してくれる。しかしこれらだけでは、ひまと退屈とが退治できはしないであろう。そもそも余剰なエネルギーを作らないことが大事なのである。
修行者は一般に菜食主義である。これは生きるために必要最低限のエネルギーを摂ればよいということなのであろう。たとえ最低限のエネルギーを摂ったとしても、何もしなければ、ひまと退屈に襲われ、快楽の出番となる。身体的労働、知性の活動によって、ひまを埋めなければならない。しかも肉体であれ知性であれ、ある程度の労力を要することには、肉食が必要なのである。知性に関して言えば、知性すなわち脳は菜食主義によっては、たいした働きをしない。カントやヘーゲルのような強靭な、粘り強い思索が可能になるのは、西洋のような肉食文明においてのみなのである。栄養においておとる菜食主義では、とても哲学や科学はできまい。東洋哲学が簡素で、しかもえてして反知性的なのも、菜食主義に由来しよう。それはエネルギーを抑えることの必然的結果である。それはともかく、肉体の快にも、知性・心情の快にも、淫してはならないのである。知情意にわたって快を抑制すること。これが菜食主義の東洋の禁欲であるといえよう。これは前に述べたように、機械的な習慣とすることによって、効率的に快楽を遠ざけることができよう。あたかも天体の運行のように、日々無機的に活動することである。
結局快楽は、知情意のすべての階梯で抑えられねばならないのである。その出発点が食事にあるのは、人間の本質が身体・肉体をおいてはどこにもありえないからである。快楽を統御するには、まずおのれ自身の身体を統御することである。身体に無用な快楽を与えないように、快楽の源であるエネルギーを消費することである。修行者は遊行したり、踊ったり、千日行のようなひたすらな消耗によって、身体のエネルギーをコントロールしているのであろう。快楽の克服という目標を立てるならば、日々身体のエネルギーの制御を心がけねばならない。身体の快楽を克服できて、そのうえで始めて、形而上学的実践が可能になるのである。それは快楽の彼方にあるからである。
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2021年4月6日(火) |
狂気について |
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人間は生まれながらに狂人であることは稀であろう。それは動物が生まれながらに狂っていることがないのと同様である。動物を狂わせるのは飼育する側であり、あるいは苛酷な環境的条件である。狂人は人間社会という環境で作られると言ってよかろう。とりわけ文明社会が狂人を作りだすのである。
動物であれ人間であれ、心身の自然的条件あるいは素質が、環境によってプレッシャーを受け、歪められることによって、自然な反応もしくは発現ができなくなるとき、いわばある種の自暴自棄的な生体のメカニズムによって狂気が生じるのであろう。
すでに社会環境が生命体としての人間にとって、きわめて不自然な構造や圧力を伴なっていることによって、社会的に生きるということは、それだけですでに狂気の始まりなのである。人間は動物にはない言語という特殊な心的環境を作り上げている。これは生命体の心身の行動にとって大きなプレッシャーとなっている。そもそも言語は生命体にとって<不自然>なのである。通常の動物は身体的接触や、鳴き声のような直接的心情によって、社会的コミュニケーションを図っている。それが自然界通有の<正常>なコミュニケーションのあり方なのである。言語によって自と他との間隔をおきながら、社会的関係を作ることは、すでに心身におけるアンバランスの始まりである。いわばその段階ですでに狂っているのである。
言語に頼ることが人間の思考を明晰にするのは確かである。しかしその明晰さとは、じつは自然から乖離することの代償としての意識の過剰なのであり、それ自体狂気と言えないこともない。あまりにも明瞭な意識、それは狂気の一種ではないか。心身にうごめくものと、あまりにも遠く離れた、その明晰さは、それ自体ではいかんともしがたく無力なものである。生命体としてはあまりにも無能な状態なのである。人類の思想が、その無能な明晰さの産物であるとすれば、思想そのものがある種の狂気の産物であると言えよう。
通常狂気とは、知よりも、情意のレベルでのそれが、はるかにやっかいである。明晰に思考する狂人は、そのかぎりで無害である。情意に狂いを生じるときは、思考そのものも同時に狂う。論理に執着しすぎて、そこから固定観念的に脱け出せない思考は、何よりも情意において病んでいるのである。感情的に病むこと、意志において病むことが、本来の狂気である。当然ながら、社会的に最も影響を受けるのは、心身であり、社会の機構の中で絶えず人間同士の間での圧力を受けることによって、感情も意志もゆがむのである。その鬱憤を直接発揮すれば、突然の怒りや暴力や犯罪となって現われるのであるが、それらも狂気のあらわれであると見てよかろう。
暴力や犯罪に限らず、行為や言動が理解しがたいとき、通常狂気と称される。しかしすでに述べたように、人間が知的に理解することも、すでに狂気に冒されているのである。私が狂人のふるまいを理解できないとき、その狂人から見て私の態度もまた理解できないのであり、私自身もまた狂人なのである。理解でもって解決しようとすること自体が、人間特有の狂気なのであるといえよう。心身の病は、単なる理解でもっては解決できないのである。狂気を理解しようとすることがすでに狂気なのであるから、狂人に対するには、いわば共に狂うほかはないのである。狂人に接したならば、私自身もまた狂人であることを、肝に銘じておくべきである。
以前に述べたように、人類はみな狂人と言ってもよいくらいである。そうであるならば、だれと暮らそうと、だれと付き合おうと、人類社会そのものが精神病棟であるのだから、どう回避するすべもないのである。人類は一万年の文化を持つにしても、その人間性においては少しも変化していない。だだその狂気を文明の名においてつのらせているだけである。いわゆる狂人は、一見正常者のようにふるまっている人間たちの中で、文明が作りあげた産物である人間と称するものが、どれだけ不自然な存在であるかを、露骨に暴き立てているといえよう。
狂気の現われ方は人さまざまであろう。単に脳の器質や脳内物質における異常や疾患であっても、その現われ方は人間に特有である。普通に精神病と言われているものは、誇張された狂気であると言ってよかろう。だれもが程度において、潔癖症であり、精神分裂(統合失調)であり、躁鬱病であり、パラノイア(偏執狂)でありするのである。単に知覚や感覚や思考能力の異常であっても、それが狂気をもたらすかどうかは別の問題である。狂気は人類一般の根底にある、存在の異常だからである。Existenzそのものに異常があるのである。いわば人類は宇宙の中でのガン細胞であるのかもしれない。 |
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2021年4月4日(日) |
Objektivationについて |
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客体化(Objektivation)とは、本来主観の認識作用における自己客体化から発した言葉であろう。認識は意識的であるかぎり、主観(主体)と客観(客体)の両方面に分かれる。認識者であるかぎり、この主客の共扼関係を逃れることは出来ない。この関係において、主体がその認識のまなこをおのれ自身に向け、自己を身体的客体(あるいは事物的客体)として客観視するとき、 認識論的意味のObjektivationがなされると言ってよかろう。この場合は自己客体化とするのがよいであろう。ひらたく言えば、身体としての自己の発見である。
自己を身体化するということは、事物の中の一個の事物としてのおのれを見いだすことである。身体的自己は、この個物の集合である世界の中で、一個の眼としてふるまう。けっしておのれが唯一の認識主体であるとは考えないのである。この段階ですでに<独我論>を脱している。モナドロジーの用語を用いれば、世界を見る一個の<アスペクト>に過ぎないのである。世界は無数のアスペクトによって、多面的に形成されるのである。このためには、自我は、あるいはモナドは、自己客体化の能力を持たねばならないのである。この自己客体化によって、無数の他我、あるいはモナドの存在を知る。無数のモナドの間での交渉、あるいは表象の反映によって、すなわち無数のアスペクトの集成によって、この表象界は構成されているのである。私がみずから宇宙を探究しなくても、多くの科学者や思想家が、それぞれのアスペクトから、この表象としての宇宙を構成してくれるのである。これがObjektivationの認識論的意味であると言える。
