わが心の物語

  第五章


リチャード・ジェフリーズ 

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             わが心の物語 第五章

 こうした心の出来事を、正確な順序で物語ることは不可能である。私は今度は、これまで述べてきたどんなことよりも以前の時期にさかのぼって、その頃から最近に到るまでの、私の探求の別の面を回顧してみなければなるまい。いつ頃であったか忘れてしまったほど昔のこと、私は東の方面が広々と見わたせるある場所を、毎朝訪れたものだった。寝床を出るとすぐに、私はいく本かの楡の木立のある場所へおもむいた。そこからは、露のおいた野原の先に、その辺りから日の昇る遠い丘が見わたせた。楡の木立は半ば私を隠していた。というのも、当時私は人から見られることを嫌っていたからだ。そんなところを見られたならば、軽蔑されるのではないかと感じていたのだ。一、二回そうしたことが起こり、蔑むような目で見られていることが、私には分かった。とはいえ、私が何をしているのか、わずかにでも知る人はいなかった。私は毎朝そこへ出かけてゆき、二分か三分、誰にも邪魔されずに考えることができれば、それで満足であった。丘の連なる上に、日が昇る光景を、私はたびたび目にした。夏にはしかし、日はすでに昇って久しかった。
 私は丘を見つめ、露のおいた草原を見つめ、楡の枝の間にのぞく空を見上げた。たちまち、家も人も物音も、私の背後からかき消えるようになくなり、私ひとりの世界になるように思われた。思わず私は息を深く吸いこんだ。それからゆっくりと息をついた。私の思い、あるいは内なる意識は、光まばゆい空を立ちのぼってゆき、私はその一瞬の心の高揚にわれを忘れていた。この高揚感はごく短い時間、おそらく一秒にも足りない間、持続したにすぎなかった。それのつづく間、これと定まった願望が生じたわけではない。私はただわれを忘れていた。私は朝の美しさに見とれて、心の高まりを覚えていたのである。それがやんだ時、私の一瞬間味わったこの広大の気宇にふさわしく、私の存在を向上させ、拡大させたいという願いが生じてきたのである。時には、楡の木の梢から、風が吹き降ろしてきて、細い枝がたわんだ。その枝の間から、綿雲の浮かぶ空を見上げていると、私の心は高揚した。草原の上を射してきて、露の玉に宿る光、風のそよぎ、天の高みに登る思い、そうしたことが私に深いため息をつかせ、その美の中からあるものを、私に賛嘆の念を抱かせたものの一部を、名状しがたい内的本質を汲みとりたいという願いで満たしたのである。
 時には、一番高い所にある枝々の緑の先端が、金色をおびて見えた。光は緑の上に金を塗りひろげた。またある時は、吼えたける烈風に襲われて、木立は頭をたれ、草は身を伏し、東天には薔薇色を帯びた幅広い幕がいくつも下りていた。光の帯は霧の中で赤色に変わってゆき、雨が丘の頂を隠した。嵐の突進と咆哮の中でも、同じ心の高まり、同じ願いが、つかの間私を高揚させた。私は毎朝その場所へ出かけていったのであった。なぜそうしたのか、私にもはっきりと分からなかった。言ってみれば、それは薔薇の茂みへ出かけて、花の香りを嗅ぎ、花弁においた露に唇を触れてみるようなものであった。しかし、私が願ったのは、美という名状しがたい内的意味を、私の内面に取り入れることであった。それを所有できるようにと、それを所有することで、より高い種類の存在となることができるようにと、そう願ったのである。
 その後、私はこうした思索をするために、日々の巡礼を始めた。どこか一人になれる場所へ出かけてゆかねばならない、という気持につき動かされていた。、日々、数分間であれ、このひとり離れた生活を持つことが必要であった。私の心は、ほかの事とは別な、それ自身の生活を営むことを要求した。ほど近いところにある一本の大きな樫の木が、そうした場所のひとつであった。根方の草に腰を下ろし、幹に背をもたせかけて、静かな牧草地ごしに、明るい南の空を眺めていると、私はしばし私自身の生活を持つことができた。樫の幹の陰にいて、私はひとりであった。私は幹に背をもたせかけて、粗い樹皮をおおう苔に触れるのが好きであった。頭上の枝の茂る中では、鳥たちが驚きもせず、歌い、呼びかわし、楽しげに飛びかっていた。風が木の葉をそよがし、木の葉は風にしなやかに応えた。私は今、はるかな年月をへだてて、大枝の間にのぞくとぎれとぎれの空を、目に浮かべることができる。蜜蜂はいつでも、緑の原でぶんぶんうなっていた。その上を、しらこ鳩が森を目ざして、軽快に飛んでいった。
