ロバート・ルイス・スティーヴンソン
(Robert Louis Stevenson 1850--94)
砂丘の冒険 第三章 わが妻となる女性と知り合った次第 つづく二日の間は、私は展望館の周りを探っていた。砂原の凹凸がそれには好都合であった。いざという場合の戦術に、私は上達していった。これらの互いに入り組んだ低い砂丘や、浅い窪地は、夢中にさせられたとはいえ、あまり褒められたものではない私の行いの、一種の隠れみのとなった。しかし、こうした有利な地歩にもかかわらず、私はノースモアについても、彼の客たちについても、わずかな知識しか得られなかった。 食料の補充は、闇にまぎれて、例の老女が本館から運んでいた。ノースモアと若い婦人は、時々は連れだって、たいていは一人で、流砂の近くの浜辺を、一回に一、二時間の間、散歩するのがならいだった。この散歩は、人に知られないようにというもくろみがなされていた、と考えざるをえなかった。その浜辺は海の方からでなければ見とおせなかったからだ。とはいえ、この事情は私にとってかえって好都合だった。一番高く、一番起伏に富んだ砂丘の群が、その浜に臨んでいたからである。これらの砂丘の上から、窪みに身を伏せて、私は散歩中のノースモアなり、若い婦人なりを見張ることができたのだ。 例の背の高い男は、姿をくらましたかのように思われた。彼は一度も扉の外に出たこともなければ、窓辺に顔を現わすことすらなかった。もっとも、それは私が見張ることのできた限りでの話しである。というのは、二階からは砂原のくぼんだ所はよく見渡せたので、昼間は私とても、ある距離以上に近づく気にはなれなかったのである。夜になれば、もっと近づくことができたのではあるが、一階の窓は包囲に備えでもするように、しっかり防護されていたのだ。私は時々、その背の高い男の弱々しい足どりを思い出し、彼は床から離れることができないのではないかと考えてみた。またある時は、彼はもう立ち去ってしまったにちがいなく、ノースモアと若い婦人の二人が展望館に残っているのではないか、とも考えてみた。それを考えると、早くもその時、私は不愉快になった。 この二人が、夫と妻であろうとなかろうと、二人の親密な関係を疑うに足る十分な根拠を、私は目にしていたのである。二人の会話は全く聞きとれなかったし、またどちらの面にも、めったにはっきりした表情を見てとれなかったのだが、二人の態度にはほとんどぎこちないほどのよそよそしさがあり、彼らは互いに他人であるか、または敵対しているかの、どちらかであるように思われた。若い女性は、一人でいる時よりも、ノースモアと一緒にいる時のほうが、足早に歩いた。男女の間に何らかの好意があるものならば、歩みを速めさせるよりも、むしろ遅くさせるであろうと私は考えた。おまけに、彼女は彼から、たっぷり一メートルは距離を置いていた。そして、二人の間に、それが障害物であるかのように、傘を引きずっていた。ノースモアはしきりに彼女によりそおうとしていた。そのたびに若い女は、彼の接近から身をかわしたので、彼らの歩む方向は、浜辺を横切る一種の対角線をえがいた。そのまま長く歩みつづけたならば、二人は波打ちぎわまで達したであろう。この危険がさしせまると、若い女はさり気なく身を入れかえ、彼女と海の間にノースモアを置いた。私としては、この作戦を観察しながら、大いに愉快になり、感心もし、彼女が手をうつごとに、ひそかにほくそ笑んでいた。 三日目の朝のこと、彼女はしばらくの間、一人で散歩していた。大変気がかりなことには、私は、彼女が一度ならず、涙にかきくれているのを見てとったのだ。私の心が、すでに自分で思った以上に関心を寄せていたことが、お前たちにも分かるだろう。彼女の動作はしっかりとしていて、しかも軽やかだった。彼女の頭部の優美さときたら、この世のものではなかった。一足一足が目を引きつけた。私の目には、彼女は美しさと気高さそのものに思われた。 その日はとても気持ちのよい、風のないだ、陽ざしの明るい日であった。波も静かで、空気はほどよくきびきびと爽快であったので、彼女はいつもになく、二度目の散歩に出る気になった。今度はノースモアが同伴していた。二人が浜辺に出て間もなく、私はノースモアが、彼女の手を無理やりにぎるのを見た。彼女は抵抗して、ほとんど悲鳴に近い叫びをあげた。私は私の立場の普通でないのも忘れて、跳ねるように立ち上がった。しかし、一歩踏みだす前に、ノースモアが帽子をとり、謝罪するかのように、ふかぶかとお辞儀をするのを見た。そこで、私は直ちに隠れ場に身をもどした。二人の間では、二言三言、言葉が交わされ、ノースモアーはもう一度お辞儀をすると、浜辺を離れ、展望館にもどっていった。彼は私からほど遠くない所を通っていったので、私は彼が頬を紅潮させ、顔をしかめ、杖でもってやつあたりに、草をなぎたおしているのが見てとれた。彼の右目の下に大きな傷があり、眼窩のまわりがかなり変色しているのが、私の拳のせいであることに気づき、私は満足を覚えないではなかった。 