Lafcadio Hearn (1850-1902)


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         ロマの血

       ラフカディオ・ハーン作


 夏の日は、シャルルマーニュを思わせる、豪奢な赤紫と金の夕焼けの中に、うずもれていった。スペインの漆黒の夜の空は、星々の宝玉の帯で輝いていた。東方遙か、イスラム教徒の旗のような月は、その銀の角をいまだもたげずにいた(訳注1)。私らは、眠る人の胸のように穏やかに揺れる、生温かい波の上を航行していた。南風が、眠くなるようなレモンの香りを、運んできた。レモン(citron)の林の間の黄色い灯りは、緩やかな波に揺られている私らには、ジョゼフの夢(訳注2)に現われた、お辞儀をする星のように思われた。林の彼方には、キュクロプスのような片目の、血走った炎を燃やす巨大な灯台が、私らをにらみつけていて、水先案内の顔を柘榴のように真っ赤に染めていた。時折り、海の波は船のなめらかな脇腹を、音高らかに、愛するもののように口づけした。そして舳(へさき)のあたりには、舟幽霊のような明かりが戯れていた。巻いたロープの上に坐って、一人のギター弾き(guitarrista)が、即興の歌を歌った。それはアンダルシア地方のロマが、soleariyasと名づける、単調であるが甘美な譚詩のひとつであった。今もなお、あの孤独な声の、豊かなトーンが、夏空の星の下で、かぐわしい海の上で、耳にしたほぼそのままに、私らの記憶の中で鳴りひびいている。

Sera,
Para mi er mayo delirio
Berte y no poerte habla.

Gacho,
Gacho que no hab ya motas
Es un barco sin timon.

Por ti.
Las horitas e la noche
Me las paso sin dormi.

Sereno,
No de oste la boz tan arta
Que quieo dormi y no pueo.

Marina,
Con que te lavas la cara
Que la tienes tan dibina?

(ままよ、
わが身は五月の喪神のうちに、
君を見れども、言葉なし。

男よ、
欠点のない男などは、
舵のない船のごときものよ。

君が故に、
いく時となく、夜の時を、
眠れずに過ごしたものよ。

静かなれ、
西風の声よ、かく疲れて、
眠らんとして、眠れぬわれなるを。

マリーナ、
君は何をもって君の顔を洗うのか、
かくも神々しき顔をもつ君よ。)(訳注2)

 彼がなぜ私に、彼の来歴を語ったのか、私は知らない。私はただ、お互いの心が通い合っていたということを、知るばかりである。

 *      *      *

 「私の母については、」と彼は語りだした。「子供の頃の私は、ほとんど覚えていないのです。母について、思い出すことといっては、夢のような頼りないことばかりで、たぶんまた夢の記憶かもしれません。夢だかなんだか分からない、子供時代があるものです。記憶の中で、影と実体とが区別できないのです。そうした時期のことですが、私はある言語をしゃべる、ある声に、絶えずつきまとわれていました。その言語は、後になって初めてよく知ったのですが。それと、ある顔です。私はその顔に一度もキスした覚えがないのですが。
 目鼻立ちのくっきりした、浅黒い、気の強そうではあるが上品な顔でした。眉はきわだった三日月で、異様に大きな眼(まなこ)は、濡れたような黒色をしていて、寝ている私を見おろしていました。ある背の高い女の顔でした。その大きな輝く眼の中には、優しさがあったのですが、にもかかわらず、なにか野生的なものが感じられました。雲の上の鳥の巣をねらう狩人が、猛禽と目を合わせたときに感じるような、そうした眼差しでした。そしてこの浅黒い夢の顔が、不思議な愛と恐れとで、私を満たしたのでした。長い髪は、こめかみから後ろに流れて、黒く波うっていましたが、それをきらきらする新月の形をした、大きな銀の櫛で留めていました。
 終いには私は、夜中にそんなふうな、半分は獰猛ですが愛情に満ちた眼が、私を見おろしている夢から覚めると、戸外へ出て、星を見ながら泣いたものです。
 途方もなく落ち着かない気分が、私をとらえるようになりました。私の血管の中に、新たな熱のようなものが脈打ちだしました。私は絶え間なく、未知の言語でしゃべる、不思議な、笛のような声を聞きました。しかし、それは遙か遠くで、吹き寄せる風に、散りぢリにされて消えていく、言葉の音(ね)なのでした。
 海風が耳の中で波の歌を歌いました。どんな音楽家も学べない、奥ゆかしい讃歌を歌う波の歌です。人の耳がその言葉を解き明かせない、神秘な讃歌です。この世界よりも古く、月光よりも異様な魔法の讃歌です。
 森からの風がかぐわしい樹液の、したたる香りを運んできました。それに、川のせせらぎよりも心地よい鳥のさえずりと、ゆれる木蔭のそよぎと、松林のくりかえし嘯々と奏でる楽の音と、花々の放つ芳香と、樫の木を夢魔のように愛撫する蔓植物の神秘をも。
 風はまた、北方人の眼のように刺すような冷たさで、岩山の奥深くから、またこの世界が始まって以来、鳥の足跡が印されたことのない雪で覆われた山嶺から、吹き寄せてきました。そして、電光が飛びかう中で、謎めいた山の自由の歌を歌いました。そして、それらの風とともに、鳥たちの影が、私の頭のはるか上で舞っていました。私の夢の中の眼のように、獰猛で、美しい眼をした鳥たちでした。