 私は太陽の存在を感じていた。直接目には見えなくても、枝が日光をさえぎる具合から、その存在を心地よく感じることができた。木の枝は太陽を隠しながらも、それがそこにあることを知らせてくれた。美しい緑の大地と、美しい空と太陽とを喜ぶ、細やかであると同時に、深く、強い、感覚的な悦楽が私の中にわき起こった。私は自然界を心に感じとり、あたかもそれらが私を抱擁し、私の上に愛を注ぐかのように思い、言い知れない喜びで満たされたのだった。 だが、私の方こそ、それらに愛を注いでいたのだった。なぜなら、私の心は大地よりも広々としていたのであるから。今では、私の心はあの頃よりもさらに広がっていて、いっそうの渇きと、いっそうの欲求を覚えている。感覚的な喜びのあとには、つねに思いとも願いともつかないものが起こってきた――私はこの自然界のごとくでありたい。太陽と光と大地と木々と草との内的意味を、私自身が、身体と精神の両面にわたって、いくぶんでも優れたものとなっていくことのあかしとして、わがものにしたいものだ。身体のより大きな完成と、精神と心のより大きな完成をなしとげ、私自身がより高いものになっていけるようにと。この樫の木のもとへ、私は長い間毎日訪れた。時には一分間ほどの間でしかなかったが、ただその場所を見るだけで満足したのであった。早春の頃、北風が万物を暗く見せる厳寒の中を、私は夜になって時々出かけてゆき、裸の枝の下から、壮麗な南の空を見上げたものだった。星々はまばゆく輝いていた。雄大なオリオン座、閃々とまたたくシリウス――一年中で最も多く、最も明るい星座が見られる時季である。大気の透明さと、夜空の黒さ――曇天ではない黒さ――によって、星座は存分にその輝きを発していた。星々は私を高揚させ、心に新鮮な活力をそそぎこんだ。星々が運命を司るものであったとして、それらが与えうるすべてのものが私に与えられたとしても、私は必ずしも満足できなかったであろう。これを、このすべてを、さらにそれ以上を、私は私自身に欲していた。
 街道を一マイルほど行ったある場所からは、丘陵地をずっとよく望むことができた。私はしばしばそこへ出かけてゆき、同じ思いにふけった。もう一つの場所は、歩いて少しの所にある、楡の木のそばであった。そこからは、開けた林と傾斜地のおかげで、丘陵がよく見えたのであった。ここもまた、私の好んだ思索の場所であった。いま一つの場所は、歩いて半時間ほどの所にある森であった。その一部を粗い小道が通っていたので、囲いがすっかりされてはいなかった。トネリコの若木や、樅の木や、ハシバミの藪などの樹木の間に身を置いていると、私は私自身をとり戻すことができた。春の芽生えの頃から、秋に実の生る頃まで、私はいつでもその森にいることを好んだ。春には、時として、見わたす限り一面のつり鐘草( blue-bell )が咲き輝いていた。鳩が鳴き、黒歌鳥が甘い声で歌った。森の空気は緑の植物の味がした。けれども、私が一番気に入ったのは、背高い樅の木々であった。炎の形なりに、緑の先端へと先細っていく樅の木を、目でなぞっていくと、その上方には瑠璃色の空があった。高木のおかげで、私はより以上に空を感じることができた。すべて美しいもののおかげで、私はおのれを感じることができた。そのようにして自己意識が強烈に高まっていく中で、私は心と身体のより大いなる完成を願ったのである。
 その後のこと、私は、ほとんど毎日、二マイル(3・2km)以上の道のりを歩いて、丘陵地の始まるところまで出かけていった。そこの最初の丘からは、道が、囲いのない開けた丘々の上を、南に向かってくねっていく光景が見わたせた。私は樅の木立のそばで、一、二分休憩した。枝の間ではたえず風がそよいでいた――丘の上にはいつでも風が吹いているのだ。南の方面の空は日光に明るく照らされていた。雲は円形劇場のような地形 (amphitheatre) の挟間や、峠道を越えて、南へと流れていった。その南の先には、はるか遠くに、海があった。私はその場所で、つかの間の瞑想にふけることができた。こうした巡礼は、毎日数分の神聖な時を私に授けた。想念または願望が最高潮に達するそのつかの間は、神聖な時に思われたのである。
