わが心の物語 3,4章

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               Richard Jefferies (1848-1887 リチャード・ジェフリーズ)

                   わが心の物語

                   リチャード・ジェフリーズ 作

                            翻訳copyright: shuh kai 2010



                    <第3章>

 丘陵地の上にはいくつか草の生い茂った塚があった。私は昔よくそこへ出かけてゆき、その塚の一つの裾に腰をおろして、思索にふけったものだった。先史時代に、誰とも知れない戦士が、そこに埋葬されたのである。夏の朝の陽ざしが、草むした円墳を照らしていた。眼下の小麦畑からは、そよ風が吹きよせてきて、かすかな嘆息(ためいき)のように過ぎながら、草の葉の先を揺らしていった。風がやむと、蜜蜂がタチジャコウソウや紫花ヒースを目ざして飛んでいった。私は昼間の栄光に心を奪われていった。日の光と爽やかな空気、みずみずしい緑から夏の黄金の盛りへと黄ばみを増していく小麦、空には滝のように降るひばりの囀りがあった。その時、私は、塚の中に埋葬された男の霊魂と私自身とが同様な存在であるような気がした。彼の存在が理解でき、私自身の存在と同じものであることが感じられたのである。埋葬されて二千年は経っていながら、彼は私にとって、現身(うつせみ)の肉体を持った人々におとらず現実の存在であった。死者の抽象された人格が、想念が存在するのと同じように存在しているように思われた。私の想念が二千年の過去をすり抜け、男が槍を投げ、弓を射て、鹿を狩っていた森の時代に、瞬時にして到達し、同じく瞬時にしてこの今に立ち戻ることができたように、彼の霊魂もまた、当時から今に到るまで存続することができたのであり、その間の時は無きにひとしかった。
 二千年間といえども、魂にとっては一秒でしかないのであるから、魂を滅ぼすことはできなかった。魂にとってのその時間は、私の想念が費やした時間ほどのものにすぎなかった。私自身の内なる意識である魂を、そのように明瞭に認識した時、私には死というものも、何ら人格存在を損なうものではないように思われた。分解することによって、何ら橋渡しのできない裂け目や、底知れない別離の淵が生じるわけではなかった。霊魂は、無量無辺の距離を一跳びに越えていって、たちまちに接触のできなくなるものではなかった。生きている他者を観察してみるとよい。魂は目に見えないで、魂が活気を与えている身体だけが見えている。それ故、単に死後において魂が目に見えないからといって、魂がもはや生存していないという証明になるわけではない。目に見えないという条件は、身体が生存している間に起こる条件と同一である。それ故、死後においても魂が生存するということは、本質的に言って、何ら例外的、もしくは超自然的なことではないのだ。
 墳墓の傍らで休息していると、その中に埋葬された男の霊魂は、私にとっては現実に生きており、ごく身近に存在していた。このことはごく自然な感じがした。それは、風にそよぐ草や、羽音をさせる蜜蜂や、ひばりの囀りやと同じく、自然で飾り気のない出来事だった。頭脳を力の限りしぼることによって、私にはやっと魂の消滅という観念が理解できたが、それは超自然的で、奇蹟を必要とすることだった。魂の不死こそが、大地のように自然であった。草のそよぎに耳を傾けていると、私は不死を感じた。それは夏の朝の美しさを感じるのと同様であった。それから私は、不死を超えるものについて考え、今の存在よりもいっそう美しく、不死よりもいっそう高次の他の状態について思いをめぐらせた。
 魂が死後も存続するか、しないかについて、形式ばった理屈の上では知ることができないのは、私も充分に分かっている。私は希望もしなければ、恐れることもしない。少なくとも私が生きている間は、私は不死の観念と、私自身の魂という観念を享受してきたのだ。たとえ私が、死後において、土と空気と水とに残りなく分解され、霊魂が炎の消え去るように消え去るものとしても、私はそうした思想を抱いたという誇りを持って死んでいくことだろう。
 ある時、水浴中に溺れた男があった。男の死体は庭の近くの納屋に置かれていた。私はその納屋のそばを頻繁に通り、時には意図的に通って、その死体について考えた。そしてその度に、私にはまだその男が生きているように思われたのだった。離別ということは納得のいかないことだった。男の霊魂が、想像の及ばない遠いところへ行ってしまったとは、思われないのだった。わが想念が一瞬にして幾世紀を遡り、古代エジプトのカノプス市の栄華に思いを致し、また滅び去った市の金色の寝椅子を目のあたりに見るように、同じくそれは未来へも馳せるのであり、未来の無窮の時といえども、それの飛翔をはばむことはできない。確かに、その男は私にとって死んではいなかったのだ。
