ロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson 1850-94)
砂丘の冒険 第8・9章
砂丘の冒険 (第8・9章) 第8章 長身の男の最期 われわれ三人の間で、どうにかこうにか、苦心して、バーナード・ハドルストンを二階へかつぎあげ、<わが伯父の部屋>のベッドに寝かせた。その間ずっと、手荒にあつかったものの、彼は気絶したままだった。彼をベッドの上に投げだしても、指の一本も動かさずにいた。令嬢が彼のシャツをはだけ、頭と胸を湿らせている間、ノースモアと私は窓辺に走りよった。天候は晴れたままだった。ほぼ満月に近い月が昇って、砂原を皓々と照らしていた。しかし、どんなに目をこらしても、動くものの姿は見つけられなかった。起伏のある広がりの上に、大小いくつかの暗いかたまりがあったが、何とも見分けられなかった。うずくまる人の姿であったか、あるいは影にすぎなかったか、確かめるすべはなかった。 「さいわいなことに」とノースモアは言った。「アギーは今晩来る予定はない」 アギーとは老乳母の名であった。彼は今まで、彼女のことを忘れていたのだ。しかし、そもそも彼女のことを思いだしたということは、あの男の性質にしては、できすぎていた。 われわれは、またもや、待たねばならなかった。ノースモアは暖炉のところへ行き、赤い燃えさしの前で、寒くもないのに、両手を広げた。私は無意識に、彼の動作を目で追っていた。そうしながら、背を窓の方に向けていた。その時、窓の外でごくかすかな発砲の音がして、弾丸が窓ガラスを砕き、私の頭から二インチ離れたところで、鎧戸にめりこんだ。私はクレアラの叫びを聞いた。私は瞬間に跳びのき、隅に逃れたが、彼女もそこに、いわば私より先にいて、私がけがをしたかどうかを、気づかわしげにたずねた。それほどの気づかいを、褒美として見せてもらえるなら、私は毎日でも、一日中でも、弾丸にさらされてもいいと思ったよ。私は彼女をやさしく愛撫しながら、何度も安心するようにと言い、すっかり今の状況を忘れていた。すると、ノースモアの声がして、私はわれに返った。 「空気銃だ」と彼は言った。「音を立てないつもりだな」 私はクレアラから身を離し、彼を見つめた。彼は暖炉に背を向けて立ち、両手を背後に組んでいた。彼の顔面の険悪な表情から、心中怒りを煮えたぎらせていることが分かった。かつての四月の夜に、彼が隣の部屋で私に襲いかかった直前にも、そんな表情を見せたものだった。彼が怒るのも、もっともだと分かってはいたものの、正直に言うと、その結果がどうなるかを思って、身がふるえたよ。彼はまっすぐ正面を見つめていたが、目の端でわれわれ二人をとらえていて、突風のような怒りをつのらせていた。戸外では、当面の敵との戦いが待っているのだし、館の内でのもめごとで、自滅することを思うと、勇気もくじけかけた。 私がこんなふうに、彼の表情をじっと見まもって、最悪の事態に備えていたとき、突然、彼の顔の様子が一変して、明るくなり、安堵の色がひろがった。彼は、そばのテーブルの上に置かれていたランプを手にとり、いくらか興奮した様子で、われわれの方を向いた。 「知っておかなければならない点が、一つある」と彼は言った。「やつらは、われわれ全員を殺すつもりなのか、それともハドルストン一人をかだ。やつらは君を彼と取りちがえたのか、それとも、君の男ぶりがねらいで、君を撃ったのか」 「彼らは、まちがいなく、私を彼と取りちがえたのだよ」私は答えた。「私は、ほぼ背の高さが同じだし、私の髪も金髪だから」 「確かめてみよう」とノースモアは返した。そして、彼は窓ぎわに歩みより、ランプを頭の上にかざし、平然と死にいどみながら、三十秒間そこに立っていた。 クレアラは走りよって、彼を危険な場所から遠ざけようとした。しかし、私は力ずくで彼女を引きもどした。この場合の利己的なふるまいは、許されてもよいだろう。 「そのとおりだ」と、窓ぎわから落ちつきはらってもどりながら、ノースモアは言った。「彼らの目当ては、ハドルストン一人だ」 「なんてこと、ノースモアさん!」とクレアラは叫んだが、それ以上ことばが出なかった。今目にした大胆不敵なふるまいには、ものも言えないほど呆気にとられたのだ。 