 町に暮らさねばならなくなり、こうした巡礼を中断しなければならない時期があった。私の雇われていた退屈な仕事が、それを許さなかったのである。私は夕暮れになると、時々窓の外へ目をやり、少し離れたところにある樺の木を眺めたものだった。夕焼け空に、優美な大枝がしなだれていた。くだんの想念は中断されはしなかった。それは私の中に絶えず生きつづけた。さらに過酷な時期がやってきて、私が好んだそうしたものとも離れて暮らさねばならなくなった。確かに、ロンドンのすぐ近郊には、美観を満足させるものはほとんどないと言ってよい。けれども、一本の杉の木のそばを、私はよく行ったり来たりしながら、日に照らされた牧草地で、ひとり樫の大木のもとにたたずみながら考えたことと、同じ思いにふけったものだった。徐々にではあるが、事情が好転して、私は私が好むものと再び出会えるようになった。しかも、それはロンドンの近郊でありながら、牧草地や森がすぐ近くにある地域でのことだった。その上を歩く者の心を浄める丘陵がそこにはなかったが、それでも私は昔からの思いにふけることができた。
 私はロンドンに長く暮らした。仕事を片づけてしまうと、私は以前森の中でそうしたのと同じように、歩きまわった。私は石橋の上から川面をのぞきこむことがあった。橋の上にたまった砂埃とわら屑が、潮の流れから吹きつける突風のたびに舞いあがった。砂埃は鼻の孔や唇にたまった。まさに、世界最大の都市における、すべての厭うべきものの残滓であった。交通の騒々しさと、行き交う群衆の絶え間ない圧迫と、彼らの間断ない、きれぎれの会話によっても、私の心は乱されることはなかった。少なくとも、私はあるつかの間の体験をした。一瞬のことであるが、私は群集の足の下で潮の流れを起こさせている、大いなる海の寄せくる力について考え、力強く壮麗な、遠い海を思った。一瞬ではあるが、私は潮の流れの波立つ上に、日光が照り映えるのを見た。一瞬ではあるが、川沿いの都会の喧騒にもかかわらず、私は風を感じ、大地と海と太陽と大気と、作用しつづける莫大な諸力を意識していた。自然は、人ごみや彼らの足ですり減った石橋によって、深められていた。引き潮ともなると、船はその船体を段々をなした泥の上に横たえ、帆柱を傾けていた。その黒々とした泥土であっても、川水が流れていく先に、海を想像することの妨げとはならなかった。海水は引いてしまい、はやりつつ川べりを洗うさざ波は、いっそうの速さで海へと流れていた。ロンドン橋(訳注1)から東へ向かって、川は海原へと奔っていた。
 夏のまばゆい朝日が、ロンドン橋の東側の欄干を熱していた。私は橋の凹所にいて、それを感じていた。穏やかな川面は、一枚の光の板のようであった。建物で囲われた川は、無数の扉の横を音もなく平穏に流れていた。流れが鎖にぶつかる所だけに、さざ波が立った。赤い三角旗が垂れさがっている、磨かれたマストの上では、金色に塗られた風見が輝き、黒いタールを塗った船腹が、陽光を浴びて鴉の羽のようにぎらついていた。透明な大気の中で、倉庫の前面の角がくっきりときわだって見えた。陰になった波止場は、光を孕んだ陰影の中でやすらいでいた。はるか川下には、去って行く船が悠然とたゆたい、流れに乗って夏のもやの中へ漂っていった。建物に囲われた岸と岸の間や、陽の当たった壁の辺りや、家並のくぼんだ所には、空中にかすかな青色がかがよっていた。燕たちが輪を描き、宙にのぼり、さえずりながら川下へ飛翔していった。大いなる日輪は空に燃えつづけ、欄干を熱くし、かつて私が先史時代にえぐられた狭い谷間でやすらいだ時と変わりなく、わが上に照り輝いていた。わが想念のように変わりなく燃えつづけ、いつでも現前していた。広やかな川と広やかな壁を照らしもすれば、最もちっぽけな塵埃をも照らし、大いなる天空をも照らせば、わが指の爪にも照り映えていた。太陽こそが一日の定点である。私は熱烈に太陽を心に抱いていた。私は太陽を感じとり、宇宙の莫大な諸力の存在を感じとった。私は宇宙空間(エーテル)の奥底まで感じとった。そのように熱烈に、太陽と天空と無限の宇宙を心にかけていたので、私はその時もまた、永遠のただ中に存在し、超自然のただ中に存在し、不滅なるものの間に伍している気がした。物質界の偉大さが、精神を目のあたり見えるものにしていた。これらのものによって、私はわが心を見てとった。これらのものによって、私は超自然的なものが太陽よりもいっそう強烈に実在していることを知った。私はその時、その場所で、超自然的なものと不滅なものとに触れたのである。
