NATHANIEL HAWTHORNE  (1804-1864)

夜半の幻 ―心の幽霊―


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 ナサニエル・ホーソーン

米国の小説家。1804年、マサチューセッツ州セイラム(Salem)に生まれる。4代前の祖父は魔女裁判で有名な判事であった。メイン州ブルンスウィックのボウドイン・カレッジを卒業後、郷里で作家を目指して、雑誌や年刊のギフト・ブックに短編やスケッチ文を載せる。1837年にそれらをまとめたTwice-told Talesが出版される。出版当時はあまり注目されなかったが、1842年に増補版、1852年に続編Snow Image ande Ohter Twice-Told Tales が出される。1850年に長編The Scarlet Letter がベストセラーになると、文名が上がり、続いてThe House of the Seven Gables等三篇の長編が出される。カレッジの学友のピアス(F.Pierce)が大統領になると、英国リバプールの領事に任命され、1853年家族とともに渡英。任期の後には欧州を旅し、イタリアに滞在。1862年に帰米し、健康が衰え、1864年、旅の途時ニューハムプシャー州プリマスで、睡眠中に客死する。
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ホーソ−ンの短編物語群は、もはや古典的なモデルとなっていて、そのヴァリエーションは日本の作家を含めて、多くの短編作家に見られる。「大望をいだく客」や「ウェイクフィールド」や「ハイデッガー博士の実験」などのアイデアは、くりかえし応用されている。ここではあまり知られていない、エッセイをとりあげてみたい。物語と違って、作家その人に直かに接するかのような思いがするのは、ちょうど「方丈記」や「つれづれ草」を読むのに似ている。宗教思想は異なっても、アメリカ版「方丈」「つれづれ」の趣を感じるのは、訳者だけであろうか。