 心地よい夏の風が塚まで吹き寄せ、草がそよいだ。いく匹かの蝶が飛んできて、時々緑の円墳の上で羽を休めた。二千年の時! 夏ごとに青い蝶たちが塚を訪れ、タチジャコウソウが花を咲かせ、草の間で風が鳴った。群青色の朝がその低い墳墓の上に両腕を差し伸べ、真昼の輝きがその上に照り映え、緋色の落日がその草をバラ色に染めてきたのである。真夜中には、南の地平にかかった靄で赤らんだ星々が、幽暗の中にも光に満ちた夏の神秘な夜をいろどっていた。白い霧が立ちのぼって塚を隠し、芝草の上には露が置いた。弱々しい釣鐘草(harebell)がこうべをたれ、ひわの翼が宙に羽ばたいた――ひわの翼の色は幾世紀もの昔に失われたのである! 褐色に色づいた秋が眼下の森に宿り、冬の霜が尾根のブナ林を白く塗り、風にさらされたサンザシの茂みに再び芽吹く時節が来て、夕暮れには東の空に雄大なオリオン座が鎮座した。こうしたことが二千回くり返されたのである!二千たび、森は青葉をつけ、白子鳩が巣づくりをした。二千年の昼と夜が、その塚の上に広がる光と影が、二千年の昼の営みと夜の眠りが、くり返されたのである。神秘が星の光の中に輝き、日の光の中に降りそそぎ、夜の中に語りかけた。この緑の草の生い茂った低い円墳の周りには、二千年に渡って太陽と宇宙空間の驚異がとり巻いたのである。けれども、すべてそうした神秘や驚異も、その墳墓の中に横たわっている<想念>、私がそんなにも身近に感じている霊魂に較べれば、取るに足りないものだ。
 そのような霊魂を感じ取り、私自身の内的意識である魂をそんなにも明瞭に認識した上では、私にはもはや時間というものが理解できないのである。今は永遠である。私は永遠のただ中にいる。永遠は私のまわりの日の光の中にある。蝶が光あふれる大気の中を漂うように、私は永遠の中にいる。未来に何事も起こる必要はない。永遠は今であり、今が永遠であり、今が不滅の生命である。今この瞬間、この塚の傍らで、大地の上で、私は永遠の中に存在している。歳月も、幾世紀も、幾時代も、全くの無である。この塚が築かれたのは、わずか一瞬前のことにすぎない。今後一千年をけみしたところで、やはりわずか一瞬のことにすぎないだろう。魂にとっては、過去も未来もない。万事が今の中にあり、つねに今の中にあるだろう。人為的目的のために、時は互いの間で取り決められているが、実際にそうした時が存在するのではない。日時計の上を影が動き、置時計の盤面を針が回るからといって、そこに何かの違いが生じるだろうか? 何の違いも生じはしない。もし時計が決して動きだすことがなかったとしても、そこに何かの違いが生じただろうか? 時計にとっての時というものがあり、時計はそれなりに時を刻むかもしれないが、私にとってはいかなる時も存在しない。
 私は小川の中に手をひたし、水の流れを感じている。最初私の手に触れた水の粒子は、一瞬後には数メートル先に流れ去っている。私の手は元の位置にある。私は手を水から抜き去る。すると小川の流れ、即ち時間は私にとって存在しなくなる。天の大いなる時計、太陽と星と、満ちては欠ける月と、二千たびの地球の公転も、私にとっては、水から手を引き抜いた時の小川の流れと少しも違わないものである。私の魂は決して時間の中に浸されたことはなく、浸されることはありえないのだ。時はこれまで決して存在しなかったし、これからも存在することはないだろう。時は全くの人為的構成物なのである。今は永遠である。過去はいつでも永遠であった。そして、未来はいつでも永遠であることだろう。どんなに試してみたところで、私は時間の中に入っていくことなどできないだろう。私はこの今において永遠の中にあり、そこにとどまるほかはないのだ。急ぐことはない、安らぐがよい、この<今>こそが永遠なのだから。時の観念が、たとえかつて私の精神を支配したことがあったにせよ、すでに私の精神から離れ去ってしまったからには、私にとって塚に葬られた男は、今私が生きているのと同じように、生きつづけているのである。私らは共に永遠の中にいるのだ。[訳注1]
 離別もなければ、過去もない。永遠のこの<今>は持続的である。全宇宙の星が回転を遂げた時にも、再び<今>が生み出されるにすぎない。<今>は永遠に持続する。そうであってみれば、この塚には魂を宿す一時的形骸が葬られたのであるが、当の魂が、私が今草に腰をおろしているこの時も、なお存在しつづけているとしても、私にはそれは超自然的ではなく、ごく自然に思われるのである。百万マイルの広がりを持った天界よりも、想念の広がりはいかに限りなく深いものであるか! 驚異はここにあり、彼方にはない。これからあるのではなく、今、つねに今あるのだ。あやまって超自然的と呼ばれてきた事がらが、私には単純で、自然以上に自然で、地球や太陽や海よりも自然であるように思われる。私が魂を持つことの方が、持たないことの方より、不死である方が、不死でない方よりも、言いようもなく自然である。私は不死どころではなく、それ以上のものがあると考えている。物質こそ超自然的[訳注2]で、理解の困難なものである。私が手にとっているこの土塊(くれ)は、何故に存在するのか?小川に浸した私の指の先から、陽に輝いてしたたり落ちるこの水滴は、何故に存在するのか? それらはそもそも何故に存在するのか? いつ? いかにして? 何のために? 物質は理解を超絶し、神秘的で、見透しがたいものである。物質に触れることはたやすくできる。しかし、それを理解するとなると、そうはいかない。魂、精神、―即ち、思想、観念――は容易に理解ができるものであり、それ自身を理解し、意識を伴っている。
 あやまって超自然的と呼ばれているが、その実は自然的であるものこそが実在するものである。私にとっては、万物が超自然的である。地球や海といった可感的宇宙以外には、何ものも認めることのできないような精神の状態は、何と奇妙に思われることか! あやまって超自然的と名づけられたものがなければ、私にはこうした事物は不完全で、未完成に思われるのである。魂がなければ、こうしたものはすべて死んだものである。海辺を歩く私があり、そこに私の魂が伴っているのでなければ、海は死んだ海である。地球上であれ、惑星上であれ、人がその岸に足跡を印さなかった海、その岸を魂の持ち主が歩まなかった海は、死んだ海である。惑星がいかに荘厳に宇宙空間を運行しようと、魂の持ち主が住んでいなければ、それは死んだ惑星である。私は陽光の中を歩んでいると、超自然的なもの、不滅な[訳注2]事がらのただ中に存在しているような気がしてくる。木片や水や大地を支配する法則と同じものに、精神を屈服させることは不可能だ。こうした法則はいかに厳格に物質をしばろうとも、魂を支配することはない。今この瞬間において不滅があるという感じを、身のまわりにたえず意識している私にとっては、もし物理的経験にない事態が生じたとしても、少しも驚きではないであろう。それは私にとって、ごく自然なことに思われるだろう。魂が内にはぐくむ力を魂に与えるならば、その事態には何ら驚くべきことは見あたらないだろう。
