ロバート・ルイス・スティーヴンソン(1850-94)

砂丘の冒険 第5・6章

マリネンコ文学の城Home
翻訳城Top

                 砂丘の冒険



 第5章 ノースモアとクレアラと私との間で会見が行われる


 日が昇るやいなや、私は平地からいつもの砂丘の間の隠れ場にもどり、そこでわが妻の来るのを待った。その朝はどんよりとした、荒れもようの天気で、気がふさいだ。風は日の出前に弱まったが、方向を変えて、陸の方から吹いたり、止んだりしていた。海の波は静まりかけていたが、雨はまだ容赦なく降りつづいていた。荒寥とした砂原の一帯には、生き物の姿はひとつも見られなかった。しかし、私はその辺りに敵がひそんで、うごめいていることを、ひしひしと感じていた。寝ている間に、私の顔の上に突然、ふいを襲ってまばゆく照らしたあの閃光と、グレイデン・フロー(流砂)の上から、岸まで風に吹き飛ばされてきたあの帽子とが、二つながらクレアラと展望館にいる一行に迫っている危険の、明白な兆候であった。
 七時半か八時に近い頃だろうか、やっと扉が開くのが見え、いとしい人が雨の中を私の方へやって来た。彼女が砂丘を越えてくる前に、私は浜辺で彼女を待っていた。
 「出てくるのに、とても骨折ってしまったのよ」と彼女は大声で言った。「あの人たちが、雨の中を散歩に出るのはよしなさいと、止めたものですから」
 「クレアラ」と私は言った。「あなたは、こわくはないんですね!」
 「はい」と彼女は答えた。その返事はあっけらかんとしていたので、私の心は信頼感でみたされた。なにしろ、私の妻は最良の女性であったばかりか、もっとも勇敢な女性でもあったのだ。私の知るかぎり、この二つを兼ねそなえた女性を、あまり見たたことがない。彼女だけがそういう女性だった。彼女は極端に強い性格と、きわめて愛すべき、うるわしい長所とをあわせもっていたのだ。
 私は彼女に、昨夜の出来事について語った。彼女の頬は目に見えて蒼ざめていったものの、落ち着いた態度は全く変わらなかった。
 「ごらんのとおり、私の身は安全です」と私は最後に言った。「連中は私に危害を及ぼすつもりはないのです。もしそのつもりだったなら、昨晩のうちに、私は死んでいたでしょうから」
 彼女は私の腕に手をおいて、叫ぶように言った。
 「まあ、そんなこととは、つゆ知りませんでした」
 彼女の語調は、私を喜びでふるわせた。私は彼女の身に腕をまわし、自分の方へ引き寄せた。そして、どちらもそれと気づく間もなく、彼女の両手は私の肩におかれ、私の口唇は彼女の口唇にかさなっていた。だがね、その時まで私たちの間には、愛を誓いあう言葉などは、一度もかわされていなかったのだよ。彼女の雨にぬれて、冷たく湿った頬の感触を、今でも覚えているよ。それ以来、彼女が顔を洗っている時に、浜辺でのあの朝を思い出して、彼女の頬に接吻したことが何度もある。彼女が私から奪われてしまい、私一人でこの人生を終えていく今となっては、私たちを結びつけた、あの朝の思いやりにみちたふるまいと、深い誠実と愛情を思いだすと、私の今の喪失感などは、ずっと軽いものに思われるのだ。
 恋人たちにとって、時の進むのは速いものだが、私たちはそのままの状態で、いく秒となく立っていたろう。するとすぐそばで、大きな笑い声がおこって、私たちははっとなった。それは不自然な笑い声で、陽気からよりも、怒りの感情を隠すために、わざとらしく発せられたものらしかった。私たちはふり向いた。私の左腕は、まだクレアラの腰にまわしたままだった。彼女もまた身を離そうとはしなかった。浜辺の数歩離れたところに、ノースモアが立っていた。彼は頭をうつむかせ、両手を背中にまわし、激情のせいで鼻孔を白くさせていた。