  夜半の幻 ―心の幽霊―

  ナサニエル・ホーソーン


 夜半の眠りからふと目覚めて、まだ記憶もあやふやな状態にある、その最初の瞬間は何と奇妙なのであろう。あまりに突然に目をあけてしまったので、寝台のまわりに呼び出された夢の中の登場人物の群が、不意打ちをくらって、すばやく消え去るさまを、目のあたりに見るかのように思われる。あるいは、譬えを換えると、あの眠りが通行許可証となっている幻影の領域において、ほんの一瞬間だけはっきりと覚醒してしまい、その世界の幽霊めいた住人と不思議な光景とを目にし、通常の邪魔されない夢によっては得られない、奇異の感に打たれるといったおもむきである。
 教会の時計の遠い声が、風にのって弱々しく運ばれてくる。あれは夢の国の灰色の塔から、目醒めの耳に忍びいってきたのではなかろうかと、なかば本気になって自問してみる。気になるうちに、こんどは別の時計が重々しく、眠れる町の上に時をつげる。朗々と、さえた音で、あたりの空気を長々とふるわせている。たしかに、すぐ近くの町角の時計塔からだ。打つ音を数えてみる――ひとつ――ふたつ、そこで打つ音はとまり、鐘が三つ目の音を鳴らすかのような、うなりがあとに残る。
 もし一夜のうちで、一時間の寝覚めの時を選ぶことができるなら、それはこうであろう。十一時にまともに就寝して以来、もう十分に休息して、昨日の疲労という重荷も取り去った。それから先は、<遙かなる支那(far Cathay)>から朝日が昇って窓辺にさすまで、たっぷりと夏の一夜ほどの時間がある。一時間は、心の眼(まなこ)をなかば閉じ、瞑想のうちに過ぎ去る。二時間は、心地よい夢のうちに過ごし、あとの二時間は、悦楽のなかでも最も風変わりなもの、喜びも悲しみも忘れ去って過ごす時である。床を出る瞬間は、別の時間に属していて、まだずっと先に思われるので、暖かいベッドから凍てつく空気にふいに出る時のことは、頭に浮かんで不愉快な思いをさせたりはしない。昨日はすでに過去の暗がりに消えてしまっている。明日はまだ未来から現われていない。人生の営みに煩わされることのない合い間の時が、そこに見つかる。そこでは過ぎ去る瞬間がゆきなずみ、本当の今となる。そこでは、<時の老父(Father Time)>が、だれも見ていないと思い、道ばたに腰をおろし、一息つくのだ。彼が眠りに落ちて、死すべき定めの者たちを、年老いずに生きさせてくれたらよいのだが!
 これまでは身動き一つしないでいた。ちょっとした身動きが、眠りの名残りをだいなしにしてしまうからだ。さて、どうにもはっきりと目覚めてしまった今となっては、半分引かれた窓カーテンの間を覗いてみる。見ると、窓ガラスには風変わりな霜細工の模様ができていて、一枚一枚の硝子が凍りついた夢の観を呈している。朝食に呼ばれるのを待っている間にでも、十分な時間があるので、その類似についてさぐってみるのがよいだろう。霜の風景画の銀の峰々のおよんでいない、硝子の透明な部分からは、最も目だって見えるものは、時計塔である。その白い尖塔の上には、冬の夜空の輝きがある。ちょうど時を告げたばかりの時計の、盤面の数字までがなんとか見分けられる。こんなふうな寒々とした空、雪におおわれた屋根、凍てついた通りの一面真っ白な眺め、そして彼方に岩のように凍った川、それらの光景は、四枚の毛布とウールの掛け布団にくるまっていても、寒さに震えさせるであろう。だが、あの明星の輝きを見るとよい。その光は、ほかの星よりもひときわ明るく、じつに窓の影をベッドの上に投げている。その影は月光のそれよりも深い色調に照らされているが、ただし、それほどはっきりした輪郭ではない。
 布団にもぐりこみ、頭の上に衣服をかぶっても、震えはずっととまらない。体の冷えるためばかりか、極地のような大気を考えるだけで、よけい震えがくるのである。あまりの寒さに、想像さえあえて外へでようとはしない。寝床の中で一生涯を過ごすことが、素晴らしいことのように思えてくる。カキのように殻の中に閉じこもり、怠惰な無為の陶酔にひたりきり、今また感じつつある、とろけるような暖かさのほかには、何ひとつ眠たげな意識にのぼらない。ああ!こういうことを考えているうちに、ある不気味な考えが連想されてくる。思えば、死人もまた、墓地の荒涼とした冬をとおして、寒々とした屍衣につつまれ、窮屈な棺の中に横たわっているのだ。雪が彼らの小さな墳墓の上に降り積もり、身を切る風が墓の戸口に向かって咆えたてるとき、彼らは身震いし、身をすくませたりはしないのだと、いくら空想を説き伏せてみても無駄である。その陰鬱な思いが、陰鬱な群をつどわせ、その暗澹たる色調を寝覚めの時間のうえに及ぼすのである。
 だれの心の奥底にも、一つの墓があり、一つの牢獄がある。ところが、上辺での照明とか、音楽とか、浮かれ騒ぎとかが、それらの存在と、それらが隠している死人や囚人を、忘れさせがちである。しかし、時には、よく真夜中にあることだが、それらの暗い穴ぐらの戸が、いっぱいに開かれる。このような時には、心は受身の感じやすい状態にあり、積極的な活動の力を持っていない。想像力は鏡となり、すべての観念を生き生きと映しだすが、観念を選んだり、統御する力を欠いているのである。そうした時には悲しみが眠りから覚めないよう、一団の悔いが鎖を断ったりしないように、祈るがよい。だが、もう遅い!葬式(とむらい)の行列が、寝台の傍らにただよってくるではないか。その中では、<情熱>と<感情>とが、身体の形をとり、心のもろもろの産物が、眼におぼろな幻影となって現われる。喪に服した青白い乙女の姿で現われたのは、人生で最初の<悲哀>だ。初恋の人と姉妹のようにそっくりで、悲しくも美しい。彼女の物憂げなおもわには、清らかな愛らしさがあり、彼女の黒衣は優美に流れている。次に登場するのは、うらぶれた美人の面影だ。彼女の金髪は埃にまみれ、きらびやかな衣装はすっかり色あせ、よごれている。そして、こうべをたれて、咎めの眼線を気づかうように、忍び足に過ぎていく。彼女は最愛の<希望>であった。しかし、それもまやかしの希望であった。それ故、彼女の名は、今では<落胆>とするのがよい。
