Robert Louis Stevenson(1850-94)

砂丘の冒険 第7章

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砂丘の冒険 第7章 展望館の窓ごしに叫ばれた言葉

 その日の午後の記憶は、私の心に刻みつけられていて、いつまでも消えることはないだろう。ノースモアと私は、攻撃がさし迫っていると確信していた。もし、われわれの力で事態を変更することができたとしたならば、その力は、決定的瞬間を遅らせることよりも、早めることに使われたであろう。最悪の事態が予想された。しかし、われわれは今味わわされている中途半端な状態ほど、極端にみじめな気持は想像できなかった。私は本はたくさん読んできたが、読書に熱中したことはない。それにしても、その日の午後、展望館で手にとっては投げ捨てた本ほど、味気なく思われたものはなかった。時間がたつにつれ、会話さえもできなくなってきた。いつでも、一人がなにかの音に耳をかたむけていたり、一人が二階の窓から砂原をうかがっていたりした。しかし、敵の存在を示すような徴候は、まるでなかった。
 われわれは、あの金に関する私の提案を、くり返し、くり返し議論した。もしも、われわれが完全な知力を働かせていたならば、きっとそれを得策でないとしたであろう。しかし、われわれは緊急事態にあたふたとしていたので、ワラをもつかむ気持になり、それが展望館にハドルストン氏がいることを、宣伝するのと同じことになるにもかかわらず、私の提案を実行することに決めたのである。
 その金は、一部は硬貨、一部は銀行紙幣、一部はジェイムズ・グレゴリーにあてた循環信用状だった。われわれはそれらを取り出し、数え、ノースモアのもっている荷箱につめなおした。そして、イタリア語で手紙を書き、彼がそれを持ち手にくくりつけた。その手紙には、われわれ二人のサインで、この金は、誓ってハドルストン銀行の倒産をまぬがれた金のすべてである、と書いておいた。これは、正気でいるつもりの二人の人間がしでかした行為のなかでも、もっとも狂気じみたことであったろう。もし、荷箱が、われわれが意図したのではない者たちの手に入ったならば、自ら書いた証言によって、われわれは犯罪者として告訴されたことだろう。しかし、すでに述べたが、われわれ二人は、どちらも冷静に判断できる状態にはなかった。何かをしないではいられない、行動への欲求でうずうずしていたのだ。それが正しかろうが、間違っていようが、待ちつづける苦しみにたえるよりはましだった。そればかりか、砂原のくぼ地には、われわれの動静をうかがっているスパイが、うようよ隠れていると二人とも確信していたので、われわれが荷箱をもって姿を現わせば、談判か、もしかしたら妥協がなるかもしれないと期待したのである。
 われわれが展望館の外に出たのは、三時に近かった。雨はあがって、陽がぽかぽかと照っていた。カモメがあんなに近く、館のまわりを飛んでいるのも、あんなに人を恐れずに近寄ってくるのも、これまで見たことがなかった。ちょうど扉口のところで、一羽がわれわれの頭上を重々しく羽ばたいてすぎ、耳もとで荒々しく鳴きたてた。
 「君に悪い兆しだ」とノースモアは言った。彼は無神論者のご多分にもれず、迷信にとらわれやすかった。「カモメたちは、われわれがもう死人だと思っているのさ」
 私は軽くいなしておいたが、気にかからないわけではなかった。なにしろ、事情が事情なので、私も感じやすかったのだ。
 出入り口から一、二ヤード離れた、なめらかな芝生の上に、われわれは荷箱をおいた。それから、ノースモアが白いハンカチを頭上で振った。なんの応答もなかった。われわれは声を張りあげ、諍(いさか)いを調停するための使者としておもむいたのだということを、イタリア語で大声で告げた。しかし、カモメの鳴き声と波音のほかには、静寂は破られなかった。中止したときには、私は気分が重かった。ノースモアでさえ、いつもになく蒼ざめているのが分かった。彼は肩ごしに、怯えたように振り返った。だれかが、彼と展望館の扉との間に、しのび寄っていないかと、恐れたかのようだった。
 「まいったな」と彼はささやいた。「おれにも手に負えんよ」
 私も同じ声の調子で答えた。「ひょっとして、だれもいないのでは」
 「あそこを見ろよ」と彼は、指さすのが恐いかのように、頭で示しながら答えた。
 私はそちらの方向を見た。海岸林の北の方面から、薄い煙の柱が、雲のなくなった空を背景に、立ちのぼっているのが見えた。