 いわゆる奇蹟とされることも、私には何ら驚くべきことに思われない。物質に惑わされた者だけが、そうした出来事をありそうになく考えるのである。もちろん、奇蹟の証拠が論理的、歴史的に見て、信用のできないものであることは、私にも分かっている。けれども、私は記録に残された奇蹟を弁護しているのではない。私が主張したいのは、今日どうして奇蹟が起こってはいけないのか、その理由が原則的に、私には皆目理解できないのである。これまで奇蹟が起こったとか、今も起こっているとかいうことすら、私は言うつもりはない。けれども、もし奇蹟が起こったとしても、それは完全に自然なことであると私は言いたいのである。驚くべきなのは、むしろ、奇蹟が頻繁に起こらないということだ。心の無限の構想力を考えてみるとよい。様々な構想を一時間だけ実現する力を、心に持たせてみるとよい。そうなれば、傷ついた者や病める者が健康と幸福を回復するように手助けすることが、いかにたやすいことであるか――単にそれを考えさえすればよいのであるから。心の仕事 (soul-work) をなすには、ただ考えさえすればよいことだろう。‘奇蹟’などという、特殊な意味が混入されてしまったたぐいの用語よりも、心の仕事という言い方が、私の主張にずっとよくかなった表現である。
 思うに、過去と未来となくありつづける永遠の今において、この瞬間私は生きており、この瞬間、不滅なものらのただ中に存在しており、私の魂が一片の木材よりも優れているのと同じくらい、限りなく私の魂よりも優れている<大いなる魂>たちがたぶん存在しているであろうからには、一体‘奇蹟’などにいかほどのことがあろうか? 通常考えられているような‘奇蹟’などは、まったく取るに足りないことである。単なる意志もしくは思考によってなされる、それより一千倍も偉大な心の仕事を私は想像できる。そうした心の仕事が今すぐ起こらないことが、私には不思議に思われる。大気や日の光や夜やの、私を取り巻いているすべての事象が、もろもろの言い表わしがたい力に満ち、<大いなる魂>たちの、又はもろもろの存在の、影響で充満しているように感じられる。私は不滅なものらのただ中を歩んでいるのだ。私自身がそうした体験の生き証人である。時として私は心を集中させ、根気よく外界のあらゆる感覚をしめだし、精神の全能力をかたむけて内なる私自身を直視することがあった。私はそこに‘私’が存在していることに気づいたが、‘私’というものを全面的に理解したり、認識したわけではない。ただ、そこには土とも木材とも違う、肉とも骨とも違う何かがあった。それを認めると同時に、私はある未知の生命の辺縁に立っている気がした。それの非常に近いところにおり、ほとんど触れんばかりに感じられた。もし掌握することがかなうならば、私にとてつもない存在の幅と、今は単に考えるだけにすぎないことを実行する能力を授けてくれるであろう諸力の辺縁に立っている気がした。そればかりか、私はきっとそれ以上のはるかに大いなるものの縁に立っていたのだ。内なる‘私’を見ることは、私が不滅のものらによって取り巻かれていることを知ることだ。もし私が死ぬ時に、内なる‘私’もまた死に、存在しなくなるとしても、たとえその場合であっても、私はやはりこのような思想に心の高揚を覚えたことに変わりはないのだ。
 墳墓の傍らでやすらいでいた私の心に浮かんだ情感や想念を、こんなに簡略に記述するのにも、なんと多くの言葉を費やしてしまったことか。塚の影がタチジャコウソウの花の一つから一つへと移るまもない、草の葉一枚分ほどもないつかのまに、浮かんでは消え、浮かんでは消え去る想念であった。さわやかな南風がやわらかに吹きすぎ、眼下には黄ばんだ小麦がおだやかに波うった。太古から変わらぬ陽光が、若草と花の上に降り注ぎ、私の心は、どこまでも広い大地さながらに広がっていった。私は両腕を伸ばして草の上におき、草を握りしめ、日々の充実をそこから汲みとった。もし私が死んだ後に、思いどおりになるならば、丘の頂に積まれた松の木の薪の上で、空に向かいながら火葬されたいと思う。そして、わが遺灰は壷に入れたりなどはせず、四方八方にまんぺんなく撒き散らしてほしい。これこそが人間の自然的埋葬だ。少なくともその大いなる思想が不滅なるものの間にはせ参じた人にふさわしい、自然界への埋葬である。墓に埋めるのでは充分ではない。速やかに自然界に解消されていくためには、充分ではないのだ。火葬炉は狭苦しい。一番高い丘の、さえぎる物のない大気の中でこそ、黄色の炎が身体という名のはんぱな物を焼きつくすにふさわしい。そこでこそ、身体が生きている間に渇望した空間の中へと、遺灰を撒くがよい。そうした贅沢な葬(ほうむ)りは、金持ちだけにできることである。私にはたぶん、それをするだけの余裕がないだろう。そうでなければ、いつか丘の頂きに、我が身の自然界に解消していく煙が、きっと立ちのぼることであろうが。
 風がやって来て、青い蝶を羽ばたくよりも早く運んでいくと、絹のような草が吐息する。私がもたれて安らいでいる緑の円墳のまわりを、一匹の大きなマルハナ蜂がうなりながらめぐっている。私の両手はタチジャコウソウの香りがする。昼の心地よさ、大地の充実、美しい地球、それをどのように表現したらよかろうか?