若い女は、しばらく彼が立ち去った場所にとどまって、小さな島ごしに明るい海をながめていた。それから、心配事をふりきって、力を奮起させるかのように、唐突に、しっかりした早足で、歩きだした。彼女はまた、今起こったことにもひどく腹を立てていた。彼女はどこを歩いているのかも忘れてしまっていた。私は彼女が、流砂の中でも一番急激で、危険な場所の境に向かって、まっすぐに歩いていくのを見た。もう二、三歩進んだならば、彼女の命は重大な危険におちいったことであろう。そこで私は、崖のようになっている砂丘の斜面を滑りおり、半分の距離を走りよって、彼女にたち止まるようにと呼びかけたのだ。 彼女は足を止め、ふり向いた。彼女の態度には少しも怖じ恐れるところがなく、まっすぐ私の方へ向かって、王妃のようなものごしで歩んできた。私のほうは裸足で、ありふれた水夫ふうの身なりをしていた。ただし、腰のまわりにはエジプト産の飾り帯を巻いていた。そこで、最初は、彼女は私のことを、餌になるものを捜し歩いている、漁村の者と考えたようだった。彼女については、こんなふうに面と向かって、彼女の目がまじまじと、高飛車に私の目にすえられてみると、私は賛嘆と驚きでいっぱいになった。予期した以上に、ずっと美しい女性だと思った。それに、あれほど大胆にふるまいながらも、風変わりで魅力的な乙女らしい態度を失わずにいた人のことを、どんなに敬愛しても足りないくらいだ。なにしろ、私の妻は、その賞賛すべき一生を通じて、一種古風な、毅然とした作法を守りつづけたのだから。それは女性にとっては、その親密な情愛にもう一つの価値を付け加えるものであって、一つの美点なのだ。 「どういうことですの」と彼女は尋ねた。 「あなたは、まっすぐグレイデン・フローの流砂に足を踏み入れるところでしたよ」と私は答えた。 「あなたは、この辺の人ではありませんね」彼女はまた尋ねた。「だって教育のある方のような言葉づかいですもの」 「こんななりをしていますが、おっしゃるとおり、学んだことのある人間です」 しかし、彼女は女性らしい注意深さで、すでに私の腰の布に目をとめていたのだ。 「やはりですのね。あなたの帯を見て、それと知れましたわ」と彼女は言った。 「いま知れたと言われましたが、どうか私のことを知れないようにしてください」と私は言葉をつづけた。「私はあなたのためを思って、やむをえず姿を現わしましたが、もしノースモアが私のいることを知ったならば、私にとってはただ事ではすまないでしょうから」 「私のことを、だれと思ってお話なのですか」と彼女は尋ねた。 「ノースモア夫人では、いらっしゃらないのですか」私は返答のつもりでそう尋ねた。 彼女はかぶりをふった。その間じゅう、彼女はこちらが当惑するほどの熱心さで、私の顔をまじまじと見ていた。それから彼女は口をきった。 「あなたは、正直なお顔をしていらっしゃいますわ。お顔のように正直に、何がお望みで、何がご心配なのかをおっしゃってくださいませ。私があなたに、危害を加えることができるとお考えですか。あなたのほうが、はるかに、私に危害を加える力をお持ちのことと思いますわ。けれども、あなたは不親切な方には見えません。あなたのような紳士でいらっしゃる方が、このような寂しい場所に、スパイのように、こそこそと潜んでいらっしゃるのは、どういうことでございますの。あなたのお憎みになるのは、どなたですの、おっしゃてください」 「私はだれも憎んではいません」と私は答えた。「それに、私はだれと顔をつき合わせても、恐くはありません。私の名はカスルズ(Cassilis訳注)――フランク・カスルズです。私はもっぱら自分の楽しみで、放浪生活を送っている者です。私はノースモアの旧友の中の一人です。三夜前のことですが、この砂丘地帯で彼を呼びとめた時、彼はナイフで私の肩口を刺したのです」 「あれはあなただったのですね!」彼女は言った。 「彼がなぜそんなことをしたのか、想像もつきませんし、また知りたいとも思いません」私は中断を無視してつづけた。「私は友人は多くありませんし、また人づきあいの良い人間でもありません。でも、脅しでもって私を追い立てようなどとは、だれにもさせません。私は彼が来る前から、グレイデンの海岸林に野宿していたのです。今でもそこに野宿しています。もし、私があなたやあなたのお仲間に、危害を加えようとするつもりだとお考えなら、あなたに対処の仕方を教えましょう。私がヘムロック・デン(谷地)に野営していると、彼にお話しなさい。そうすれば、今晩私が寝ている間に、彼はやすやすと私を刺すことができるでしょう」 こう言って、私は帽子をとって彼女に挨拶し、また砂丘の上へよじ登って行った。なぜだか分からないが、私は途方もなく不正なことをしているという気がした。そして、英雄であると共に、殉教者であるような気がした。事実として、私は自分を弁護する言葉を、一言も持たなかったのであり、私の行為に対するもっともらしい理由を、ひとつたりともあげられなかったからである。