世界を構成するのは、それぞれの主体が、それぞれのアスペクトから、その認識を寄与することにより、統一的世界像を生みだすというプロセスなのであるが、これを世界の側から見るならば、客体化はまた別の意味を持つことになろう。主体も客体も、世界という本体から見たならば、世界の内部にあり、世界の<産物>であるとみなすことが出来る。実はこの関係、あるいは関係の直観が、認識における自己客体化の根底をなしているのである。認識者あるいは自我が、この世界と根本的に無関係であるならば、客体化はまったくの無意味であり、そもそも認識自体が無意味なのである。したがって主客に分かれることなどは決してありえない。主客に分離したことによって、自我はすでに<世界内存在>なのである。
そうであるならば、世界から見た客体化とは、世界自身が世界を見る無数の眼を生みだすことであると言えるのである。これが形而上学的なObjektivationの意味である。宇宙の創生とは、宇宙自身の本体の自己認識の営みであると言えるのである。エドガー・アラン・ポーの宇宙論も、ショーペンハウアーの形而上学も、そのように考えている。星や銀河の生成について思いをめぐらすとき、なんとなく近しい思いに駆られるのは、万物のいとなみが、人間すなわち知的生命体の営みと、どこか似ているからである。いわば自己自身を発見しているのである。この意識の根源が、宇宙の根源から出ているものならば、この親近感は、宇宙が自己自身を認識していることに由来するのであるかもしれない。そのようにしてとらえられた宇宙は、この宇宙の全表象を含む、モナドロジーでの<神>のモナド、筆者の形而上学で言えば三一体としての全一者のモナドに等しいであろう。認識者は究極において、<神>すなわち<全一者>に還ることを願っているのである。それが世界認識への根本的衝動なのである。
全一者の発現としてのこの宇宙は、創造と同時に宇宙の全表象を内包しており、それ自体で完全であり、完成しており、そこにはいかなる認識も、経験も、知識も必要ないであろう。認識や経験を必要とするのは、それぞれのアスペクトに分かれた個々のモナドすなわち自我のあり方にすぎないのである。自我が全一者に帰還するならば、すなわち宇宙の十全なる表象に達するならば、もはや知識も認識も経験も必要ないのである。全一者に回帰することによって、自我はこの三一体としての宇宙を解消する自由を持つ。そこでの自我はもはや単なるアスペクトではなく、宇宙そのものとして全表象を内包し、したがってもはや客観態(Objektitaet)としての表象を必要としないからである。そのことによって、自我はもはやこの宇宙にとらわれることがないのである。宇宙は自ずと解消されてゆく。これがニルヴァーナの形而上学的あり方である。
一個のアスペクトとしての自我、すなわち身体的自我は、全一者に回帰することによって、純粋自我としての唯一無二性を回復する。身体的自我としての一生、個の観点からの表象としての世界は、同時に消滅する。人生も一代、宇宙も一代かぎりなのである。全一者の発現としての宇宙は、それぞれのアスペクトからなる故に、ひとつのアスペクトはその肉体的自我に固有のものであり、その自我と共に滅びるのである。全アスペクトの集成である全一者の世界は、単なる個々の自我の消滅によっては、なんの影響も受けないであろう。全一者の宇宙はあるがままにある。しかしそれは知識でも経験でもないのである。そこにはいかなる認識もなく、また認識を必要としないからである。認識は個々の自我においてのみ必要ないとなみであるから。肉体的自我は安んじておのれを滅ぼすことができよう。そうしてこそ、究極の自我に帰還できるのである。 |
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2021年4月1日(木) |
快楽依存症について |
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生命体の存在の本質が快楽であることが分かった以上、快楽の飽くなき追求が動物であれ人間であれ、生命体の根本行動であることは当然である。人間はそれを婉曲に<幸福>と呼んでいる。そこから当然ながら、あらゆる行為において快楽が基準となり、快によって以外には、行動の動機が生まれないことになる。これを広い意味で、快楽依存症と名づけてよいであろう。快を求めて苦を避けるという、昔から言われている<快感原則>がそれであるが、いま苦の本質はさておき、行為することは同時に快へ向かうことであるから、あるいは苦の除去へ向かうことであるから、なにごとにおいても快がなければ生存の意味を見いだせないことになる。すなわち、生命体とは完全に快の存在に依存した存在なのである。これは生命体の根本的な存在のあり方なのである。
そうであるならば、それは<依存症>と言う以前に、そうであるほかはない行為のあり方であるということになる。なんらかの行為をするには、つねに快感というMotivが必要なのであり、それは水が低きに流れるのと同様で、まさに自然なのである。自然であるかぎりは依存状態に気づかずにいる。それが依存症となるのは、意図的・意識的に快楽を求めようとすることから、極端な快楽でなければまともな行為が出来なくなる状態に陥るからである。<退屈>がその典型的な状態である。快楽を刺激として、いわば存在の生ぬるい快の状態から脱け出そうとするのである。快の階梯において、より以上の快を求めようとして行為するのである。飲酒・ギャンブル・金銭欲・過度の性行為・性倒錯など、みなこの部類である。しかし、快楽依存症は、そのような極端なものばかりではない。
じつのところ、欲望や欲求のからむところには、つねに快楽依存症の徴候が現われるのである。ふつうは無害に思われることでも、例えば遊戯やゲームやスポーツにおいても、特に子供に見られるように、とことん飽くことのない満足を求めがちである。まさに快楽によって鼻面を引き回されているのである。こうした快楽に耽ることで、日常的な普通の快楽が物足りなくなり、より強力な快へと欲望がエスカレートしてゆくのである。これは単に、遊戯やゲームやスポーツやの、心情的・身体的快には限られない。もっとも精神的と思われている、知識欲や、学術や、芸術においても、同じような快への没入と、飽くことのない快のエスカレートが見られるであろう。知識欲や探究心は、中途半端にとどまることはないのである。より多くを知り、より多くの知識を所有することの快は、やはり天井知らずなのである。それ故にやたらと書物や<情報>が山積みされていく。これらもまた、快楽依存症と言わずしてなんであろう。一言でいって、文明とはあらゆる点において、快楽依存症の産物なのである。
通常の動物であれ、知的生命体であれ、快楽に依存しなければ、その存在を保てないのであるならば、一体どのようにしてこの依存症を抜け出すことが出来るのであるか。たいていの幸福論は、この大前提を疑ってはいないのである。すなわちいかに快を馴致するかが、あらゆる幸福論の課題なのである。快を否定したところには幸福はないからである。釈迦ですら、ニルヴァーナは無上の快であると言っている。たとえそれが一般大衆向けの<方便>であったとしても、大衆には快以外の幸福はないのである。
幸福のレベルでは快は克服できない。カントは快を克服するには<道徳>以外にはないとした。道徳は<同情>の快ですらないのである。それは快苦を超えた単なる<義務>である。義務を果たすことが快であるから果たすのではない。それが快苦を超えた絶対命令であるからだ。人を殺してはならないのは、それが快楽やまして苦痛をもたらしてはならないからではなく、それが律法として快苦の上に立つからである。いわば人類の上に(内にではない)、法として超越しているからである。それ故にだれもが、<義務>によって同じように行為しなければならないのである。そのさい、他人であれ私であれ、それを望むからでも、欲するからでもなく、そうであるならば快苦に支配されることになるので、まさに<道徳律>として、行為を強制しなければならないのである。残念ながら、このカントの言うように行為することは、原理的にはありえても、人間の快楽的本質からいって不可能なのである。善行には同情心すらいらないのであるから。たしかに老人に席を譲るのは、同情心のためばかりではない。周囲の目という強制が働いて、それが不快を生むゆえに、しかたなしに譲るのである。すなわち単なるルールやマナーにすぎないが、やはり不快よりも快を求めることが原因なのである。