ノースモアの方は、頭をそびやかし、眼に勝利の炎をうかべて、私を見つめた。私はすぐさま理解した。彼がこんなふうに命を危険にさらしたのも、ただクレアラの注意を引くためであり、この場の主人公の座から、私を引きずりおろすためであったことを。彼は指を鳴らした。 「戦闘は始まったばかりだ」と彼は言った。「やつらが本格的に仕事にかかれば、そんなに気をまわしてはくれなかろう」 すると、門のところで、われわれに呼びかける声が聞こえた。窓から見ると、一人の男の姿が、月明りに認められた。彼はじっと立って、顔をわれわれの方へ上向け、突きだした腕の先に、なにか白い布切れをかかげていた。われわれは彼を見下ろす位置にいたので、彼は砂原のかなり離れたところに立っていたものの、両眼に月光がきらめくのが見てとれた。 彼はふたたび口を切り、数分間たてつづけにしゃべった。あまりに大声だったので、館のどこにいても聞き取れたであろうし、森のふちまで届いたことであろう。それは食堂の鎧戸ごしに「裏切り者め!(Toraditore!)」と叫んだのと、同じ声であった。今度は、はっきりと、言いたいことをすべて、述べたてていた。裏切り者の「オドルストン」が引き渡されるならば、ほかの全員は、命をとるまい。しかし、拒むならば、だれ一人脱けだして、人に告げることはなるまい。 「さて、ハドルストン、あなたの意見はどうかね」と、ノースモアは、ベッドの方をふり返って言った。 その時まで、銀行家は生きている様子が見えなかったので、私は少なくとも、相変わらず気絶しているものと、思っていた。ところが、彼はすぐに返事をした。しかも、精神の錯乱した患者からでもなければ、聞いたこともないような声の調子で、彼を見捨てないでくれと、懇願し、嘆願したのである。それは、私が想像できるかぎり、もっとも醜く、卑しい、ふるまいであった。 「もういい」とノースモアは叫んだ。そして窓を押し開け、闇の中に身を乗りだし、意気揚々とした声の調子で、婦人の手前などということはすっかり忘れ、使者に対して英語とイタリア語で、きわめつけの罵詈雑言をあびせかけ、退散を命じたのである。思うに、その時のノースモアにとって、われわれ全員が、夜明けまでに、まちがいなく、死ぬにちがいないという考えほど、愉快なことはなかったのだろうよ。 その間に、イタリア人の方は休戦の旗をポケットにしまい、悠々とした歩みで、砂丘の間に姿を消した。 「彼らは正々堂々と戦をするじゃないか」とノースモアは言った。「みな、紳士で兵士なのだ。見あげたもんだよ。私は立場を替えたいくらいだ。君もだよ、フランク。それから、あなたも、お嬢さん、いとしい人よ。――われわれが、あのベッドの上のやっこさんを、だれかに任せられたらいいのにな。ちょっ!そんなにいやな顔をしなさんな。われわれ全員が、永遠とやらいう場所へ、今にも行こうとしているのだから、間にあううちに、本音を吐くほうがよかろう。私に関してはだな、まずハドルストンをしめ殺して、次にクレアラを腕に抱くことができたならば、いくぶんかの誇りと満足を覚えて、死ぬことができようというものだ。そうもいかんだろうから、ちぇっ、キスをひとついただくか」 とめるひまもあらばこそ、彼は乱暴に娘をだきしめ、もがくのもかまわず、何度もキスをした。次の瞬間、私は激怒して彼をもぎはなし、壁にたたきつけた。彼は大声で長々と笑った。彼が緊迫した状況で、正気を失ったのではないかと、心配になった。彼の得意の時代においてすら、あまり笑わない、笑っても静かに笑う男だったからだ。 「さて、フランク」と、陽気さがいくぶんおさまってから、彼は言った。「今度は君の番だ。握手をしよう。グッバイ、さらばだ!」そして、私が身を固くして、憤りながら立ち、かたわらにクレアラを抱きよせているのを見て、「おい」と彼はどなった。「怒ってるのか。社交界の気どりや、礼儀にこだわりながら、われわれが死んでいくとでも思ったのかい。私はひとつキスをいただいた。ありがたいことだよ。今度は君が、そうしたいならキスをしていいのだ。それでお相子というものだ」 私は軽蔑を覚えながら、彼に背を向けた。その感情を隠そうともしなかったよ。 「好きにするがいい」と彼は言った。「君は生来かたぶつだったな。