私は好奇心からグレイデンにとどまっていたが、それはごく当然の好奇心ではあっても、ほめられたものではなかった。最初の動機とならんで、もう一つの動機が生長していたが、それはその当座では、私が心をひかれていた女性に向かって、とてもまともに説明できるようなものではなかった。 たしかに、その晩、私は彼女のこと以外は考えなかった。そして、彼女の行動や立場のすべてがあやしく思われはしたものの、彼女の清廉を疑うということは、私の心の中には起こらなかった。彼女は潔白であって、今のところすべては闇につつまれているが、その謎が解き明かされた時には、この出来事において彼女のはたしている役割は、正しくかつ必要にせまられたものであることが、明らかになるだろうと、私は私の命をかけても信じることができた。たしかに、どれほど想像力をたくましくしようと、彼女とノースモアの関係について、何ひとつもっともらしい考えが浮かばなかった。それにもかかわらず、私は自分の結論を疑わなかったのは、それは理性ではなく、本能に基づいていたからだ。そして、その晩は、彼女についての想いを、いわば枕の下に敷いて、眠りについたのである。 翌る日、彼女はおおよそ同じ時刻に、一人で外出した。そして、いくつかの砂丘によって、展望館から姿が見えなくなると、すぐに崖ぎわまで近寄ってきて、おさえた声で私の名を呼んだ。彼女はすっかり青い顔をしていて、見たところ強い感情に動かされているようだったので、私はひどく驚いた。 「カスルズさん!」と彼女は叫んだ。「カスルズさん!」 私はすぐさま姿を見せ、浜辺に跳び下りた。私の姿を見ると、たちまち彼女の面には、顕著な安堵の様子が広がった。 「ああ!」と、彼女は、胸から重石がとり除かれた人のように、しゃがれた声で叫んだ。そして、「よかったわ、ご無事でいらしたのね。もしご無事でしたら、ここにいらっしゃるものと思いましたわ」と付け加えた。(不思議がることはないのだよ。自然というものは、私たちの心をこうした素晴らしい一生の親しみへと、いとも速やかに、賢明に準備してくれるので、妻も私も、出会った次の日には、そのことを予感していたのだ。私は、まさにその時、彼女が私を探してくれるものと期待していたのだし、彼女もまた、きっと私を見つけると信じていたのだ。) 「どうか」と、彼女は早口につづけた。「どうか、この土地におとどまりにならないで。もはや、あの森の中ではお泊まりにならないという、お約束をなさってください。私がどんなに心配したか、お分かりにならないでしょうね。昨夜は、あなたの身を案じて、一晩中眠れませんでしたの」 「私の身を案じてですって?」 私はおうむ返しに尋ねた。「一体だれが私をねらうのですか。ノースモアですか」 「ちがいます」と彼女は答えた。あなたがあんなふうにおっしゃったあとで、私が彼に告げるだろうと思ったのですか」 「ノースモアではないのですね」 私はくり返した。「それでは、どんなわけで、だれが私をねらうのですか。ほかに、私が恐れねばならない者は、思い浮かばないのです」 「私にお訊ねにならないで下さいね」と彼女は答えた。「あなたにお答えするわけにはいかない、理由があるのです。でも、私をお信じになって、すぐにここから立ち去って下さい。――私をお信じになって、お命にかかわることですので。今すぐに、今すぐに立ち去って下さい!」 威勢のよい若者をやっかいばらいしようとして、彼の身の危険に訴えるのは、あまりほめられた策ではない。私の頑固さは、彼女の言葉によって、かえって強められた。私は名誉にかけても、とどまろうと考えた。私の安全を彼女が気づかってくれたことが、私のその決断を、いやがうえにも強めたのだった。 「さしでがましいようですが、ご婦人」と私は答えた。「もしグレイデンが、そんなに危険な場所ならば、あなたご自身も、おそらくここにおられては危険なのではないですか」 彼女はただ、私をとがめるように見つめただけだった。 「あなたとあなたのお父様と――」私は言葉をついだ。しかし、彼女はあっけにとられたように、私の言葉をさえぎった。 「私の父ですって! どうしてあなたはそれをご存知なのです」彼女は叫んだ。 「あなた方が上陸した時に、一緒のところを見ました」と私は答えた。なぜかは知らないが、私たち二人には、それで十分に納得がいったようだった。実際、それはその通りだったからだ。「でも」と私はつづけた。「私のことを恐れる必要はありませんよ。あなたが、何かの理由があって、秘密にしておかねばならないことは分かっています。でも、ご安心下さい。あなたの秘密を守るという点では、私はグレイデンの流砂でくたばっているのも同然なのです。私はこの数年間、ほとんどだれとも口を利いたことがないのです。私の馬が、私のただひとりの連れあいです。しかも、あわれな獣の、その馬ですら、そばにはいません。そういうわけですから、お分かりでしょう、沈黙ということにかけては、私を信用なさっても大丈夫です。