この他者に見られているという意識が、いわゆる<良心Gewissen,conscience>の起源である。Wissenやscienceという知の要素がはいっているように、良心とはおのれの行為を〈知られる〉ことの惧れなのである。私が知るのではなく、他者が知るのである。私の内にある他者の眼でもって、私自身を見るのである。それが〈超自我〉の正体である。超自我すなわち他者からの監視に逆らうことは、ある種の不快を生み、それに従うことで、ある種の快を生むのである。良心もまた快楽原理に従っているのである。まさに快感原則がある故に、不快によって行為を規制するのが<良心の呵責>なのである。そこには生命体の度しがたい依存心理が働いている。
また、人間は進んで死を選ぶことによって、快苦を超越しているではないかと思われもしよう。戦士はたしかに死を恐れないが、死以上に恐れるものがあるからである。すなわち名誉や名声といった、他人や集団や社会の評判を何よりも快とすることによって、不名誉や悪口を何よりも苦痛とするのである。それにくらべれば死の苦痛など、たいしたことではないのである。これに関しては<全体への意志>に関連して、すでにふれた。通常の自殺においては、もはや快を得られる可能性が、なんらかの事情によって閉ざされたとき、ある種の心理的マゾヒズムによって、自己自身の身体に死を与えることが快となるのである。苦によっては人は、それを回避する以外に行為できないからである。自ら死の苦を選ぶことは、なんらかの宗教的信念によって、死後の快によって報われることを目ざさなければ、ありえないであろう。
快を克服することは、人間の本質と戦うことであるから、通常は不可能である。釈迦ですら、ニルヴァーナに達したのちにも、快について多くを語っている。集団での修行そのものも快なのである。そもそも一杯のミルクという<快>によって開眼した釈迦であるから。人間の本質は快なのである。快によって快を克服する、それが究極のニルヴァーナなのであろう。これも快、あれも快と、探求をつづけることによって、最終的に快の本質を見極めることにより、世界の根源へといたり、そこにおいて救済の可能性を探ったのであろう。苦というのは快の裏面であって、苦は快(愛)からいずるのであり、実は快が本質なのである。釈迦がそのように言わなかったのは、大衆を目醒めさせるには、苦のほうが分かりやすいからである。すなわち方便である。快を求めれば必ず苦がある。さらに快をつのらせれば、苦もそれにつれて増していく。苦を滅するには、快を滅するほかはないのである。
宗教者でないかぎりは、快の克服は通常はMiddle Wayを行くであろう。中庸や節制といったことがモットーとなる。中庸や節制であっても、単なる言葉では暴戻なる快の欲求にうち勝つことはできない。それを実践するにあたっては、知的生命体特有の方法がある。すなわち習慣と言われる無機的な行為である。習慣が快によって支配されるならば、それは単なる習性である。心地よいことは繰りかえす習性を生むからである。ここでいう習慣は、日々の行為をそれが快であるか不快であるかには無関係に、いわば<義務的>に、機械的に繰りかえすことである。ただしそれは強制であってはならない。強制は必ず、その反発である快の欲求を生むからである。快の欲求は注意多動をうむ。習慣的行為に注意を集中することにより、欲のうごめきを抑えるのである。一つ一つの習慣的行為に注意を集中することにより、快でも不快でもない状態を作り出す、これは実は修行者のやっていることなのであろう。この快でも不快でもない状態は、やはり一つの快の状態なのであるが、それに執着すれば、また快にとらわれることになる。知情意においてひたすら無機的に行為することを目ざすならば、あたかも天体の運行の如き心身の調和が生まれることであろう。
とはいえ、完全に快苦を超越してしまっては、生存においてはなはだしい不利を蒙ることになるであろう。じつのところ、快苦は生命界における生存戦略と密接に結びついており、苦を避けることは同時に危険を避けることなのである。快苦を超越することは、生命体として無能無力になることである。それゆえに世間とは隔絶した環境においてしか、<聖人>は生きることができないのである。快苦を超越しつつ、なおかつ生命体としてのおのれをまっとうするためには、古代哲学での意味の<賢者>でなければならない。賢者は快に溺れない。快の本質を洞察し、それの生存における効用だけを、積極的に評価するのである。この点はエピクロスもストアもデモクリトスも同じである。
生命現象を無機的習慣に変えるということは、生命体としてのおのれを客観的に見ることである。起床から就眠にいたる一日の全生命的行為を、あたかも機械の行為のように義務的におこなうことによって、そこになんら快楽的意味を加えないようにする。そこに苦痛や快楽が起これば、あるいは退屈のような心理現象が起これば、それらを機械的に処理してゆく。そのようにして生命を機械化することによってのみ、快苦の超越は可能であろう。それが可能であるのは、<習慣>が生命体にとって<第二の天性>となりうるからである。その際生命体にとって危険が発生したとき、その対処もまた機械的になされるであろう。そもそも賢者は、最小の危険と最少の必要の起こりうる生活環境を選んで、生存の身をおくであろうから、あらかじめ行為の基準を決めておくことが出来るであろう。快苦を超越しつつ、なおかつ賢明に生きるには、人生のあらゆる出来事を、あらかじめスケジュールしておかねばならないのである。そして最終的には、死もしくは解脱によって、この身体的生命から解放されるであろう。 |
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2021年3月31日(水) |
快楽の階梯 |
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人間が生命体である以上、すなわち肉体を持った存在である以上、生命体に基本的な生き方である快楽の追求が、その存在の本質をなしていることは、だれにも疑いえないであろう。すなわち、人間は他の動物と同様、本質的に快楽主義者であるのだ。しかし一口に快楽と言っても、その程度、持続性、濃度などに相当な開きがあり、特に人間の場合には、そのグレードの幅が極端に著しいのである。それ故に通常の生活においては、存在そのものの本質が快楽であることが、特に意識にのぼらないのである。食欲や性欲のような、強力な快以外には、特に快によって生かされているとは思わないのである。
存在の本質が快であるということは、その快の状態が時間的に長ければ長いほど善いということになろう。すなわち快の追求は、快の持続可能性の追及なのである。快は持続可能(sustainable)であるほど善い。これが快の基本原則である。この原則にしたがって、快楽の階梯を考えてみよう。
食欲や性欲の快が、もっとも強力な快であることは、だれもが知っている。そしてもっとも短い間の快であることも。肉体の肉体たる快である、食欲や性欲の快が、強力ではありながら持続しないのはなぜであるか。これは生命体の生存の条件を考えれば当然である。鳩のつがいは、交尾したとたんに二羽共に勢いよく飛び去る。個体にとって快楽に耽る状態はもっとも弱い瞬間であり、天敵に襲われやすいのである。それ故に性の快楽は強力である代わりに短いのである。人間やその他の動物の場合も同じである。人間の交接が夜に限られてきたのも、同じ理由であろう。文明と共にこの危険は減少してきたが、やはり快楽の持続性の短さは変わらないので、ここにあくなき性感の追求ということが始まる。性感をどこまでも持続可能なものにしたいという、エロスの探求が、人類史を貫いているのである。同じことは食欲についてもいえる。小さな鳥は、餌をついばみながら、つねに周囲に対する警戒を怠らない。雀などは餌とともに飛び去るのがふつうである。食欲の快も、生存競争の世界では、長く持続してはいられないのである。人間はこの快を持続可能なものとするために、あらゆる努力をした。古代ローマ人は、一日になんども食事をするために、食べたものを吐き出しさえしたのである。性においては、飽くなき快の持続性の追及は、あらゆる倒錯を生み出したが、食欲においては、いわゆるグルメと称される、料理と美食の快楽文化を生み出した。単に食することの快楽は短いが、手間暇をかけた調理によって、その快の期待をひろげ、あたかも快そのものが持続可能であるかのような、心理的快を生みだすのである。