 *   *   *

 そんなことで私は、世界の永遠の循環とともに、永遠に巡っている風や波や鳥を、とても羨ましく思うようになりました。夜ごとに半ば獰猛で、半ば優しい、あの大きな眼が、夢の中で輝きました。幻の風が私に呼びかけ、薄暗い海が泡だつ口唇で、オーディンのルーネ文字のような異様な、秘密の言葉を歌いました。

 *   *   *

 そして、私は駱駝が都市を嫌うように、都市を嫌いました。駱駝は砂漠の黄色い地平の果てに、マホメットの天国を指し示す、屍の白い指のような尖塔を目にすると、すすり泣いたり呻いたりするものです。
 私はまた騒々しい交通や、金銭を争うかしましさを嫌いました。焼けつくような通りに面した豪邸の影や、あくせくと歩む足の音や、そびえる煙突の黒煙や、絶え間なく真鋳の筋肉で働き、蒸気と鉄の心臓であえいでいる巨大な機械が、嫌いなのでした。
 私はただ夜の眼(まなこ)と、私にとりついている女たちの眼を愛しました。それに、静かな平原の起伏と、人の足を踏み入れない森の囁きと、飛ぶ鳥やゆく雲の落す影と、深緑色の波の高まりと、銀色の小川の嘆きの声と、海原がとこしえに星ぼしへと歌わずにはいない、あの偉大な六歩格の讃歌の轟きを、そうしたものだけを愛したのです。

 *   *   *

 一度だけ、たった一度だけ、眠りの朦朧とした波の上に漂い寄せた、おぼろにも美しい夢の中で、私の父に話しかけたことがあります。一度だけ、たった一度だけでした。その顔が死人の顔よりも白くなっていくのが見てとれたからです。

 *   *   *

 富と悦楽にとり巻かれてはいても、私は金の籠のなかの鳥のように感じていました。書物を愛読したのも、ただそれらが教えてくれる海と空の謎や、あまたの太陽の錬金術や、季節の魔法や、とわに船出を願っても、決して見ることのない土地の不思議な事どもに惹かれたからです。私が大いに好んだのは、夜の野外を馬でゆくことと、月光を浴びて銀色に光る波間を長く泳ぎまわることと、木蔭から木蔭へと野生の鳩が求愛しながら飛びまわる森の、麝香の香りのする息吹でした。そして私に絶え間なくとりついている、あの鷹のような顔の不思議な美しさは、我が家に出入りした金髪の乙女たちに対して、私の心を感じなくさせました。彼女たちは象牙と金でできた、背高い偶像のように麗しかったのですが。
 夜が桃色に明けそめると、しばしば私は不安な眠りから起きあがって、鏡をのぞきました。私自身のひとみの中に、なにか夢の中のひとみと似た黒さを見つけたいと願ったのです。そしてしばしば私は、私の血管の中に私の父親のでない、異民族の血を感じました。
 私は鳥たちがかぐわしい南国へと渡っていくのを見ました。かもめがより暖かい海岸を求めて飛んでいくのを見まもりました。私は鷹たちが自由であることをいまいましく思いました。私の文明への隷属の見返りである富をいまいましく思い、私自身のでない民族の中での、私の孤立の報酬としての享楽をいまいましく思いました。
 「ああ、私が雲であったなら」と私は叫びました。「うつろな風とともに、とわに漂ったものを。ああ、私が波であったなら、海原から海原へとわたり、数あまたの岸辺の岩に泡と砕けて、自由の歌を歌ったものを。ああ、私が鷲のように生きることができたなら、永劫の太陽の顔に見いることができたであろうに」
 そのようにして、自由への狂わしい渇望を抱きながら、私は人生の夏を迎えました。風と波と鳥たちが持つような自由への渇望と、その野生の血が私の血管の中に熱をもたらした、あの未知の民族への漠とした愛情がつのってゆき、ついにある星のない夜のこと、私は家から永遠に逃げさりました。