ですから、本当のことをおっしゃって下さい、お嬢さん。あなたには危険なことはないのですか」 「ノースモアさんが言うには、あなたは誠実な人であるそうですね」 彼女は答えた。「あなたのご様子を見て、私もそう思います。あなたにこれだけはお話しします。あなたのおっしゃるとおりです。私たちは、本当に恐ろしい危険の中にいます。そしてあなたも、もしここにとどまるならば、同じ危険に巻きこまれます」 「ほう」と私は言った。「ノースモアから、私のことをお聞きになったのですね。しかも、彼は私の人物を保証してくれたのですか」 「昨晩、あなたのことを彼に尋ねてみたのです」と彼女は答えた。「そ知らぬふりをしてです」 彼女は言いよどんだ。「そ知らぬふりをして、ずっと以前にあなたに会ったことがあり、彼の噂をしたことがあるというふうに、切りだしたのです。それは嘘でしたけれども、私はあなたの名前を出さずには、話を進めることができなかったのです。それに、あなたが私を、困った目におとしいれたのですもの。彼は、あなたをとても賞めていらしたわ」 「それではー―一つ質問してもよろしいでしょうか――この危険は、ノースモアから起こっているのですか」と私は尋ねた。 「ノースモアさんからですって?」彼女は大声を出した。「とんでもないですわ。彼はその危険を引き受けて、私たちと一緒にいてくれるのです」 「それで、私には逃げなさいと勧めるのですか」と私は言った。「私のことは、あまり高く買っていませんね」 「なぜあなたが、いなければならないのです」彼女は尋ねた。「あなたは、私たちの友人ではないではないですか」 何が私の中に起こったのかは分からない。なにしろ、子供の頃以来、そうした気弱さを意識したことがなかったのだから。とにかく、私はこの返事にひどく傷つけられて、彼女の顔をじっと見つめているうちに、両目がちりちりとして、涙があふれてきたのだ。 「あら、ごめんなさい」 彼女は声色を変えて言った。「いじわるで言ったのではなくてよ」 「ぶしつけなのは、私の方でしたよ」と私は言った。そして、うったえるような眼差しで、私の手を差しだした。彼女はいくぶん心を打たれたようだった。すぐに彼女の手を、熱意をこめて差しだしたのだ。私は彼女の手を、私の手の中にしばらくにぎりしめ、彼女の両目をじっと見つめた。先に手をもぎ離したのは、彼女の方だった。そして、彼女の要求も、引き出そうとしていた約束も、すっかり忘れて、ふり返りもせずに、全速力で走り去って、見えなくなった。その時に、私は彼女に恋していることに、気づいたのだよ。そして、彼女の方も、私の求愛に対して、まんざらではなさそうだと、歓びのあまり考えた。彼女は後で、何度もそうではなかったと打ち消したのだが、それはほほ笑みながらの、本心からではない否定だった。私に言わせれば、もし彼女がすでに私に対して、心を和らげていなかったならば、二人の手は、おたがいの手の中に、そんなにもしっかりにぎり合わさってはいなかったはずだ。いずれにしても、それはたいした言い争いではない。その翌日から、彼女は私にほれ始めたのだと、彼女自身認めているのだから。 しかし、その翌日には、たいした事は起こらなかった。彼女は、やって来ると、前の日のように、私に下りて来るように呼びかけ、グレイデンにぐずぐずしていることで、私をとがめた。そして、私が相変わらず頑固なのを知ると、彼女は私がやって来た時のことを、より詳しく尋ねだした。私は、一連の偶然の出来事によって、彼女たち一行の上陸を、目撃するにいたった次第と、一つには、ノースモアの客人たちによって引き起こされた興味から、また一つには、ノースモアの殺意をこめた攻撃が原因となって、ここにとどまる決心をした次第とを、彼女に語ったのである。最初の点に関しては、私は嘘を言って、私が初めて彼女を砂原の上で見た時から、彼女自身が私をひきつけていたのだと、彼女が考えるようにしむけたのではないかと思う。私の妻が神に召された今、すべてを知り、この点においても、私の目的の誠実さを知っている今となっては、この告白をするのは、私の胸を軽くする。というのは、彼女が生きている間は、このことがしばしば私の良心をつつきはしたものの、彼女に本当のことを言うだけの勇気を、私は一度も持てなかったからだ。私たちが送った結婚生活においては、ほんのささいな秘密でも、王女を眠らせなくした、ちぢれたバラの花びら[幸福を乱す瑣事の意]のようだった。 それから、話は別の方面に移っていった。私は私の孤独な放浪生活について、彼女にたっぷりと話して聞かせた。彼女の方は聞くだけで、ほとんどしゃべらなかった。私たちはごく自然に語りあって、最後にはどうでもよいような話題にまで及んだが、二人とも、心地よい動揺を覚えていた。あっという間に、彼女の帰らねばならない時が来た。私たちは互いに取り決めでもしたかのように、握手をしないで別れた。二人の間では、握手はもはや、単なる礼儀に終わらないことが分かっていたから。 