 「おや、カッスルズか!」私が顔を見せると、彼は言った。
 「そのとおりさ」私は答えた。少しも動揺などはしなかったよ。
 「そういうことなのか、ハドルストンのお嬢さん」彼はゆったりと、しかし粗暴に言葉をついだ。「これがあなたの父上と、私に対する、誠意を守るやり方なのかね。これがあなたの父上の命に対する、あなたの評価なのかね。しかも、この若き紳士に夢中になるあまり、あなたは破滅をも、つつしみをも、常識的な用心をも、かえりみなくなるとは――」
 「ハドルストンのお嬢さんは――」と、私は彼の話の途中で言いかけたが、彼のほうが乱暴にさえぎった。
 「君は黙っていろ」と彼は言った。「私はその女に話しているのだ」
 「その女と君は言うが、彼女は私の妻だ」と私は答えた。私の妻はさらに近くわたしに寄りそったので、それだけで彼女が私の言葉をうべなったことが分かった。
 「君のなんだって?」彼は叫んだ。「嘘だ!」
 「ノースモア」と私は言った。「君がかんしゃくもちだということは、皆が知っている。それに、私は言葉などで気分を悪くする人間では決してない。そうは言っても、少し声を低くしてはどうかね。なぜなら、われわれだけがここにいるのでないことは、確かだからね」
 彼は周囲を見まわした。私の言葉が、ある程度彼の激情を鎮めたのは、明らかだった。「どういうことだ」と彼は尋ねた。
 私はただ一言を発した。「イタリア人さ」
 彼はしたたかなののしりの言葉を発した。そして私たちの顔を見くらべた。
 「カッスルズさんは、私の知っていることは全部知っています」と私の妻は言った。
 「私が知りたいのはだな」と、彼は勢いよくしゃべりだした。「カッスルズ君がいまいましくも、どこから現われたのか、カッスルズ君が一体何をここでやっているのか、ということだ。君は君たちが結婚しているというが、そんなことは信じないぞ。もしそうだとしても、グレイデン・フローの流砂が、君たちをすぐに離婚させるだろうよ。四分半だ、カッスルズ。私は友人たちのために、私設の墓地を用意しているのさ」
 「あのイタリア人には、もう少しかかったようだ」と私は言った。
 彼は一瞬、半ばひるんだように私を見た。それから、ほとんど慇懃な態度で、私の知っていることを話すように頼んだ。「君は私以上に、ずっと事情を知っているようだな、カッスルズ」と彼はつけ加えた。
 私はもちろん承知した。私がグレイデンにやって来たしだい、彼が上陸の夜に刺し殺そうとしたのは私であったこと、そして私がその後に、イタリア人について見聞きしたこと、それらを彼に話している間に、彼は耳を傾けながら、何度か驚きの叫びをあげた。
 「なるほど」と、彼は私が話しおえると言った。「いよいよ瀬戸際というわけだな。それはまちがいない。ところで、聞くが、君は何をしようという魂胆なのだ」
 「私は君たちのところにとどまって、手をかそうと思う」と私は答えた。
 「勇ましい男だな」と、彼は妙な抑揚をつけて返した。
 「恐れてなどはいないよ」と私は言った。
 「そういうことなら」と彼はつづけた。「君たち二人は、結婚しているものと考えてよいわけだな。そして、ハドルストンのお嬢さん、あなたは私の面前で、それをはっきり言えるわけですな」
 「私たちはまだ結婚していません」とクレアラは答えた。「でも、できるだけ早くそうするでしょう」
 「そりゃ結構 !」とノースモアは叫んだ。「ところで、取り決めは?くそ、あなたは馬鹿ではないはずだ、娘さん。あなたに率直に聞きましょう。取り決めはどうなさる。あなたの父上の命が何にかかっているかは、私ばかりかあなたも知っている。私が手を引いて、立ち去りさえすれば、日の暮れないうちに、彼の咽喉はかき切られているでしょうよ」
