アムブローズ・ビアス(Ambrose Bierce 1842-1914?)


様々な幽霊――怪談集

 米国の短編小説作家・ジャーナリスト。オハイオ州メーグズ郡で複雑な家庭の第十子として生まれ、インディアナ州で育つ。1861年に南北戦争が起こると、19歳で義勇兵として連合軍(北軍)に入り、鼓手から中尉まで昇進した。戦後サンフランシスコへ行きジャーナりストとして活躍、Bitter Bierceの異名をとる。1872−1876年にはロンドンに暮らしたが、健康を害してサンフランシスコへ戻り、諸雑誌や新聞に寄稿する。家庭の不幸(二人の息子の尋常でない死と夫人との離婚)や名声の衰えなどから、晩年はメキシコに渡り行方不明となる。
 *   *   *
 短編作家としてのビアスの傑作は、南北戦争に取材した<兵士の物語>に集中しているが(「空飛ぶ騎手」「アウルクリーク橋の一事件」「生死不明の男」など)、リアリストであり、辛辣な諷刺家である彼がものする怪談は、単なる心霊的恐怖などどいう素朴なレベルを超えて、人間社会の暴力や不条理を背後に滲ませた独特なインパクトを与える。怪談は彼にとって、人間社会を風刺するための創作上の材料に過ぎなかったようである。ここにとりあげた一見実話ふうな怪談においても、そのことが感じ取られる。