次の日、つまり私たちが出会ってから四日目のことだが、私たちは同じ場所で、早朝に会った。どちらの側も、大いに親しさを示しながらも、大いに気おくれを覚えていた。彼女がまたもや、私の身の危険について口にした時――どうやら、それが彼女が私に会いに来た口実であったが――私は夜の間に、彼女に語ることをたっぷりと考えておいたので、こう話し始めた。彼女が親切にも、わたしに関心を寄せてくれたことを、どんなにありがたく感謝しているか、昨日まで、だれ一人として私の人生について話を聞いてくれるものがいなかったこと、私もまたそれを語ろうなどとは思ってもいなかったこと、そんなことを話し出したところ、突然、彼女は私の話をさえぎって、はげしい口調で言った。 「そうはおっしゃいますが、もしあなたが私の身の上を知ったならば、私に口を聞くことさえなさらないでしょう !」 「そんなふうに思うのは、まともではないです」と私は彼女に答えた。「知り合って間もないとはいえ、私はすでに、あなたを親しい友人と思っています」と私は異議をとなえたのだが、それは、彼女をいっそうすてばちにするようだった。 「私の父は、逃げ隠れしているのですよ!」 彼女は叫んだ。 「あなた」と、私は「お嬢さん」と呼ぶのを初めて忘れて、答えた。「それが何だというのです。もしお父上が、二十回逃げ隠れをくり返したとしても、それがあなたについて、一度でも考え直させることになるでしょうか」 「ああ、でも理由が問題です!」と彼女は叫んだ。 「理由が問題です! それはー―」彼女は一瞬口ごもった。「それは、私たちにとって不名誉なことですの」 訳注:発音は[kaeslz](キャスルズ)または[ka:slz](カースルズ)であるが、カスルズとした。 第四章 グレイデンの海岸林にいるのは、私一人ではないことに気づいた、驚愕の事態 私の妻が、涙にかきくれ、すすり泣きながら話してくれた事の次第は、こうだった。彼女は、名をクレアラ・ハドルストンと言った。私の耳には、とてもすてきに響く名前だった。とはいえ、もう一つ別の名の、クレアラ・カスルズには及ばなかった。彼女は、こちらの名を人生のより長い、ありがたいことに、より幸福な時期に、名のっていたのだ。彼女の父、バーナード・ハドルストンは、大きな商いをしていた、民間の銀行家だった。何年も前のこと、銀行業が行きづまり、破産を免れようとして、危険な、結局は、犯罪的な手段に手をそめるようになってしまった。それも、すべてうまくゆかなかった。彼は、悲惨なことに、ますます泥沼にはまっていった。あげくは、財産と同時に、名誉をも失ってしまったのだ。ちょうどこの頃、ノースモアがせっせと彼の娘に求愛していたのだが、ほとんど良い反応が得られなかった。そこで、ノースモアが彼に気に入られようとしているのを知って、バーナード・ハドルストンは、窮地におちいった時に、ノースモアに救いを求めたのだ。この不幸な男が、身の上に招いたのは、単に破産や不名誉や、さらには法的に裁かれることばかりではなかった。彼はいさぎよく、牢獄に入ることさえ辞さなかっただろう。彼が恐れたのは、彼を夜も眠れなくさせ、または眠りから半狂乱のように目覚めさせたものは、彼の命をねらおうとする、あるひそかな、不意の、非合法な襲撃なのだった。そういうわけで、彼は身を隠そうとし、南太平洋の島の一つに、逃亡しようと図ったのだ。ノースモアの帆船「レッド・アール」で、そこへゆく手はずだった。この帆船は、ウエールズの海岸で、ひそかに二人を乗せ、グレイデンで、もう一度、二人を上陸させたのだが、それはさらに長い航海に備えて、装備をしなおし、食糧を積みこむまでの予定になっていた。またクレアラは、乗船の代金として、結婚の約束が取り決められていることを、知らずにはいなかった。それというのも、ノースモアの態度は、冷淡でも、無作法ですらもなかったが、おりおり、もの言いやふる舞いが、いささか、なれなれしすぎたからである。 言うまでもなく、私は注意深く耳を傾けていた。特にふに落ちない部分については、いくつも質問をした。しかし、やはり不明のままであった。彼女は、襲撃がどんなもので、どのようにして行われるのか、まるで見当がつかないのだった。彼女の父の警戒心はまぎれもないものであり、体調を悪くさせていた。警察にすっかり身を任せてしまおうとまで、一度ならず考えたほどだった。しかし、その考えは結局放棄した。それというのも、英国の監獄の堅固さをもってしても、彼の追跡者から身を守るには足るまい、と思いこんでいたのだ。彼は銀行業の終いの頃には、イタリアとの取り引き、特にロンドンに住んでいるイタリア人との取り引きを、多く行った。クレアラが想像するところでは、このロンドンのイタリア人たちが、父親を脅かしている死の影と、どうやら関係があるらしかった。彼は、レッド・アール号にイタリア人の船乗りが乗船しているのを知って、非常な恐怖を表わし、そのことで、ノースモアをいくたびも、はげしくとがめたのであった。