さて人間は、グルメの場合のように、単純に肉体の直接的快楽ばかりでなく、その心性においても快を追求できることを知ったのである。性欲においては、単に肉体の倒錯的快ではなく、恋愛という心理的要素が前面に現われるようになる。すなわち性欲を心理的に抑えることによって、いわゆる昇華によって、快楽の新たな持続可能性を見いだしたのである。肉欲の直接的充足は、恋愛によって引き延ばされ、結果において一層の高揚へといたるのである。それはある種の錯覚であるが、それによって性の快楽の持続可能性が高められることは確かであろう。
この恋愛の昇華の過程は、より純粋な形では、真理や芸術への愛好となって現われる。恋愛では、それをあやつるものはやはり肉欲であり、性欲であるが、学術や芸術への愛好では、肉欲はすでに心理化した状態にあり、それが好奇心と呼ばれるものである。性への関心と、真理や芸術への関心は、フロイトが喝破したように同じ根から出ており、性欲が純粋に心理化したものが、好奇心や探究心なのである。したがってそれらは基本的に快楽にもとづいており、快楽の追求にほかならない。しかし同じ快の追求であっても、学術や芸術の快は、もっぱら心情の快に基づいており、さらには、かすかではあるが思索そのものの快にもとづいている。思索そのものに快があるかどうか、それはコンピューターが快を覚えるかどうかと問うのと同じであろうが、少なくとも生命体である人間の思索においては、思索がはかどれば心情的に快であり、思索が混乱すれば不快である。
それにしてもあからさまな肉欲である性欲や食欲と、快の追及において、心情や思索のレベルにおける、いわゆる精神的快との間には大きな開きがあり、同じものとは思えなくなるであろう。人間は単なる肉欲で満足せず、なにゆえに心情や思索の快に向かうのであるか。これを快の持続可能性の観点から見るならば、その理由が明らかになろう。恋愛が性欲の充足を長びかせて、快の持続を図るように、存在の本質が快である以上、もっとも持続し、持続可能であるものが、最も善い快であることになるのである。おそらく自然界はそのように仕組んでいるのであろう。動物たちは性欲や食欲ばかりに生きているわけではない。くつろぎの時、基本的に心地よい状態が長くつづくことを、生の基本としているように見受けられる。人間も同じであり、長く続く快をこそ、より価値の有るものとするのである。人間は知情意のすべてにおいて、100%肉体の産物であり、肉体の快の中でもっとも持続可能な快楽を求めた果てに、精神的快を最良のものとしたのである。
とはいえ同じ肉体の快である食欲や性欲の快が、精神的快によってとってかわられるなどという妄想にいたるならば、それこそ倒錯なのである。快楽のあらゆる階梯が<人間>を構成しているのであり、全階梯における快楽のあくなき追求が肉体としての人間の<使命>なのである。肉体にとってもっとも確かな存在のあり方は快であり、精神もまた絶望した時には、つねに肉体に還るのである。肉体としての人間は、よほどのことがないかぎり、みずからの本質によって狂わされることはないのである。 |
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2021年3月29日(月) |
肉体のニルヴァーナ |
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人間を謙虚にするものは、肉体の存在である。「人間は神にはなれない。下半身を見ればわかる」と言ったのはニーチェである。人間を横暴にするものもまた肉体の存在である。あらゆる権力欲の源であると共に、加虐・被虐・嗜虐、つまりあらゆる倒錯的性感の源でもある。肉体の横暴は、すでに述べたように、あらゆる<人格>なるものを破壊する。そこにおいて、あらゆる人格的<尊厳>や理性などと言ったものは、完膚なきまでに無化されるのである。権力の亡者、金銭欲の亡者、性感の亡者などは、まさに肉体の存在そのものになりきることと言ってよい。肉体とはすなわち、生命であり、生への意志であり、世界の根源的本質である。そこに生命体にとって最大の存在の快楽があることは、ごく当然のことなのである。
この暴戻なる肉体の快楽に身をゆだねるとき、あらゆる文明や、精神や、理念などが、すなわちそのようなものによって形成された<人格>なるものが、単なる虚妄にすぎないことがわかるのである。下半身は<別人格>などではなく、まさに人格を破壊し、無化する、この世界の無意識の本質なのである。ニーチェがどこまでこの下半身を探究したかは知らないが、肉体を<超人>などとして理念化してしまったことは、肉体のおごりというよりも、むしろ人格の逆襲なのである。それがナチスの優生思想につながったのである。対して肉体はむしろ、あらゆる残虐さによって、人格に復讐している。
人類は文明という虚妄を作りあげた。肉体の上に精神や理性や人格をおき、あたかもそれら自身が力を持った存在であるかのように見なし、肉体の根源の衝動を足下に踏みしめえたかのように錯覚してきたのである。そのじつ、文明が肉体の巧妙な戦略であることを見抜けなかった。すくなくとも、フロイトが現われるまでは。文明自体が肉体のアバターであることが分かれば、文明とそれに基づく人格なるものが、いかにもろく、虚妄にみちたものであるかが実感されよう。肉体はいつでも、みずからが作りあげた幻を吹き消すことが出来るからである。
それでは肉体は肉体であることによって、一体何を求める存在なのであるか。単なる個体保存や種の存続などは、結果的に言えることにすぎない。肉体の求めるものは、徹頭徹尾<存在の快感>なのである。この<快感>という存在の究極のあり方においては、もはや種の存続も、個体保存ですら、もはやどうでもよいことである。つまり〈死〉ですら何ごとでもないのである。肉体という、この究極の快感存在においては、死も快感の道具にすぎないのである。人格はこの肉体の究極の快感に対しては、まったくの無力であり、むしろ知性は積極的に肉体に加担する。もし人格が絶望感を覚えることがあるならば、その対抗の手段は<死>以外にないのであるが、すでに述べたように肉体は死すら恐れていないのだ。なぜならば、肉体の本質こそがこの世界の本質であり、本質そのものは、すなわち世界意志は、決して滅びることがないからである。世界意志の発現である表象界は滅びても、意志そのものは不滅であるから。
とはいえ、肉体から少なくとも離れるには、死以外に道はない。少なくともこの個体としての肉体と、この表象世界とは一代かぎりであり、死と共に滅びるであろう。しかし人格はその根源において肉体のくぐつであるから、たんなる人格によって死に至ることはない。死に至るにも、やはり快楽が必要なのである。快感の極致において、同時に死の可能性も開ける。死を快楽とすることが、最も容易な死への道なのである。肉体が究極の目的を達したところでこそ、肉体の無化の可能性も生まれる。人格はいわば肉体と同士討ちすることによってのみ、その虚妄の存在から解放されるのである。もし精神や理性が独立した本質を持つものならば、この肉体との共扼関係から解消されて、本来の本質の世界へと回帰することであろう。しかしこの共扼関係そのものである人格は、この世界と共に永遠に消え去るであろう。もし<わたし>が本質において独立した存在であるならば、<わたし>もまたこの共扼関係から解放されて、私自身の本質に回帰するであろう。
肉体の克服とは、肉体を無視することでも、禁欲でも苦行でも、まして日常の節制でもなく、まさに肉体の快感のスキを突くことであるといえよう。それはまさに〈死〉をもってする克服であるから、生半可なことではできない。快をもって快を制すことであり、これもまたニルヴァーナへの一つの道であろう。
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肉体の存在が究極の快を求める存在であることは、特に性感においてだれもが知るところであろうが、なにゆえに本来は中立的な無限の力である世界意志が、この世界においては快の追求として現われるのであろうか、最後にこのことを考察する。
