リヒャルト・フォン・フォルクマン=レアンダー(Richard von Volkmann-Leander 1830-1889)


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           見えない王国

           フォルクマン=レアンダー 作


 村の家々から、十五分ほどの道のりのところにある、山の中腹に、一けんの小さな家がたっていて、イェルクという名の若い農夫が、年老いた父親とくらしていました。家には、二人が生活するのに困らないだけの、農地がありました。家のすぐ背後には、カシやブナの森がつづいていました。それらの木々は、たいそう古く、植林をした人たちのまごの代からも、すでに百年以上はたっていました。その森の前に、ひとつの古びた、こぼたれた石臼(うす)が置かれていました。どのようにしてそこに置かれたのかは、だれも知りません。その上にすわると、谷のすばらしい光景が、見わたせました。谷には川が流れていて、川の向こうには、山々がそびえています。
 この石臼の上に、イェルクは、晩になって、畑仕事をおえたあと、頭を両手でささえ、ひじをひざについて、しばしば何時間も、すわっていました。そして、夢想にふけっていました。彼は村びとのことには、ほとんど無関心でしたし、たいていもの静かに、あれこれを思索する人のように、自分自身の思いにふけりながら歩きまわったので、人びとは、彼をあざけって、“夢見るイェルク”(訳注)と名づけました。しかし、イェルクは、そんなことには、いっこうとんちゃくしませんでした。
 としを重ねるごとに、彼はいよいよもの静かになってゆきました。そして、老いた父親が、とうとう亡くなってしまい、大きな、古いカシの木の根もとにほうむってからというもの、彼はすっかり無口になりました。そして、今では、前よりもずっとたびたび、古い、こぼたれた石臼の上に、すわるようになりました。そして、谷のすばらしい眺めを、見おろしました。
 谷の一方のはしから、夕ぎりがわきおこり、ゆっくりと山々の方へ立ちのぼります。谷は、しだい、しだいに暗さをましてゆき、とうとう、月と星ぼしが、目もあやに空に輝きだします。すると、彼の心は、とても不思議な思いにつつまれるのでした。というのは、その時、川波が歌を歌いはじめたからです。初めはとてもかすかに、やがて、はっきり聞きとれるようになり、川がそこから流れてきた山々について、そこへと流れていく海について、そして、川底深く住んでいる、水の精について、歌ったのです。
 そして、また森も、いつもの森とはまったく違ったようすで、ざわめきはじめ、とても不思議なことを物語ったのです。とりわけ、父親の墓のそばに立っているカシの古木は、ほかのどの木よりも、ずっとたくさんのことを知っていました。また天上に輝いている星ぼしも、緑の森の中や、青い流れの中に跳びこみたくて、うずうずしていました。もはや我慢できないといったふうに、またたいたり、身をふるわせたりしていました。でも、星の後ろには、それぞれ天使がひかえていて、そのつど星たちをおしとどめて、こう言いました。「星よ、星よ、おろかなことをしてはいけない。あなたがたは、とてもお年をめしている、何千年、何万年とね。冷や水はおよしなさい。天にとどまって、まっとうにお暮らしなさい」
 それはとても不思議な谷でした。しかし、そうしたことを見たり、聞いたりしたのは、ひとり夢見るイェルクばかりでした。村の住人たちは、だれもそんなことは思ってもみませんでした。彼らはみな、ごく普通の人たちでしたから。時どき、村人たちは、古い巨木の一本を切りたおし、ノコでひき、オノでさきました。そして、マキをひとたな積みあげてしまうと、言いました。「これで、しばらくは、コーヒーをわかすのに困らないぞ」 そして、川の中で、村人はシャツを洗いました。それには、とても好都合でした。
 星ぼしはといえば、それらが鮮やかに輝いているのを見ると、村人はただこう言うだけでした。「今晩は、とても寒くなりそうだ。じゃがいもが、寒さにやられなければよいが」 ある時、夢見るイェルクが、それとは違った見方を、村人に教えようとしたとき、人びとは、あわれにも彼をさんざんに笑いました。彼らは、ごく普通の人たちにすぎなかったのですから。