ノースモアは反論して、ベッポー(という名の船乗りであった)は、りっぱなやつで、死んでも裏切る男ではないと言うのであったが、ハドルストン氏は、それ以後というもの、万事休すだ、あと何日かのことだ、ベッポーが今に自分を破滅させる、と言いつづけたのである。 私はその話のすべてを、破産によって変調を来たした心の生みだす、妄想であると考えた。彼はイタリア人との取り引きで、莫大な損失をこうむったのであった。その結果、イタリア人の姿を見ることは、彼にとって厭わしいことであり、彼の悪夢の主役が、イタリア人によって演じられることになるのは、しごく当然であった。 「あなたのお父さんが必要とするものは」と私は言った。「良い医者と、いくらかの鎮静剤です」 「でも、ノースモアさんは?」と、お母さんは反論したのだ。「あの人は損失には関わりありませんのに、それでも同じ恐怖を共にしているのです」 私は彼女が素朴なことを言うものだと考えて、笑いを禁じえなかった。 「あなた」と私は言った。「彼がどんな報酬を期待しているか、ご自身でおっしゃったではないですか。恋愛においては、どんな手も許されるのです。このことをお忘れなく。ノースモアがあなたのお父上の恐怖をあおりたてているならば、彼がイタリア人などを恐れているからではさらさらなく、ただ単に、ある魅力的な英国婦人に、ほれこんでいるからなのですよ」 彼女は、ノースモアが下船した夜のこと、私を攻撃したことはどう思うかとたずねたが、この点は私も説明できないのだった。結局、あれこれと相談した末に、二人の間できまったことは、こうだった。私は、グレイデン・ウエスターという名の漁村へ、すぐさま出かけてゆき、手に入るかぎりの新聞を調べ、こうした警戒がつづけられていることに、なんらかの事実の根拠がありそうなのかどうか、自分で確かめてみるべきなのだと。次の日の朝、同じ時刻に、同じ場所で、クレアラにその報告をすることとした。クレアラは、その日は、もはや私に立ち去れとは言わなかった。それどころか、私が近くにいることを考えるだけで、頼もしく、快活な気持になるのだということを、隠しだてしなかった。私としても、もし彼女がひざまずいて、そう頼んだならば、彼女のそばを離れることができなかったろう。 私は午前の十時前には、グレイデン・ウエスターに着いた。あの頃は、私もずいぶんと健脚だった。すでに話したと思うが、そこまでの距離は七マイル[約11.2km]ちょっとだった。弾力のある草地を、気持よく歩き通した。その村は、あのあたりの海岸では、もっともうら寂しい村のひとつだ、と言えば十分だろう。つまり、こんな有様だ。くぼ地に教会があって、岩だらけのところに、みすぼらしい港がある。そこでは漁から帰った船が、何隻も沈んでいる。浜沿いには、二、三十軒の石造りの家が、二本の通りに並んでいる。一方の通りは港から出ていて、もう一方はその道から直角に分岐している。その角のところに、やけに暗くて、にぎわいのない居酒屋があるのが、この村一番のホテルというわけだ。 私は、少々、私の社会的地位にふさわしい身づくろいをしておいたのだが、すぐさま墓地のそばの小さな牧師館の、牧師を訪ねた。最後に会ってから九年以上もたっていたが、彼は私を覚えていた。彼に、私が長い間徒歩旅行をしていることを話し、世情に疎くなっていることを話すと、ひと月前から昨日までの、ひとかかえもある新聞を、私に快く貸してくれた。私はそれを持って居酒屋へゆき、朝食を注文し、座って、<ハドルストンの倒産>の記事を調べにかかった。 それは、はなはだ悪名高い事件であったようだ。何千人もの人たちが、貧窮につき落とされたのだ。特に、ある人は、支払いが停止されるやいなや、自分の頭を撃ちぬいたのだった。私としては、不思議なことに、こうした詳細を読みながら、犠牲者たちに同情するよりも、むしろハドルストン氏に同情しつづけていたのだ。私の妻に対する愛の支配力は、すでにそれほど完全なものだった。張本人の銀行家の首には、当然ながら賞金がかけられていた。その事件は許しがたいものであり、大衆の怒りは絶頂に達していたので、彼の逮捕には、750ポンドという、並はずれた額が提供されていた。報じられるところでは、彼は大金を所持していた。ある日の記事では、彼はスペインにいるという噂であった。翌日には、彼はまだマンチェスターとリヴァプールの間か、ウエールズの境界あたりにひそんでいるものとする、確実な情報が伝えられた。そしてまた翌日には、キューバ又はユカタン半島に到着したとする電文が、載せられたりするのだった。しかし、これらすべての記事の中には、イタリア人についての言及は、いっさいなく、なんらの謎めいた点もないのだった。 ところが、これで最後という新聞に、ちょっとあいまいな記事が載っていた。倒産の調査を委任された会計士たちが、ハドルストン銀行の取り引きに、数千ポンドにのぼる大金が、ある期間目立っていたことの記録を、見つけたということらしかった。