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目次

相部屋/幽霊屋敷/蔦におおわれた家/ある無線通信



  さまざまな幽霊―怪談集

    アムブローズ・ビアス


 相部屋

 「その列車に乗るには」――ウォルドルフ・アストリアホテルに腰をすえて、レべリング大佐は言った。「まる一晩アトランタですごさねばならんでしょう。アトランタはいい町だが、そこの主なホテルのひとつで、ブレスィット館にだけは泊まらんほうが無難ですな。もう早急に建てなおさねばならんほどの、古い木造家屋でしてな、猫でもほうりだせるくらいの割れ目が、壁にできてるんです。寝室の扉には錠もついていないし、どの部屋も椅子ひとつのほかには、家具が全くないんです。寝台だって寝具があろうものか、マットレスひとつなんですよ。そんなわずかな設備でさえ、一人で独占できるかどうか、あやしいもんですな。ほかの連中と相部屋なんてことにもなりかねません。旦那さん、あれはなんともひどいホテルですな。
 私がそこで過ごした晩は、不愉快な晩でした。私は遅い時間にホテルにつき、獣脂ロウソクを持ったくどくどしい番頭に、一階の部屋へ案内されました。彼は気をきかせて、ロウソクを残してゆきました。私は二日と一夜の列車旅行の強行で、すっかり疲れきっていましたし、口論のはてに鉄砲玉で受けた頭の傷が、まだすっかり良くなってはいませんでしたので、ほかにましな宿を探す気にはならず、服をつけたまま、マットレスの上に横たわり、眠ってしまいました。
 夜明け前に、私は目が覚めました。月がのぼってきて、カーテンのない窓から明かりが差しこんでいました。部屋の中はふんわりした薄青い光で照らされて、別にどうということもなかったのですが、何となくお化けでもでそうな雰囲気でした。見ていると、月光というのはみんなそんなふうな感じを起こさせるものですな。私が床の上に、少なくとも十数名の、ほかの泊り客が寝ころがっているのを目にしたとき、どんなに驚き、腹立ちを覚えたか、察しもつこうというものです。私はあの考えられない、あきれたホテルのやりくちを罵りながら、起きあがって、まさに寝台から跳びおり、あの獣脂ロウソクを手にした弁解がましい夜勤の番頭と、ひと悶着おこしにいこうとしました。その時です。その場にある何かが、動く気力を麻痺させるほど私をどきりとさせたのです。私は小説家が言うように、恐怖で身も凍えてしまったのだと思います。その男たちは、どう見てもみな死体だったんですよ。
 彼らはあおむけに寝ころがっていましたが、部屋の三方の壁ぞいに、順序よく並べられて、足を壁に向けているんです。私の寝台と椅子は、ドアからもっとも離れた別の壁のところにありました。全員の顔に布がかけられていて、窓際の四角い月明りのなかに置かれていた二つの死体などは、その白い布の下に、あごと鼻の形がはっきりと浮きでていました。
 私は、こりゃあ悪い夢を見てるなと思って、だれでも悪夢のなかでやるように、叫び声をあげようとしましたが、声がでませんでした。とうとう、私はがむしゃらに足を床へ踏みだし、二列に並んだ布のかぶさった顔と、ドアのすぐそばにある二つの死体の間をぬけて、やっとのことで地獄のような場所から逃げだし、帳場に駆けつけました。夜勤の番頭がそこにいて、机のうしろで、別のロウソクのぼんやりした明かりのなかに座ったまま、宙をにらんでいました。彼は立ち上がりませんでした。私が突然入っていっても、彼は全然驚かないんです。私自身、本物の死体のように見えたにちがいないんですがね。その時、私はまだその男をよく観察していなかったことに気づきました。彼は小柄な男で、土気色の顔をしていて、私の見たなかでもっとも白くて、うつろな眼をしていました。彼は手の甲みたいに、まるで表情がありませんでした。彼の服は、くすんだグレーでした。
 『ちくしょうめ!』と私は言いました。『一体どういうつもりなんだ?』
 とはいえ、私はやはり風の中の木の葉のように震えていて、自分で言っている声も自分の声に聞こえないほどでした。
 夜勤の番頭は立ち上がり、弁解するように頭を下げました。それから、そうなんです、彼は消えちまったんです。そして、ちょうどその時、後ろからだれかが私の肩をぽんとたたくのです。考えてもみなさい。言葉にならないほど肝をつぶして、私はふり返ったのです。すると、一人の太った、人のよさそうな紳士がいて、私にたずねました。
 『どうなさいました、あなた?』
 彼に事情を話すのに、長くはかかりませんでした。しかし私が語りおえる前に、彼の顔は蒼ざめてきました。『ちょっと』 と彼は言いました。『本当の話なんですかね?』 私は今はもう自制をとりもどしていましたので、腹立ちが恐怖にとってかわりました。『信じないんなら』と私は言いました。『あんたをぶちころしてやる』
 『まあ、まあ』と彼は言いました。『はやまりなさんな。そこに座って私の話を聞きなさい。ここはホテルなどではないのです。昔はそうだったが、その後病院に変わったのです。今では空き家で、借り手を待っているのです。あなたの言っている部屋は霊安室で、いつもたくさん死体が置かれていました。あなたが夜勤の番頭と呼ぶ人物はたしかにいました。しかし彼はその後、入院してくる患者の受付をやっていました。彼がここにいるというのは、どうも解りませんな。二、三週間前に、彼は死にましたから。』
 『それで、あんたはだれなんだ?』 私はぶっきらぼうに言いました。
 『ああ、私はこの建物の管理をしています。たった今、そばを通りかかったところ、中に灯りが見えたので、調べに入ったのです。その部屋をちょっと見てみましょうよ』 彼はそう付け加えて、机からジリジリ燃えるロウソクをとりあげました。
 『まっぴらごめんだ!』 そう言いながら、私はドアから通りへとび出しました。
 旦那、アトランタのあのブレスィット館は、ひどいしろものです。そこではお泊りにならんように。」
 「めっそうもない。あなたの話から、とても感じのいいところとは言えないからな。ところで、大佐、それはいつ起こったことかね」
 「1864年の9月、[北軍によるピーターズバーグの]包囲の少し後のことです」