 さて、ある日のこと、彼がいつものように石臼の上にすわって、自分がまったくこの世で一人ぼっちであることを、しみじみ考えているうちに、いつの間にか眠りこみました。そして、天空から、銀のつなのついた、金色のブランコがぶらさがっている夢を見ました。つなは、一本ずつ、一つの星につながれていました。そして、そのブランコの上には、愛くるしいお姫さまがのっていて、天から地へと、また地から天へと、すばらしく高くゆらしていました。ブランコが地におりてくるたびに、お姫さまは両手をうって喜び、彼に一本のバラの花を投げました。ところが、突然に二本のつなが切れ、ブランコはお姫さまもろとも、天に飛びさり、どんどん、どんどん遠ざかって、ついに見えなくなりました。
 そこで、彼は目を覚ましました。そして、あたりを見まわすと、石臼の上の彼のそばに、バラの大きな花束が置かれていました。
 次の日も、彼は眠りこむと、同じ夢を見ました。目覚めると、たしかに、バラがまたそばに置かれていました。
 そんなことが、まる一週間、つづけて起こりました。そこで、夢見るイェルクは考えました――こんなに何度もくり返し見るからには、この夢には何かの真実があるにちがいない。彼は家のとじまりをして、お姫さまをさがす旅に出ました。
 何日も旅したあと、雲が地面にまでたれこめている地方を、遠くから目にしました。彼はそちらへ向かって、元気に歩いてゆくうちに、広い森に入りました。突然、森の中で、恐れからうめいたり、すすり泣いたりする声が聞こえました。そのうめき声や、泣き声が聞こえた場所の方へ行ってみると、彼は、一人の銀ねずの髯(ひげ)をはやした、品のよい老人が、地面にたおれているのを見つけました。老人にかぶさって、ぞっとするほどみにくい、まる裸(はだか)のものらがふたり、ひざでくみしいて、彼をしめ殺そうとしていました。
 そこで、そのふたりのものを撃退するために、何か武器になるものはないかと、イェルクはあたりを見まわしましたが、何も見つかりません。そこで、彼は火事場の力をはっきして、木の大枝をへし折りました。大枝を手にとるやいなや、たちまちそれは、彼の両手の中で、ずっしりしたほこ槍(やり)に変わりました。そのほこ槍でもって、彼はこの二ひきの怪物におそいかかり、彼らの体を突きさしましたので、怪物たちは咆え声をあげ、老人を手ばなし、跳びはねて逃げてゆきました。
 それから、イェルクは品のよい老人をたすけ起こし、なぐさめの言葉をかけました。そして、あのふたりの裸のものらが、彼をしめ殺そうとした理由をたずねました。
 すると、老人はこんなふうに語りました。――彼は、夢の国の王でした。少しばかり道をまちがえて、彼の最大の敵である、うつつ(現実)の国の王の領土にふみこんでしまったのでした。うつつ王がこのことに気づいて、すぐにふたりの手下に夢王を待ちぶせさせ、命を奪おうとしたのです。
 「あなたはうつつ王に対して、何か悪いことをしたのですか」夢見るイェルクはたずねました。
 「とんでもない」と、夢王は強く言いました。「あのものは、いつでも、ほかのものに対して、すぐに攻撃するのだよ。これは、あのもののうまれつきなのだ。特に、わたしのことは、罪とがでもあるかのように、憎んでいるのだよ」
 「でも、あなたをしめ殺そうと、うつつ王がつかわしたあのものたちは、まる裸でしたよ」
 「そのとおりだ」と夢王は言いました。「一糸もまとわぬ裸だよ。それがうつつの国での流行なのだ。あの国では、だれもが、王でさえも、裸で歩きまわって、恥ずかしいと思うことさえないのだ。まったく、いとわしい連中だよ。ところで、そなたがわたしの命を救ってくれたのだから、そなたにお礼として、わたしの国を見せてあげよう。それは、たぶん、世界で一番すばらしい国だろうよ。夢たちが、わたしの臣下なのだ」
 そこで、夢王は先にたって歩きだし、イェルクはあとに従いました。彼らが、雲が地にたれこめているところまで来たとき、王は、やぶの中に隠されている、一つの落とし戸を教えました。それはとてもうまく隠されていて、知らなければ、まったく見つけられませんでした。
 王は、落とし戸をもちあげて開けると、ともなってきた若者を、五百歩したへ案内しました。すると、明るく照らされた洞窟(どうくつ)があらわれて、壮麗(そうれい)な光景が何マイルもつづいていました。そこは、言葉にできないほど、美しい国でした。大きな湖があって、中央には、島じまの上に、いくつもの城が建てられていました。その島がまた、船のように、あちこちただよっていたのです。それらの城の一つに、入ってみたいと思ったならば、岸辺に立って、こう叫びさえすればよいのです。