 「そのとおりですわ、ノースモアさん」とクレアラは勇敢に答えた。「でも、そんなことは、あなたは決してなさらないでしょう。あなたは、紳士にふさわしくない取り決めをなさいました。そうはいっても、あなたは紳士です。一度助けることを始めた人を、あなたは決して見捨てようとはなさらないでしょう」
 「ほほう」と彼は言った。「あなたは私が無償で船を提供するとでもお考えか。あの老紳士のためを思って、わが命と自由をあやうくするとでも。おまけに、あげくは、結婚式で、新郎の介添えをつとめるとでもお考えか。なるほど」と、彼は妙な笑みを浮かべて、つづけた。「たぶん、全くの見当はずれでもなかろう。しかし、ここにいるカッスルズに訊いてみるとよい。彼なら私が分かっている。私は信頼できる男か? 私は安心できる、つつしみ深い男か? 私は親切な男か?」
 「私はあなたが大変なおしゃべりやであって、しかも、時にとても愚かなおしゃべりをすることも、よく存じています」とクレアラは答えた。「それでも、あなたが紳士でいらっしゃることは、分かっておりますし、私はあなたを少しも恐れてはおりませんの」
 彼は感心と感嘆のまじった独特の表情で、彼女を見つめた。それから、私のほうを向き、言った。「彼女を手をこまねいて、あきらめるなどとは、思うまいな、フランク。はっきり言うが、用心しろよ、今度私らが闘う時は――」
 「三度目になるな」と、私は笑みを浮かべて言った。
 「たしかに、そうなるな」と彼は答えた。「忘れていたよ。だが、三度目の正直というからな」
 「三度目は、レッド・アール号の船員たちが助っ人かい」と私は言った。
 「彼の言い草はどうだい」彼は私の妻のほうを向いて尋ねた。
 「大の男二人が、卑劣なお話をしてますこと」と彼女は答えた。「そのようなことを考えたり、口に出したりすることを、私ならなさけなく思います。それに、あなた方お二人とも、おっしゃっていることは少しも本気ではありません。そのぶんだけ、なおさらいやしく、馬鹿げていますわ」
 「なんとも、たのもしい女性だ!」とノースモアは声高に言った。「しかし、彼女はまだカッスルズ夫人ではないぞ。これ以上は言うまい。現状は、こちらに不利だからな」
 そのあと、私の妻は驚くべき行動をとった。
 「お二人だけで、ここにいてください」と、彼女は突然に言った。「父が、あまり長く一人でいますから。でも、このことは覚えておいてくださいね。お二人は、お友達になってください。あなた方お二人は、私にとって良い友人なのですから」
 あとになって、彼女はこの行動をとった理由を、私に話してくれた。彼女がその場にいるかぎり、われわれ二人は言い争いをつづけただろう、と彼女は言うのだ。思うに、彼女の言うとおりだった。彼女が立ち去ると、われわれは直ちに、一種の密談に移ったからだ。
 ノースモアは、彼女が砂丘をこえて去っていくのを、じっと見送っていた。
 「とびっきりの女性だな! いまいましい」と彼は感嘆の声をあげた。「彼女の歩きっぷりたら、どうだい」
 私としては、この機会を逃がさずに、少々明らかにしておきたいことがあった。
 「いいかい、ノースモア」と私は言った。「われわれ全員が、窮地に陥っているのではないのかい」
 「そうとも、あんた」と、彼は私の目の中をのぞきこみ、大いに強調して言った。「われわれ全員が追いつめられているのは、事実だ。信じようと、信じまいと、私も自分の命の危険を感じている」
 「一つ聞かせてほしい」と私は言った。「あのイタリア人たちは、一体何が目的なのだ。彼らは、ハドルストン氏に、何を要求しているのだ」