かたぶつとして死ぬだろうよ」 そう言って彼は椅子にすわり、ライフルを膝の上に置き、安全装置をパチパチ言わせて、楽しんでいた。しかし、彼の陽気さの発作は(それまでに一度も見たことがなかったのだが)、すでに終っていて、不機嫌な、気むずかしい気質にとってかわられていることが、見てとれた。 そうこうするうちにも、襲撃者たちは、館の中に入っていたかもしれず、われわれは気づかずにいたかもしれない。実のところ、われわれはさし迫った命の危険を、ほとんど忘れかけていたのだ。ところが、ちょうどその時、ハドルストン氏が叫んで、ベッドからはね下りたのだ。 私は、どうかしたのですかと、彼に訊ねた。 「火事だ!」と彼は叫んだ。「連中は、館に火をつけたぞ」 ノースモアはすぐさま立ちあがり、彼も私も書斎との間のドアに走りよって、中へ入った。部屋の中は、猛烈な赤い光に照らされていた。部屋に入るとほぼ同時に、窓の前で炎が塔のように燃え立ち、パリッと音をたてて、窓ガラスが一枚、絨毯の上に落ちた。彼らは、ノースモアが以前に写真のネガを現像していた、差し掛け小屋に、火を放ったのだ。 「やってくれるな」とノースモアは言った。「君の以前の部屋に入ってみよう」 われわれは一息で駆けつけ、窓を開け、外をのぞいた。展望館の裏の壁の全体にそって、たき木が積みあげられ、火を放たれていた。どうやら、石油がかけられているようで、朝方の雨にもかかわらず、勢いよく燃えていた。差し掛け小屋は、すでにすっかり火が回っていて、火勢は刻々と増していた。裏口は真っ赤な火炎のただ中につつまれ、上を見ると、目にはいる軒先は、かなりの数の梁によって支えられた屋根が突き出ていたので、すでにくすぶりだしていた。 同時に、熱い、鼻をつく、息のつまる、もうもうとした煙が、館ぢゅうに立ちこめだした。右の方も、左の方も、人の姿は見あたらなかった。 「けっこうなこった!」とノースモアは言った。「これで終わるぜ、ありがたい」 そこで、<わが伯父の部屋>にもどった。ハドルストン氏はブーツをはいているところで、まだはげしく身震いしていた。しかし、これまで見たことのない、きっぱりとした様子を示していた。クレアラは彼のそばに立ち、両手で持った外套を、肩にまとおうとしているところだった。彼女の眼差しには、父親の身について、半ば望みをかけ、半ば危ぶんでいるかのような、奇妙な色がうかんでいた。 「さて、おのおの方々」とノースモアは言った。「出撃というのはどうかな。かまども熱くなっているし、このまま焼かれるわけにもいくまい。私としては、やつらと一戦まじえて、けりをつけたいところだ」 「ほかに方法はあるまい」と私は答えた。 そして、クレアラもハドルストン氏も、声の調子こそ大いに違ったが、「それしかない」と付け加えた。 階下へ下りると、熱は猛烈だった。火の咆哮は、耳を聾せんばかりだった。廊下に出るやいなや、階段の窓が中に落ちて、その隙間から炎の枝が躍り入ったので、館の内部は、ぎらつく恐るべき明りで照らしだされた。同時に、なにか重く固いものが、二階で倒れる音がした。明らかに、展望館全体が、マッチ箱のように炎上していた。今や、空高く、陸や海に向かって、燃え上がっているばかりでなく、一刻の猶予もなく、われわれの頭上に崩れ落ちようとしていた。 ノースモアと私は、連発銃の撃鉄をあげた。ハドルストン氏は、前もって銃を携帯することを拒んだのだが、命令調で、われわれを後ろに下がらせた。 「クレアラにドアを開けさせよ」と彼は言った。「連中が一斉射撃をしたとしても、彼女は無事だろう。その間は、私の後ろにいるがよい。私が生け贄だ。わが罪のいたせるところだからな」 私は彼の肩のそばで、ピストルをいつでも撃てるようににぎりながら、固唾をのんで立っていたが、彼がふるえる小声で、祈りの文句を口早につぶやいているのを聞いた。正直に言うと、酷薄と思われるかもしれないが、彼がこの一刻の猶予もならない場合にあたって、神頼みを考えているなどは、軽蔑に値すると思った。その間に、クレアラは、まったく血の気を失ってはいたが、気だけはしっかりしていて、表のドアのバリケードを取りはずしていた。次の瞬間には、彼女はドアを引き開けていた。