 原題:The Other Lodgers


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 幽霊屋敷

 ケンタッキー州東部のマンチェスターから、北のブーンヴィルへ向かう道沿いの、20マイル先に、1862年のこと、この地方の住宅の常としては、いくぶん贅沢な木造の農園屋敷が建っていた。この屋敷はその翌年に、火事で焼失した。おそらくは、[北軍の]ジョージ・W・モルガン将軍が、[南軍の]カービー・スミス将軍によって、カンバーランド峠からオハイオ河まで、後退をよぎなくされ、縦隊となって退却した時の、敗残兵の仕業であったろう。焼失した当時、その屋敷は四、五年の間、空き家であった。屋敷のまわりの農園には茨がはびこり、柵はなくなり、いくつかある黒人奴隷の小屋と納屋のすべては、放任と略奪によって、半分崩壊の憂き目にあっていた。というのは、近所の黒人奴隷や貧しい白人らが、建物や柵が豊富な燃料を供給することに目をつけて、ためらいもなく、白昼公然とやってきては、利用していたからである。それも昼間に限られていたーー夜になると、通りすぎるよそ者をのぞいては、だれもその場所に近寄りはしなかった。
 その家は<幽霊屋敷>として知られていた。その屋敷が、眼に見え、音を立てて動きまわる、悪霊の住処であるという事実を、その地方でだれも疑うものがなかったのは、日曜に巡回牧師が語る説教を、疑うものがなかったのと同じであった。そのことに関する、屋敷の持ち主の意見は知られていない。彼とその家族らは、ある夜いなくなり、以来彼らの消息はまったく分かっていなかった。彼らはすべてを残していった。家庭用品、衣服、食料、馬屋の馬、畑の牛、小屋の黒人奴隷ーーすべてがそのままであった。なにも失われているものはなかった。一人の男と、一人の女と、三人の娘と、一人の息子と、一人の赤子をのぞけば!七人の人間がいちどに消えてしまい、だれもその事実以上は知らない農園に、疑惑の念がもたれたことは、驚くにあたらない。
 1859年、6月のある夜、フランクフォートの市民、弁護士のJ・C・マッカードル大佐と市民兵の判事マイロン・ヴェイの二人が、ブーンヴィルからマンチェスターへといそいでいた。彼らの用事は重要なものであったので、彼らは闇夜と近づいてくる嵐のざわめきなど物ともせず、前進する決意であった。ちょうど彼らが幽霊屋敷の前までやって来たとき、ついに嵐が襲いかかってきた。雷の絶え間ない光によって、彼らは容易に門を通りぬけて、一つの小屋を見つけ、そのなかに馬をつなぎ、馬具を下ろした。それから、雨の中を彼らは屋敷へと向かい、ドアをたたきまわったが、返事が得られなかった。彼らはこれをひっきりなしになる雷鳴のせいにして、ドアの一つを押したところ、内側へ開いた。彼らは、それ以上の礼儀もなしに中へ入り、ドアを閉めた。その瞬間、彼らは闇と静寂のなかにいた。雷の絶え間ない閃光の一すじも、窓や隙間をとおらなかった。荒れ狂う嵐の一吹きも、そこにいる彼らに届かなかった。あたかも彼らは、突然殴りつけられて、視力を失い、聴力を失ったかのようだった。のちに、マッカードルの語るところでは、彼としては一瞬の間、敷居をまたいだとたんに、雷に打たれて死んだのだと思いこんだ、ということである。この冒険談の残りの部分は、1871年8月6日付け、フランクフォート発行、アドヴォケート紙の、彼自身の言葉によって語らせたほうがよいであろう。
 「私が雷鳴のちまたから、静寂への、眼の眩むような変化の影響から、いくぶん我に返ったときの、最初の衝動は、閉めたドアをふたたび開けようとすることだった。それに、私はドアの取っ手から、手を離した覚えがなかった。私はいまだ指で握りながら、そのことをはっきりと感じた。私の考えは、ふたたび嵐の中へ出てみて、私が視覚と聴覚を奪われてしまったのかどうかを、確かめることであった。私は取っ手をまわし、ドアを引いて開けた。それはほかの部屋に通じていた!この部屋は、かすかな緑色をおびた光で満たされていた。その光がどこから来るのかは、私には分からなかったが、その明かりで、輪郭はぼんやりとしていたものの、すべてがはっきりと見分けられた。すべてがというのは、実のところ、部屋の白い石壁の内側にあったものは、すべてが人間の死体だった。数は、おそらく、8体か10体だった――正しく数えなかったことは、理解してもらえるだろう。