 「お城よ、お城、こちらへ進め。
 おまえの中に、ぼくが入れるように。」

 すると、お城はひとりでに、岸へ寄ってきました。また、ほかにも、雲の上にいくつも城があって、ゆっくりと空中をただよっていました。そこで、こう呼びかけます。

 「おりてこい、ぼくの空中のお城よ。
 おまえの中に、ぼくが入れるように。」

 すると、お城はゆっくりと、下へおりてきました。そのほかにも、昼にはよい匂いをだし、夜には光をはなつ花の庭がありましたし、童話を話す、玉虫色の鳥もいました。まだまだほかにも、とてもすてきなことが、たくさんありました。夢見るイェルクは、驚いたり、感嘆したりで、いつまでたってもあきませんでした。
 「さて、そなたにはまた、わたしの臣下たち、夢たちを紹介しよう。わたしは夢たちを、三種類に配属している。良い人間のための良い夢と、悪い人間のための悪い夢と、それに夢の妖精たちだ。この夢の妖精たちを使って、わたしは時たま、悪ふざけをしてあそぶのだよ。王さまだって、時には悪ふざけしたくなるものだからね」
 まず最初に、夢王は城のひとつに案内しました。その城は、とてもこみいった造りがなされていて、見るからにふきだしたくなるほどでした。「ここに、夢の妖精たちが暮らしているのだよ」と、王は言いました。「小さな、いせいのいい、いたずらずきな連中だ。だれにも危害はくわえないが、からかうのが大好きなんだよ」
 「おちびさん、こちらへおいで」と、王は妖精のひとりに呼びかけました。「ちょっとのあいだでも、まじめになれないものか」 それから、王は、夢見るイェルクに、こんなふうに語りつづけました。
 「わたしが、めったにないことだが、彼に地上へいくことを許したとしたら、このいたずらものが何をすると思うかね。彼は、さっそく手近な家にとびこみ、だれでもよいから、ぐっすり眠っている人を、布団からはこびだし、教会の塔の上にのせるのさ。そして、まっさかさまに投げおろす。そして、全速力で、塔の階段をかけおりると、先に下について、その人を受けとめるのさ。それから、また家へはこんでいって、ベッドの中に乱暴にほうりこむので、ベッドがきしって、それでお目覚めというわけだ。それから、その人は、両目をこすって、とても不思議そうにあたりを見まわし、こう言うのさ。<おや、まあ。教会の塔から、まっさかさまに落ちたと思ったよ。よかった、ただの夢で>」
 「そのもののしわざだったのですか」と、夢見るイェルクは叫びました。「彼なら、もうわたしのところへ来ていました。こんど来たら、とっつかまえて、ひどい目にあわせてやろう」 こう言うか、言いおわらないうちに、もうひとりの夢の妖精が、テーブルの下から、ひょっこり跳びだしました。それは、ほとんど小さな犬にそっくりでした。けばだった、小さなチョッキを着ていて、おまけに舌をつき出していましたから。
 「このものも、そうたちはよくない」と夢王は言いました。「犬のようにほえるし、しかも巨人なみの力もちだ。こわい夢を見ているときは、彼が、両手、両脚(あし)をおさえているので、逃げることができないのだよ」
 「この妖精も、わたしは知っています」と、夢見るイェルクは言葉をはさみました。「逃げようと思っても、まるで木の棒になったように、体が、かたく、こわばってしまうのです。腕をあげようとしても、あがりませんし、あしを動かそうとしても、動きません。このものは犬とはかぎりません。熊だったり、盗っとだったり、なんでも悪いものになっています」
 「彼らには、こんご、決してそなたのもとへいくことがないよう、命じておこう、夢見るイェルクよ」王は、彼を安心させました。「さて、悪夢のところへ行ってみようか。恐がることはないよ。そなたには、なんの害もおよぼさない。悪夢は、ただ、悪人のためにあるのだ」
 そこで、王とイェルクは、とてつもなく大きな部屋に入りました。そこは、高い壁が周囲をかこんでいて、重おもしい鉄の扉でとざされていました。部屋の中には、とても不気味な姿をしたものたちや、とても恐ろしい怪物たちが、うようよしていました。多くのものは、人のようにも見えましたが、また多くのものは、半分人、半分けものに見え、また多くのものは、けものそのものに見えました。恐ろしさのあまり、夢見るイェルクは、鉄の扉のところまで、しりぞきました。しかし、王は親しげにイェルクに語りかけ、こう言いました。
