マックス・ダウテンダイ(Max Dauthendey 1867-1918)

ドイツの詩人・作家。フランケン地方の都市ヴュルツブルクに生まれ育つ。二十代で詩人として認められ、ボヘミアン生活を送る。二度の世界旅行で、、メキシコ、エジプト、インド、中国、日本などを巡り、第一次大戦中にジャワで抑留され、マラリアで死んだ。
世界旅行の体験から多くの作品を著わした中に、日本での滞在をもとに自在な空想力(想像力というよりは)を発揮して創作したDie acht Gesichter am Biwasee (琵琶湖の八つの顔・近江八景)がある。
この種のオリエンタリズムの作品の常として、誤認や誤解が、当のオリエンタルである読者にとって、作品の評価を妨げがちである。とり上げた「粟津の晴嵐」においても、西洋人にとってはエキゾチックな虚実のない混ぜが、まま興をそぐことがあるにしても、ホフマンの小説から抜け出したような主人公が琵琶湖畔を闊歩する幻想的なシーンは、ドイツ怪奇メルヘンの魅力を存分に味わわせてくれるであろう。
(画像はDeutscher Taschenbuch Verlag 1980 版)

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                  粟 津 の 晴 嵐

                  マックス・ダウテンダイ作

                                翻訳copyright: syuuji kai 2005


 琵琶湖は暑い夏の盛りには、優しく、快活な、乳の出のよい乳母のようである。いく千もの日本人をその胸に抱いて、あやしてくれる。
 この楕円形をした湖のゆるやかな入江や、琵琶のなりに湾曲した湖岸には、色とりどりの装いをした人の子らが群れている。彼らは、赤や緑や青や白の甲虫のように見える。水浴びをする者らは、生まれたての赤子のように無邪気な裸体で、葦の間にたわむれている。日と夜となく打ち寄せる波の音も、葦間の風の音も、ボートや帆かけ舟に乗った人々や、小砂利の浜辺で遊ぶ人々の群から起こる、笑い声と呼び声によってかき消される。そのさんざめきは夕方までつづくばかりか、月明かりの夏の夜には、湖水の上を、大人となく、子供となく、男や女の呼びかわす声がとびかう。琵琶湖の大いなる琵琶は、晴れ渡った空の下で、その水の声を、人の声の音階に変じたのだ。
 夏の盛りの眠気をもよおす真昼時にかぎるのだが、波の皺ひとつ立たない湖水と、晴れ渡った空とが、髪一筋の境を残して髣髴と溶け合うとき、かの湖で湖畔の夏を呼吸した者が、永遠に忘れられない一瞬がおとずれる。その一刹那に、まばゆい鏡のような湖面をひとつの亀裂が走る。あたかも、二人の恋人が見つめあいながら抱擁している声のない部屋の中に、その静寂を破るたった一度の幸福の溜め息が起こり、遠い未来の幸福な生活を告げ知らせるかのように。それが粟津の晴嵐であって、夏の日の静寂を破って、大いなる幸福の溜め息のように、真昼の湖面を渡るのである。
 粟津の晴嵐は蜃気楼を伴なっている。バラ色とうす青色の螺鈿(らでん)のいろどり鮮やかな、幻の風景が、湖上にわき起こる。明るい真昼の陽光のただ中で、湖面はあたかも緑の草原と化し、うす紅の花を咲かせた桜の木々におおわれる。その枝々は陽炎の中で揺れ動いて見える。遠くの葦の穂先は踊り子の影絵と変じ、日本の娘たちの触れれば折れなん風情を表わしだす。花咲く桜の木々の出現は、わき起こる雲の縁を彩る虹色の屈折光を思わせる。湖面の変じたこの桜の園は、青味を帯びた銀塗りの器にほどこされた、螺鈿の日本風景に似かよっている。この湖上の幻影は、必ず真夏のよく晴れた日盛りの、粟津の晴嵐に際してのみ、起こるのである。日本人の伝えるところによれば、人々はそれによって魔法にかかったようになり、あたかも家の敷居をまたぐかのように、舟のへりをまたぎこし、螺鈿を敷きつめた湖の上を、陶酔感と粟津の晴嵐とで浮き立つような気分になり、沈まずに歩くことができるのである。この湖上の陶酔の頂点に達した瞬間には、人々は舟から舟へと行きかい、十五分ばかりも沈まずにいるばかりか、一滴のしずくも足を濡らすことがなかったという。しかし、湖の陶酔と歩調を合わせることのできない者、粟津の晴嵐がもたらす幸福の瞬間、強烈な幸福感に歩調を合わせることができない者には、災いが待ち受けていた。