彼らの年齢、というよりも、大きさはまちまちで、幼児から両性にわたっていた。明らかに若い女であったが、壁の隅に背をもたせかけて、起き上がっているのを除けば、みなが床の上にうつぶせになっていた。一人の赤子は、もう一人の年寄った女の腕に抱かれていた。大人になりかけた少年が、あご髯をはやした男の脚ごしに重なって、うつぶせに横たわっていた。一人か二人は、ほぼ裸体に近かった。一人の少女が、その胸から引きちぎった、ガウンの切れ端を手ににぎっていた。死体は、それぞれ腐敗の段階にあり、顔や体躯にいちじるしい萎縮が見られた。あるものは、ほとんど白骨に達していた。
 私はこの凄惨な光景を前にして、恐怖に立ちすくみ、ドアを開いたままにしておいたが、何か説明のできない逆らう気持にかられて、私の注意はその恐ろしい場面からはずれ、取るに足らない微細なことに、関心を向けるようになった。おそらく、何か自己保存の本能によって、私の心はその臨界点に達した緊張をやわらげてくれる事物に、救いを求めたのだ。とりわけ、開いたままにしているドアが、厚い鉄板をリベットで継ぎ合わせたものであることに、私は気づいた。ドアの斜めのふちから、上端から下端にわたって等間隔に、三つの頑丈なボルトが突きでていた。取っ手を回すと、三つのボルトはふちと同じ面まで引っこんだ。取っ手をもとに戻すと、突きだした。バネ式錠であった。部屋の内側には取っ手が付いておらず、まったく突起のない、平坦な鉄の面であった。
 今思い出すとまったく驚くのだが、そんなことを興味深く注意して調べていると、私は体をわきへ押しのけられるのを感じた。私の感情が激しく緊張して、いろいろに転変していた間に、すっかり忘れていた判事のヴェイが、私のそばを通りぬけて、部屋のなかに押し入ったのだ。『なんてことを!』 私は叫んだ。『入るんじゃない!こんな気味の悪い場所は、早く出よう!』
 彼は私の頼みをまるで聞かなかった。南部人の無鉄砲さで、彼はさっさと部屋の中央までいくと、詳しく調べるため、手近な死体の一つのそばにひざまずき、その黒ずんでひからびた頭を手にとり、そっともちあげた。強い悪臭が扉のところまで押しよせ、私を圧倒した。私の感覚はくらくらした。私は自分の体が崩れるのを感じた。そして、扉の角にしがみつくと、鋭い金属音とともにそれを閉めてしまったのだ。
 それ以上私は覚えていない。六週間後に、マンチェスターのあるホテルで、私は正気に返った。見知らぬ人たちが、翌日になって、私をそこへ運んでくれたのだった。その六週間というもの、私は神経性の熱病に苦しみ、絶えず精神錯乱に見舞われていた。私はあの屋敷から数マイル離れた、道路上に倒れているのを発見された。しかし、どうやって私があの家から逃げだし、そこまで行きついたか、私には分からない。回復するや、というよりも医者たちが私に話すことを許可するや、すぐに私は判事ヴェイがどうなったかを尋ねてみた。彼らは(今になっては明らかだが、私を落ちつけるために)、彼が家に元気でいると答えた。
 だれも私の話を信じようとはしなかったが、それももっともなことである。。そして、二ヵ月後にフランクフォートの私の家に戻り、判事ヴェイが、あの晩以来すっかり消息を絶ってしまっていると知ったときの、私の悲嘆をだれが想像できようか。その時、私は正気に返ってからの最初の数日以後、あの信用されない話をくり返し、その真実を主張することを拒ませてきた、私の自尊心を激しく後悔した。
 その後に起こったことのすべて――あの屋敷の調査、私が語った部屋に相当するどんな部屋も発見されなかったこと、私の精神異状を宣告させようとする試み、告訴者に対する私の勝利――以上はアドヴォケート紙読者のよく知るところである。今日にいたるまで、私にはなんら引き受ける法的権利も富もないのだが、あの荒れ果てた、そして今では焼失した屋敷を掘り返すことによって、私の不幸な友人の失踪の秘密と、おそらくは、前居住者と家の所有者の失踪の秘密をも明らかにされるであろうことを、私は信じて疑わない。私はまだそのような調査を行うことを諦めてはいない。そして、故判事の家族と友人の不当な敵意とおろかな不信によって、調査が遅延されたままでいることは、私にとって深い悲しみのもとなのである。」
 陸軍大佐マッカードル、1879年12月13日にフランクフォートにて死亡。