 有史以前から、内的意識に関する問題については、たった三つのことが見いだされたにすぎなかった。文字や彫刻に記録された一万二千年間と、それ以前の声なき、おぼろな時代とを通じて、たった三つのことが見いだされたにすぎない。原始時代の穴居人類は、今日の我々にとっても白昼の闇である未知の世界から、三つの観念を獲得した――即ち、魂の存在と、不死と、神とである。この三つが見いだされると共に、当然の成り行きとして祈祷が生まれた。その時以来、あたかも人類は満足を覚え、それら三つで事足りてしまったかのように、この一万二千年の間に何一つ新しい発見をなしてこなかった。私にはそれらだけでは足りない。私はさらに先へ進みたいと願っている。思想の闇から、第四の観念ばかりか、さらに多くの観念をかちとりたいと思う。私は心の生活に関して、もっと多くの思想を欲している。もっと多くの観念が今後発見されることを確信している。一つの偉大な生活、一つの全文明が、常識的思想の柵のすぐ外側に存在している。諸都市と国々、住民と知識人と文化――それらを包摂した一つの全文明がそこにある。見知ったものを例とするのでなければ、ほかに新しい思想を言い表わす方法はない。私は実際の都市や、実際の文明について述べているわけではないのだ。ここにいう生活は、これまでに想像されたどんなものとも違っている。全く未知な思想の連関が存在する――それはとてつもない思想体系であり、思想の宇宙である。これまで認識されていない偉大な存在、偉大な心的存在がある。このようなことが、あらましにおいて、私の<第四の観念>をなしている。それは穴居人類によって発見された三つの観念を超えるものであり、あるいはそれらと並ぶものである。魂の存在につけ加わり、不死につけ加わるものであり、そして神の観念を超えるものである。存在より以上の何かがあるものと、私は考えている。
 精神が航行できる広大な海洋がある。今だかつて思想の船がそこに乗り出されたためしがない。私はその船を船出させたいと思う。幾千年もの間、精神は内陸の湖に浮かんだボートのように、くだんの三つの観念の範囲内を堂々めぐりしていた。間の陸を越えて思想の船を運び、海洋へ乗り出し、彼方へと船出しようではないか。
 人類がこれまで想像に描いてきたすべての事がらを超える、非常に多くの事がらがある。私がこの文をつづっている、まさにこの瞬間において、大気や、遠くの耕地を照らしている日光や、はるかな天空や、地球をとり巻くエーテルや、宇宙空間が、心の神秘と、心の生命と、あらゆる時代の経験を超えた事がらとで、充満しているのを私は感じる。今この瞬間に、筆をとっている私が存在しているという事実は、私にとってことのほか驚異的であり、奇蹟のようであり、不思議な、超自然的なことであるので、私は次のように断言してはばからない。私は限りない生命の縁にたえず臨んでいるのであり、存在することよりも高次の条件があるのだと。身のまわりのすべての物事が超自然的であり、すべての物事が説明のつかない意味で満ち満ちている。
 穴居人が洞窟の口に立って、星の輝く夜の世界をうかがったのは、一万二千年前のことだ。穴居人が再び外をうかがうと、海の彼方から昇る朝日が目に入った。彼は昼の暑さの中では、木蔭に休息し、目を閉じて、自己自身の内部をうかがった。彼は大地や太陽や夜と顔をつき合わせ、おのれ自身と顔をつき合わせた。その間をはばむ何物もなかった。文字に残された伝統の壁もなく、文化という作りつけの組織もなかった――彼の裸の心は裸の大地と向かい合っていた。彼は未知の世界からもぎとるようにして、三つの観念の発見をなした――おのが魂の存在と、不死と神と。今日、私がペンをとっているこの今において、私はかの穴居人と全く同じ立場に身を置いている。文字に残された伝統も、文化の組織も、さまざまな流派の思想も、私にとっては存在しないに等しい。かつてそれらが、私の心をいくらかとらえたことがあったにせよ、それは非常にわずかな程度であったに違いない。とっくの昔に、私の心から消し去られてしまったのであるから。
 大地と海と太陽から、夜と星から、昼間と樹々と丘から、私自身の心から――それらから私は思索する。この現代において、私は大昔の洞窟の口に立ち、自然と顔をつき合わせ、超自然と顔をつき合わせ、私自身と顔をつき合わせる。私の裸の心は未知の世界と向かい合っている。これだけで全てではないことが、私には真昼のように明らかにわかる。私には存在することとは別の、より高次の条件がわかる。私には魂の存在や不死がわかるばかりでなく、加えて、限りない心の生活が実感されるのである。私には思想の宇宙の存在と、神よりも限りなく高次の、言い表わしがたいものの存在が実感されるのである。私は<第四の観念>を何とか言い表わそうと努めている。もう一つ観念があるという観念を抱くだけでも、なにがしかの収穫である。穴居人類によって見いだされた三つの観念は、踏み台にすぎず、果てしない連鎖の最初の三つの環である。その昔(かみ)の洞窟の口で、未知なるものと顔をつき合わせ、彼らは祈祷した。今日、心の中でひれ伏し、私も祈る。最も深い心の生活を、私に与えよと。