 晴嵐が続いている限りは、人々の足を水の上に立たせている晴天の陶酔は続いた。晴嵐が止むと、晴れ渡った天は水の上を歩む者らを見放す。彼らは通常溺れ死ぬ者らよりもずっと深く、湖水に呑み込まれていった。
 粟津の晴嵐がもたらす幸福感よりも、おのが身を強しと思いあがった者ら、晴嵐がすでに収まった後も、たとえ一秒の半分の間でも、幸福感を手放そうとしない者らは、代わって不幸の反動にとらえられ、石と化せられて、まっしぐらに湖底へと落ちていく。不幸によって鉄のように固くされ、隕石のように黒ずんで、彼らの遺骸は石像のように湖底に並び立つという。
 しかし、これらの思いあがった者らへの一番の懲罰は、そのようにしてまっしぐらに沈んでいった者たちは、もはや決して救済されないことである。彼らの魂は涅槃に達する前に、輪廻を絶たれてしまう。全人類が涅槃に達した後にも、彼らは最も鈍感な遺物として世界に取り残されるだろう。
 「粟津の晴嵐が彼を見放した」とか、「粟津の晴嵐に逆らう」とか、過ぎ去った幸福を理不尽な仕方であくまでもつなぎとめようとする者に対して、日本人はことわざの様に口にする。そして、そのような人には忠告として、一個の小さなブロンズ製のお守りを贈る。それは黒い耳飾りにすぎないが、この金属片は、水中へまっしぐらに沈んでいく人間の頭髪の形に見える。友人に対して、この忠告が効果のない場合は、次に、波の上を歩いている人物を描いた扇子を贈る。それでも効き目のない場合は、夕方、彼の家の軒下でこんな歌を歌う。

     今日この晴れ渡りたる日に
     湖は真昼の眠りにつき
     喜びと幸せの思いあふれ
     君が足神の力に満ちたり
     されど今心して君が前を見よ
     幸せは久しからず
     われら君がために心くだく
     幸と死とあり粟津の晴嵐

 オオミヤとアマガタの二人は、大津に住む体操教師であった。ある夏の日のこと、彼らは受け持ちの男子生徒たちと、二隻のボートで琵琶湖にくりだし、岸に沿って終日漕ぎ回っていた。小学生たちは泳ぎが出来なかったが、琵琶湖の目のくらむ深さに恐れをなす生徒はほとんどなく、はじけるような笑い声が辺りを満たしていた。
 教師各自の受け持ちの生徒は少人数であって、それぞれ一隻ずつのボートに乗っていた。大津で語られている、事件のいきさつはこうである。暑い昼時になって、二隻のボートは湖の沖合いに出ていた。そこからは岸はほとんど見えなくなり、遠くに青白い陽炎が立っていた。二隻のボートはまるで射られた矢のように、天と地の間の宙をすべって行くように見えた。雲のない空と、鏡のような水面とは、一様な青色に溶け合っていた。
 その時、子供たちの目の前で、これまで絵に描かれた、平坦な、緑青(ろくしょう)色の光景しか見たことのない、あの幻の草原に、湖が変じたのである。あたかも、春の盛りがもう一度真夏におとずれでもしたかのように、桜の木々が立ち現われた。鳩の青羽根の色の服を着た童女たちが、手拍子を打ちながら、桜の幹の黒いシルエットのまわりを巡っていた。あるいは手をつなぎ合い、あるいは両腕を広げ、ある者たちはしゃがみ、他の者たちはしゃがんだ者たちのまわりを、輪になって舞った。
 二人の教師と少年たちは、ボートに乗ったまま桜の木々の下に上陸してしまったように思った。湖のこの辺りでは、桜の花は真夏になってやっと咲きだし、童女たちは笑まうような桜の花を祝って、春の女神に即興の舞を捧げているのであると思われた。