(原題:The Spook House)


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 蔦におおわれた家

 ミズリー州のノートンという小さな町から、三マイルほど離れたところに、メイスヴィルへ行く道のほとりにあたって、一軒の古家が建っている。ハーディングという名の家族が、その家に最後に住んでいた。1886年以来、その家にはだれも住んでいない。今後そこに住もうという者はいなかろう。時の経過と、近隣に住む人たちの不評によって、その家は絵に見るような廃墟と化しつつある。その家の経歴を知らない観察者は、その家を<幽霊屋敷>の範疇に加えることはまずしないだろう。しかし、周辺の地域では、その家は、そのような悪しき評判を立てられている。窓にはみなガラスが失われ、出入り口にはみなドアがない。板葺きの屋根には大きな裂け目があるし、雨戸は塗料が落ちて陰気な灰色である。しかし、それらの間違いのない超自然的存在のしるしは、建物全体をおおっている大きな蔦のゆたかな葉の茂りによって、一部が隠され、大いに緩和されている。この蔓植物は――植物学者もその種を定めることができなかったのであるが――その家の物語に重要な役割を果たしている。
 ハーディング一家は、ロバート・ハーディングとその妻マティルダ、妻の妹のミス・ジュリア・ウエント、および二人の子供たちからなっていた。ロバート・ハーディングは寡黙な、冷淡なふるまいの男で、近隣に一人の友人も持たず、どうやら友人を作ろうとも思わなかったようだ。彼は年齢四十前後、倹約家でよく働き、今では藪や茨でおおわれている、小さな農場で生計を立てていた。彼と彼の義理の妹は、近所の者たちから忌まわしげな眼で見られていた。二人が一緒にいるところが、あまり頻繁に目につく、と考えられたようだ。しかし、それは彼らのせいばかりではない。当時のことであるから、彼らもあえて眼につくようなことはしなかったであろうから。ミズリー州の田舎の道徳規範は、厳格で容赦ない。
 ハーディング夫人は、穏やかな、沈んだ眼をした女だったが、左足がなかった。
 1884年のある時、彼女は彼女の母を訪れるために、アイオワ州へ出かけたことが知られた。そのことは、夫が尋問に答えて述べたことであり、彼の陳述の態度から、それ以上の尋問は必要なしとされた。彼女は二度と戻らなかった。そして二年後に、彼の農場や、彼の所有物を一切売ることもせず、また彼の利益を計らってくれる代理人を立てることもなく、また家財道具を運び出すこともなく、ハーディングと残った家族は、その地方を去ったのである。彼がどこへ移ったかは、だれも知らなかったし、当時はだれも気にかけなかった。当然ながら、その地所で動かせるものは、すぐに消え去り、その見捨てられた家は、その種の屋敷のご多分にもれず、<幽霊が出る>ようになった。
 四、五年たった頃の、ある夏の暮れ方のこと、ノートンのJ・グルーバー師とハイアットという名のメイスヴィルの弁護士が、ハーディング屋敷の前で、馬上で出会った。仕事上の事で相談することがあったので、二人は馬をつなぎ、家の方へ行き、ポーチ[ベランダに同じ]に座って話した。この家の陰気な評判についての冗談めいた言及のあとに、すぐさま忘れて、彼らはほとんど暗くなるまで仕事上の話をした。その夕方はむしむしする暖かさで、空気はよどんでいた。
 やがて、二人の男ははっとして座から立ちあがった。家の正面の半分をおおい、彼らの頭上のポーチの端から枝をたらしている長い蔦が、目にみえて、音を立てて動揺していて、幹も葉も全体が激しく震えていた。
 「嵐になりそうだぞ」とハイアットは叫んだ。