 次に、なにやら厳(いかめ)しい姿をしたものが登場する。額にしわを寄せ、その眼ざしと物腰には、鉄のような威厳が備わっている。彼を<悪因(Fatality)>と呼ばずして、なんと呼ぼう。運命を支配する悪しき影響の象徴である。早くも人生の門出において、人の過って屈服した悪魔であり、ひとたび彼の命に従ってからは、永遠に彼の奴隷とされているのである。見てみよ!闇に刻まれたあの悪魔の形相を。嘲笑にゆがむ口唇、生きているかのように見える眼、鋭い指先、それでもって人の心の弱点を探るのだ。想い出すことがないか、たとえ地の果ての洞窟に身を隠そうと、顔を赤らめずにはいない、途方もない愚行の経験を?されば<恥辱>の姿に気づくがよい。
 去れ、惨めな一団よ。眠られぬ者にとって幸いなのは、あのおのれのうちに地獄を持つ、罪深い胸が生みだす悪魔である、いっそう恐ろしい、騒々しくも悲惨な群れに、とりまかれていなければである。もしも<悔恨>が、傷ついた友人の姿で現われたらどうだろう。もしも悪魔が女装して、罪と魂の荒廃とにまみれた青白い美しさで、傍らに添い寝したらどうだろう。また、もし悪魔が、血のついた屍衣をまとって、ベッドの足もとに、死体のように立っていたら、どうだろう。罪のない心ならば、こうした悪夢はもうたくさんだ。こんなふうに、気分が深く深く沈みこみ、心のまわりには冬の陰鬱がたれこめ、部屋の闇に溶けいった心が、言い知れぬ恐怖をおぼえることなどは。
 必死に努力して、ベッドに起き直り、一種の意識した眠りから脱すると、とりつかれた心のうちならで、どこかに悪魔どもがひそんでいるかのように、あたりを狂わしく見まわす。同時に、外部屋の中をうっすら照らしだした、暖炉のおき火の明かりが、寝室のドア越しにちらちら射しこんでくるが、部屋の暗がりをすっかり明るませはしない。眼は、なんでもよい、生きている者の世界を思い出させるものをさがす。暖炉のそばのテーブル、頁の間に象牙のナイフをはさんだ本、開いた手紙、帽子、落ちている手袋、それらをこまごまと念入りに見てとる。やがて炎が消え、同時に場面も消え去る。暗闇が現実を呑みこんでも、心の中にはしばしの間、残像が見えている。部屋の中は、以前と同じ闇である。しかし胸のうちは、闇ではなくなっている。枕に頭をすえなおして、こんなことを考える――内緒の話ではあるが――。こうした夜の孤独の中では、自分の息づかいよりも穏やかな息づかいの人であるならば、どんなに心地よい思いであろうか。より温和な胸のうちには、胸苦しさも軽く、より清らかな心が静かに打つ鼓動は、あたかも眠る恋人が彼女の夢の中に迎えいれてくれるかのように、自分の悩める心に安らぎを伝えてくれるだろう。
 彼女の存在は、一時的な面影に過ぎないのであるが、その影響は心に広がる。心は眠りと寝覚めとの中間にある、花咲く場所へと沈みこんでいく。それににつれて、思いはばらばらな絵画となって眼前に現われるが、すべてが満ちわたる喜びと美とで一様化されている。陽にきらめく華やかな騎兵隊の旋回、つづいて田舎の道の角にある古木の、木洩れ日のもとにある学校の、扉のそばで遊ぶ子供たち。あるいは、夏のまばゆい驟雨の中に立っていたり、秋の森の日当たりのよい木々の間をさすらったり、ナイアガラの上のアメリカの側から、一面の雪の上に架かった、虹のなかでももっとも鮮やかな虹を見あげていたりする。思いは、新妻をむかえた若者の家庭の、心躍る輝きと、春に新しく作られた巣のまわりで、さえずり飛びかう鳥たちの間で、心地よくたゆたっている。また、風にのって陽気にはずむ船にのりこんでいたり、色つやのよい娘たちが、華麗な舞踏室で、最後の一番陽気なダンスを踊っているさいの、調子のとれた足の動きを見ている。さらには、混みあった劇場で、ちょうど軽快な場面に幕が下りたときに、名士たちの間にまじわっている。
 思いがけず、突然にものの意識が甦る。今過ぎ去った時間と人生とを較べて、どちらとも判断がつかない思いでいるのは、まだ半分しか目覚めていないからだ。どちらの場合でも、人は神秘から出現して、不完全にしか支配できない変遷をたどり、いま一つの神秘へと運ばれてゆく。今聞こえてくるのは、遠い鐘の響きだ。その打つ音は、眠りの荒野にさらに深くおちていくにつれて、だんだんに微かになってゆく。それは一時的な死を告げる弔鐘なのだ。魂は飛びたって、影の世界の人々の間で、自由民としてさまよい、不思議な光景を目にするが、驚くことも困惑することもない。たぶん、究極の変化も、そのように穏やかなのであろう。あたかも見慣れたものに囲まれているかのように、魂の永遠の家への入居は、そのように乱されることがないのであろう。

(原題:The Haunted Mind )



作品名:夜半の幻―心の幽霊―
作者:ナサニエル・ホーソーン
訳者:脩海  copyright: shu kai 2016
入力:マリネンコ文学の城
UP : 2016.9.27