 少年たちは、押しとどめるすべもなかった。全員がボートを降り、草地に向かって走り出し、桜の木の下で輪になってしゃがんだり、手拍子を打ちながら、踊る童女のあとに付き従った。
 しかし、幸福は移ろうものであること、幸福の瞬間には我を忘れるものであることを知らない子供たちは、また粟津の晴嵐が吹きすぎた後のなぎの瞬間に用心することがない。
 子供たちの着物をはためかせ、桜の木の梢や、緑青色の草地のきらきらする草の葉をなびかせていたひとしきりの風は、はたと止んで、深い静寂がおとずれた。二人の教師は、水の上を歩き回っている生徒たちを、それぞれのボートから大声で呼んだが、無駄であった。子供というものは、遊びに夢中になると、聞く耳を持たないのだ。粟津の晴嵐が止んだ時に、ボートに戻った少年は一人もいなかった。
 鏡が割れて、微塵に砕け散る時、もはやいかなる顔もそこに映し出されないように、生徒たちは全員湖の中に消え失せたままになった。
 二人の教師は、湖の全域を探し回った後、一人の生徒も見つけられずに、三日後に大津へ戻って来た。行方の知れなくなった生徒たちをめぐって、大津中が悲嘆にくれ、父親の中にはその日の晩に自害するものが幾人もあり、母親も多く湖に入水自殺をとげた。
 また教師の一人、アマガタも、次の日の朝、自宅で死体となって見つかった。人々の噂では、亡霊に締め殺されたのである。いま一人の教師は、教職を辞めざるを得なくなり、警察官となった。
 ある日のこと、この男オオミヤは、休暇を願い出た。粟津から若い嫁を迎えるため、という理由であった。嫁をもらうのに、よりによって彼やアマガタの上に災難の襲った粟津の地からするのは、一体どういう訳かと問われた時、彼はかぶりを振り、暗い面持ちで言った。「幸は不幸を招き、不幸は幸を招くと申します。ですから、私に幸福をもたらす花嫁は、私に一番の不幸をもたらした粟津から迎えねばなりますまい 」
 数日後、オオミヤは言った通りに、粟津から彼のボートに嫁を乗せて、大津に戻って来た。そして、彼の妻を家の中に籠めたきり、誰にも見せようとしなかった。
 妻はやがて一人の男児を生んだ。男の子は成長するにつれて、あの死体となって見つかった教師のアマガタに、目だって似かよって来た。
 男児が誕生してからというもの、オオミヤはすっかり人が変わったようになった。妻を顧みることがなくなり、家を空けがちになり、酒に金銭を浪費し、息子を見るのを避けるようになった。一度も火をつけたことのない、短い冷え煙管を、いつも口の端にくわえ、それを吸い終わった後のように、ひんぱんに叩いていた。
 この、警察官オオミヤが煙管を叩く音は、大津中で合図のように知れ渡っていた。通りのはずれで、警察官オオミヤの煙管を叩く音が鳴り響くと、子供たちは家の中へ逃げこみ、母親の長い袖の後ろに隠れた。夜、この巡査が窓辺を通り、その煙管を家の角で叩いたりすると、少年少女は眠りながら悲鳴をあげた。
 夜中にまだロウソクを灯して起きているような大人たちは、この煙管の音を聞くと、灯りを消した。ちょうど茶屋から帰りかけていた若者たちは、この不気味な音を聞いて、茶屋へ入りなおし、あのいまいましい音を頭から振り払うために、いま一度芸者と酒を注文した。というのは、大津中の誰もが、あのいまいましい音を耳にしては、寝つけなかったのだ。
 しかし、日本人の慎み深さから、大津中の誰一人として、あの巡査の煙管の音によってどんなに悩まされているかを、人に語ろうとはしなかった。オオミヤのあのように忌むべき因果な過去を、あらためて話題にすることは、誰もが避けたのである。ところが、ある日のこと、大津の人々はこのオオミヤをやっかい払いすることになった。