 「知らないのか?」と彼は叫んだ。「あの悪党の、おいぼれ山師は、炭焼き党(carbonari)[*訳注]の資金を預かったのだ――28万ポンドだよ。それを、もちろん、彼は株につぎこんでスッてしまった。トレントか、パルマで、革命を起こす予定だったのだが、革命は中止になり、蜂の巣をつついたように、ハドルストンの追跡が始まったというわけだ。われわれ全員、命があったら、もうけものだよ」
 「炭焼き党だって!」 私は驚愕して叫んだ。「それは、とんでもない目に合ったものだ」
 「同感だよ!」とノースモアは言った。「それでだな。さっきも言ったが、われわれは窮地に陥っている。率直に言うが、君の援助はありがたく思う。ハドルストンを救えなくても、私は少なくとも、あの女を救いたいのだ。展望館に来て、泊まってくれたまえ。約束するが、あの老人が逃げるか、死ぬかするまでは、私は君の友人としてふるまおう。しかし」と彼は付け加えた。「いったん、ことが決着したならば、君はふたたび私の敵(かたき)となる。警告しておくが、気をつけることだな」
 「承知した」と私は言い、われわれは握手をかわした。
 「それでは、すぐさま要塞へおもむこうではないか」とノースモアは言い、雨の中を先に立って歩きだした。

[*訳注:炭焼き党=19世紀前半のイタリアで結成された秘密結社的な革命集団]
 
 第六章 長身の男に紹介される


 二人が展望館に着くと、クレアラがドアを開けてくれた。私は防禦のそなえの堅固さと、完璧さに驚かされた。外部からの襲撃に対して、扉はがっしりした防護物でふさがれていたが、取りはずしも容易にできた。私はすぐさま食堂に案内されたのだが、そこはランプで薄暗く照らされていて、鎧戸はさらに念入りに強化されていた。羽目板は、棒で縦横に補強されており、それらの棒はまた、つっぱりや支柱によって、あるものは床に、あるものは天井に、また別のものは向かいの壁に、といった具合に、うまく固定されていた。それは、しっかりと設計された大工仕事でもあった。それで、私は大いに感心しないわけにはいかなかった。
 「私は技師なのだからな」とノースモアは言った。「庭に板があったのを覚えているだろう。見ただろうよ」
 「君がこれほど多能な男とは、知らなかったよ」と私は答えた。
 「武器は持ってるのかい」と彼はつづけた。そして、壁にもたせて並べたり、サイドボードの上に陳列したりして、みごとに整然と配置されている銃や拳銃を指さした。
 「けっこうだよ」と私は答えた。「このまえ出会ったとき以来、ずっと武器を持ってるのさ。それよりも、正直言うと、昨日の夕方以来、何も食べていないのだ」
 ノースモアは冷肉を出してくれたので、私はせっせとありついた。それに、上等なバーガンディー[葡萄酒の一品種]だ。酒どころか雨にひたっていたので、喜んで頂戴したよ。私は主義としては、ずっと極端な禁酒家をつらぬいてきたが、主義も度を越してはよくない。この時は、ボトルの四分の三を飲みほしたろうか。食事をしながらも、私は依然として、防禦の備えをほめつづけていた。
 「包囲戦にも耐えられそうではないか」と、私は終いに言った。
 「そう――だろうな」とノースモアは言葉をのばした。「ちょっとした包囲戦――ならばだ。私が心配なのは、展望館の強度ではないのだ。それよりも、やりきれないのは、二重の危険だよ。撃ち合いになれば、この地方は辺鄙とはいえ、きっと誰かが聞きつけることだろう。そうなると、いわゆる大同小異ということだが、法によって捕らえられるか、炭焼き党によって殺されるかの、どちらか一つだな。この世では、法を敵に回すということは、ひどく嫌なことだし、二階の老紳士にも、そう言っておいたよ。彼は私とまったく同意見だがね」
 「彼のことだが」と私は尋ねた。「一体どんな人物なのかね」