 「悪い人間が、どんな夢を見るはめになるか、もっとよく調べてみたくはないかね」
 そして、すぐ近くにいる夢を、まねきました。それは、両腕に一つずつ水車をはさんでいる、みにくい巨人でした。
 「おまえが、今晩することを、語るがよい」と、王は彼に命じました。
 すると、怪物は首をすくめて、口を耳のところまでひらき、とても愉快がっているように、背中を揺すりました。そして、にたにたしながら、こう言いました。
 「わしは、父親を飢えさせた、金持ちのところへゆきますぜ。その老人が、ある日、息子の家の前の石段にすわって、パンを恵んでもらおうとしたとき、息子が来て、<このぶらぶら者をおっぱらってくれ>と、めし使いに命じたのだ。そこで、わしは今夜、彼のところへゆき、二つの水車の間に彼をはさみこみ、骨という骨がこなごなになるまで回すのさ。そして、彼が十分にやわらかく、ぶらぶらになったら、彼の首すじをつかんで、ゆすぶって、こう言うのさ。<どうだい。おまえさんも、すてきにぶらぶらしているではないか、このぶらぶら者め> そこで、彼は目が覚めるのさ。そして、歯をガチガチ鳴らして、<妻よ、布団をもう一枚もってきてくれ、寒気がする>と叫ぶのだ。それから、彼がまた眠りこむと、わしはもう一度同じ目にあわせてやる」
 夢見るイェルクは、これを聞きおえると、がむしゃらに扉を開けて、外へ出ました。王もあとにつづきました。イェルクは叫びました。「もう、一瞬たりとも、あの悪夢の部屋にはいられない。なんて、恐ろしいんだ」
 王はつぎに、彼をうるわしい庭園に、案内しました。そこでは、道は銀で、花壇は金で、つくられていて、みがかれた宝石の花が咲きほこっていました。その庭園を、良い夢たちが散歩していました。彼が最初に見かけた夢は、若い、青い顔をした女性の夢でした。彼女は、一方の腕の下に、おもちゃのノアのはこぶねを、他方の腕の下には、積み木箱をかかえていました。
 「あれは、いったいどんな女性ですか」と、夢見るイェルクはたずねました。
 「彼女は、いつも夕方になると、母親をなくした、おさない、病気の男の子のところへいくのだよ。その子は、昼間はひとりぼっちで、だれも彼の世話を見るものがいないのだ。そこで、夕方になると、彼女がその男の子のところへゆき、いっしょに遊んで、一晩をすごすのだよ。彼はいつも、とても早く寝てしまうので、彼女もまた、そんなに早く出かけるのだ。ほかの夢たちは、ずっとおそく、出かけるのだがね。――さて、先へいこうか。そなたが、ぜんぶ見たいのなら、急がなくては」
 そして、二人は庭園のさらに奥へと、良い夢たちのただ中へ、入ってゆきました。男たちや、女たちや、老人たちや、子供たちがいました。だれもがみな、愛想のよい、なごやかな顔をしていて、これ以上はないくらいに着かざっていました。彼らの多くは、心が望むものなら、どんなものでも、手にたずさえていました。――ふいに、夢見るイェルクは、立ちどまりました。そして、とても大きな声で叫んだものですから、夢たちが、ひとり残らず振り向きました。
 「いったい、どうしたね」王はたずねました。
 「あそこに、わたしのお姫さまがいます。何度もわたしの前に現われて、バラの花を投げてくれたんです」夢見るイェルクは、喜びのあまり、大声で言いました。
 「そうとも、そうとも」と、王は答えました。「あれは彼女だ。わたしは、そなたに、いつでも、とても美しい夢を送ったのだからね。わたしにつかえる夢の中でも、いちばん美しい夢と言ってよいだろう」
 そこで、夢見るイェルクは、お姫さまの方へ走りよりました。彼女は、ちょうどまた、小さな金色のブランコに腰かけて、こいでいました。彼がやってくるのを目にすると、彼女はすぐに跳びおりて、彼の腕の中にとびこみました。そこで、彼は彼女の手をとって、金のベンチへとつれてゆきました。二人はそこにすわり、また会えたことが、どんなにうれしいかを、語りあいました。それを話しおえてしまうと、また最初から、何度もくり返すのでした。
 夢王は、そのあいだ、庭園をつらぬく広い通りを、行ったり来たりしていました。両手を背中にあて、時どき懐中(かいちゅう)時計をとりだし、何時になったかを見ました。なにしろ、夢見るイェルクとお姫さまは、いつまでたっても、語りあうことをやめないからでした。とうとう彼は、また二人のところへもどり、言いました。