 舗装路を歩くのがいやになると、私は休憩するために国立美術館へ向かった。私は適当な人物画の前に坐ってくつろいだ。私は絵画好きではない。絵画は平坦なうわっつらにすぎないからだ。とはいえ、私が人間らしい絵と名づけている絵は美しい。<ダフニスとクローエ>(訳注2)の膝や胸は、まるで生きているようだ。そういうものは心を惹きつけ、心はそれらを愛さずにはいられない。私は見ることを生命としてきた。美がなければ、私にとっていかなる生命もない。肉体の神々しい美は、私にとって生命そのものである。<驚き>(訳注3)の中の肩や丸くふくらんだ胸部、熟れた肌の絶妙な色合いは、瞬時にして私の中の海の渇きを満足させた。塩辛い海と、陽に熱せられて潮の満ちるのを待つ乾いた砂との、すべての渇きが私の渇きであり、海全体と共に私は美に渇いていたからである。そして私には、一回の人生では、いかに長くても、私の心を満たすことができないことが、全くよく分かるのである。しばしば私の喉と舌ばかりか、全身がこの底知れない渇きに干からび、熱病にかかったように干あがることがあった。そして再び、みずみずしい枝のように、指の先までが湿りで充足されたのである。太陽が天に燃えるように、私の中で燃えあがる渇きがある。
 ティツィアーノの<ヴィーナスとアドニス>(訳注4)の中のヴィーナスの輝く顔、上気した頬と見つめるものの視線に接吻で応える唇、欲する眼差しと金色の髪――日光を鋳型に流しこんだような目鼻だちだ――この顔が私の心にかなった。ジュノー(訳注5)の広々とした背中と背筋のくぼみ、この背ほど美しいものがあろうか。審判者の目に露わにされたヴィーナスの均整の取れた臀部、こうしたものが、私が日当りのよい草地で覚え、岸辺を洗う夏の波が立てる静かなすすり泣きに聞きいった荒磯(ありそ)で覚えたのと同じ渇きを、呼び起こしたのである。私は美を求めて世界中を探しまわるつもりだ。私は一杯のエール(麦酒)すら買う金もなく、舗石の上を歩き疲れ、気が遠くなっていた日々に、この美術館へ来て、これらの絵画の前で腰を下ろして休息したのであった。その後、もっと良い暮らしができるようになった頃、やらねばならなくてもつねに気に染まなかった労働を終えると、私はしばしばまっ直ぐここへやって来て、いつものように美によって私の心をくつろがせたのである。今でも私は出かけていく。肉体の神々しい美は、私にとって生命そのものである。そこへ通うことは、昔も今も、私のロンドンでの巡礼の一つとなっている。
 いま一つの巡礼は、大英博物館のギリシャ彫刻展示室へ通うことであった。そこの彫像は最良のものではないと評されている。おまけに欠けたり、不具であったり、採光も平凡でつまらない。けれどもそれらには形の良さがあった。男女の神々しい形があった。四肢や胴体や胸部や首の形は、ほっと息をつかせる安らぎを私に与えた。こうした人達こそ、黒歌鳥が鳴き、南風が黄花(cowslips)をなびかせる時、樫の木立の下で、私と共に木蔭を分けあったことであろう。彼らは私と共に、小麦が赤味をおびた金色に色づく中を歩んだことであろう。彼らは私と共に、丘の頂や、太古にえぐられた狭い谷間で、休息したことであろう。彼らは私と共に、岸辺を洗う夏の海のすすり泣きに聞き入ったことであろう。これらの人達は、太陽と大地と海と空とに渇いていた。彼らの形の良さは、私のものと同じこの渇きと欲求とを物語っている。もし古代ギリシャから今日に到るまで、彼らと共に生きてきたとしても、私は彼らに飽きるということがなかったであろう。四肢や胴体の形を目でなぞることで、私は安らぎを覚えるのであった。
 時に私は、雑踏と絶え間ない騒音の巷から、ここへ入ってきた。これらの彫像を一目見ただけで、私は私自身を取りもどすことができた。時に私は、大英博物館の読書室からやってきた。読書室の丸天井の下で、私はしばしば机上から目をあげて、押しつぶされそうな、望みのない多くの本をながめやった。それらの無益な書物は、私がかつて散策した小川の流れに浮かぶあぶくほどの価値もないのであり、泉の水を手にむすんで、日の光にきらめくさまを見つめている時にわきおこるような思想は、それらには無縁なのだった。胴体だけの像や四肢、胸部や頸部は、直ちに私を私自身へ返してくれた。私は草の間に寝そべって、風のそよぎを聞いていた頃の気分にもどることができた。もし彫像の間を蝶が飛び回っていたとしても、不思議には思わなかったろう。つねに変わらない深い欲求が私の中にあった。私はいつでも彼らに語りかけに出かけるだろう。彼らは巡礼の地である。どこであれ美しい彫像のあるところには、巡礼の地がある。