この世界の際だった特徴は、時間・空間の形式において、個物の世界として発現していることである。個物どうしは相互性の関係にあり、一つとして独立した、個別の状態で存在するものはない。この全宇宙の個物は、すべてが相互に連関しており、その構造自体は無時間的、没空間的である。この純粋相互性の状態においては、世界はすべて完成され、静的な状態にあり、それぞれがそれぞれにおいて、相互的に自足しており、あるいは全体としての宇宙が円満に自足している。このバランスを崩す原理が時間・空間の表象形式であり、それらに基づいた因果律である。いわばこれらの形式によって、宇宙が自動的に動き出すのである。そこにストーリーが生まれ、そのストーリーを進めるエネルギーとしての個体の〈意志〉が生まれる。この意志は物質化し、肉体化した意志である。肉体化した意志は、意志の本質である自足性、無限性を存在の快楽そのものに求めるのである。
存在の快楽は、その本質において無時間的、没空間的である。あるいは無時間的・没空間的であることを求める。そうしてこそ、存在自体である無限の自足性にいたれるのである。肉体が自足するということは、現象的には束の間であり、絶えず乱され、絶えず苦痛にとってかわられる。最も基本的な快感である<ここちよさ>も、肉体的・心理的不調、あるいは環境的・社会的影響によって、すぐさまなんらかの<不快>に変わる。この転変極まりない肉体の存在状態から、肉体の本質に還ろうとする意志が、快楽の追求なのである。この個としての肉体、時空の制約の中ではえられない存在の究極の自足、それを求めるのが快の追求なのである。それは同時に個の消滅、時空の消滅でもあるから、究極においては個体の死を求めることと同じである。快楽の究極は、少なくとも個体の死につながるのである。個としての意志が、宇宙の本質自体に帰ることであるから、ある種の肉体のニルヴァーナでもあるのだ。 |
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2021年3月26日(金) |
理知的意識の代償 |
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自我が理性とタッグを組み、身体生命に対抗しようとする意志は、どこから発するのであるか。この場合の自我は、自己意識の自律性と名づけてよいだろう。本来意志のしもべである自我は、どのようにしてこの自律性に目覚めるのであるか。この対立には、意識対無意識の対立がひそんでいよう。理性と結びついた自我意識は、意識の範囲内での思考や判断や行為において、主体的であろうとするある種の権力意志にとらわれる。みずからが意識的にコントロールできないことに、我慢がならなくなるのである。このいわば自己意識の高慢は、理知的存在であることの驕りと結びついている。理性を手にした個体の意志は、自己意識に達することによって、無意識界の意志に対して優位にあるかのような錯誤にとらわれるのである。そのじつ圧倒的に無意識の世界であるこの自然界において、理性的意識は単なる例外であることを忘れているのである。
食欲・性欲・所有欲といった、いわゆる本能である無意識的生命の働きは、本来理知や意識を必要としていない。理知や意識は、必要な場合での、単なる補助的な道具に過ぎないのである。意識は理知と共に<反省>に達するとき、おのれ本来の役目を忘れて、自己自身の独立性に目覚める。この段階では単に、自己の存在の特異性の意識において、意志とは異なったおのれの存在に気づくだけであるが、さらに理知の反省が意志そのものに向かう時、ある違和感と共に、敵対者としての無意識的意志を見いだすのである。この理知の反省・抵抗が、プライドとなって特有の理知的自我を構成する。この過程には単に理性の働きだけではなく、社会的、倫理的、道徳的圧力がかかわってくる。<善>や<美徳>や<義務>や<戒律>や<律法>の観念がそこに生まれるのである。
このようにして生まれた理知的自我は<人格>と呼ばれる。すなわち無意識的自然界に対する、理知と結びついた自我の高慢が人格なのである。人間社会は、表面この人格から構成されている。社会や国家は、その支配において、基本的に<人格主義>にもとづいているのである。人間が自然界にたいして傲慢であるのも、この人格の高慢から由来している。しかし人格が表面的であることの代償は大きい。戦争や社会的ストレスなどで、人格のメッキがはげ落ちると共に、人間はあらゆる自然的衝動に身を委ねることになる。人格に反することを、たとえ異常・不自然・倒錯と呼ぼうとも、実はそれが自然そのものなのであるから。人間は<人格>を破壊することによってしか<自然に帰れ>ないのである。これが理知と結びついた自我意識の高慢の、高い代償である。 |
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2021年3月25日(木) |
五感を超えた感覚 |
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動物の中には、人間のように目耳鼻舌皮膚の五感の受容器以外を備えた例が、多く見られるという。五感が世界の物理・化学的原理を利用しているように、動物のそれらの超感覚も、なんらかの物質世界の原理を応用している。単に五感の範囲でも、動物のそれは人間以上に優れている場合が多い。
象はその大きな耳で四方の音をとらえるばかりでなく、足裏でも骨伝導によって、大地の極低音をとらえている。それは数十キロ先まで聞こえるのである。それによって地震の予知さえするという。犬や猫の嗅覚が人間とは比較にならないこともよく知られている。それらの五感の能力を超えて、動物の中にはさらに別の物理的現象を利用した、感覚受容器を具えているものがある。蝙蝠は目も普通に見えるそうであるが、それ以外にクリック音を使ったエコー・ロケーションという空間把握をおこなっている。それによって高速で飛行しながら、互いにぶつかることもなく、小さな獲物を適確にとらえることが出来る。いわば天然の精緻なソナーである。また渡り鳥やウミガメやアカキツネは、地球磁場を感知することができ、方位のオリエンテーションや、アカキツネの場合には、それを狩に利用しているそうである。水陸両生の卵を産む哺乳類であるカモノハシは、口ばしの先に電気を感じる受容器があり、水中で目や耳を閉じていても、電気反応によってすばやく小さな獲物をとらえることが出来るという。ある種のマムシは赤外線を見ることができ、夜でも赤外線カメラのように明瞭に獲物を見ることが出来る。
これらの人間の見地から言えば超感覚に当たるものは、その受容器がはっきりしている場合もあり、また取り立てて受容器の見あたらないものがある。受容器がわかっていても、それによってどのような表象が生まれるかは、推測する以外にない場合がある。蝙蝠のエコー・ロケーションは音波の干渉やドップラー効果までとらえるそうであるが、それが脳内でどのような表象を生み出しているのか、想像もつかないであろう。磁場に関しては、特に受容器はなく、脳そのものの中に、磁場に反応する物質があり、それが直接に表象を生みだすのであるらしい。その表象がどのようなものかは、やはり推測のほかはないであろう。
さて、感覚に関しては人間の五感はたいしたものではないことが分かる。それでは人間を動物界の覇者とした、五感を超える特有な能力とは何なのであるか。それは思索すなわち概念の能力であると言えよう。概念は感覚そのものではなく、たとえ五感を超えた感覚であっても、それ自体が概念となることはない。概念もまた感覚とは別の、なんらかの受容機能であるといってよかろう。その受容器は特に見あたらず、磁場の感覚と同じように、脳自体がその受容器とみなしてよいであろう。概念がとらえるものは、その内容をなしている感覚の素材、いわゆる質料(Stoff)である。感覚において与えられた質料を捨象し、抽象し、思考にとって都合のよい<形相>に仕立てあげるのが、概念のはたらきと言ってよいだろう。これは脳そのものに備わったプロセスである。
このように概念とそれに基づく思考とを、脳内での受容器ととらえるならば、基本的に思考は、世界に対する感覚の関係と、特に異なるところはなくなるであろう。エピクロスやストアは、概念をも感覚の産物ととらえている。プラトンはイデア(範型としての概念)の起源を想起に求めているが、これもまた<受容>と考えてよいだろう。カントが主張するように、<純粋>悟性概念が自然に法則を与えるのではなく、これらの古代の哲学者が言うように、人間の悟性は自然から法則を学ぶのである。思考のカテゴリー(範疇)は、自然界を受容する装置なのである。おまけにその受容器である脳は、おのれの都合のよいように、受容した内容を造り変えさえするのであるから。