 [訳注1]ジェフリーズには二種の永遠の考えが見られる。一つは、太古から連綿と流れる時の経過としての永遠であり(第2章参照)、今一つはここでのnunc stans(とどまる今)の思想である。過去から未来へと流れる時は単なる観念であり、実在としての時は今のほかにはない。我々は徹頭徹尾今の中に生きているのである。(蛇足ながら)
 [訳注2]supernatural:形而上学的に魂は物理的存在とは見なされないので、自然と対峙するもの、または自然を超えたものである。しかし実存的に魂は我々が最もよく知るものであり、その意味でnaturalである。自然は不可解である。その意味でsupernaturalである。(サルトルの「嘔吐」と比較せよ) なお、以下ではここでの場合のように逆説的にではなく、本来の意味で超自然的が用いられている場合が多いので注意されたい。
 [訳注3]不死、不滅ともにimmortal,immortarityの訳語であるが、特に魂について言う場合を不死とし、何らかの永遠の存在を暗示すると思われる場合を不滅とした。



                <第四章>


 風が草のまをわたり、日向をわたる。蝶は丘沿いに東の方へ運ばれていった。数ヤード離れた草の上に、子羊の頭蓋骨が、とうの昔に鴉や蟻にきれいに掃除されて、しろじろと横たわっている。耳の奥に響く夏の海のかすかな波音を思わせて、さわやかな風が草のまにそよいでいる。塚の中に埋葬された男の亡骸は、もはや跡をとどめない。雨がしみこむように、土の中に没してゆき、そのようにして彼の身体は消滅していった。私は何らの思い違いをしているわけではない。穴居人類の見いだした三つの踏み台である観念について、いかなる証明もなしえないことは、私も十二分に承知している。魂は究めがたいものであり、それが存在するということを明瞭に示すわけにはいかない。不死は感覚でとらえることができない。理性と知識と経験は、この三つの観念のどれもが虚偽であるとする傾きがあること、また経験は祈りには応じてくれないこと、そうした点は私も充分よく心得ている。
 私は何らの思い違いをしているわけではない。私は概念としての死を、この白く曝された骨をつかむことができるのと同じように、しっかりと把握している。それは全くの消滅であり、無に帰することである。魂はせいぜいが有機的合成の産物にすぎず、それは炎のように消え去るものである。これが死であるかもしれない。私の魂は雨のように土にしみこみ、消え去るものであるかもしれない。風と大地と海と、夜と昼と、それだけの世界であるとしても、それがどうだというのだ?私の魂が一塊の産物にすぎないとしても、それがどうだというのだ?そうしたことは、私にとってはどうでもよいことだ。私の知っているのは、ただ次のことだけだ。私のこれまでの人生において――今、生きているこの時において――私は不死について考え、私の心を<第四の観念>へと高めさせた。もし私が死後に全くそのことを忘れ去ったとしても、私がそうした思想を抱いたことに変わりはないのである。
 穴居人類のもともとの三つの観念には、迷信がまといついていった。祭礼や儀式が発生し、パピルスの上には、秤で量られ、賞罰をあてがわれるのを待っている、魂の長い行列が描かれた。こうした奇怪な蜘蛛の巣が、もともとの発見をけがしてしまい、信用を失墜させたのである。そんな蜘蛛の巣はすっかり取り払い、根底にある原理だけを考察せよ。それらの原理は大して深みのあるものではないが、だからと言って、私はそれらをまるごと投げ棄てはしない。たとえそれらの純粋原理が錯誤であって、死は無に帰することであるとしても、たとえそうであっても、そうした原理を考え出したことはましなことであり、なにがしかの収穫に違いない。思想は生命である。それらの原理を考えたということは、それらの原理を命としたということである。それらの原理のうちの二つを原則的に正しいと認めたうえで、言うならば、それらは出発点にすぎないものである。この一万二千年間にわたって、この出発点を越えようとする努力がなされてこなかった。それらは心の生活への入門段階にすぎない。未知なるものに対して刻まれた、単なる絵文字であり、小さな肖像にすぎない。
 明日ではなく、今日が肝心だ。墳墓の未来ではなく、今、日の照っているこの時が肝心だ。死後ばかりでなく、今この時、私に心の生活を生きさせてほしい。今こそ永遠である。今私は不死のただ中におり、今超自然的なものが私のまわりに群がっている。大きな蜜蜂が羽音をさせ、さわやかな風が草のまにそよぎ、黄ばんだ小麦が眼下に波打っているこの今、この地上においてこそ、わが心が開かれるようにと、わが心の眼が開かれ、心の生活が営まれるようにと、私は願っている。太陽と地球と海と、夜と昼と、それらはごくささいなものだ。私に心の生活を与えてほしい。