 一八八〇年代(訳注*)の頃であった。当時のロシア皇太子が日本を訪問したことがあった。日本人の高位高官に付き従われ、ロシアの将校に伴なわれて、当地を訪れ、三井寺の高台から琵琶湖を眺めた。早朝六時過ぎであった。日本では高貴な人の訪問する時刻である。湖は朝日に照らされて、大きな銀の卵のように見えた。その巨大な銀のかたまりは、長径を軸にして、きらめきながら回転した。銀の輝きは大津の家々に降り注ぎ、湖岸の通りに頭を並べて、外国の皇太子を見ようとして集まって来た、たくさんの人々の目を眩ませた。皇太子は三井寺から人力車に乗って帰る途中であった。いずれは日本の隣国の皇帝になるのである。ロシアの国民は大抵やけに丈の長いロシア革の長靴を履いており、彼ら重々しい長靴を履いたロシア人が、いつの日か大挙して小国日本を蹂躙するようなことになったら、畳の上の蝿のようにひとたまりもあるまいと、人々には思われた。

 (訳注* 原文はin den achtziger Jahren des neunzehnten Jahrhunderts となっているが、実際の大津事件が起こったのは1891年のこと。犯人の津田三蔵と本編のオオミヤの人物像とは全く無関係である。本編での事件の推移も大半は創作である。)

 ロシア皇太子に先立って、二三名の巨人のような、重い長靴を履いたロシアの将軍たちが、人力車をつらねて通り過ぎた時には、朝早く通りに立ち並んでいた大津の住民も、苦い笑みを浮かべていた。将軍たちは湖畔を通り過ぎる間も、琵琶湖の朝の美しさには、まるで気付いていないようだった。夜ふかしで頭をぼんやりさせ、太った鬼のような姿で小さな俥に収まり、半ば眠り込んでいた。
 ある街角で、警察官のオオミヤはくすんだ色の西洋式制服を着て、警備についていた。これまでになく、彼は例の煙管を手に持っていなかった。ベルトには短いサーベルを下げていた。琵琶湖の目ばゆさに目が眩まないように、彼は帽子を目深にかぶっていた。
 そこへ、皇太子の乗った俥が角を曲がってやって来た。オオミヤは帽子のひさしに手をやって、ロシアの親王に敬礼するはずだった。ところが、通りに居並ぶ人達は、突然ロシアの皇太子とオオミヤとが激しく取っ組み合うさまを見せられたのである。オオミヤの短いサーベルが閃いたと見ると、ガラス棒のように二つに折れ、見物人たちの頭上を弓なりに越し、横道に落ちた。騒然とした中で、一瞬後には、ロシアの軍人達の拳がオオミヤの上に降りそそいでいた。間もなく、このニュースは口から口へ、家から家へ、琵琶湖の岸から岸へと伝わり、日本全土へ、ロシアへ、ヨーロッパへと広まった。ロシア皇太子ニコライが、琵琶湖畔大津において、日本の警察官に襲撃され、腕に軽い刀傷を負わされたという(訳注**)、衝撃のニュースが。この奇異な事件は、この日本の警察官が突然狂気に陥り、発作的に凶行に及んだものと説明されたのである。

 (訳注**皇太子ニコライの傷は右側頭部二箇所で、かなりの傷であった。この創作の性質から、実際の事件と逐一照らし合わせても意味がないので、この例をもってとどめたい。)

 事件の後、この狂人は、入れられていた留置場を破り、小舟に乗って琵琶湖上に逃走したと報じられた。手をつくした捜索は徒労に終わり、しかも、その日は焼けつくような暑い日であったので、粟津の晴嵐が襲撃犯を湖底へおびき入れたのであろうと、人々は噂した。オオミヤの若年の息子は、この日ちょうど十五の誕生日を迎えた。十五になると、日本の子供は元服し、子供の呼び名を大人の名に改める。しかし、オオミヤの妻は、この日起こった恐るべき事件のために、息子の元服を、気の狂った夫の所在が知れるまで、延ばすことにした。
 数日経った、昼時のことであった。妻が炉ばたで飯をかき混ぜていると、表の通りから石が飛んで来て、鍋のなかへ落ちた。妻は縁側から頭を突き出して見まわした。すると、刈り取った葦の大きな束を頭に載せ、身に襤褸をまとった男の姿があった。葦の茎は男の頭部をすっぽりとおおい隠し、肩まで達していたので、オオミヤの妻は、小山のような葦の束に二本の足が生えて、通りを歩き去っていくように思えた。
 彼女は怪訝な思いでかぶりを振った。昼時の湖岸の通りには、ほかに人影はなかった。一体誰が縁先から石を投げ入れたのか、妻は見当が付きかねた。ふと思い当たった。彼女はもう一度縁側から首を突き出して、黄色い葦の束の下ににょっきり生えた男の脚が、埃で白くなった通りをひっそりと歩き去っていくのを、改めて見まもった。彼女はうなずいて、呟いた。