そうであるならば、人間悟性がとらえるこの世界の法則や論理は、感覚がこの世界の本質そのものではないのと同様に、この世界の本質をそのまま捉えたものとは言えないであろう。あくまでも現象界の法則であり、論理であるのだ。その点ではカントの言うとおりであろうが、現象は自然そのものではない。悟性は現象に法則を与えても、そのことはあくまでも自然の受容において可能なのであり、悟性も理性も自然を受容することなしには働きえないのである。叡知界(mundus intelligibilis)もしくは理性界は、自然を超越しているわけではなく、まさに自然の手のひらにおさまっているのである。自然界は、人間知性にとって、究極のところ不可知である。たとえダークマターやダークエネルギーの正体が分かったところで、やはり現象の法則を発見したに過ぎず、自然の本体を見極めたわけではない。人間知性の紡ぎだす論理や数理が、一見この現象界を超えてゆくかに思われても、まさにその論理や数理が、脳という自然の装置から紡ぎだされたものである以上、それが自然の本体の正しい受容であるかどうかは、確かめるすべもないのである。結局、宇宙の本体にせまるには、思考をこえた思考がなければならないことになるであろう。あるいはもはや思考ではない、なんらかの本質直観が与えられていなければならないであろう。 |
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2021年3月21日(日) |
知覚における反対の一致 |
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人間の目はレンズからなっており、一つの光学器械である。その分解能はレンズの大きさに比例して決まっている。その点は望遠鏡や顕微鏡と同じである。望遠鏡や顕微鏡は、目のレンズをさらに大きなレンズによって補うことで、集光力や分解能を拡大しているに過ぎない。望遠鏡は、一つのレンズの焦点にむすばれた像を、さらに別のレンズで拡大することによって、小さな視角を大きく拡大する。顕微鏡はやはりレンズの拡大機能によって、物をみる視角を広げる。どちらも見る視角が広がることによって、物が大きく見えるのである。何十億光年彼方にある星雲が、巨大な鏡面によって、人間の目ではほとんどミクロに近い視角を広げられて、その姿を現わしだすのである。また人間の目ではとてもおよばない、電子や素粒子の世界を、電子や素粒子を使った観測によって、拡大して現わしだすのが電子顕微鏡や加速器である。これもまたミクロの極微の視角を、見えるまでに広げているのである。
何億光年彼方の星雲を見ることと、電子・素粒子の極微の世界を見ることと、どのような違いがあるであろうか。どちらも光の粒子が、観測装置と反応した結果であり、極大においても、極微においても、光の性質に違いはないのである。宇宙に遍満する光には大小はなく、最小のものも、最大のものも現わしだす。何億光年彼方の星雲の姿は、じつは極微の光を見ているのであり、加速器でとらえられた素粒子の姿は、やはり極微の光である。宇宙にはマクロもミクロもないのである。そのような区別を立てるのは、観察者である人間の特殊な位置による。人間の知覚が、極大と極小の方向に向かう、中間者であるからだ。
人間の視覚の性質は目のレンズによって決定されている。その分解能を超えるものを、はっきりと見ることができないのである。知覚においては様々な補正機能がはたらいているが、レンズの性能を超えることができないのである。その望遠機能や顕微機能は、普通以上に働くようであるが、さすがに天体や素粒子まではおよばない。知覚は光の粒子そのものを見ることができないのであるから、その世界像は漠としたものにならざるを得ない。それをクオリアと呼んでいる。知覚の限界である<微小知覚>が積分されることによって、クオリアが成立するのである。たとえれば、中心から等しい距離にある無限数の点の集積が、円として知覚されるように、知覚もまた積分を行うことによって、この表象世界を生みだすのである。
知覚は結局<無限>を相手にしていることになる。一方は極大方向への無限であり、他方は極小方向への無限である。この無限の果てにあるものは、とりあえず素粒子であり、光である。宇宙が無限であるということは、極大であれ極小であれ、どちらの方向においても、同じ無限に突き当たるということである。そこではマクロとミクロとが一致しているのである。 |
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2021年3月17日(水) |
人間恐怖症について |
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恐れは生命界に普遍の現象であるが、たいていの生命体にとって、恐怖は生命の自己保存と密接に結びついている。それが感情として現われるにせよ、行動としてのみ現われるにせよ、生命体は自己の生命が危殆に瀕したときは、生命体全体がなんらかの防禦体勢を取り、積極的に危機を回避しようとする。それが盲目的であれ、知性的であれ、危機回避の行動および心理は、つねに恐怖として表われるものである。
人間恐怖症もその例外ではない。人間一般に対する恐怖は、本来類や種同士の間では、個体保存が種や類に依存することが大であるから、通常は共感や依存心が優勢であり、特別に異常な家族関係でないかぎりは、きわだって表に現われることはないであろう。逆に言えば、人間恐怖症は、家族関係から顕著に発生するということである。犬や猫のペットで見るかぎり、親兄弟の間では、遊びのけんかはあっても、特に警戒心は見られない。そこに家族外の新たな個体が加わると、とたんに警戒心と忌避が見られる。それは個体同士が慣れ親しむまでつづくのである。このように動物は段階的に他の個体に対する警戒心、すなわち恐怖を克服してゆく。
他の個体に対する恐怖の克服は、まず親の段階で始まるといってよい。もし親が恐怖の対象であるならば、人間恐怖症は一生つづくであろう。幼児の頃、父親が近づいてくると自然と体が震えだしたものである。人生の始まりにおいて、もっとも近しい存在である親が、依存心とともに生命体の最も深い反応である恐怖を呼び覚ますならば、その生命体の生涯は、つねにネガティヴな反応によって支配されるであろう。つぎに兄弟姉妹が、さらに恐怖の対象となるならば、個体の生命の人間恐怖は徹底してゆく。人間の中に悪すなわち害悪をもたらすもの以外を見られなくなるのである。
人間恐怖症の行動的特徴は、ひとつに幼い段階での無力感による<凝固>である。ひたすら小さくなって、固まっている他はないのである。これは猛鳥の影を空に見た野生の雛鳥の行動と同じである。動かなければ見つからず、場合によっては無視されるだろう。人間の場合にはひたすら無視されることを願うのである。しかし人間は狡猾であるから、凝固だけでは相手の憎悪や怒りを防ぎえない。少し賢くなると、<逃げる>ということを学ぶであろう。幼いころ、すぐ前に立っていた年長のものがバットを振り出した。もし後ろまで振れば必ず当たるであろうことがわかっていたが、恐怖のあまりその場から動くことができなかった。幸いふり向いた男が、なんだ危ないなといって離れなかったら、甘んじて打撃を受けていたであろう。この凝固の反応は、ほぼ大人になるまでつづいたが、そこまで愚かな人間は少ないであろう。たいていは<逃げる>ことを学ぶ。
この逃げるということは、じつは言うほどに易しくはない複雑な反応なのである。個体の生命には度し難い依存心が本能的にそなわっており、特に哺乳類では親に依存しなければ生きてゆけないのである。いかに親が恐怖の対象であっても、頼るものは親以外にない。この恐れつつも頼るという根本的な、おぞましいアンビヴァレンスによって、徹底した回避は不可能なのである。この関係は人間社会一般に反映される。個人はいかに人間を恐れ憎もうと、社会に依存しなければ、生存を維持することができない。このおぞましいアンビヴァレンスを克服することは不可能なのだ。動物はこのアンビヴァレンスをよく心得ていて、警戒しつつ近づくという典型的態度を見せる。人間の場合も基本的には同じである。ただし人間の場合は、はるかに社会的依存心が強いのである。それゆえに他者に対する恐怖心と同時に、社会から排除されることの惧れが同時にはたらき、二重の不安に生きることとなるのである。