 「子供たちよ、もう十分であろう。夢見るイェルクよ、そなたは帰り路が遠い。そなたをここに泊めるわけにはいかないのだ。なにしろ、ベッドがないのだから。夢たちは、夜には、いつでも、地上の人間のところへゆかねばならないので、眠ることがないのだよ。そして、姫よ、そなたは仕たくをしなさい。今日は、全身ピンクの衣裳(いしょう)をつけて、あとでわたしのところへ来なさい。今夜は、だれのところへ現われ、何を言ったらよいかを、そなたにつげよう」
 夢見るイェルクは、これを聞くと、これまで一度もなかったことですが、突然、勇気がむくむくとわいてきました。彼は立ちあがって、しっかりした声で言いました。
 「王さま、わたしの姫さまを、今も、これからも、決して手放しはしません。わたしを、地下のここにおいてくださるか、彼女がわたしといっしょに、地上で暮らせるようにしてくださるか、どちらかにしてください。わたしはもう、彼女がいなくては、生きていくことができません。彼女が、とても、とても好きなのです」
 そう言うと、イェルクの両目には、ハシバミの実ほどの涙が、ひとつぶずつこぼれました。
 「しかし、イェルクよ、イェルクよ」と、王は答えました。「あれは、わたしにつかえる夢の中で、いちばん美しい夢なのだよ。しかし、そなたはわたしの命を救ってくれたことだし、しかたがない。そなたの姫をとらせよう。彼女をつれて、地上へもどるがよい。地上についたら、すぐに、彼女の銀のヴェールを頭からはずして、落とし戸から、わたしのところへ投げ返しておくれ。そうすれば、そなたの姫は、ほかの人間と同じように、血のかよった体をもつことになろう。今のところは、彼女は、ただの夢にすぎないのだからね」
 そこで、夢見るイェルクは、夢王に心からお礼を言いました。そして、さらに言いました。「親愛なる王さま。とても親切にしていただきましたので、思いきって、もう一つお願いしたいことがございます。わたしは今、お姫さまをいただきました。ところが、わたしにはまだ王国がたりないのです。王国のないお姫さまなどは、とても考えられません。たとえ、どんな小さな王国でもよいのです。ひとついただけないでしょうか」
 そこで、王は答えました。「目に見える王国は、わたしはそなたに与えることができないのだ、夢見るイェルクよ。しかし、目に見えない王国なら、与えよう。しかも、わたしが持っている中で、もっとも大きくて、すばらしい王国のひとつをな」
 そこで、夢見るイェルクはたずねました。「目に見えない王国とは、どのようなものなのですか」
 しかし、王はさりげなく、こう言いました。「そのうち、すべてを体験して、ひどくびっくりすることだろう。なにしろ、見えない王国は、とても美しく、すばらしいものなのだから」
 「つまりだね」と、王はつづけました。「普通の目に見える王国では、時に、とても不愉快なことが起こる。たとえば、そなたが、普通の王国の王であったとする。すると、朝早くから、大臣が寝室にやってきて、こう言う。<王さま、お国のために、千ターレルが必要でございます。> そこで、そなたは国庫を開けてみるが、そこには一銭たりともない。さて、そなたは、いったいどうするかね。
 あるいは、別の例をあげよう。そなたの国が戦争をしかけられて、負けたとしよう。そなたをうち負かした、ほかの国の王が、そなたの妃(きさき)と結婚する。そなたは、塔の中に閉じこめられるのだ。そういったことは、目に見えない王国では、起こりようがないのだよ」
 「でも、それを見ることができないのなら」と、夢見るイェルクは、やはり当惑(とうわく)気味に、たずねました。「わたしたちの王国は、いったいどんな役にたつのですか」
 「そなたは、おかしな人間だな」と、王は答えました。そして、ひたいに人差し指をあてて、こう言いました。「そなたとそなたの姫は、もうそれを見ているではないか。そなたたちは、お城と庭園を見、牧場と森を見ている。いいかね、それらは王国のものなのだよ。そなたたちは、その中に暮らし、散歩をしたり、気に入ったことはなんでもすることができる。ただ、ほかの人たちにはそれが見えないのだよ」