しかし、その取り引き相手は不明で、同じく謎めいた仕方で、金の行方も知れなかった。その金は、一度だけ名前をつけて記載されていたが、それもX.X.というイニシャルであった。しかし、その金が最初にこの銀行に預けられたのは、六年ほど前の、大不況の時期であることは明らかだった。この金額と結びつけられて、ある高名な王室の人物の名が、噂にとりざたされていた。「この卑劣な悪党は」――というのが、論説記者の表現であったと覚えている――「この謎の資金の大部分を携えたまま、逃走したものと思われる」 私はしばらくその事実について考えをめぐらし、それをなんとかハドルストン氏にせまる危難とに、結びつけようとしていた。その時、一人の男が居酒屋に入ってきて、はっきり分かる外国なまりで、チーズつきパンを注文した。 「イタリアの方ですか(Siete Italiano?)」と私は尋ねた。 「はい、そのとおりで(Si, signor)」という返事であった。 こんな北の果てで、あなたのお国の人に出会うなどは、めずらしいですな、と私は言った。すると彼は肩をすくめ、仕事を見つけるためなら、どこへなりと出むくのが男でさあ、と答えた。グレイデン・ウェスターで、どんな仕事を見つける当てがあるのか、私には皆目見当がつかなかった。その出来事は非常に気がかりな印象を残したので、私は店の主人がつりを数えている時に、村でこれまでにイタリア人を見かけたことがあるかどうかを、彼に尋ねてみた。彼は、ノルウェー人なら、いくたりか見たことがあると答えた。彼らは、グレイデン・ネスの対岸で難破し、コールドヘイヴンから来た救命ボートに救われたのだった。 「ちがうんだ」と私は言った。「そうではなくて、今チーズつきパンを食べた男のような、イタリア人のことだ」 「なんだって」と彼は叫んだ。「あの顔の黒い、白い歯の男かい。彼はイタリア人だったって。それなら、やっこさんが、わしの見た初めてのイタリア人で、たぶん、最初で最後だろうよ」 彼が話している間にも、私は目をくばって、通りに一瞥を投げると、三十メートルと離れていないところに、三人の男が、熱心に会話しているのが目に入った。男の一人は、さきほど、居酒屋の広間で話をかわした人物だった。ほかの二人は、整った、黄ばんだ顔と、中折れ帽(ソフトハット)から判断して、同じ国柄であるにちがいなかった。村の子供たちの群が、彼らをとりまいて、身ぶりをしたり、ちんぷんかんぷんな言葉を真似たりしていた。その三人組の男は、彼らが立っているうら寂しい、不潔な道と、頭上に広がる暗い、灰色の空とは、妙にそぐわない感じがした。そして、うち明けるが、その瞬間に、私の不信感は、もはや回復しようのない打撃を受けたのだった。どんなに自分を説得しようとしても、目にしたことのショックまで否定できなかった。私もまた、イタリア人への恐怖にとらわれだしたのだよ。 牧師館へ新聞を返しにゆき、砂丘地帯へと、まだいくらももどらないうちに、すでに一日が暮れかけていた。あの時に歩いたことは、一生忘れられない。ひどく寒くなり、風が鳴りだした。風は、足もとの短い草の間で鳴っていた。突風にのって、細かなにわか雨が襲ってきた。海のふところからは、巨大な、山脈のような雲がわき起こってきた。これ以上に陰鬱な晩は、まず思い浮かばない。こうした外界の影響によるものであったか、それとも、私の神経が、すでに、これまで見聞したことによって、めいっていたものか、私の考えは天候と同じほど陰鬱であった。 展望館の二階の窓は、グレイデン・ウェスターの方向にある、かなり広い範囲の砂原に面していた。見られないためには、小さな岬の上にある、比較的高い砂丘の陰にたどりつくまでは、海辺に近いところを通らねばならなかった。そこまでたどりつけば、くぼ地をぬけて、まっすぐ森の端まで行けそうだった。日は沈みかけていた。潮が引いて、流砂はすっかりあらわになっていた。私は不快な思いにとらわれながら、歩きつづけていた。その時、私は人の足跡を目にして、雷に撃たれたように驚いた。その足跡は、私の行く方向と並んでいたが、草地の縁にそってではなく、海辺に近い方にあった。それをよく調べてみて、くぼみの大きさや、凹凸から、すぐに分かったことは、最近そのあたりを通った、私や展望館の人々のものではないことであった。そればかりか、砂浜のもっとも恐るべき個所の近くを歩いている、彼の足どりの大胆さから判断して、彼はこの地方やグレイデンの浜辺の悪評に、不案内であることも明らかだった。 私は一歩一歩、その足跡をたどっていった。すると、四分の一マイル[400m]先で、足跡はグレイデン・フロー(流砂)の南東の端で、とだえているのだった。彼が何者であったにせよ、その哀れむべき男は、そこで死んだのだ。彼が沈みこむのを見たかもしれないカモメが、一、二羽、例のもの悲しげな鳴き声を立てて、彼の墓の上で舞っていた。太陽が最後の光を放ちながら、雲間から顔をだした。