 「ノースモア」と私は言った(二人はまだささやき声で話していた)。「こんな中途半端な状態はごめんだ。くたばってしまう方が、よっぽどましだよ。君はここに残って、展望館を見張っていてくれ。私は確かめに出かける。連中のたむろしているところへ、踏みこむことになろうとも、かまわんさ」
 彼はもう一度、両目をすぼめて、あたり一帯を見まわした。それから、私の提案にうなずいて賛成した。
 煙の立つ方向へ、早足で歩みはじめると、私の心臓は槌音のように鳴った。その時まで、私は身震いする寒気を覚えていたのが、ふいに全身に熱気がみなぎるのを感じた。この方面の土地は、相当に起伏があった。百平方メートルに、百人がひそんで、待ちうけているかもしれなかった。しかし、私はむだに練習をつんだわけではなかった。まさに隠れ場になりそうなところを選んで進み、もっとも都合のよい尾根をつたって、一目でいくつものくぼ地を見おろした。ほどなくして、私の用心は報いられた。周りの丘よりもいくぶん高い丘に登ったとたん、三十メートルとない先に、ほとんどくの字になった男が、その姿勢で走れるかぎりの早足で、くぼ地の底を走っているのを見つけた。隠れているスパイの一人を追いたてたわけである。彼の姿を見るやいなや、私は英語とイタリア語で、大声で呼びかけた。彼は、隠れてもむだだと覚り、体をまっすぐに伸ばすと、くぼ地から跳びだし、森のある方へ、矢のように走り去った。
 追いかけても、意味のないことだった。知りたいと思うことを、私は知ったのだ。――展望館の中にいるわれわれは、包囲され、監視されているのだ。私はただちに引き返した。できるかぎり、私の足跡をたどるようにして歩き、ノースモアが荷箱のそばで、私を待っている所まで戻った。彼は、さっき彼のそばを離れた時よりも、いっそう蒼ざめていた。彼の声も、少々震えていた。
 「どんなやつだか、見てとれたかい」と彼は訊ねた。
 「背中を向けていたからね」と私は答えた。
 「中に入ろうではないか、フランク。自分が臆病者だとは思わんが、こんな状態はもう耐えられんよ」と彼はささやいた。
 われわれは展望館の中へもどろうとして、館の方をふり向いた。周囲はまったく静かで、陽差しは明るかった。カモメさえも遠巻きに飛ぶようになり、浜辺や砂丘の方へ去っていくようだった。この寂とした様子が、かえって武装した集団よりも、私には恐かった。ドアの内側からバリケードをほどこして、やっとのこと、私は深い息をつき、胸の上の重しを軽くすることができた。ノースモアと私は、たがいの眼をじっと見つめあった。おたがいが、相手の蒼白な、びくついた顔の上に、自分自身を映しだしていたものと思う。
 「君の言うとおりだった」と私は言った。「万事休すだよ。最後の握手をしよう、君」
 「いいとも」と彼は答えた。「握手をしようではないか。こうなった以上、なんの恨みもないさ。だがな、ありそうもない偶然だが、この悪党どもからうまく命拾いしたならば、どんな手段を使ってでも、あんたをだしぬいてみせるからな。覚えておけよ」
 「おやおや」と私は言った。「相変わらずうんざりさせるよ」
 彼は傷ついたようで、黙って階段の下まで歩み去り、そこで立ちどまった。
 「あんたは分かっておらん」と彼は言った。「私はペテン師ではない。ただ自分を守るだけのことだ。カッスルズ君、君がうんざりしようが、しなかろうが、そんなことはどうでもいい。君を喜ばせるためではなく、自分が納得するために、話をするのだ。君は二階へ行って、あの娘に求愛するがいい。私としては、ここにいる」
 「私も、君と一緒にいよう」私は答えた。「君が承認したとしても、君をだしぬくようなまねをすると思うかね」
 「フランク」と彼は微笑しながら言った。「君が馬鹿者なのは残念だよ。男らしい男になれるのにな。今日は、なんだかおかしな気分だよ。君がいらつかせるつもりでも、いらついたりはせんよ。いいかい」と彼は穏やかにつづけた。「君と私は、この英国でもっとも惨めな二人の男だとは、思わんのか。三十にもなって、妻も子もない。商売の一つも営むわけではない。貧しく、哀れで、どうにもならないやからではないか、二人とも。ところが、今その二人が、一人の娘をめぐって争っているなんて。連合王国に、いく百万という娘が、いないとでもいうのか。ああ、フランク、フランク、この賭けに負けたものは、君であれ私であれ、どちらにせよ哀れなものだな。彼にとっては、聖書ではどう言うかな[*訳注]、石臼でも首根っこにぶら下げられて、海の底へ投げ込まれたほうがましというものだ。一杯飲もうじゃないか」彼はふいにしめくくったが、軽薄な調子ではなかった。
 私は彼の言葉に打たれて、同意した。彼は食堂のテーブルに腰かけ、シェリー酒のグラスを目の位置にかざした。