 それを聞いて、夢見るイェルクは、とても喜びました。というのは、彼が王となって、妃をともない、家に帰ったならば、村人たちは彼をねたみはしないだろうかと、いささか心配になっていたからです。
 彼はとても感謝して、夢王と別れ、王女とともに、五百段の階段をのぼりました。そして、王女の頭からヴエールをはずし、下へ投げ入れました。それから、彼は落とし戸を閉めようとしました。ところが、それはとても重くて、持っていることができなくなり、手ばなしてしまいました。落ちたとたんに、とてつもない轟音がして、まるで、たくさんの大砲が、いっせいにはなたれたようでした。ちょっとのあいだ、彼は気を失っていました。
 気がつくと、彼は、彼の小さな家の前の、古い石臼の上にすわっていました。そして、そばには王女がいました。彼女は、普通の人間のように、血のかよった体を持っていました。彼女は彼の手をとり、それをなでながら言いました。「人の好い、おばかさんの、いとしいあなた。あなたは、どんなにわたしが好きか、そんなに長いあいだ、わたしに言う勇気が出せなかったのね。それじゃ、わたしのことがこわかったの」
 そして、月がのぼり、川のおもてを照らしました。川波が岸にあたって鳴り、森がざわめきました。二人は、いつまでもすわって、話しつづけました。すると、突然、小さなくろ雲が月の前をよぎったかのように、暗くなりました。そして、ふいに、二人の足の前に、何かが落ちてきました。それは、たたまれた、大きなハンカチのように見えました。その上に、月光が、ふたたび明るくさしました。
 ふたりは、そのハンカチをひろいあげ、ひろげてみました。それはとても薄くて、数百たびもたたまれていましたので、ひろげるのにずいぶん時間がかかりました。すっかりひろげてしまうと、それは大きな地図のようでした。中央には川が流れ、その両側には、市(まち)や森や湖が、いくつもありました。そこで、二人は、それが王国であって、親切な夢王が、彼らに天からふらせたのであることに、気づきました。
 そして、今、二人が自分らの小さな家を見てみると、それはすてきなお城に変わっていました。ガラスの階段と、大理石の壁と、ビロードの絨緞(じゅうたん)と、青いスレート屋根のとがった塔がありました。そこで、二人はだきあいながら、城の中へ入りました。中へ入ると、すでに臣下たちが集まっていて、ふかぶかとおじぎをしました。ティンパニーとラッパが鳴りわたり、おこしょうたちが彼らの前をゆき、花をまきました。彼らは、王と王妃(ひ)になったのでした。
 あくる朝、夢見るイェルクが帰ってきた、しかも、妻をつれて帰ってきた、という知らせが、村じゅうを火のように伝わりました。「それはたいしたものだ」と、人びとは言いました。「今朝早く、森の中へ入ったら、彼女を見かけたんだよ」と、農夫の一人が言いました。「彼女は、彼といっしょに、扉の前に立っていたよ。どうということのない、まったく普通の女さ。小さくて、ひよわそうで、着ているものも、また、みすぼらしいのさ。先ゆき、どうなることやら。彼は無一物のままだし、彼女もまた、なんにも持つまいよ」
 そう、村人たちは、おろかですから、おしゃべりをしました。彼女が王妃であることを、村人は見ることができなかったのです。彼らの小さな家が、大きな、すてきなお城に変わったことも、村人たちは、おろかにも気づきませんでした。というのは、夢見るイェルクに天からふってきたものは、まさに、見えない王国だったからです。
 そういうわけで、彼もまた、おろかな人たちのことは、まったく気にかけませんでした。そして、彼の王国で、愛する王妃とともに、すてきな、みちたりた生活をおくりました。そして、六人の子供をもうけましたが、ひとりはひとりよりもさらにかわいく、みながみな、王子であり、王女でした。しかし、村人のだれも、そのことを知りませんでした。なにしろ、彼らはまったく普通の人たちでしたし、それを見てとるには、おろかすぎたのです。


 訳注:主人公の名は、独文ではJoerg(イェルク、Georgの方言)であるが、あだ名ではTraumjoerge(夢見るイェルゲ)と語尾に e がついている。あだ名らしさを出すためと思われるが、翻訳では年少の読者に混乱をきたさないように、イェルク、夢見るイェルクで統一した。


原題:Vom unsichtbaren Koenigreiche
翻訳:脩海
copyright: shu kai 2013
Up: 2013.5.3