 「あれはオオミヤだわ」
 彼女は、先ほど鍋から取り出しておいた石を、水桶に入れて手早く洗い、この琵琶湖の石を手の中でひねくり回して、しげしげと見た。濡れた石を炉の火で乾かしてみると、石の面にごく小さな文字が刻まれているのに気がついた。そこには次のように記されていた――
 「わが息子ではなく、アマガタの子であるおんみの息子に、私がアマガタになしたと同じことをなせ。あれを殺せ。しかる後、今夜半に用意をせよ。おんみは私と共に国外へ移住するのだ。もし異国の皇太子を傷つけただけでなく、仕留めていたならば、私はお国に対して大きな貢献をなしたことになり、わが過去の罪は琵琶湖の石よりも純白に雪(すす)がれたことであったろう。襲撃は失敗し、私は依然としてアマガタの殺人犯のままであり、大津の小学生たちの殺人犯のままである。数年前に、私はおんみをめぐっての嫉妬から、湖の沖合いでアマガタといさかいを起こした。争った挙げ句、彼は彼のボートを、私は私のボートを覆し、生徒たちは皆溺れ死んでしまった。それはおんみがこれまで知らずにいたことだ。私はおんみを滅ぼし、わが身を滅ぼすまでに、おんみを愛さずにはおれなかったが、それだけはおんみも知っていた。私はおんみに嘘をついて、アマガタは、自分が死んだならばおんみが私と結婚して欲しいと、いまわの願いを残したように信じこませた。アマガタは、粟津におんみを訪ね、誘惑した次第を白状はしたが、それにしても、アマガタの子を目にすることがここまで耐え難いとは、思いもよらぬことであった。おんみが彼の子を殺さなければ、私がそれをするだろう。
 私の言う通りにせよ。おんみが彼の子を片づけることで、私らの人生からアマガタを完全に取り除くのだ。私とアマガタとの格闘は、湖上のボートの中で、彼が私に語ったことが発端となった。アマガタは、いつでもおんみを思いのままにでき、おんみを間もなく粟津より迎え、嫁にする予定であると語った。彼と私とは水の中で格闘して疲れはてたあげく、見ると子供たちは皆溺れ死に、私自身もほとんど力つきていた。やむなく、私は彼にこんなふうに詫びて、溺れ死なないように命ごいをした。生徒たちを失ったことに比べれば、おんみを失うことはものの数でもない。こうなったからには、おんみのことは諦めようと。こう、心にもない無関心を装って、言ってのけたのだ。私よりも力のあったアマガタは、私を背中につかまらせ、何海里もの距離を数時間かけて、岸まで泳ぎついた。
 大津で我々は粟津の晴嵐のお伽話をふれ回った。とはいえ、決してお伽話ではないのだが。というのは、私も一瞬のことだが、昼の暑さの盛りに、水天の間に、桜の林と踊る童女とが出現するのを目のあたりにしたことがある。おんみは水の上を渡って、私の方へやって来た。私は幸せにも、おんみをわが腕にいだいた。この幻の中に、私は生涯で最も無垢な幸福の瞬間を味わったのだ。すると、突然に、私の傍らで寝入っていたアマガタが寝言を言い出し、おんみを誘惑した隠し事をもらしたのだ。私はその当座も、アマガタを締め殺そうと思った。結局、大津にたどり着いたその晩、彼は私を救ってくれたにもかかわらず、おんみへの愛ゆえに、私は彼を締め殺したのだ。
 私は、おんみが私のことをアマガタよりも愛していると、あまたたび私に断言してくれたからこそ、今日おんみにすべてを告白するのである。
 私とアマガタとの闘いは、しかし、彼の息子が亡き者となった時に、初めて終結するのだ。私はおんみを愛する。故に、私がおんみのために殺人を犯したように、おんみもアマガタの息子を殺してくれ」
 そのように、石の文字は妻に語っていた。
 炉にかけた飯は焦げついて、部屋の中には煙がたちこめていた。その煙も、炉の火が消えると、やがて薄れていった。妻はもはや火のことは忘れて、平らな大石を手の中でひねり回しながら、細かく刻まれた文字を読み取っていた。