 「ああ、やっこさんかい!」と相手は声高に言った。「とことんいやな男だよ。明日にでも、イタリア中の悪党によって、首根っこをひねられでもしてほしいよ。私は彼のために、この件に首をつっこんだのではないのだ。分かるだろう。お嬢さんとの結婚を条件に、取り引きしたのだ。もちろん勝つつもりだよ」
 「その点は、ともかく、分かるとして」と私は言った、「一体ハドルストン氏は、私のおせっかいをどうとるだろうか」
 「それは、クレアラにまかせるんだな」とノースモアは返した。
 この彼女への厚かましいなれなれしさに対して、私は彼の顔にパンチをくらわせたくなったが、彼との休戦協定を尊重した。ノースモアもそうしたのは、認めてよい。危機がつづいている限りは、われわれの関係は少しも険悪にならなかった。彼について、このことは、心からのいつわりない満足感をもって、証言しておく。私もまた、その時の私の態度をかえりみて、ほこらしく思いもする。なんといっても、、あんなに嫌な、神経をすりへらす立場に置かれたものは、私ら二人ぐらいだったからね。
 食べ終わるとすぐに、私たちは一階の検分にとりかかった。一つ一つの窓の、さまざまな補強を調べてみて、いくつか多少の変更をした。それで、金づちの音がびっくりするほど大きく、館中にひびいた。私はいくつかのぞき穴を作るよう、提案したことを思いだす。しかし、それらはすでに二階の窓に作られているということであった。この検分は気のもめる仕事であったので、終わると私は意気消沈してしまった。二つのドアと、四つの窓を防禦しなければならず、クレアラを数えても、四人で、数の知れない敵を防がねばならなかったのだ。私はその懸念をノースモアに告げた。彼は、落ち着きはらって、まったく同感であると、きっぱり言った。
 「日が出る前に」と彼は言った、「われわれ全員が惨殺されて、グレイデンの流砂にほうむられるのさ。私には、それが運命さ」
 流砂を口にしたので、私は身震いを禁じえなかった。それで、敵が森の中にいる私の命をとらなかったことを、ノースモアに思い出させた。
 「思いちがいをしなさんな」と彼は言った。「その時は、君はあの老紳士と、同じ船に乗り合わせていたわけではない。今は、そうだ。いいかい、われわれ全員が、薄氷に乗っているのだ」
 私はクレアラを思うと、身が震えた。ちょうどその時、われわれを二階へくるように呼ぶ、彼女の親しい声がした。ノースモアが先にたって、案内した。躍り場につくと、彼は、以前に「わが叔父の寝室」と呼んでいた部屋の扉を、ノックした。その部屋は、この展望館の建築主が、特に自分自身のために設計したのだった。
 「お入りなさい、ノースモア。お入りなさい、カッスルズ様」という声が、内からした。
 ノースモアは、扉をおし開けると、私を先に部屋にとおした。部屋に入ると同時に、娘の方はわきの扉を通って、書斎へするりと入るのが見えた。そこは彼女の寝室にあてられていた。壁ぎわに寄せられたベッドには、この前、窓辺に大胆に立っているのを見かけた、バーナード・ハドルストン、あの使いこみをした銀行家が、身を起こしていた。砂原では、カンテラのゆらめく明かりで、彼をわずかに見たばかりであったが、なんの苦もなく、同一人物であることを認めることができた。彼は、面長で顔色が悪く、長く赤い口髭と、頬鬚をはやしていた。くじけた鼻と、つきでた頬骨は、いくぶんカルムク人[モンゴル系の民族]を思わせる風貌をかもしていた。彼の色の薄い眼は、高熱の影響で光をはなっていた。頭には、黒いシルクの頭巾をかぶっていた。ベッドの上には、金縁の眼鏡といっしょに、大きな聖書が開かれて置かれていた。そばの棚には、ほかの本が積まれていた。緑のカーテンは、彼の頬に死人のような色どりをそえた。そして、枕で支えて身を起こしていたので、彼の長身は、いたいたしいほどにかがめられて、膝にかぶさるくらいに頭がつきだされていた。もし彼が、ああいう死に方をしなかったとしても、数週間ならずして、結核にかかって死んだことと思う。