炎の明りと、月の明りが、両者の入りまじった、ゆらゆらする輝きで、砂原を照らしていた。空のはるか遠くまで、光る煙が長く伸びているのが、見てとれた。 ハドルストン氏は、その時、持ち前の力以上の力を出して、ノースモアと私の胸を、こぶしの裏で突いた。ふいをつかれたわれわれが、動けずにいるうちに、彼は跳びこみでもする人のように、両腕を頭の上にさしあげ、館の外へまっしぐらに走り出た。 「私はここだ!」と彼は叫んだ。「ハドルストンだ!私を殺せ。ほかの者は、助けてやってくれ」 彼の突然の出現は、隠れた敵をひるませたのだと思う。その間に、ノースモアと私はわれに返り、クレアラをはさむようにして、それぞれ一方の腕をにぎり、それ以上のことが起こる前に、彼のところへ馳せ参じようとした。しかし、敷居をまたぐかまたがないうちに、砂原の窪みのいたるところから、十にあまる銃声と閃光が起こった。ハドルストン氏はよろめき、不気味な、凍りつくような叫びをあげ、両腕を頭上にあげ、あおのけに芝草の上に倒れた。 「裏切り者め!裏切り者め!(Traditore!Traditore!)」と、目に見えない復讐者たちは叫んだ。 ちょうどその時、展望館の屋根の一部が崩れ落ちた。火の回りはそれほど早かったのだ。崩壊にともなって、なにとも知れない恐ろしい轟音が起こり、巨大な炎のかたまりが天に立ちのぼった。その時の光景は、二十マイル沖の海上からも、グレイデン・ウエスターの浜からも、はるか内陸の、コールダー山地(Caulder Hills)の東端の峰であるグレイスティール山の頂からも、見えたにちがいない。バーナード・ハドルストンは、彼が実際どう葬られたかは不明だが、死の瞬間においては、りっぱな火葬がいとなまれたのである。 第9章 ノースモアが彼の脅しを実行した次第 この悲惨な状況のあとに起こったことを、お前たちに語るのは、このうえなく難しいことになろう。今思い返しても、すべてが混乱し、まるで夢魔のなかにいて、がむしゃらにもがくように、手ごたえがないのだ。思い出してみると、クレアラは吐息をついたとたんに、ノースモアと私がその体を支えなかったならば、気絶したまま地に倒れてしまっただろう。われわれは攻撃を受けなかったと思う。敵の姿は一人たりとも、見た覚えがないのだ。われわれは、ハドルストンには目もくれず、置き去りにしたにちがいない。思い出すのはただ、やみくもに走ったことだ。 ある時は、クレアラを私の腕にそっくりかかえ、ある時は、ノースモアと彼女の重さをわかちあい、ある時は貴重な荷を独占しようと、やたらなぐり合ったりした。どうしてわれわれが、ヘムロック・デンの私の野営地に向かったのか、あるいは、どうやってそこまでたどりついたのか、今となっては私の記憶から永遠に消えている。はっきりと意識できた最初の瞬間には、クレアラは私のささやかなテントの外側にもたせかけられていて、ノースモアと私は、地面の上にころがっていた。彼は手かげんした獰猛さで、私の頭をめがけ、連発銃の尻でなぐりつけていた。すでに私の頭皮を二回も傷つけていたので、私の意識がふいにはっきりしたのは、そのために血が流れたせいではないかと、思うくらいだ。私は彼の手首をつかんだ。 「ノースモア」と私は言ったことを思い出す。「私を殺すのはあとでできる。まずもって、クレアラの介抱をしようではないか」 彼のほうがその時優勢であったが、その言葉が私の口唇から出るやいなや、彼はぱっと立ちあがり、テントの方へ走りよった。次の瞬間には、彼はクレアラを胸に押しあて、彼女の意識のない手や顔に接吻していた。 「卑劣だぞ!」と私は叫んだ。「卑劣だ、ノースモア」 私はまだ目まいがしていたにもかかわらず、彼の頭や肩をつづけざまになぐった。 彼は彼女をつかんでいた手を離し、まだらな月明りの中で、私に顔を向けた。 「おれはあんたを負かしたが、あんたを放してやった」と彼は言った。「それなのに、あんたはおれをなぐるのか。卑怯者め!」 「あんたこそ卑怯者だ」と私はやり返した。「彼女がまだ意識のある時に、望んでいたことは、君にキスされることなのか。まさか、彼女はそう望むまい。それに、彼女は今死にかけているかもしれないのだ。この貴重な時間を、君はむだにして、彼女が無力なのをいいことにしている。