 日が午後に移っても、妻は依然として読みふけっていた。湖へ釣りに出ている息子が、まだ昼食を食べに戻ってこないのはどうしたわけだろうと、何度も気にかかったが、二人の男たちの底知れない秘密を告白している石を手に持っていると、すぐにまた、自分がいる場所も、時も、周囲も忘れ去ってしまうのだった。
 通りで話す声に、彼女はふと我に返った。家の表で起こった話し声の中に、息子の名と彼女自身の名があった。人声は走り去り、また戻って来た。足音と人声が家の中に押し入ってきて、彼女の周囲でざわめいた。たくさんの足音とつぶやきが、彼女に迫って来た。こんなにざわついているのは、ご飯がまた吹きこぼれているのだろうかと、彼女は一瞬考えた。するといくつかの手が伸びて来て、彼女の両の手をなでさすった。彼女の前に、水に濡れた、灰色の帆布で包まれたものが置かれた。それは琵琶湖の水底(みなそこ)のにおいがした。
 すると妻は思わずにはいられなかった。水中でアマガタとオオミヤが闘っており、この取っ組み合う二人の男の周囲では、溺れ死んでいく生徒たちの苦しげな息づかいや、喉の鳴る音や、すすり泣きが渦巻いている。力の劣るオオミヤもまた、溺れかけていた。そして、同じように暑い日盛りに、沖合いへ出たボートの中に、彼女を母親にしたアマガタがいた。アマガタは彼女の膝の上から足もとに身をすべらせると、折りたたまれた帆布の上で、愛の戦いの後の安らぎの眠りにおちた。男の裸身を、彼女は自らの衣裳で覆った。
 湖は彼女の婚礼の寝屋であった。湖は彼女にどんな悪をもなしえなかった。琵琶湖は首尾よくことを運ばせてくれた。
 いま彼女の前に、濡れた帆布に包まれ、固くなって横たわっているのは、アマガタだろうか、それともアマガタの息子だろうか?
 妻は小さな、仕事に荒れた手で、濡れた包みの端をほんの少しめくってみた。すると、彼女自身が縫った子供服の裾の端が見えた。
 彼女は驚くこともなく、涙さえ見せずに、見つめていた。そして、彼女を取り巻いているざわめき声と、たくさんの足に向かって言った。
 「この子はアマガタの息子です。湖があの時、私にアマガタを与えたのです。だから、今日、私の息子を湖に与えていけないわけがあるでしょうか!」
 それから、ざわめき声はしだいに彼女の回りから消えて行き、周囲のたくさんの足も部屋から出て行った。炉の火が二度目に消えたかのように、静寂が訪れた。
 「私のかわいい息子」と、妻は溺れた少年のそばにひざまずいて言った。
 「ほら、ここに琵琶湖のくれた枕がある」
 彼女は依然として手に持っていた、平たい大石を、死者の頭の下に入れた。
 「私も間もなく、お前のそばに横たわって、お前と一緒に永遠の眠りにつく定めなのだよ。琵琶湖は私の婚礼の閨でした。琵琶湖はまた、私の死の床ともなるでしょう。お前の死の床となったようにね。でも、まだ私は片をつけねばならない事があります。私がいつでもアマガタの思うままに従ったことを、オオミヤに告げずにこの世を去ってしまったら、お前の父のアマガタは、私をお前の母として、黄泉の国で迎えてはくれないことでしょう。たとえオオミヤに対しては、アマガタよりもあの男を愛していると、あまたたび口に出したにせよ、それはあの男がアマガタの子を殴ったりしないように、アマガタの子を飢えさせたりしないようにとの、配慮からしたことなのです」
 部屋の畳の上に、濡れた帆布の包みから、黒ずんだ水のしみが流れ出ていた。戸外では夕陽が湖面を赤く染め、部屋の中の水のしみをも赤く照らした。
 妻は夕焼けに染まった部屋の中で、青白い顔をして座りつづけ、うなずいていた。太陽でさえ、もはや、彼女に生きつづけるだけの血液を、与えることが出来ないかのようであった。
 妻はうなずいて言った。――「流された血は、血を流すことで報復されるまでもない。それよりも、私はオオミヤの魂を四方八方に散らばらせて、二度と肉体に戻って来れないようにして見せよう。私は、オオミヤの魂を吹き消して、彼を脱け殻のようにさまよわせ、この世が、琵琶湖が干あがりでもしたように、空虚に見えるようにしてやろう。そして、輝くことも波打つこともない、限りなく大きな穴が、オオミヤの魂に取って代わるようにして見せよう」