 彼はひょろ長い、不快なほど毛深い手を、私に差しだした。
 「お入りなさい、お入りなさい、カッスルズさん」と彼は言った。「守り手がもう一人――エヘン――もう一人、守り手が現われた。娘のお友達として、いつでも歓迎しますわい、カッスルズさん。娘の友人たちが、こんなにも私のまわりに集まってくれるとは。神さまが、皆さんを祝福して、報いて下さいますように」
 私も、もちろん、やむをえず、彼に手を差しだした。しかし、私がクレアラの父親に対して抱こうとしていた共感は、彼の容貌と、しゃべる時の、甘ったるい、偽善的な声音によって、すぐさまだいなしにされていた。
 「カッスルズは有能な男だ」とノースモアは言った。「十人力だな」
 「そう聞いている」とハドルストン氏は勢いこんで言った。「娘もそう言っている。ああ、カッスルズさん、罪の報いが来たというもんだよ。私は、とても、とても、打ちのめされている。しかし、たぶん同じくらい、悔い改めてもいる。だれもが、いつかは、神の御座(みくら)の前に、ひざまずかねばならないのだよ、カッスルズさん。私としては、遅きに失したが、いつわりのない、謙虚な気持でいるのだよ」
 「ばかばかしい!」とノースモアは乱暴に言った。
 「いや、いや、ノースモア君」と銀行家は大声を出した。「そんな言い方はないだろう。私を動揺させるようなことを言わんでくれ。君は忘れているよ、いいかい、君は忘れている、今晩にでも、私は造物主の前に呼び出されるかもしれないのだよ」
 彼の興奮は、見ていても気の毒だった。私はノースモアに対して、だんだん腹が立ってきた。彼の無神論的意見は、よく知っていたが、彼があわれな罪人をあざけって、悔い改めようという気持をなくさせようとしているのを聞いて、私自身がしたたかに侮辱されている気がした。
 「ばかばかしいよ、ハドルストンさん」と彼は言った。「あなたは、自分自身を正当に評価していない。あなたは、全身全霊、俗世の人であって、私が生まれる前から、あらゆる種類の悪事に手を染めてきた人ではないですか。あなたの良心は、南米のなめし革のようになめされている。ただ、あなたは肝をなめすことだけを忘れた。そいつが、私に言わせれば、迷いのもとなのさ」
 「悪党め、悪党め、ひどい男だ!」とハドルストン氏は、人さし指をふりながら言った。「私は、たしかに、潔癖かと言えば、潔癖な人間ではない。私は潔癖な人間などは、大嫌いだからな。だからといって、それでもって、まっとうな心をすべて失ったわけではない。カッスルズさん、私はひどい男だったわ。それを否定するつもりなどはない。だがそれは、家内が亡くなってからというものだ。妻をなくした男というのは、すっかり変わってしまうのだよ。罪悪に染まるようになる――嘘は言うまい。だが、ほどというものがあると思うのだ。それを言うのも――なんだ、あの音は!」
 彼は突然大声を発し、指を広げた片手をあげ、注意と恐怖で顔をこわばらせた。「雨音だったか、やれやれ」間をおいて、彼は言いようもないほどほっとした様子で、言葉をついだ。
 数秒の間、彼は失神しかけている人のように、枕に身をもたせていた。それから、彼は身をふるいたたせ、いくぶん震える声で、私が彼の身を守る手助けをしようとしていることに対し、感謝の言葉をくりかえしはじめた。
 「一つ質問があります」と私は、彼が一息入れたときに言った。「金を所持しているというのは、本当ですか」