 グルーバーはなにも答えずに、黙って相手の注意を、そばにある木々の葉の茂みに向けた。それらはまったく動いていなかった。晴れた空にシルエットを描いている、枝の細い先端さえ、動いていなかった。彼らは急いで段を下りて、以前に芝地であったところから蔦の木を見あげた。その全長が目に入った。それは激しい動揺をつづけていたが、彼らはその原因を見つけられなかった。
 「行こうか」と牧師は言った。
 ともかく二人は立去った。彼らは別の方向に向かっていたことを忘れて、一緒の方向に馬を進めた。彼らはノートンへ行って、そこのいく人かの慎重な友人に、彼らの奇怪な体験を話した。翌日の暮れ方に、ほぼ同じ時刻に、名前は忘れられてしまったが、別の二人の人物を伴って、彼らはふたたびハーディング家敷のポーチにおもむいた。そして、ふたたび謎の現象が起こったのである。その蔓植物は、根もとから先端までをじっくりと調査している合い間にも、激しく動揺していた。また彼らが力をあわせて幹をおさえても、それを静める役にたたなかった。一時間観察したのちに、彼らは引きあげたが、来た時と相変わらずの、腑に落ちない気持であったと思われる。
 その奇妙な事実が、近隣全体の好奇心を掻きたてるまでには、さしたる時間はかからなかった。昼夜となく、人の群がハーディング屋敷の前に集まり、<しるし>を探した。だれもそれを見つけなかったようであるが、上に述べた証人たちは十分に信用できたので、だれも彼らが証言した<霊現象>の現実性を疑うものはなかった。
 適切な思いつきであったか、または何らかの破壊的意図によるものであったか、また誰がその提案をしたのかはだれも覚えていなかったようであるが、ある日、その蔦の木を掘り起こそうという提案がなされ、たっぷり議論した果てに、実行に移された。根のほかには何も見つからなかった。しかし、その根ほど不思議なものはなかった!
 地面のところで直径二、三インチ[5〜8センチ]の太さのある幹から、その根は五、六フィート[=1.5〜1.8メートル]の深さまで、崩れやすい柔らかい土の中へ、一直線に伸びていた。そこから先は、小さな根に枝分かれして、繊維や糸状の根がはなはだ奇妙に絡みあっていた。土を丁寧にとり去ってみると、それらの根は不思議な形状を示していた。それらは分岐と折り返しによって、緻密な網目を作っていて、大きさと形において人間の姿に驚くほど似ていた。頭と、胴体と、四肢が、そこに見られた。手指や足指でさえ、はっきりと見てとれた。そして、頭部を表わしている円形のかたまりの中の、繊維の配分や配置において、奇怪な顔のようなものが見えると明言する者が、少なからずいた。その姿は横たわっていて、より細い根が胸のところで合流しだしていた。
 人間の形に類似しているという点では、この姿は不完全であった。膝の一つから十インチ[約25センチ]ほど離れたところで、脚部を形成している繊細な根は、生長途中で突然内側へと折り返されていたからである。その姿には左足が欠けていたのだ。
 考えられることはただ一つで、それはだれにも明白な推理であった。しかし、つづいて起こった興奮のなかで、無能な助言者の数だけの、とるべき行動が提案された。この問題は郡の保安官によって決着をみた。彼は放棄された地所の法的な保管者として、その根をもとに戻し、掘った穴を掘り出した土で埋めるように命じた。
 その後の捜査で、関係する重要な事実が、ただ一つ明るみに出された。ハーディング夫人は、アイオワ州の彼女の親族をまったく訪れていなかったし、また彼らも、彼女がそうする予定であったということを、知らなかったのである。
 ロバート・ハーディングと、ほかの彼の家族については、何も知られていない。屋敷はその悪評を保ったままである。そして植えなおされた蔦の木は、ごく規律正しい、行儀の良い植物である。キリギリスが太古の秘密を打ち明けるきしり音をたて、遠くでヨタカがそれについて何をなしたらよいかを、告げ知らせている、気持ちの良い夜には、神経質な人でもその下に座ってみたくなるであろう。