いずれにせよ、<逃げる>ということが人間恐怖症の最も良い対処法である。逃げるということは、<臆病>でなければならない。ところがこの臆病という心理的特徴は、たいていの社会において<美徳>と見なされていないのである。この臆病に対する心理的反発は、すでに社会的心理である<プライド>である。臆病は個人的な心理であり、それに対して社会的に有用な心理として<勇敢>が、社会によっては最大の美徳として称揚される。社会的に称揚される<勇敢>に対して、<臆病>と言われることは、たいていの社会においては、特に軍事国家においては、最大の蔑視となりうるのである。それ故に逃亡兵は射殺される。このような社会では、<逃げる>ということは個体生命にとって、もっとも困難な生き方になる。逃げるにもそれだけの覚悟と勇気が必要なのである。
<臆病>は本来生命体にとって、生命が危殆に瀕したときの、本能的行動および心理のひとつである。それ自体にはなんら道徳的・倫理的意味はない。動物は、特に猛獣は、勇敢であると同時に、時に臆病である。逃げる時には、さっさと逃げる。みずからの生存能力の限界を心得ているからである。人間にとっても、逃げることがその時可能な唯一の生存手段であるならば、積極的に逃げるべきである。このことは臆病でなければ出来ないことである。ただ人間社会では、危険についての客観的認識がむずかしい。とりわけ極端な人間恐怖症においては、恐怖が圧倒するわけであるから、過度な逃避におちいりがちである。しかもプライドをはじめ、さまざまな社会心理が絡んでくるので、ほとんど無能状態に陥りかねない。臆病にも勇気が必要である。ただこの勇気も倒錯しがちである。いじめにあった小中学生が自殺するのもその例であろう。自殺が唯一勇気の発揮場所となるのである。死は生命がもっとも恐るべきものなのであるが、追いつめられた個体生命は、その勇気を死の恐怖の克服に向けるのである。
人間が人間自身を恐れるということには、何らかの根源的意味があるのだろうか。恐れとはなんらかの害をこうむる可能性があるものへの、心理的あるいは行動的にネガティヴな反応である。そのような反応が起こるためには、対象自体に危害の原因がなければならない。これは生命界では言わずと知れた、弱肉強食の生存競争のおきてである。自然界では害をなすものが基本的に<悪>である。この自然的悪は、生命界のあらゆるものに通有であり、恐怖とはこの悪に対する心理的反応であるといえる。人間を恐れるとは、人間の中にある自然的悪の原理に怯えるということである。この原理の発現は無意識でもあり、意識的でもある。食欲や性欲のような攻撃的な衝動はほぼ無意識に働き、憎悪、嫌悪、嗜虐などは意識化する。それらの顕現が圧倒的に無力な幼児に襲いかかるとき、とてつもない恐怖におののくであろう。悪魔とは人間そのものの本質なのである(*)。
(*)「人間は残酷だ」という小公女セイラの言葉は心に響くであろう。
人間が人間を恐れるとは、人間の本質が悪魔的である、あるいは中立的に言って、自然的悪に満ち満ちていることから、必然的に起こることである。他者から虐待を受けたものは、また他者を虐待する。人間の悪は自己自身の悪でもあるからだ。生命は生命自身を責めさいなむことによって存続してきた。それがあらゆる個体生命の悲劇である。個体と個体との間には、いつでも恐怖が介在するのである。人間恐怖症はそのことを極端な形で暴きたてているといえよう。 |
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2021年2月21日(日) |
超脳論 |
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肉体・身体という言葉は、通常、目に見え、感じられ、情や欲を覚えるなんらかの物体として表象されるものをさす。その実は、それらの表象の成り立つ身体の場所は、脳であることは疑いない。そのかぎりでは、肉体・身体をコントロールし、最終的に超越するということは、その大本の場である脳そのものをコントロールし、超越するということにほかなるまい。しかし脳が身体および心や精神のすべてを支配しているならば、一体どのようにして、心や精神が脳を超えるなどということが出来るのであろうか。その矛盾点を考察する。
たしかに脳の前頭葉に位置する理性的、反省的はたらきは、心身の他の部分を抑制し、コントロールする作用をもつ。心身の馴致においては、理性的反省や、穏やかな心情などは、ある程度の予備的効果を発揮する。しかしそれでもって、たちまちに心身の平安に達したり、解脱したりするケースは稀であろう。脳そのもののはたらきである理性によっては、脳自身の知情意にわたる多様なはたらきを、全面的にコントロールすることなどは、まったくおぼつかないのである。脳が脳自身を超えるなどということは原理的に不可能なのである。
超越的であるためには、人間の心身には、なんらかの脳とは異なった要素がなければならない。それはもちろん得体の知れないアストラルボディなどといったものではなく、現にれっきとして存在しているなにかでなければならない。哲学では、意識や思考や絶対精神などというものがそれであるとされる。脳の機能を考えるならば、意識や思考などは、脳を離れては働きえないのであるから、それらの機能が脳を超えた存在のもとであるとは考えにくい。それらを絶対視して、絶対精神などというものを考えても、いわば脳そのものを絶対化したのとどれほどの違いがあろうか。
脳によっては脳は超えられない。このことを仏教やヨガの修行者は、よく心得ていたようである。脳を超えるのは思索ではなく、思索そのものは脳の内在的現象にすぎないのである。意識もまた、意識自体は脳すなわち身体の機能と密接に結びついており、いかに純粋化されても、脳=身体の状態を離れることはできないのである。思索でも意識でもない、そのほかのなにが、この身体、この脳を超えてゆくのであろうか。この境地を神秘家はekstasisと呼んでいる。すなわち、自己自身から脱け出すことである。自己自身とはここでいう身体=脳のことである。それがどのような原理によるものであるかは、常人には知りえないとしても、少なくとも、肉体としての自己自身から脱出したなんらかの自己が存在するということである。それは単なる意識でも思考でもなかろう。もはや脳によっては把握できない存在、もしくは状態なのである。たぶん、それはこの世界の本質そのものなのであろう。もはや身体や脳といったレベルを超えているのであるから、そもそもこの物質的現象界での存在ではないのである。そこにいたることが超越であり、解脱である。
人間の心身は、単なる身体や脳のレベルを超えて、この宇宙の本質自体につながっている。それ故に個としての身体や脳の制約にとらわれず、直接宇宙の本体に、なんらかの仕方でコンタクトし、融合することが出来るのであろう。それをウパニシャッドの奥義は梵我一如と呼んでいるが、そこにはもはや個としての自我はなく、自我自身の根源において宇宙の根源と一体化しているのである。脳としての自我ではなく、根源者としての自我において、身体=脳は克服され、超越されるのである。この根源的自我は、根本において不可知者であるが、その脳における現象においても、その不可知者の片鱗を現わしだしている。私の存在が不可知であるということが、いわば自我の唯一絶対の属性である。私は私である――私が知るのはただそれだけのことであり、私は私の存在をいかなるものによっても根拠づけることが出来ない。根拠づけた時には、私はすでに身体であり脳であり、意識であり思考である。すなわち考えることによって対象化され、根拠づけられた私である。本質において無根拠(Ungrund)であり、不可知(the Unknowable)でありつつ、存在者であるというこの自覚こそが、身体=脳の克服の出発点なのであり、同時に超越界への道しるべである。
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そもそも意識が脳という神経細胞の集合体においてだけ可能になる機能であるかどうか、疑うこともできよう。ライプニッツはモナド論において、微小知覚というものを考えている。言ってみればあらゆる個物は、素粒子から生物まで、個としての存在者であるかぎり、なんらかのレベルの知覚すなわち意識を具えているということになろう。それらの極微から極大までの<意識原子>は、それぞれに表象能力を具えており、いわば全宇宙を可能的に表象として生みだすことができるのである。この無慮無数の多元的宇宙においては、いわばそれぞれの宇宙が独我論の世界である。モナドはそれぞれが唯我独尊の世界であって、必ずしも<予定調和>を必要としないであろう。モナドは低次の<裸のモナド>から、知的生命体の理性的モナドにいたるまで、無限の階梯をなしているが、知的生命体においては、最高度の意識において最高度の表象世界が生み出されるのである。意識が明瞭化するということは、モナドが自己自身の本質をより明瞭に自覚するということである。素粒子から人間の脳にいたるまで、唯一の共通する本質は<知覚>であり、単なる運動は<変化>にすぎない。知覚は変化をとらえても、変化は知覚を生み出しはしない。脳や身体や物体は、知覚のとらえた対象の変化の姿にすぎない。この宇宙を生みだすのは物質ではなく、知覚そのものなのである。モナドとはそのようなものであり、そのようなものとして意識の根源であり、自我そのものである。自我そのものであると同時に、宇宙そのものなのである。