 彼はこの質問にとまどったようだった。しかし、少しは所持していることを、しぶしぶながら認めた。
 「それならば」と私はつづけた。「彼らが追い求めているのは、彼らの金ですよね。そいつを彼らに返してしまえば、よいのではないですか」
 「ああ」と彼は、頭を横にふりながら言った。「私はもう、それをやろうとしてみましたよ、カッスルズさん。どうにもならんのです。連中が欲しているのは、血の報復ですから」
 「ハドルストン、それは少々公正を欠いた言い草だよ」とノースモアは言った。「あなたが彼らに提示した額は、20万ポンド以上も足りなかった、と言うべきだ。その不足額は、言っておくだけの価値がある。世間で言う、大枚にはちがいないよ、フランク。そこでだ、分かるだろう、連中はイタリア人らしい明快な頭のもちぬしだ。この件を片づけるにあたって、両方いただくのが、あとくされがなくてよかろうと、金と命の両方だよ、まったく、そう連中は考えるわけだが、私ももっともだと思うよ」
 「金はこの展望館にあるのかい」と私は尋ねた。
 「そうだよ。海の底にでもあってほしいよ」とノースモアは答えた。そして、突然にハドルストン氏に向かって、「どうして、私をそんなににらむんだ」と叫んだ。私は彼の方に、いつの間にか背を向けていたので、気づかなかった。「カッスルズが、あなたを売るとでも、考えているのか」
 ハドルストン氏は、そんな考えは毛頭ないと言いわけした。
 「そうでなくちゃな」とノースモアは、彼のとびきり乱暴な態度で言い返した。「われわれの堪忍袋が切れないようにするんだな。ところで、君は何を言うつもりだったんだね」彼は私のほうを向いて、言い足した。
 「午後にやるべきことを、提案するつもりだった」と私は答えた。「その金をひと包みずつ、館の外に運び出そう。ドアの前においておくのだ。炭焼き党の連中が来れば、まあ、いずれにしても連中のものになるのだから」
 「だめだ、だめだ」とハドルストン氏は叫んだ。「あの金は、連中のものではない。連中に渡してはいけないのだ。私の債権者たち全員に、比例配分されるべき金なのだ」
 「まあ、まあ、ハドルストン」とノースモアは言った。「そう言いなさんな」
 「だが、私の娘はどうなる」とみじめな男は、うめくように言った。
 「あなたの娘は、十分安楽に暮らせるとも。ここに二人の求婚者がいる。カッスルズと私だ。どちらも文無しではない。どちらを選ぶかは、彼女しだいだ。あなた自身に関しては、このへんで話の打ち切りとして言えば、あなたには、びた一文所持する権利はない。そして、私のはなはだしい勘ちがいでなければ、あなたは死ぬことになる」
 それは確かに、非常に残酷な言葉だった。しかし、ハドルストン氏は、ほとんど同情を起こさせる余地のない男だった。私は、彼がひるんで、身ぶるいするのを見たが、心の中ではこの非難の言葉に同調していた。それどころか、私は自分から付け加えさえしたのだ。
 「ノースモアと私は、」と私は言った。「あなたのお命を救うために、喜んで手をかしましょう。しかし、盗んだ金を持って逃げることまでは、手伝いませんよ」
 彼はしばらく、自分自身と闘っていた。いまにも怒りを爆発させそうな様子だったが、思慮が内心の葛藤の勝ちをしめた。
 「君たち」と彼は言った。「私のことも、金のことも、好きなようにしたまえ。すべてを君らの手に委ねよう。少し落ちつかせてくれたまえ」
 そこで、私たちは快く彼のもとを離れた。最後に見ると、彼は大きな聖書を取りあげ、もう一度読もうとして、ふるえる手で眼鏡をかけなおしていた。



作品名:砂丘の冒険 第5・6章
作者:R・L・スティーヴンソン
翻訳:脩海 copyright: shu kai 2017
入力:マリネンコ文学の城
Up:2017.5.20