そこをどいて、私に彼女の介抱をさせてくれ」 彼はちょっとの間、蒼白な顔で私をにらみつけていたが、ふいにわきへのいた。 「それなら、介抱するがいいさ」と彼は言った。 私は彼女の横にひざまずいて、できるかぎりうまく、衣服とコルセットをゆるめにかかった。しかし、このことにとりかかっている時、片方の肩をぐいとつかまれた。 「彼女から手を離せ」とノースモアは激して言った。「おれが血の流れていない男とでも、思うのか」 「ノースモア」と私は叫んだ。「君が自分で介抱する気もなく、私に介抱もさせないのなら、分かってるかい、君を殺すしかないのだよ」 「そいつは結構!」とノースモアは叫んだ。「彼女もまた死なせろ、悪くはあるまい。その女から離れろ。立ちあがって闘え」 「見てのとおり」と私は中腰になって言った。「私はまだ彼女にキスしていない」 「してみるがいいさ」と彼は叫んだ。 何が私にとりついたのか分からない。私の人生で最も恥ずべきことの一つだった。とはいえ、わが妻がよく言っていたように、私のキスは、彼女が死んでいようと、生きていようと、いつでも歓迎されたであろうことは、分かっていたのだがね。私はふたたびひざまずき、彼女の額から髪をわけ、心からの尊敬の念をもって、私の口唇を一瞬、その冷たい額に当てたのだ。それは父親が与えるような接吻だった。間もなく死ぬ男が、すでに死んだ女に与えるにふさわしい、そんな接吻だった。 「さて、今度は」と私は言った。「君のお相手だ、ノースモアさん」 しかし、驚いたことに、彼は私の方に背を向けていた。 「聞こえないのか」と私は訊ねた。 「聞こえてるさ」と彼は答えた。「闘いたいなら、準備はできている。そうでないなら、クレアラの介抱をつづけるがいい。私にとっては、すべてがどうでもよい」 そう言われて、私はただちに、またクレアラの上にかがみこみ、彼女が息を吹きかえすための努力をつづけた。彼女は相変わらず血の気がなく、死んだように横たわっていた。私は、彼女のいとしい魂が、もう取り戻しようもなく飛び去ってしまったのではないかと、不安がわいてきて、恐怖とどうしようもないわびしさが胸をしめつけてきた。私はありたけの心をこめて、優しい抑揚で彼女の名を呼んだ。彼女の手をこすり、たたいた。彼女の頭を低くしたり、私の膝の上にもたせかけたりした。しかし、何をしてもむだに思われ、まぶたは相変わらず、重たげに閉ざされたままだった。 「ノースモア」と私は言った。「そこに私の帽子がある。頼むから、水を泉からくんできてくれ」 たちまち、彼は水をくんで私のそばに戻ってきた。 「自分の帽子でくんできたぜ」と彼は言った。「その権利までケチりはしまいな」 「ノースモア」と私は、彼女の額と胸をしめらせながら、言いかけたが、彼は乱暴にさえぎった。 「黙ってろ!」と彼は言った。「一番いいのは、何も言わんことだ」 私ももちろん、しゃべる気などはなかった。私の心は、いとしい人の容態を気づかう気持で、いっぱいだったからだ。それで、私は黙って、彼女を回復させるための、最善の努力をつづけた。そして、帽子の水が空になると、ひと言「もっと」とだけ言って、彼にもどした。彼は、たぶんこの使いを数回果たしただろうか、やっとクレアラが、ふたたび目を開いた。 「さて」と彼は言った。「彼女も回復したことだし、私はもうお役ごめんだろう。良い晩を、カッスルズさん」 そう言って、彼は藪の中に消えていった。私は火をおこした。もうイタリア人たちを恐れることはなかったからだ。彼らは、私のキャンプ地にあるわずかな所持品にも、まったく手をつけなかったのだ。この晩の興奮と傷ましい破局によって、クレアラは打ちのめされていたが、私は説得したり、励ましたり、同情の言葉や、あれこれ思いつくかぎりの簡単な療治によって、なんとか彼女の心を静め、体の元気をとり戻させた。 すでに夜の明けた頃、「しっ!」という鋭い声が、藪から起こった。私は地面から跳びあがった。しかし、つづいてノースモアの声が、ごく落ちついた調子で聞こえた。 「こっちへ来いよ、カッスルズ、一人でな。あんたに見せたいものがある」 私はクレアラと目で相談した。彼女が黙って承認したのを見て、彼女を一人残し、野営地のくぼみから出た。少し離れたところに、ノースモアがニワトコの木にもたれているのが見えた。