ライプニッツはモナド間に<予定調和>が必要であるとしたが、今日の多元宇宙論から考えて、無慮無数のモナドが、いわば同時的に宇宙に出現したとき、各モナドはそれぞれ同質の宇宙を発現させる可能性を具えていたことであろう。各モナドによって自己発現の程度は異なるが、自然にそこに調和が生まれるはずである。DNAの類比で考えるならば、各細胞が同一の遺伝子を所有することによって、互いに調和した全体を構成するのにたとえられよう。モナド間には<自然調和>が働くのである。わたしとあなたとは、たしかに異なった宇宙に属してはいるが、宇宙のスペルマ(種子)において、いわば同一の遺伝子を与えられたために、互いに調和した共通の宇宙を構成しうるのである。とはいえ各モナド、すなわち各宇宙は、微妙に異なっている可能性がある。時間・空間が相対的であるのも、その一つのケースであろう。各モナドが知覚する宇宙のクオリアは、段階的に異なっているであろう。微小知覚がとらえるものは、単なる明暗にすぎないかもしれない。そこでは十全なる表象の展開はないであろうし、宇宙の全表象は萌芽のままにとどまっているであろう。人間の知覚もまた、いまだ宇宙の全表象をとらえるまでにはいたっていない。最高のモナドのレベルにまで達していないのである。最高のモナドすなわちライプニッツの神は、モナドの全複合である、この宇宙そのものであるといえよう。全モナドが一つの調和的全体を構成したとき、宇宙は最高のモナドとして、完成状態におかれるのである。それは実は時間の果てではなく、時間の初めにおいてすでに実現されていよう。それゆえに宇宙の始まりばかりか、宇宙の終末をも予見することが可能となるのである。それを成し遂げたときに、人間は最高のモナドのレベルに達するであろう。すなわち神となりうるのである。 |
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2021年2月10日(水) |
肉体の執事としての精神 |
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精神(Geist)は肉体の対抗者であると、通常思われがちである。それは肉体と精神の力関係の誤解にもとづいている。圧倒的な権力者は肉体であり、精神はその廷臣の一人にすぎない。肉体はその欲望、快楽、行動において、圧倒的に優位に立っており、精神は時としてそのおすそ分けにあずかるに過ぎないのである。肉体は、欲し、喜び、苦しみ、悲しみ、そのほか情意にわたるあらゆる活動において、ほしいままであり、抑制もなく、盲目的・衝動的で、あらゆる愚行や失敗におちいっても悔いることがない。そもそも悔いることがあるならば、それが精神の発生であるからだ。
それに対して精神は、知から出で、情を鎮め、意欲をコントロールする冷静さをこととする。すなわち盲目的・衝動的肉体の意欲に対して、ネガティヴな傾向を持つ。とはいえ、肉体にとって代わる力は持たないのであり、せいぜい肉体に対して、その目的に達するより良き道や仕方をアドヴァイスするだけである。これは暴君に対する廷臣、もしくは理不尽な主人に対する執事の役割といえよう。場合によっては、ハエのようにひとたまりもなく押しつぶされてしまう存在である。
それにしても精神は、肉体に仕える以外には役割を持たない存在である。少なくともその従者としての地位を保つためには、従順かつ賢明かつ狡猾でなければならない。最終的に主人を暴君から穏やかな支配者に馴致するためには、そのあらゆる欲望を聞き入れながら、愚行や、失敗や、危険におちいらないように、それとない助言によって、主人を諌めるほかはないのである。主君が滅びれば、廷臣も同じ運命であるから、しかも肉体と精神の間には裏切りということがありえないのであるから、主人を賢くすることは、精神にとっても一大事なのである。
主人の肉体のなすことは、すべて受け入れざるを得ない。しかし、お家の一大事だけは防がねばならない。主人のなすことが悪であるか、善であるかなどは、問題ではないのである。たとえ精神が忌み嫌うことであっても、肉体がそれをなすならば、それを最小のわざわいにとどめておくように、主人をいざなうのが、精神の役目である。精神は肉体そのものをコントロールすることはできないのであり、肉体のエネルギーの流れる方向を変えたり、せばめたりするだけである。行為は肉体のものであり、その現われる仕方や方向を変え、安全に無難におこなえるように助言するのが、精神のせいぜいのはたらきである。
とはいえ結局のところ、心も精神も、もともと肉体の奴隷なのである。肉体からわきおこるあらゆる欲求・欲望に対しては、それに抗う根本の力を持っていないのである。行為においてはすべてが必然である。行為の源は肉体以外にはなく、肉体の命ずるがままに行為するのが、生命としての人間の本質的あり方なのである。心も精神も行為におもむく限りは、肉体の必然性をまぬがれない。肉体の必然性とは物質の必然性であり、この自然界・宇宙の必然性である。(必然とはいわば盲目のロゴスである。人間の理性は単に意識されたロゴスであり、ストアが言うところの<世界理性>の必然に従うほかはないのである。)ごく身近な例を出せば、昼夜の交替、季節の推移といった、地球環境のサイクルの基本的条件が、日々の行為をどうしようもなく支配している。もし昼夜や季節がなければ、生命としての物質は、際限なく活動しつづけることも可能であろう。肉体の条件とは、すなわち自然的条件なのであり、心にせよ精神にせよ、それに抗うことは根本的に不可能なのである。
心や精神は肉体の奴隷である。それに逆らってもつねに敗北が待っている。肉体に反抗する心や精神は、そもそもが<不自然>だからである。にもかかわらず(trotz alledem) 精神は理性の名において、主人の横暴をいさめ、助言し、あわよくば肉体からの超越を願うのである。これが知的生命体の根本の矛盾であり、この宇宙の矛盾なのである。 |
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2021年1月16日(土) |
三島・初島詣で |
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去年の大晦日に一泊の予定で伊豆半島の付け根にある三島に出かけた。公園は閉められているので、市の南を散策した。富士から流れてくる清流ぞいに歩く。途中三島大社による。どこの一宮も似たような建物である。家内にとっては元日を避けての初詣である。そもそも神社の雰囲気は気に入っても、参拝したことの無い身ではある。茶店で変わった餅菓子と茶を味わう。小さな清流の岸に下りて、そこに長々と作られた木の遊歩道を面白く歩く。町並みは特にどうということはないが、知らない通りを歩くのは楽しい。北向きの道路の先に、夕景の富士がかいま見えたりする。国分寺跡という寺の中の礎石を見たあとで、駅の北側のホテルに向かったが、三島駅は妙な事に、北口へ出る通路がなく、大回りして線路を渡るほかはなく、北口まで20分もかかるのである。市民はこんな不便に堪えていると見える。
翌元日は、熱海へ出て、熱海港から初島行きの船に乗った。出航すると、たくさんのカモメが一斉に飛びたって付いてきた。どうやら船と一緒に、観光客のわずかな餌を目当てに往復しているらしいのである。冬の午前の海の色は、青黒く、ひとすじ、日光の幅広くぎらつく部分を除いては、寒々としている。20分ほどで着いた初島は、周囲を一時間もあれば巡れる小さな島である。ささやかな神社と、リゾート施設があり、観光と漁業で暮らす人々がいる。南国ではないが、南国風の植物が特に植えられている。小さな燈台からは、海と陸の全方向が見渡せる。大島の横の水平線上に、建築物のようなものが浮かび上がっているのが、何であるとも知れない。海産物の食事をして帰る。家内は採りたてのワカメのラーメンがおいしかったという。
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