 自然界には人間的なものは何一つない。愛しさこの上ない大地といえども、地に倒れた私を息たえるにまかせ、食物も水も恵んではくれないであろう。空に燃える大いなる日輪も、私があれほど交わりを好んだのに、ただ燃えつづけるだけで、何ら援助の手を差し伸べようとはしないであろう。日よけのない小舟で、水もなく海に漂流した者たちは、太陽の情けと、一滴の雨をももたらさない神の情けを、花々の上にはあんなにも美しくほほ笑みかける同じ陽光のもとで、惨めに息たえつつ、試したことであった。南国では太陽は敵であり、夜と涼気と雨とは人の味方である。海ともなれば、我々には飲めない塩水を与える。木々は人に対して何の関心もいだかない。ありし日々に、あんなにたびたび訪れた丘は、私がいなくても寂しがることはなかった。太陽は人を焼き焦がし、裸の状態では生きながら丸焼きにするであろう。海水も淡水も、船が転覆したならば、人を浮かばせようなどというつもりは毛頭ない。人はいたずらに両腕を振り上げるが、彼の頭上で水は平らかに静まり、彼の体が占めた場所をふさいでいく。もし人が崖から落ちるならば、空気は裂け、崖下の土が彼を打ちのめしてばらばらにする。
 人は水をのむが、水は人のために造り出されたのではない。これまで水不足のために、どれほど多くの人が死亡したことであるか。果実の中には人の食べられるものがあるが、かといって果実が人のために実るわけではない。単に種を継続する目的のために実るのである。熱帯の未開の国々では、一見すると自然界は人間に対していくらかの考慮を払っているかに思われもしようが、それは単に見かけ上のことにすぎない。ライオンは人を襲い、サイは人を押しつぶし、蛇は噛み、昆虫は悩まし、疾病は人を苦しめる。疾病は花の冠をかぶったポリネシアの島民の間ですら、陰湿にはびこっている。わが国に話をもどせば、今私の指先をかぐわしく匂わせているこのタチジャコウソウは、そんな目的のためにではなく、それ自身の目的のために生いたったのである。眼下に広がる小麦にしても同様である。我々はそれを食用にするが、それ本来の生まれついた目的は、それ自身のためである。昼であれ、夜であれ、事情は同じである。星々は無関心に、それぞれの軌道を回転しつづけるだけであり、星々にとって我々は無きにひとしい。自然界の全域において、人間的なものは何一つない。我々の目に映る全自然界、全宇宙は、我々に対して絶対的に無関心であり、人の命は、我々にとってはいざ知らず、草ほどの価値でしかないのだ。もし、全人類がたった今滅びたとしても、それが地球にとってどんな違いをもたらすであろうか? 地球がどんな関心を持つであろうか? 絶滅したドードー鳥[註1]や、現在絶滅しつつある象の運命に対するのと、同じことが言えるのだ。
 一般に考えられているのとは反対に、自然と宇宙の大部分、多分全部が、明確に反人間的 (anti-human) である。非人間的 (inhuman) という用語は私の言いたいことを伝えないので、反人間的がよりよい用語である。超越的、外部的、かつその態度においてほとんど醜怪であるという意味で、、超人間的 (outre-human) という用語も、ほぼわが意をつくすであろう。万物が反人間的である。深海から捕えられた生き物の、いかに異常で、奇怪で、理解を越えたものであることか! ねじくれた魚、おぞましい烏賊(いか)、ぞっとする鰻のような形をしたものら、貝殻をつけて這いまわるものら、百足のようなしろもの、それらの奇形なものらを見るだけで頭脳にショックを受ける。それらが精神にショックを与えるのは、それらが意匠(デザイン)というものを表わしていないからだ。それらの中にはいかなる理念もない。
 それらはいかなる形の良さも、形態も、優美も、目的も有していない。それらは漠然と渾沌の意識を呼び醒まし、精神はその渾沌に反撥を覚えるのである。それらが存在しなくなり、海から完全に消え去ってしまったなら、安堵の思いがするであろう。それらは人間に対して、敵対的な意図を持っているわけではない。サメですらそうではない。けれども、サメが現われるだけで、それだけで充分に不快なのである。それらのはなはだもっておぞましい海の生き物たちは、人を襲うという意味で反人間的であるのではない。それらは境界外のものであり、超えたもの、向こうにあるものであり、いわば渾沌をのぞきこむような気持ちを起こさせるのだ。しかも、その印象がなまなましいのは、それらの生き物が百尋(ひろ)の深海に生きながら葬られているので、めったに姿が見られないからである。そのため精神は、それらを目にした時に、それらが初めて存在し始めたかのような印象を受けるのである。精神はそれらに慣れ親しんでいないので、それらの反人間的な特質がすぐさま明らかになり、うつろな眼で我々を凝視しているのを感じるのである。