私の姿を見るやいなや、彼は海辺に向かって歩きだした。森のはずれまで来たところで、私はほぼ彼に追いついた。 「見ろ」と彼は立ちどまって言った。 二、三歩先へ歩むと、茂みから出た。朝の光が、見なれた光景の上に、冷たく明るく照っていた。展望館は真黒な焼け跡と化していた。屋根は落ち、破風(はふ)の一方が倒れ落ちていた。砂原のあちこちには、焦げたハリエニシダの跡が点々と見られた。いまだに濃い煙が、朝の風のない空に、立ちのぼっていた。積み重なった赤い燃えさしが、館のむき出しの壁のあい間に、炉格子の中の石炭のようにつまっていた。小島のすぐ近くに、スクーナー船が停泊していて、人員をたくさん乗せたボートが、勢いよく岸に向かってこぎ寄せていた。 「レッド・アール(赤い伯爵)だ!」と私は叫んだ。「十二時間遅きに失したか!」 「ポケットを探ってみろ、フランク。武器はあるか」とノースモアは訊ねた。 私は言われたとおりにしたが、ひどく血の気を失ったにちがいないと思う。私の連発銃が奪われていたのだ。 「分かるか、あんたは私の思うままだ」と彼はつづけた。「昨晩、あんたがクレアラの介抱をしている間に、奪っておいたのだ。しかし、今朝は、ほら、ピストルを返そう。感謝はいらんよ」彼は片手をあげて叫んだ。「感謝などは好かん。そればかりは御免こうむる」 彼は砂原を横切って、ボートを迎えに歩きだした。私は一、二歩あとにつづいた。展望館の前で、私は立ちどまり、ハドルストン氏が倒れた場所を見た。しかし、彼の姿はなく、血の痕すら見あたらなかった。 「グレイデン・フロー(流砂)だよ」とノースモアは言った。彼は歩みつづけ、われわれは浜辺の突端までやって来た。 「ここまでにしてくれ」と彼は言った。「グレイデン館に彼女をつれていく気はないか」 「ありがとう」と私は答えた。「私は、グレイデン・ウエスターの牧師館に、彼女をつれていってみようと思っている」 ボートの舳(へさき)が、ちょうど浜辺にきしりをあげ、ひとりの水夫が手に綱を持って、浜に跳び下りた。 「ちょっと待て、お前たち」とノースモアは叫んだ。それから声を落とし、私の耳にだけ聞こえるように、「こんなことはすべて、彼女には何事も話さないようにな」とつけ足した。 「いや、話すとも」と私は勢いこんで答えた。「彼女には、話せることはすべて話して聞かせるとも」 「君は分かってないな」と、彼は一種大いなる威厳をもって答えた。「これは、彼女にとって、どうということはないのだ。彼女は、私からそれを期待しているのだからな。さらばだ!」彼は一つうなずいて、つけ加えた。 私は握手の手を差しのべた。 「悪いが」と彼は言った。「ケチなことかもしらんが、私はそこまでのことはする気になれないよ。感傷的なことは嫌いだし、君たちの家庭に、白髪の放浪者としてやっかいになるとかいったようなことは、御免だよ。反対にだ、君たちのどちらとも、決してまた会うことがないように、神に願いたい」 「それなら、達者でいたまえ、ノースモア」と、私は心からの思いで言った。 「おお、達者でいるとも」彼は返した。 彼は浜辺を下っていった。上陸した船員は、彼に腕をかして乗りこませ、それからボートを押し、彼自身船首に跳び乗った。ノースモアがかじを取り、ボートは波に浮かんだ。オールはオール受けの中で、こ気味よい、規則的なきしりを、朝の空気にひびかせた。 「レッド・アール」まで半分も行かない頃に、私はその間ボートの進みを見まもっていたが、ちょうど朝日が海から昇った。 もうひと言だけ、つけ加えておこう。それで私の話はおしまいだ。 何年ものちのこと、ノースモアは、チロルの解放のために、ガリバルディ[訳注]の指揮下に闘って、戦死した。 [訳注:ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi 1807−82)。イタリアの著名な軍人。イタリア統一運動に貢献した。チロル進軍は1866年のこと。] (完) 作品名:砂丘の冒険(The Pavilion on the Links) 作者:ロバート・ルイス・スティーヴンソン 訳者:脩海 Copyright: shu kai 2018 入力:マリネンコ文学の城 Up:2018.1.31 |