 「フランク、もし君が勝ったなら」彼は言った。「私は飲んだくれるだろう。もし反対なら、君はどうするつもりだ」
 「分からない」と私は返した。
 「まあ、いい」と彼は言った。「とりあえず、乾杯だ。Italia irredenta!(未回復のイタリアに)」
 その日の残りは、同じ恐るべき単調さと緊迫感のうちに過ぎていった。私は晩の食卓の準備をし、ノースモアとクレアラが、台所で一緒に食事を作った。行ったり来たりしながら、二人の会話が耳に入った。驚いたことに、それはずっと私についての会話であることが分かった。ノースモアはふたたび、われわれをひとくくりにあつかい、クレアラに夫の選択を迫っていたのだ。しかし、彼はいくぶんかの同情をもって、私について話しつづけ、私に偏見を持たせるようなことは、自分も同類であるという非難をしないかぎりは、口にしなかった。このことは、私の胸に感謝の念を起こさせた。我々のおかれた、さし迫った危機と相まって、私を涙ぐませたものだ。結局のところ、ここにいるわれわれ三人は、盗っ人の銀行家を守ろうとして死んでゆく、とても高貴な人間たちなのだ、と私は考えたが、たぶん笑うべき、うぬぼれた考えであったろう。
 そろってテーブルにつく前に、私は二階の窓から偵察してみた。日は傾きはじめていた。砂原にはまったく人影はなかった。荷箱は相変わらず手つかずのままに、われわれが数時間前に置いた場所にあった。
 ハドルストン氏は、黄色の長いドレッシング・ガウンを着て、食卓の一方の端を占め、クレアラが他方の端についた。ノースモアと私は、両側に向きあって座った。ランプの芯は明るくかきたてられ、ワインは上等で、肉は、大部分が冷肉であったが、その類のものとしては上乗であった。われわれは、暗黙のうちに、合意していたようだった。さし迫った破局については、一言も触れないように、気をくばっていた。われわれの悲惨な状況を考えてみると、予想される以上に陽気な宴会だった。とはいえ、ノースモアと私は、時々どちらかが立ちあがって、防備の見回りをした。そうした場合には、そのつどハドルストン氏は、彼の悲惨な苦境を思いださせられ、ぎょっとする眼(まなこ)で見あげ、一瞬恐怖の表情をその顔に浮かべるのだった。しかし、彼は急いでグラスを飲みほし、額をハンカチでぬぐうと、また会話に加わってきた。
 私は、彼の機知と知識の豊富なのには、驚かされた。ハドルストン氏は、たしかに尋常の人物ではなかった。彼は広く読み、自ら観察してきた。彼の才能はまっとうであった。私はこの男を決して好きにはなれなかったろうが、彼のビジネスにおける成功や、破産する前に彼が大いに敬意を払われていたことの理由が、のみこみはじめた。彼は、なによりも、社交の才にたけていた。私は、この一回のごく不利な機会にしか、彼が話すのを聞いてはいないのだが、私が会った中で、最もすばらしい談話家の一人であると認めた。
 彼は上機嫌に、見たところ恥じる気などもなく、彼の若い頃に知り合って学んだ、ある悪どい仲買人と、そのやり口について語っていた。われわれは皆、なかば面白くもあり、なかば当惑を覚えながら、聞いていた。その時、われわれのささやかな宴会は、びっくり仰天する仕方で、突然の終わりを迎えた。
 窓ガラスに湿った指があたるような音が、ハドルストン氏の話を中断させた。瞬間に、われわれ四人は紙のように真っ白になり、テーブルについたまま、舌をこわばらせ、身動きをとめた。
 「カタツムリだ」と私はやっと声を出した。そういう動物が、いくぶん似たような性質の音をだすことを、聞いたことがあったからだ。
 「カタツムリだと、こんちくしょう」とノースモアは言った。「静かに!」
 同じ音が、規則的な間をおいて、二度くり返された。それから恐るべき声が、鎧戸をとおして、イタリア語で「Traditore!(裏切り者め)」と叫んだ。
 ハドルストン氏は、宙に頭をのけぞらせた。彼のまぶたは痙攣し、次の瞬間、彼は気絶して、テーブルの下に落ちた。ノースモアと私は、おのおの武器の置き場へ走り、銃をつかんだ。クレアラは、咽喉に片手をあて、立ちあがっていた。
 その状態で、われわれは待ち受けた。まちがいなく、敵襲の時がきたと思ったからだ。しかし、一刻一刻とすぎても、館の近辺に聞こえるのは、波の音だけで、あとは静まりかえっていた。
 「急げ」とノースモアは言った。「やつらが来る前に、彼を運んで二階へあがろう」

 [*訳注:マタイ伝18章6より]
 

作品名:砂丘の冒険 第7章
作者:ロバート・ルイス・スティーヴンソン
訳者:脩海 copyright: shu kai 2018
Up:2018.1.12