流砂の平坦な広がりは、くすんだ紅(くれない)にそまった。私はしばらく立ちどまって、その場所をながめていたが、死を強烈に意識しながら、いろいろ考えると、心が冷たく沈みこむのだった。その悲劇はどのくらいつづいたのか、彼の叫び声は、展望館までとどいたろうか、と考えていたことを思いだす。それから、きっぱりとふりきって、その場から無理にも離れようとしたとき、一陣の突風が、これまでよりも烈しく、あたりの浜辺を吹きわたった。そして、私は目にしたのだ。フェルトの、黒い中折れ帽が、空中高く舞いあがり、それから流砂の表面を軽々と飛ばされてゆくのを。その帽子は、いくぶんかとがった形をしていて、さっき見た、イタリア人たちの頭にのっていたものとよく似ていた。 たぶん、私は叫び声をあげたことだろうと思う。風はその帽子を、岸辺の方に吹き寄せていた。そこで、私は流砂の端ぞいに走っていって、帽子がやってくるのを待ちうけていた。突風はやんで、帽子はしばらく流砂の上に落ちていたが、やがてもう一度突風が起こると、私の立っている所から数メートル先へ来てとまった。言うまでもなく、私は興味津々、その帽子をつかみとった。かなり使い古されていた。なにしろ、その日通りで見たどの帽子よりも、色あせていた。裏地は赤で、製造元の名が捺されていたが、もう覚えていない。そして、製造地はVenedig(ヴェネディヒ)となっていた。まだ記憶にあるが、これは、オーストラリア人が当時、その後も長くだが、支配していた美しいヴェニスの市を、そう呼んでいたのだ。 この上ない驚愕だったよ。どちらを向いても、幻のイタリア人ばかりが目に入った。そして、私の人生で最初で、最後の経験と言ってよいが、いわゆるパニックというものに圧倒されてしまったのだ。恐れるべき対象を、何ひとつ知っていたわけではないのに、私はすっかりおじけづいていた。それで、海岸林の、私の一人きりの、あらわな露営地にもどるのが、ずいぶんと気が進まなかったものだ。 そこへもどると、私は昨晩の残りの、冷たいおかゆを食べた。火をたく気にはならなかったのだよ。力がついてくると、気持も落ちついてきたので、こういう空想的な恐怖を追いはらって、横になると、ぐっすり眠りこんだ。 どのくらい眠っていたのか、まるで見当がつかない。とにかく、目が覚めたのは、突然、顔にまばゆい閃光をあびたからだ。私は、その光になぐられたかのように、目を覚ました。その瞬間に、私は両膝で起きあがっていた。しかし、その光は、閃いたとたんに消えていた。濃い闇があった。そして、海からは砲弾のように鳴る風が吹きよせ、雨も降っていたので、風雨の音は、すっかりほかの音をかき消していた。 落ち着きをとりもどすまでに、三十秒はかかったろうか。二つの事情がなかったならば、何か新たな、鮮明なたぐいの悪夢によって、起こされたのだと、考えたにちがいない。一つは、テントの出入り口のところは、もぐりこんだ時に念入りに閉ざしたのだが、今見ると、はずされていた。そして二つ目は、まだ、熱い金属と燃えた油の臭いがしていて、それがとても幻覚ではかたづけられない、きつい臭いだった。結論は明らかだった。何者かが私の顔をカンテラで照らしつけたので、私は目が覚めたのだ。カンテラは、一瞬照らして、すぐに閉じられたが、彼は私の顔を見、そして立ち去ったのだ。そんな風な奇妙なやり方をした目的は何かと考えたが、その答えはすぐに出た。その男は、何者であったにせよ、私を顔見知りかどうか、確かめようとしたのだ。しかし、顔見知りではなかった。もう一つの疑問が、解かれないままであった。この疑問に対しては、私も答えを出すのが恐かったようだ。もし彼が私を見知っていたならば、いったい何をしでかしたことであろうか、という疑問だ。 わが身に対する気がかりは、すぐになくなった。私はまちがって訪問をうけたことが、分かったからだ。なんらかの恐るべき危険が、展望館にせまっていることは、確かに思われた。野営地を、おおいかぶさるようにとり巻いている、まっ暗な、密生した藪の中を分け入っていくのは、それなりの勇気がいった。しかし、私は手さぐりで砂原へ向かった。雨でびしょ濡れになり、耳を聾する突風にうたれ、一歩ごとに、だれか見えない敵に接触するのではないかと恐れながらも、進んでいった。その完璧な暗闇の中では、もし軍隊にとり囲まれていたとしても、まったく気づかなかったろうし、突風のうなりはすさまじく、耳もまた、目と同様に役立たなかった。 それから夜が明けるまでの間、果てしなく長く思われたのだが、私は展望館の近辺を偵察していた。生あるものの姿は見られず、ただ風と波と雨のいりまじった音を、耳にするばかりであった。館の二階からは、鎧戸(よろいど)の隙間から、ひとすじの明かりがもれていて、夜明け方まで私に連れそってくれた。 (つづく) 作品名:「砂丘の冒険」第3,4章 作者:ロバート・ルイス・スティーヴンソン 翻訳:脩 海 copyright: shu kai 2013 Up: 2013.6.2 |