 *   *   *

 私はやっと森の中で眠りにつきました。目覚めた時、頭上の緑の木蔭で鳥たちがさえずっていました。椰子の木のようにしなやかな、エジプトを思わせる浅黒い少女が、私を見おろしていました。私の心臓は止まりかけました。私は彼女の浅黒い顔の野生の美しさの中に、いわば私にとりついている顔の面影を見たのでした。そして彼女の真夜中のように黒いひとみの中に、夢の中のひとみを見たのでした。彼女は薄い金の耳輪をしていました。彼女の褐色の腕と足はむきだしでした。彼女は笑みを見せずに、その大きな野生の眼を私の眼にじっとそそぎ、奇妙な言語で私に話しかけました。それはインドほどにも異様な言語でしたが、まったく私に不可解というわけではありませんでした。というのは、その荒々しいシラブルの響きを聞くと、長く訪れることのなかった記憶の暗い部屋の戸がふたたび開いて、忘れていた事柄が明るみに出されたからです。その言語は、あの焦燥の年月をとおして、夢の中で私に語りかけてきた言語だったのです。私はまだ黙ったままでしたが、彼女は私が理解したのに気づき、森の向こうのテントと、渦を巻いてゆったりと立ちのぼる煙を指さしました。
 「私たちの行くところへはどこなりと、あなたもまた来てよい」彼女は呟くように言いました。「あなたは私らの民に属している。あなたの血管に流れる血は、私の血でもある。私らは長いこと待って、あなたを見まもっていた。私たちみなの上に、大きな渇望が訪れてくる季節である夏ごとに。なぜなら、あなたの母は私の民に属していたから。彼女の乳房で育ったあなたは、他の民族の青白い子供たちとは、ともに暮らせない。天国は私らのテントである。鳥たちが南へ北へと、私たちの足どりを定める。星たちが東へ西へと、私たちを導く。私らの民は、日の昇る国々をさすらっていた時でも、あなたの消息をたずねていた。私らの血は葡萄酒よりも強い。私らの血縁は黄金よりも貴い。あなたはあなたの心の満足のため、富と、享楽と、名誉と、都市の生活を捨てようとしている。私はあなたの妹になろう」
 そこで、私は彼女にキスし、彼女のあとについて、彼女の民であり、私の民でもある、最古の東洋の世界放浪者のテントへとおもむいたのです。
 

 

訳注1:The young moon had not yet lifted the silver horns of her Moslem standard in the far east.月齢の浅い月は西空に現われる。原作者の勘違いか。イスラムの旗印の月は左向きで、夜明けの月である。
訳注2:創世記37.ヤコブ(イスラエル)の息子ヨセフの見た夢に、the sun and moon and eleven stars were bowing down to me.とある。
訳注3:原詩のスペイン語はかなりくずれているので、意味をとるのが困難である。現代のスペイン語に読み替えて、不確かだがおおまかな内容をしるした。例をあげると、2,3行目は、Para mi en mayo delirio / Verte y no poderte habla.としてみた。等々。


(原題:The Gypsy’s Story from Fantastics





作品名:「ロマの血」(ファンタスティクスより)
作者:ラフカディオ・ハーン
訳者:脩 海  copyright: shu kai 2016
Up:2016・6・5