 しかし、実のところは、地上の生き物の場合にも同じことが言える。今日においても、精神が慣れ親しむまでにいたらない地上の生き物がある。例えば、ヒキ蛙などがそうである。思いがけない隅に、その不恰好な姿が出現するや、多くの者ははっとして叫びをあげる。ヒキ蛙からなんら危害を受けるわけではないことが分かっていながらも、彼らは恐れを覚え、精神にショックを受けるのである。その理由は、ヒキ蛙の明らかに反人間的な特質のうちにある。理念もなく、人間的計画もなく、偶然によって動かされている物質界の、無目的な、形のない渾沌そのものが、具体的姿となって、道にうずくまっているのである。その生き物をよくながめ、観察することによって、それが無害であり、役にさえ立つということを心に納得してみれば、恐怖も薄らぎはする。けれども、依然としてその形は精神が決して和解できないものである。木彫りのヒキ蛙ですら嫌悪をもよおさせる。
 あるいは、草むらでふいにかすかなシュルシュルという音が起こり、緑の蛇が堤を越えてくる。胸の中で息が止まる思いがし、一瞬の間神経に生命力が通わなくなってしまう。その地面を這いずる黄色い縞の入った蛇は、それほど完全に精神の中の永遠の<理念>に反しているのである。慣れによって恐れは減じるかもしれないが、どれほど長く熟考したところで、その生き物を人間的<理念>の範囲にもたらすことはできない。これらの生き物は、それほど明確に人間的なものに反しているので、幾千年経っても、これらの生き物の輪郭を和らげさせるのに充分ではなかった。程度こそおとれ、いろいろな昆虫や爬虫類が同様な感じを起こさせる。一般に動物や鳥にはそうしたことがない。虎は恐れられはするものの、嫌悪感を引き起こしはしない。例外は残骸をあさるものらの場合だ。馬や犬を我々は好む。我々は馬や犬において、何ら反人間的なものを見いださないばかりか、彼らに愛情を持つようになる。
 犬や馬は我々にとって有益であり、多少なりとも我々に対して共感を示し、彼らは、特に馬の場合には、ある種の優美な動きを有している。いわば、彼らの上には、これらの特徴や親しみによって、表面上の見栄えのようなものが与えられている。見た目の馬の形の良さは、慣れとなって受け入れられるものとなる。しかし馬は断じて人間的ではない。もし我々が前もって馬というものを知らずに、あたかも水槽の中の奇異な魚を見るように、ふいとそれを見ることがあったとしたならば、馬の超人間的な特質が明らかになるだろう。馬が悪評をこうむらずにすんでいるのは、首と胴体の曲線のおかげである。馬の後脚(あとあし)を詳しく観察してみるとよい。すると奇妙な後方の動きと、特異な形と、反人間的な曲り具合とが目についてくる。犬はその頭の良さで我々を魅了するが、手を持っていない。犬の頭を手で撫でてみるとよい。すると頭蓋の形が、ヒキ蛙の姿が視覚にとっていとわしさを起こさせるのとほぼ同程度に、触覚にとっていとわしい。我々は身の回りに、馬や犬や鳥といった、どれもあまり目だって反人間的ではない生き物を飼いならしてきたが、それらの生き物もやはり、それらの生き物としての特徴を失ってはいない。彼らは本来、小麦と同じように、彼ら自身のために生存していた。我々は彼らを利用するけれども、彼らは我々の仲間ではない。
 現今のどんな動物においても、人間的なものは何一つない。全自然界、即ち我々が目にする限りの宇宙は、反人間的、もしくは超人間的であり、人間の外部にあり、人間に対して何の関心も抱いていない。自然界は人間とは本質的に相容れない。いかにくねくねと論理をこねまわそうと、自然と宇宙を精神に適合させることはできない。精神もまた宇宙に適合させることはできない。私の精神はそれに合うようにねじ曲げることはできない。私はこれらの目的を持たない事物とは、全く別の存在である。心をこうした事物へと、無理やりへりくだらせることはできない。自然界の法則は、心にとっては何ら重要性を持たない。私は潮汐の法則によって縛られたいとは思わないし、実際に縛られてもいない。この回転する地球の上で、体ごと振り回されているとはいえ、私の精神はいつでも中心にとどまっている。いかなる潮汐の法則といえども、いかなる回転といえども、いかなる重力といえども、私の思想を支配することはできない。
 幾世紀にわたってなされた思索は、この計画も目的も理念もない宇宙に対して、精神を和解させ、適合させることができなかった。私はもはや、私の思想を宇宙に適合させる努力をするつもりはない。私自身は宇宙とは別の、切り離された存在であることを、私は気づいており、そのように信じている。そして私自身のために、最高の教養をつむ努力をしようと心から思っている。これらの自然界の事象は、人間とは何の関連もないのであるから、再度結論するならば、自然物は奇異にして神秘的なものであり、超自然的なものこそ自然的なものなのである。