(原題:A Vine on a House)


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 ある無線通信

 1896年の夏のこと、シカゴの裕福な工場主であるウィリアム・ホルト氏は、ニューヨーク州中部の小さな町に、一時住んでいた。その町の名は、筆者は失念してしまった。ホルト氏は“夫人との折り合いが悪く”、その一年前から別居していた。その不和が、“性格の不一致”などというものよりも、さらに深刻であったのかどうかについては、それを知る唯一の生存者は、たぶん彼だけである。彼は人に打ち明けるという悪癖を持たない人間である。ところが、ここに記した出来事を、彼は口外しないという誓いを立てさせずに、少なくとも一人の人に話したのである。彼は今は欧州に住んでいる。
 ある晩のこと、彼は訪問していた一兄弟の家を出て、周辺の田舎をぶらついた。憶測してみると、――起こったといわれる出来事に関して、憶測などがどれ程の価値を持つかは分からないが――彼の頭の中は家庭内の不幸と、それが彼の生活にもたらした悩ましい変化に関する反省で、いっぱいになっていたのだろう。彼がどのようなことを考えていたにせよ、彼はそれにすっかり気をとられていたので、時のたつのも、彼の足がどこにおもむいているのかも、忘れていた。分かっていたことといえば、町の境を越えて、ずいぶん遠くまで来てしまい、それに村を出たときの道とはまるで違う道を通って、うら寂しい地域を歩いていたことである。要するに、彼は“迷って”しまったのだ。
 困ったことになったと思ったが、気をとり直した。ニューヨーク州中部は危険な地域ではないし、いつまでも迷いつづける心配はなかった。彼は歩をめぐらせて、もと来た道を引き返した。それほど行かないうちに、あたりの風景がだんだんにはっきりと見えるようになり、明るんできたことに、彼は気づいた。あたり一面が、柔らかい、赤い光に満たされていた。その明かりの中で、彼は道の前方に、自身の影が映しだされているのを見た。“月の出だ”と彼は考えたが、すぐに、今は新月の頃であり、あの油断のならない天体は、現われだしていたにしても、もうとっくに沈んでしまったことを思いだした。彼は立ちどまってふり返り、急速に広がってくる光のみなもとを捜した。彼がそうすると、彼の影もくるりと回り、前のように道の前方に映しだされた。光はやはり彼の背後から来ていた。それは驚くべきことで、彼には理解できなかった。彼はもう一度向きを変え、さらにつぎつぎと方位を変えて向きなおってみた。どの場合にも、影法師は前方にあった。“赤く、不気味な、動かない”光は、つねに背後にあった。
 ホルトは驚愕した――“唖然とした”というのが、彼自身の使った言葉である。しかし、知的好奇心のようなものを失わずにいたようである。その性質も原因もつかめない光の強度を測るため、彼は時計を取り出し、盤面の数字が読みとれるかどうかを確かめた。数字ははっきりと見えた。針は十一時二十五分を指していた。その時、謎の照明は突然に、激しく、ほとんど目も眩むばかりの輝きを発した。それは空全体を明るませ、星の光を消し去り、風景の上に彼自身の巨大な影を投げかけた。その地上のものとは思われない照明の中に、彼は身近に、しかしどうやら空中かなりの高さに浮かんでいる、妻の姿を目にした。彼女は寝巻を着ていて、胸に彼の子の姿をしたものを抱いていた。彼女の両眼は彼の両眼にすえられていた。その眼の表情は、彼がのちに述べたところでは、名づけることも言い表わすこともできないもので、“この世のものではない”と言うほかはなかった。
 その光輝はつかの間であって、つづいて真っ暗闇となった。しかし、闇中でもその幻影はやはり、白く動かないまま、現われていた。それから、感じられないほど少しずつ、網膜の上の輝く像が、目を閉じたのちに薄れて、消えていくように、見えなくなった。その時はほとんど気づかなかったのだが、あとで思い出された、その幻影の特異な点は、それが女性の姿の上半身だけを現わしだして、腰から下は何も見えなかったことである。
 突然の暗闇は絶対的なものではなく、比較的なものであった。だんだんに周囲のすべてのものが、ふたたび見えるようになってきたからである。
 夜が明ける頃、ホルトは彼が出たときとは反対の地点で、村に戻っていた。彼は間もなく兄弟の家についたが、兄弟は彼であるとは判らないくらいだった。彼は異常な眼つきをしていて、顔もげっそりとしており、ネズミのように青白かった。彼は夜の体験を語ったが、ほとんど支離滅裂だった。
 「気の毒に、とにかく寝るといい」と兄弟は言った。「この件はあとでもっと聞かせてもらうとしよう」
 一時間後に、運命で予定された電文が来た。シカゴの郊外の一つにあるホルトの家が、火事で焼け落ちたのだった。彼の妻は、炎に退路をふさがれて、上階の窓に、子供を腕に抱いて現われた。そこに彼女は身動きせずに、見たところ茫然として、立ちすくんでいた。消防士たちが梯子を持って駆けつけたちょうどその時、床が燃え落ち、彼女の姿はもはや見られなかった。
 この恐怖の絶頂の時刻は、標準時で十一時二十五分であった。

(原題:A Wireless Message)
  
 

作品名:様々な幽霊―怪談集
作者:アムブローズ・ビアス(Ambrose Bierce)
翻訳者:脩 海 copyright:shu kai.2016 
入力:マリネンコ文学の城
UP: 2016.9.8