 私はまた、いつでもジュリアス・シーザーの頭部像のあるところへ立ち寄ることにして、しばし見つめたものだった。彼の幅広い頭部の、丸屋根のように隆起したこめかみは、精神に満ちていた。それは、手の平に握った球体が、触覚に対してずっしりした感じを与えるのと同じほど、見るものの目に明らかに感じられた。薄いそげた頬は、文句ない人間味をおびていた。果てしない努力によって克服された、果てしない困難がそこに刻印されていた。それは砂を吹きつける装置が、絶え間なく砂粒を吹きやることによって、最も硬い物質をも刻んでしまうのと似ていた。もし境遇が彼に幸いしたのだとしても、彼はその境遇を驚嘆すべき努力によって手に入れたのであり、それによって正当に機会をものにすることができたのである。それ故にそのそげた頬は全くの人間味をおびており、労苦と忍耐と精神とを費やした揚げ句は、すべてが徒労に帰するという人生の総計が、一つの顔に表わしだされているのである。深い悲哀の影が、過ぎ去った年月の間に、その顔に降りつもっていった。忍耐は無益であったのだから。かつて私がその傍らで安らいだ、草の生い茂った墳墓よりも、それは悲哀を覚えさせる光景だった。それというのも、それは一人物であって、しかも最も偉大な人物をも滅ぼさずにはやまない、我らが人類の度外れた愚行を思い起こさせるからである。
 どれほど望みの薄いことであっても、人類が今日まで彼を生きつづけさせようと努力したならば、ずっとましなことであったろう。人類が今日彼の広大な見識の百分の一でも持ちえたならば、人類にとっていかに幸福なことであるか! 宥すべき敵を持たなかったのは、なんぴとをも敵としなかったからであるということが、彼以外の誰について言われえたであろうか。一千九百年前に、今日最高の文化として提唱されているかの人間性の諸原則を、彼はいかなる専制君主よりもほしいままな権力を用いて、実行に移したのであった。彼は彼の支配のもとに、それらの原則を現実のものとしたのである。
 精神の横溢した一人物、貪欲も瞋恚(しんい)もなく、吝嗇(けち)なところも小心なところもない一人物、度量が広く、歴史上において真に偉大といえる唯一の人物。かの偉大な心のシーザーを、単なる野獣どもが角で突き殺すさまを想像することは、人を絶望させるに足る。彼は、世間の出来事を実際面において良い方へと配剤する、目的を持った力というものの理想を、最もよく髣髴とさせる。精神を物語る神々しい額と、その下の人間的苦悩にひきつれた頬――彼の容貌を前にして、私自身の思想が定まり、強化された。彼のように度量の広い心で、私もまた物事を見たいと思い、かくも広大な知性の一部なりともわがものとして、わが人生行路のを導きとし、宇宙のもろもろの鉄壁の力とあらがい、心と肉体のためにわが祈り願うことの一つなりともかちとりたいと思ったのである。



(訳注1)London Bridge :ロンドン市内を流れるテムズ(Thames)川に古くから何度も架けなおされた橋で、ここでは1831年に開通した橋(下の画像右)。現在では役目を終え、合衆国アリゾナ州、Lake Havasu に移築されている。
(訳注2)Daphnis and Chloe, National Gallery, London:イタリアの画家 Paris Bordone (1500-1571 )の作品。古代ギリシャの少年と少女の恋の物語を題材にしたもの。(上の画像左)
(訳注3)The Surprise, National Gallery, London フランスの画家 Claude-Marie Dubufe (1790-1864) の作品。(上の画像右) 
(訳注4)Venus and Adonis :イタリアの高名な画家 Tiziano Vecellio (1488-1576) の作品。現今ではPrado美術館(Madrid)蔵となっているので別の作品か。
(訳注5) Rubens (1577-1640) のThe Judgement of Paris, National Gallery London の中のJuno を指している。この絵はジュノーとアテネとヴィーナスの三女神が美を競い、トロイアの王子パリスが審判を下すという神話の場面を描いたもの。(下の画像左)


       



作品名:「わが心の物語」第5章
原題:The Story of My Heart
作者:リチャード・ジェフリーズ (Richard Jefferies)
訳者:脩 海
翻訳copyright: shuh kai 2012
Up: 2012.6.16