 自然界もしくは宇宙においては、何ら人間的なものは存在せず、万物は超人間的で、計画もまとまりも目的も持たないのであるから、いかなる神も自然とは何らの関係を持たないと私は断定する。自然界には神は存在しない。地上の土くれであれ、星々の組成であれ、いかなる物質の中にも、いかなる場所にも、神は存在していない。なんとなれば、神という語によって我々が理解するものは、最も純粋な形態の理念もしくは精神のことであるからだ。そして、自然界にはいかなる精神も顕現されていないからだ。自然界を支配するものは神とは全く異なっている。それは電気のような力ではなく、神のような神的存在でもなく、霊魂でもなく、叡知的存在ですらなく、これまで想像されたどんなものとも全く異なったある力である。そういうわけで、私は自然界あるいは大宇宙において神を求めたり、神の工作の何らかの痕跡を探したりすることをやめたのである。私が探求しているのは、これまで述べてきた神的存在と較べては、確かにより高次のものとは言えない、この神ではない力の形跡なのである。それは精神を持たない力である。電気よりも微妙であるが、全く意識を欠いており、潮汐を引き起こす力と同様に感情というものを持たないあるものであり、それを私は示したいと願っている。[注2]
 つぎに、人間界においては、人と人との関係において、処世において、世間の出来事において、つまり世事全般において、万事が偶然によって起こる。処世においていかに慎重であろうと、いかに深慮遠謀を働かせようと、どうなるというものではなく、ごくつまらない事情が、最も賢い人の深慮をつくした計画をも、だいなしにしてしまうものだ。ギリシャの昔に、クセノフォン[注3]が述べたように、知恵とはサイコロを投じて、その出た目によって方針を決定するようなものである。美徳とか、人情とか、最善最美の処世といえども、全く無駄である。数千年にわたる歴史がそれを証明している。歴史を通じて、ダナエ[注4]の例ほど感動的な記録はない。二千年前のこと、彼女は断崖から突き落とされたのである。ソフロンというエフェッソスの長官がおり、ラオディケという女が彼の暗殺を企てた。ダナエはその陰謀を知り、ソフロンに警告したので、彼は逃げ去り、命が助かった。殺害をもくろんだ女であるラオディケは、ダナエを捕えさせ、崖から突き落とさせた。崖の縁でダナエは言った。――人々の中には神を蔑むものたちがいる。今彼らは、彼らの軽侮の正しさを、彼女の運命によって証明できるであろう。なんとなれば、彼女にとって夫ともいえる人物を救ったことによって、彼女は神によってこのような残酷な死の報酬を受けるのに対し、[自分の夫を殺した]ラオディケは栄誉を受ける身となるのであるからと。この言葉の苦さは、今日に到るまで変わらない。
 まことに、もし神がそうした出来事、または今日起こっている類似の出来事に対して、責任があるとするならば、神は軽侮されても仕方がない。そうした神に対する愚かな信仰は、つねに軽侮されてしかるべきである。しかし、人間界におけるすべての事が、明らかに偶然によって起こるのであるから、いかなる神にも責任がないことは明白である。もし神がそうしたやり方で偶然を左右するならば、神は蔑まれても仕方がない。神が介入しないことは明らかであり、万事は偶然によって起こる。そういうわけで、私は神の形跡などという存在しないものを、人生において探求することをやめたのである。
 ある存在者、魂よりも高次なもの、神よりもより高く、より善くして、より完全なものが存在すると私は断定する。この神よりも善いあるものを、私は見つけだしたいと、心から祈念している。より優れた、より高尚な、より善い何ものかが存在している。このものを求めて、私は探求し、努力し、思索し、祈るのである。もし、結局のところ、何ものも存在せず、私の心が炎のように消え去らねばならないとしても、たとえそうであっても、私の心が生きている間は、私はこうした思想を抱きつづけるのである。私の存在の全力を傾けて、私の思想と精神と心の全力を傾けて、私はこの神よりも偉大な、神よりも善き、<至高の心(Highest Soul)>を見つけだしたいと祈るのである。この<至高の心>と共に、いつなん時でも、最も深い心の生活 (soul-life) が送れるようにと希求している。適切な語がないので、私は心 (soul) と記したが、私はそれは心を超えた何ものかであると考えている。

 [註1]the extinct dodo: マダガスカル沖のモーリシャスMauritius島にかつて棲息した巨大な飛べない鳥。大航海時代の入植者によって滅ぼされた。
 [注2]この一節から明らかなように、神の‘目的論的存在証明’が真っ向から否定されている。自然界には神のいかなる‘設計design’の証拠も見いだされないのである。(自然界の本質についてはショーペンハウアーの形而上学と比較されたい。)
 [注3]Xenophon: 前430年頃生―354年頃没、武人にして文筆家、ソクラテスの門人。
 [注4]Danae: Athenaeus The Deipnosophists Book13(アテナエウス「学者の宴」) に見られるエピソード。

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作品名:わが心の物語 (第3,4章)
作者:リチャード・ジェフリーズ
翻訳:脩 海 (copyright: shuh kai 2010)
入力:マリネンコ文学の城
UP: 2010.10.29