 ひぐらしが家の表で鳴き出した。戸外には暮色が広がり、湖影は薄れて行った。狭い部屋の中には、死体と、火の消えた炉の灰と、畳の上の黒ずんだ水のしみと、死体のそばで微動だにせずにいる、青白く光った女の顔があった。それはこの宇宙であまりにも静まりかえった光景であったので、それに比べれば、軒先で輝きだした夜空の星ぼしは、大げさな表情をした、かしましい群集の顔であった。彼らは物見高いやじ馬のように、軒下に頭を並べ、目を光らせてひと騒動を待ちもうけていた。
 「さあ、待っておいで、待っておいで!」――彼女は星座に向かってうなずいた。彼女にはそれが群集の顔に思われた。
 すると縁側の板がきしんで、着物の擦れる音がした。小さなカンテラを手にして、元警察官のオオミヤが入って来た。カンテラの半円形の明かりで、部屋の中を照らし出した。
 「あれを片づけたのだな!でかした。行こうぞ」――押ししぼったような彼の声がした。カンテラはオオミヤの第三の目ででもあるかのように、天井と畳の上の死体の包みを交互に照らした。
 「行こうぞ。われらは、もはや大津に何の用事もない。夜明けまでに、湖の先端まで行かねばならぬぞ。立ち上がって、着物を頭に被るのだ。人に顔が知られぬようにな」
 「ここに坐れ。話があるぞ!」――オオミヤがこれまで聞いたこともない声が、彼に答えた。彼は驚愕して、思わず問い返していた。
 「そこにいるのはアマガタか?」
 「アマガタの息子ならここにおったぞ」――地上のものとも、天上のものとも思えない声が答えた。粟津の晴嵐にふいを襲われ、不運にも湖に呑まれて、青銅の像と化して湖底に立っている、あの溺死者たちの一人が、今しゃべっているかのような声であった。
 「お前は誰だ」オオミヤは訊ねた。「そこでしゃべったのは、私の妻ではないな」
 「その通りだ。お前に話しているのは、アマガタの妻だ」
 「お前はいつでも言っていたではないか、私のことをアマガタよりも愛していると」オオミヤは早口に言った。
 「お前は私に言ったね。アマガタはいまわのきわに、私がオオミヤを、お前を愛するようにと、願って死んだのだと。だから、私は、アマガタの友であるお前と一緒になった。だが、お前に一度も言わなかったこと、告白しなかったことがある。それは、アマガタが死んだ後にも、私が生き長らえていたただひとつの理由は、アマガタの子を生むためだったことだ。アマガタと湖で過ごした真昼の婚礼において、私が味わった幸福を、子供にも味わわせてあげたかった、そのためじゃ。湖の沖合いで、アマガタの腕の中で初めて味わったあの幸福を、私はいつまでもとどめておきたかった。だからアマガタの子が生みたかった。アマガタの血と肉を分けた者が、私が味わったような、愛のこの上ない幸福の瞬間を味わい知るまでは、私は死ぬに死ねなかった。私の亡き恋人アマガタが、彼の息子の中で、私のために生きつづけることを願ったのだよ」
 「いまいましい!」オオミヤはうなり声を上げた。彼の喉は荒々しく鳴った。それは暗い水中でもがき回り、叫ぼうとしても、水を飲んでは吐くだけで、息が詰まって叫べないでいる者の喉から出る音のようであった。
 その時、カンテラが消えた。闇の中では、何事も起こっていないかのようであった。息づかいも、叫びも、もはやなかった。しかし、あくる朝、大津の人々はオオミヤの小がらな、青白い妻が、彼女の溺死した息子の死体のそばで、絞殺されて横たわっているのを見つけた。
 オオミヤは、しかし、どこにも姿が見つからず、罰せられないままであった。とはいえ、神々の大いなる懲罰を免れたというわけではなかったが。

  原題:Sonniger Himmel und Brise von Amazu (ママ) 
  翻訳・入力:脩 海 2005.6.15 了